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零戦

2020-09-03 06:24:06 | 日記

「零式艦上戦闘機」(零戦)は第二次世界大戦中の日本海軍の主力戦闘機で、支那事変から太平洋戦争初期に長大な航続距離・20mm機関砲2門の重武装・優れた運動性能で米英の戦闘機に対し絶対的な強さを誇りました。

大戦中期以降はアメリカ空軍の対零戦戦法の確立、「F6Fヘルキャット」などの新鋭機の投入で劣勢となりましたが、海軍は後継機の開発が遅れたため終戦まで日本海軍航空隊の主力で、戦闘爆撃機特攻機としても使われました。開発は三菱重工業ですが、中島飛行機が総生産数の6割以上を生産し合計1万機に達しました。ちなみに陸軍戦闘機の「隼」の生産数は5千機です。

 

1941年12月7日真珠湾攻撃のため赤城を発艦する零戦二一型

日本の軍用機の名称は採用年次の「皇紀」の下2桁を冠する規定で、零戦の制式採用された1940年(昭和15年)は皇紀2600年にあたり、下2桁の「00」から「零式」となりました。

零戦は速力、上昇力、航続力を優れたものとするための軽量化に徹し、機体骨格に肉抜き穴を開け、ボルトねじに至るまで軽量化しました。そのため設計上想定されていない瑕疵が機体の破壊に直結し、1940年3月試作機が昇降舵マスバランスの疲労脱落により空中分解して墜落、1941年4月には2機が補助翼と主翼ねじれによる複合フラッタにより急降下中空中分解、日米開戦直前まで主翼の構造強化や外板増厚などの大掛かりな改修が行われています。

軽量化を徹底した結果は、乗降通路の主翼フラップ部分は人が乗れない強度となり、操縦席の出入りに胴体フィレット下と胴体側面に引き込み式のハンドルとステップを取り付けているほどです。

主脚を機体内、尾輪を尾部に引き込む設計とし、住友金属が開発した超々ジュラルミンを主翼主桁に使用しました。空気抵抗を減らす目的で沈頭鋲を機体全面に使用し、生産工程が増える設計となりました。

高速時と低速時では操舵の舵角が同じでも舵の利きが異なるため、操縦者は速度に合わせて操作量を変えなければなりませんが、零戦では操縦索に伸び易いものが使われ高速飛行時には操縦桿を大きく動かしても、気流の抵抗で動きにくくなっている舵面との間で操縦索が引き伸ばされ、舵角が付き過ぎないよう補正されて操縦性がきわめてよい結果を生んでいます。

機銃の照準用望遠鏡が前面キャノピーから突き出ていると空気抵抗が増し、搭乗員はスコープを覗き込まなければなりませんが、零戦では光像式照準器を採用しハーフミラーに十字を投影することで、広範囲の視野を保ったまま射撃することが出来ました。プロペラピッチ変更を自動的に行う恒速回転プロペラが装備され、操縦席にあるレバーで任意のピッチに変更も可能で航続力を伸ばしました。

爆撃機を一撃で撃墜するために機首の7.7mm機銃2挺に加えて翼内に20mm機銃2挺を搭載しました。7.7mmでは効果の薄いF4Fにも有効で、空戦で20㎜機銃が活躍したことは多くの搭乗員が認めています。弾数が不足しがちでしたが、大戦中盤からは携行弾数が初期の60発から最終的に125発に増えました。

当初は九六式無線電話機(対地通信距離100km、電信電話共用)を搭載し、大戦後半はより高性能の三式無線電話機(対地通信距離185km、電信電話共用)に変更、この他に無線帰投方位測定器が新たに搭載されています。

戦闘機にとって非常に重要な高い運動性能を持ち、同世代の他国の戦闘機よりも横、縦とも旋回性能が格段に優れ、気化器が多重の弁を持つため背面飛行の制限がなく、急激な姿勢変化に対するエンジンの息継ぎもなくて、機体の旋回性能限界までの操縦が可能でした。

零式艦上戦闘機二一型 (A6M2b) 三面図

しかし徹底した軽量化で機体強度の限界が低く、初期型の急降下制限速度はF4Fなどの米軍機よりも低い629.7 km/hでした。五二型以降では外板厚増加などの補強が行われ740.8 km/h まで改善されました。

零戦は遠隔地への爆撃機の侵攻を援護できた戦闘機で、長大な航続力は作戦の幅を広げました。開戦時のフィリピン攻略戦では、当時の常識からは空母なしでは実施不可能な遠距離を基地から飛んで作戦に参加しました。

