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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

せんべい

2016-08-31 05:45:50 | 日記

子供の頃に食べたせんべいは、各地の名産と云った難しいものではなく、丸い「塩せんべい」、角型の「瓦せんべい」、小さ目の「あられ」でしたが、この他に家で焼いて食べる「かきもち」もありました。 

子供の頃はまったく知りませんでしたが、塩せんべいは米から作られ、瓦せんべいは小麦粉を原料とします。味も食感もまったく別物なのですが、平べったい形をしているものは、ぜんぶ「せんべい」と呼ぶのです。 

「塩せんべい」は、甘みのある「味噌せんべい」や「瓦せんべい」との対比で塩せんべいと呼ばれてはいるものの、実は醤油味で、正に、今の「草加煎餅」です。味噌せんべいは半月状に折りたたんだ味噌の香りのするもの、瓦せんべいはおおきな四角形や六角形で、少しそりの入ったものもありました。 

塩せんべいは大きな石油缶入りのものもあり、大勢の兄弟がいても気軽に食べられるおやつでした。お店でガラスの瓶に入れて売っているばらのせんべいは、すぐ湿気るので空缶に入れてとって置いたものです。 

うるち米を潰したり搗(つ)いたりして延ばしたものを焼いた「せんべい」は、醤油で味付けをします。「焼きせんべい」のほかに油で揚げた「揚げせんべい」もあります。もちから作る小さい形のものは「あられ」、あられより大きいものは「おかき」と呼びます。 

          

現在の「草加煎餅」の原型となったのは日光街道の草加宿一帯の農家で、蒸した米を潰して丸め、干したものに塩をまぶして焼き、間食として食べていたものです。草加宿が宿場町として発展したことに伴い、塩味の煎餅が旅人向けの商品として売り出されました。その後、利根川沿いで生産される醤油で味をつけるようになり、江戸に伝えられて全国に広まっていきました。

草加煎餅はうるち米原料で、硬めでぱりっとした食感が人気ですが、味の決め手は何と云っても醤油の味です。噛みごたえも味の内なのですが、おいしさは醤油の味でまったく変わります。形も色も同じような塩せんべいは全国にたくさんありますが、美味しい醤油の味にありつくのには草加煎餅が一番です。その点揚げせんべいは塩味なので、当たりはずれはありません。

第二次世界大戦後は草加煎餅の名を日本全国の業者が使用したため、商標登録することになりました。草加煎餅(そうかせんべい、草加せんべい)とは、草加煎餅協同組合・草加地区手焼煎餅協同組合の地域団体商標(商標登録5053366号)です。現在でも草加市内には、煎餅の製造所や販売所は60軒以上存在しています。

米以外の小麦粉などを原料にするもの、馬鈴薯などのでん粉を用いるものなど、類似の平べったい外観を持つものも、すべて、煎餅と呼ばれています。小麦粉を原料とするせんべいは主に関西で古くから作られていて、味は甘めのものが多く、そのため「甘味煎餅(あまみせんべい)」とも云います。瓦せんべいが代表です。 

弥生時代には既に煎餅に近い物が食べられていたらしく、考古学的には吉野ヶ里遺跡登呂遺跡の住居跡から、一口大程度に平たく潰して焼いた穀物製の餅が出土しています。

「煎餅」の記述が見られるのは正倉院所蔵の737年頃の文書とされていますが、ここに登場する煎餅は小麦粉を練ったものを油で煎ったもので、今のうるち米やもち米などで作られた煎餅とは違うものでした。

唐の長安に渡った弘法大師空海(774年~835年)は亀の子型のせんべいを食べて大変気に入り、作り方を習って日本に帰国し、煎餅の作り方を教えたと云われます。京都は唐菓子の伝統を受け継いでおり、「唐板」もしくは「唐板煎餅」と云われる小麦粉・卵・砂糖から作られる短冊形の煎餅があります。

「亀の子せんべい」は通常六角形や楕円形をした甘味煎餅ですが、秋田の大浪の亀の子せんべいは真っ黒です。明治の中頃お椀型の素焼きした小麦粉のせんべいに、甘みのある錬った黒胡麻を塗って売り出したものですが、お客さんに亀の形に似ていると云われて、亀の甲羅をかたどった型にしたそうです。                    