自動操縦装置や充分な航法装置のない零戦は、洋上を長距離進出後に母艦へ帰還するには搭乗員の高度な技量と経験が必要でした。ちなみに当時の各国の戦闘機の航続力は1,200kmほどで、零戦は2,200km、増槽を付けると3,800kmを飛ぶことが出きました。

海軍の航空機は日米開戦時に3.900機を定数としていましたが、1942年までは鳳翔龍驤祥鳳瑞鳳大鷹の各空母、および内南洋や後方の基地航空隊には零戦の配備が間に合わず、配備されていたのは一世代の前の固定脚の九六式艦戦でした。

零戦の開発は「十二試艦上戦闘機計画要求書」に端を発します。1937年5月にメーカーに提示されましたが、海軍の要求性能は「ないものねだり」と評されるほど高いもので、中島飛行機が辞退、三菱の単独開発で前作の九六式艦戦に引き続き堀越二郎が設計主務者として開発しました。

1938年4月三菱A6M1計画説明書を海軍に提出した堀越は、十二試艦戦計画説明審議会で格闘力、速度、航続距離のうち優先すべきものを1つ上げてほしいと要望しました。

横須賀航空隊の源田実は支那事変の実戦体験から、あえて挙げるなら格闘性能、そのために他の若干の犠牲は仕方ないと返答し、航空廠実験部の柴田武雄は攻撃機隊掩護のための航続力と敵を逃がさない速度の2つを重視、どちらも正論で堀越は真剣に両者の期待に応えることにしました。

1939年4月1日に試作一号機が初飛行。試作2号機まではエンジンが三菱の瑞星13型でしたが、出力不足で試作3号機から中島の栄12型に換装されました。翌1940年(昭和15年)7月24日A6M2零式一号艦上戦闘機一型が制式採用されます。

1940年7月15日中国戦線横山保大尉と進藤三郎大尉率いる零戦15機が進出しました。零戦はまだ実用試験中のもので、全力空中戦闘をするとシリンダーが過熱し焼けつくおそれがあり、またGが大きくなると脚が飛び出すこと、20mm機銃が出なくなることが未解決の問題でした。

最初の出撃は8月19日の九六式陸上攻撃機護衛任務では会敵せず、1機が着陸に失敗し転覆、最初の喪失となりました。9月12日三度目の出撃で、敵は交戦を避け日本軍機が去った後に大編隊を飛ばせて追い払っているように見せていることが判明しました。

翌日再び出撃した進藤大尉は途中から引き返して、ようやく敵機の大編隊と遭遇しました。相手は国民党空軍の精鋭のアメリカ・ソ連・国民党の戦闘機33機でしたが、スピード・火力ともに優れた新鋭の零戦に次々と撃墜されました。

この戦闘で初陣を飾った13機の零戦は損失を出さず、機銃が故障した1機を除き12機すべてが1機以上を撃墜する戦果を上げました。進藤大尉は撃墜27機と判断、マスコミはこの戦果を一斉に報じました。零戦隊は13機中3機が被弾、1機が主脚故障のため着陸に失敗し転覆しました。

その後も大陸での零戦の活躍は続き、初陣から1年後の1941年8月までの間、戦闘による損失は対空砲火で撃墜された3機のみで、空戦で撃墜された機は皆無、太平洋戦争開戦前の中国大陸では零戦の一方的勝利に終わりました。

零戦は長大な航続距離とその空戦性能によって太平洋戦争初期に連合軍航空兵力を撃破し、連合軍将兵に零戦に対する恐怖心を植え付けました。真珠湾攻撃の1941年12月8日から1942年3月のジャワ作戦終了までに、合計565機の連合軍機を空中戦で撃墜または地上で撃破しましたが、このうち零戦の戦果は471機を占めるとされます。

1942年6月米軍はアリューシャン列島のアクタン島に不時着した零戦をほぼ無傷で鹵獲しました。この機体を徹底的に研究し、零戦が優れた旋回性能と上昇性能、航続性能を持つ一方、高速時の横転性能や急降下性能に問題があることを突き止めました。

米軍は「ゼロと格闘戦をしてはならない」「背後を取れない場合は時速300マイル以下でゼロと空戦をしてはならない」「上昇するゼロを追尾してはならない」の「三つのネバー」を全てのパイロットに指令しました。

1943年にオーストラリアのポートダーウィンで英国のスピットファイアとの戦闘が数度起きています。この一連の戦闘では一式陸攻を援護して単発機の限界に近い長距離を進攻した零戦隊を、基地近くで迎撃するスピットファイア隊に有利な状況でした。