スーパーなどに並ぶせんべいやあられの多くは製造元が新潟です。新潟はおいしいお米がたくさんとれる土地柄ですが、県は米菓産業の技術開発に力を入れて経済面のサポートも行い、新潟県の米菓の出荷額は全国の半数以上を占めています。 

おつまみとしてお馴染みの「柿の種」も、新潟県の長岡市が発祥の地です。その評判は全国に広がって、今ではいろんなメーカーが柿の種を作っています。激辛の柿の種もあり、ピーナッツを混ぜた「柿ピー」も広まりました。柿の種という名称は、商標登録されなかったので一般名です。

「八つ橋」は江戸中期の元禄2年(1689年)に、聖護院の森の黒谷(金戒光明寺参道茶店で供されたのが始まりとされています。八橋の名の由来は、箏曲の祖の八橋検校を偲び、(こと)の形を模したとする説と、伊勢物語第九段「かきつばた」の舞台、「三河国八橋」にちなむとする説があります。

米粉・砂糖・ニッキ(肉桂、シナモン)を混ぜて蒸し、薄く伸ばした生地を焼き上げた堅焼き煎餅の一種で、の形を模しており長軸方向が凸になった湾曲した長方形をしています。

明治時代に京都駅で販売されたことをきっかけに人気となりました。ニッキ風味が特徴で、第二次世界大戦後には「生八ツ橋(聖)」が考案され、今ではこちらの方も人気がありますが、「生八ツ橋」は正方形の生地を二つ折りにして餡を包んだもので、焼いたものではなくせんべいに含めるのは無理でしょう。

           

八つ橋は京都を代表する観光土産で、京都の観光土産として菓子類を購入する人は96%にのぼりますが、そのうち八ツ橋の売上は全体の45.6%(生八ツ橋24.5%、八ツ橋21.1%)を占め、京都を代表する土産物になっています。

南部煎餅」は青森県南部地方の発祥で、基本は小麦粉と塩だけの素朴な煎餅です。八戸南部氏が藩主だった旧八戸藩地域に伝承された焼成煎餅で、青森県岩手県全域が主な生産地・消費地で、同地域の名物になっています。

小麦粉をで練って円形の型に入れて堅く焼いて作り、縁に「みみ」と呼ばれる薄くカリッとした部分があるのが特徴です。「白せんべい」と呼ばれるものの他、通常スーパー等で売っているのはゴマ、ピーナッツの入った2種類です。

その由来には諸説がありますが、大方は「長慶天皇創始説」を取っています。南北朝の頃、南朝の長慶天皇名久井岳の麓の長谷寺を訪れ、食事に困った時に家臣の赤松助左衛門が近くの農家からそば粉胡麻を手に入れ、自分の鉄兜をの代わりにして焼き上げたもので、後の南部せんべいの始まりであるとする説です。

天皇は煎餅に赤松氏の家紋「三階松」と楠木正成の家紋「菊水」の印を焼きいれることを許したと云い、現在の南部煎餅にも「三階松」と「菊水」の紋所が刻まれていますが、昭和20年代初頭に八戸煎餅組合によって「南部煎餅」の創始起源が、この説を中心に整理されました。元々は八戸藩で作られた非常食です。明治時代になるとそば粉や大麦に代わって、小麦粉が使われるようになりました。

青森の南部地方と岩手の県北地方の周辺では、南部煎餅を使った醤油仕立ての「せんべい汁」が寒い時期に広く親しまれています。煮くずれしにくい調理用の「おつゆせんべい」を使います。近年、八戸せんべい汁研究所がブランド化を図り、八戸市を中心としてせんべい汁を提供する店が増えています。

海老の風味を持つ「海老せんべい」は全国的に広く存在しますが、海老せんべい一筋150年の「桂新堂」の海老煎餅は、米や小麦粉が主役ではありません。活きたまま工場に届けられた車えびと甘えびを、えびの身を崩さないように一尾一尾丁寧にスライスし、ミソや背わたを取り除いてタレをつけて焼き上げ、乾燥品をでん粉に混ぜて焼いたものです。

焼き加減を決めるのは職人の五感で、加工までの時間、焼きの温度など、すべてを吟味してつくり上げられる「踊り焼き」は、子供たちがおやつに食べるせんべいの類とはまったく別格の、見た目も味も、正に、芸術品です。