零戦隊が優勢に戦い、最終的にこの一連の戦闘における喪失機の総計は零戦5機に対しスピットファイア42機となり、零戦隊の圧倒的な勝利で終わっています。英陸軍航空部隊は西南太平洋戦域で零戦によって壊滅しました。

1943年2月、ポートダーウィン空襲の際の連合国側新聞

零戦が終局を迎えるはじまりは、1942年末大型・高速・重武装の「ロッキードP-38ライトニング」の登場からでした。1943年米海軍は「グラマンF6Fヘルキャット」を使い始め、1943年の夏以降になると前線が伸び切り補給が行き届かなくなった日本と連合国軍の形勢は逆転しました。

ロッキードP38ライトニング

グラマンF6Fヘルキャット

大戦末期に米軍に占領されたマリアナ諸島などから日本本土に襲来するB-29には、零戦の高高度性能は不足で迎撃には使えませんでした。1944年10月20日最初の神風特別攻撃隊が零戦によって編成され、それ以降も終戦まで零戦は特攻に使用されます。

登場時には高性能を誇った零戦ですが、後継機の開発が順調に進んだ陸軍に比べ海軍はうまくいかず、戦争中盤以降米軍は2,000馬力級エンジンのF6Fヘルキャットなど新型戦闘機を投入しましたが、日本海軍は零戦の僅かな性能向上でこれらに対抗せざるを得なかったのです。

終戦時点で完全な形で残っていた機体は少ないのですが、廃棄された機体や残骸から復元した機体が展示品として国内に複数存在します。2016年1月復元しアメリカで登録した機体(N553TT)をゼロエンタープライズ・ジャパンが「零戦里帰りプロジェクト」として海上自衛隊鹿屋基地で試験飛行させました。

レッドブル・エアレース千葉大会でデモ飛行を行う零戦二二型復元機

中島飛行機を創立した中島知久平は1917年(大正6年)に「日本の防衛はお金の掛からない新兵器を基礎とした戦い方を見つけてゆくしかない。戦艦一隻を建造するには莫大な費用がかかるが、飛行機なら戦艦一隻の費用で三千機が作れる。これに魚雷を積めば力は戦艦よりも優れている。飛行機は1月で完成する」と創立の趣旨を述べています。

世界の海軍で空母として新造されたのは1922年(大正11年)に竣工した我が国の「鳳翔」が最初です。鳳翔の建造と同時に初の国産複葉「一〇式艦上戦闘機」が開発されました。鳳翔は度々改装されミッドウエイ海戦に参加しましたが、以後は練習空母となったため生き残り、戦後南方からの復員船として活躍します。

全力公試中の鳳翔。(1922年11月30日)

一〇式艦上戦闘機

世界の海軍は空母を保有しながらもその価値については半信半疑でした。真珠湾攻撃、マレー沖海戦で航空機だけで戦艦が撃沈されて、ようやく世界の海軍は航空兵力の偉大さを確信したのです。

太平洋戦争では巡洋艦同士の砲撃戦は起きたものの、戦艦同士の洋上決戦は遂に起こらず、戦艦の主砲は上陸作戦の援護に陸上を砲撃することにしか用いられませんでした。

ガ島を撤退した後のマリアナ沖海戦で、連合艦隊は9隻の空母を擁して最後の決戦を挑みましたが、正規空母3隻とほぼすべての空母搭載機476機を失って、空母機動部隊の戦闘能力を喪失しました。マリアナ諸島の大半は米軍の占領するところとなり、西太平洋の制海権制空権は完全に米軍に掌握されました。

空母の運用に先見の明のあった日本海軍でしたが、太平洋戦争突入後も軍令部、連合艦隊共に大艦巨砲主義からは脱し切れておらず、空母機動部隊中心の運用に問題を残しました。

山本五十六連合艦隊司令長官は霞ヶ浦航空隊付の際に飛行機の操縦を学んでいますが、飛行機乗りはみんな若くて佐官どまりで、空母機動部隊の運用に習熟した将官クラスの指揮官を欠いたことが敗因に拍車をかけたように思われます。

最近、開戦直前のハルノートの意義が改めて問われていますが、日本の軍部は西欧の軍学を学び始めた明治中頃から孫子の兵法を学ぶことを止めました。孫子の兵法の神髄「勝てる戦いはやらずに済ます、負ける戦いは何としても避ける」が昭和の軍部に浸透していれば、第二次世界大戦突入は避けられた気がして悔やまれます。

 

 

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