「おかき」は、もち米を原料とした餅を小さく切り(欠き)、乾燥させたものを表面がきつね色になるまで炙った米菓で、「欠餅(かきもち)」とも云います。

本来はもち米をそのまま炒ったものを「あられ」、ナマコに似た形に成形された「なまこ餅」を切って干し、焼いたものを「かき餅」とか「おかき」と呼んでいました。現在では小型のかき餅もあられと呼んでいます。焼く代わりに油で揚げたものを「揚げおかき(揚げあられ)」と呼びます。

かき餅は寒餅として大寒の頃に搗かれる事が多く、よもぎ玄米黒豆をまぜた物など、さまざまな種類のナマコ餅があります。昔はどこの家にも火鉢があり、灰を掻き分けて炭火を起こして金網を載せればかき餅が焼け、居間に集まって寒い夜を過ごす家族の楽しみの一つでした。            

「雛霰(ひなあられ)」は、桃の節句雛祭りに供えられる節句菓子で、菓子に付けられる白色は雪、緑色は木々の芽、桃色は生命を表しています。もち米を炊くか蒸した後に乾燥させたものやを炒ったものに砂糖がけして甘味をつけていて、見た目はきれいですが、私にはあまりおいしいと思って食べた記憶はありません。

お茶漬けの具として、餅をかなり細かく裁断したものが使われています。はじめはお茶漬けの歯ざわりを良くするものでしたが、後に湿気るのを防ぐ役割のあることが判りました。密封の技術が発達した現在でも、香ばしい風味が好まれてお茶漬けの標準的な具として入れられています。

このほか「げんこつ」と呼ばれる4、5センチ角の歯が欠けそうに固いおかき、食べやすい「薄焼きせんべい」、海苔を巻いた「磯部あられ」、ザラメのついた「ザラメせんべい」、生姜味の「生姜せんべい」、ピーナッツだけを甘辛い蜜で丸く固めた厚みのある「ピーナッツ煎餅」があり、せんべいの種類は数え切れません。

食べるものが洋風化し歯ごたえのあるものを好まなくなった今の子供たちに、今後、どのくらいせんべいが好まれるのか、昔のせんべいの味を懐かしむ年寄りとしては気になるところです。ちなみに私はぜんぶ自分の歯です。いまだに「げんこつ」にも挑戦できます。

                

 

 

 

 

 

 


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人工光合成プロジェクト

2016-08-24 06:13:03 | 日記

日本の化学産業は高い国際競争力を誇る製品を多数生み出していますが、原料として化石資源を大量に消費するため、二酸化炭素排出量も日本の製造業中では鉄鋼業に次ぐ16%です。 

国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)と人工光合成化学プロセス技術研究組合(ARPChem)は、「二酸化炭素原料化基幹化学品製造プロセス技術開発(人工光合成プロジェクト)」を立ち上げました。地球温暖化の観点から、化石資源に頼らない革新的な化学品の製造技術が求められているのです。 

人工光合成プロジェクトでは、第1段階で太陽エネルギーと光触媒を利用した水の分解による水素の製造の効率化、第2段階では水の分解で発生する水素や酸素の分離膜の開発とCO2を透過して安価に回収する透過膜の開発、第3段階では水から製造する水素と発電所や工場などから排出するCO2を原料として、基幹化学品のC2~C4オレフィンを合成する合成触媒技術の確立を目指しています。 

今般、NEDO、ARPChem、東京大学、TOTOは第1段階の水の分解に使用する、2種類の粉末状の光触媒と導電性材料をガラス基板に固定化した、混合粉末型光触媒シートを開発しました。開発した光触媒シートは水中に沈めて太陽光を当てるだけで、水を分解して水素と酸素を発生させることができ、水素を安価に大規模に供給できる可能性を持っています。 

この光触媒シートは非常にシンプルな構造で、大面積化と低コスト化に適していて、スクリーン印刷法を利用した光触媒シートの大量生産の可能性が得られました。なお今回の研究成果は、2016年3月7日に英国科学誌「Nature Materials」のオンライン速報版で公開されています。 

光触媒は、太陽エネルギーを化学エネルギーに変換する物質です。従来の光触媒は吸収波長が紫外光領域に限られたものが多く、太陽エネルギー変換効率向上のためには、可視光から赤外光領域にかけての光を利用できるように、光触媒の吸収波長を長波長のものにすることが課題でした。 

このため、従来よりも長波長の光を吸収する光触媒材料を探索すると同時に、水分解の際の水素の発生を担う光触媒と、酸素の発生を担う光触媒を別にすることで、光触媒材料選択の幅を広げました。 

今回、可視光領域の光を吸収する水素発生用光触媒と酸素発生用光触媒の組み合わせの最適化を図り、その結果、太陽エネルギーを利用した光触媒による水からの水素製造で、現段階での世界最高の変換効率2.2%を達成しました。 

現在の水素製造の主力は、天然ガスやナフサなどの化石資源を原料としています。水の電気分解による水素の製造も行われていますが、次世代の水素製造技術は、太陽エネルギーと光触媒を利用した人工光合成による水素の製造と位置付けられます。2021年度末までに、太陽エネルギー変換効率10%の達成を目指しています。 

太陽エネルギー変換効率が10%になれば、広さが2万平方メートルのプラントから、1日に233キログラムの水素を製造できます。これは水素自動車43台分に相当する燃料です。燃料電池で電気エネルギーに変換して、一般の電力として使うことも可能です。 

NEDOが主導する研究開発プロジェクトの第2段階では、同時に発生する水素と酸素を分けるための分離膜の開発とその実用化に取り組んでいて、分離膜と並んでCO2を透過する透過膜の開発も進めています。 

現在、火力発電設備の中でのCO2の分離・回収は、化学吸収法と酸素燃焼法が主流ですが、コストの高いことが実用化を妨げています。CO2を高圧の状態にして溶剤の中に吸収する物理的吸収法も研究されていますが、将来のCO2の分離・回収方法の本命は、CO2を透過する性質の膜を使って回収する膜分離法です。 

次世代の石炭火力発電で主流になる「石炭ガス化複合発電」と透過膜を組み合わせると、排出するガスの圧力を利用してCO2を透過させることができます。日本の火力発電技術は発電効率を向上させて燃料の使用量を減らし、CO2排出量も削減する取り組みで世界をリードしていますが、発電に伴って生じるCO2を回収して利用し貯留する「Carbon dioxide Capture, Utilization & Storage CCUS」の取り組みが進行中です。 

人工光合成プロジェクトの第3段階では、水から製造する水素と発電所や工場などから排出されるCO2を原料にして、基幹化学品のC2~C4オレフィンを合成する合成触媒技術の確立を目指しています。C2~C4オレフィンは二重結合を1つ含む炭素数2から4の炭化水素化合物で、C2はエチレン、C3はプロピレンです。プラスチック原料などになる基幹化学品として用いられます。 

従来用いて来た化石資源を使わずに、合成触媒技術によって基幹化学品を製造できるほか、化石燃料が使用される際に排出される大量のCO2を、基幹化学品合成の原料として利用することができるので、地球温暖化の原因であるCO2の排出量の削減が期待できます。 

これらの技術の基礎となる光合成の研究は1910年頃から行われていて、1956年ルドルフ・マーカスにより電子移動反応理論が発表されています。1972年には東京大学の本多健一藤嶋昭により、酸化チタン電極を用いて紫外線を照射することにより、水を水素酸素に分解する本多-藤嶋効果が発表されました。 

日本では1974年から2000年にかけて、新エネルギー研究プロジェクトとしてサンシャイン計画・ニューサンシャイン計画が取り上げられてきた歴史があります。2011年9月豊田中央研究所は、世界で初めて水とCO2、太陽光と特殊な光触媒を用いて有機物の生成を可能にしました。 

2012年7月パナソニックは、窒化物半導体を利用した人工光合成システムを発表しました。光電極側に窒化物半導体を用い、もう一方の金属触媒電極から蟻酸(ギさんCH2O2)を得るもので、触媒の種類を変えることにより有機物の種類を選択できます。2014年9月現在エネルギー変換効率は、0.3%と植物の変換効率を越えており、今後の研究により実用化の目処である1.0%の達成を目指します。 

2015年7月、大阪市立大などの研究チームが人工光合成の技術を使い、酢酸から自動車の燃料になるエタノールをつくることに成功しました。これは世界初の成果です。 

南米ベネズエラは原油埋蔵量が世界一の資源国ですが、石油資源の外貨収入に国家の運営のすべてを託してきた結果、価格の低迷とともに国家財政は破たんし、国民の生存に必要な食料品や医薬品すら供給できない事態に陥っています。 

我が国はあらゆる資源を輸入しなければならない国ですが、原油への依存度を減らすための不断の努力を続けてきました。太陽エネルギーと光触媒を用いて水から生産する水素は、エネルギー需要の増大に応えられます。人工光合成プロジェクトの本命の、化石燃料が排出するCO2を有機化合物等の高エネルギー物質に変換する技術は、地球温暖化ガスを削減する有力な手段です。 

COP21では温室効果ガスの削減に世界中のすべての国々が取り組むことが約束されましたが、従来通りに化石燃料を使って、ただ、節約を心がけるだけでは、CO2削減効果を上げることは不可能です。 

日本は人工光合成研究の歴史が長く、世界的に見て日本の技術が優位に立っています。地球温暖化に伴う異常気象による被害が拡大し続けている中で、日本の人工光合成技術には、世界中の人々の希望が託されているのです。

 

 

 

 

 


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ベネズエラ

2016-08-17 06:16:22 | 日記

 南米ベネズエラの経済の崩壊が明らかになりました。信じられないことですがベネズエラは原油埋蔵量が世界一の資源国であるにも関わらず、国民の生存に必要な食料品や医薬品すら供給できない事態に陥っています。 

「国が決めた基本食品や日用品を低価格で国民に提供する」と云う、故チャベス大統領の社会主義国家特有の政策で、原油価格が高かった時代には住宅環境や食料供給の改善、賃金上昇や福祉の充実によって、国民は恩恵を受けることができていました。 

市場経済に任せるより政府の方がフェアに富を分配できるとして、政府は通信、銀行、鉄鋼、セメント、酪農業、スーパーマーケットなどを次々に接収しました。民間企業がなくなり、代わった公的機関は非効率で情実や裏取引に満ちたものになり、経済の活力が奪われていったのです。 

チャペスが政権を掌握した1999年から、食料輸入が著しく増加しました。これには、肉、果物、野菜、穀物、あらゆる加工食品が含まれます。食料輸入額は2008年以降飛躍的に増え、1998年から2007年までと比べると輸入額で299%、輸入量で74.5%の増加です。

政府はベネズエラ国内で生産するのに比べ、何倍も高い価格で外国から食料を仕入れ、大幅に下回る価格で損失を出しながら供給し続けています。食品や日用品を低価格で国民に提供する制度を、政府の一部の人間が悪用して莫大な利益をえ続けているためです。自国内でのダンピングによる浪費が13年間続いたため、ベネズエラのインフレ率は720%に達しました。

2011年後半以降、主要食品の消費は明らかに減少傾向が見られ、ここ3年間で人々の食べる量は20%減っています。経済担当副大統領は2016年に入って輸入額を45%、できれば60%まで削減したいと発言しました。

人々が列をつくって何時間待っても、手に入る食料の量も種類も減り続けています。食料を求める街頭の抗議が起きるのは当たり前ですし、今や食料品店での略奪は日常茶飯事で、凶悪犯罪の発生率も世界で最悪、首都カラカスが「世界で最も危険な都市ランキング」で1位になりました。

ベネズエラは南アメリカ北端部に位置する社会主義国家です。東にガイアナ、西にコロンビア、南にブラジルと国境を接し、北は大西洋に面しカリブ海諸国があります。

ヨーロッパ人がベネズエラに到達したのは、1498年コロンブスによる3回目の航海です。その後スペイン人によって植民地化され、植民地時代のベネズエラ経済は、プランテーション制農業からのカカオ輸出に依存していました。

19世紀におきた南米各植民地の独立運動の流れの中で、ベネズエラが完全な独立をはたしたのは1830年です。一世紀以上に渡りカウディーリョ(イスパノアメリカにおける独裁者)や軍人による専制政治と内戦が続きましたが、1959年のベタンクール政権以降、石油収入を背景にベネデモクラシアと呼ばれた民主化が富裕層と中間層を主体に進みました。

1960年代から1980年代のラテンアメリカ諸国には、クーデターによる軍事政権の成立が相次ぎましたが、ベネズエラは例外的に民主主義の維持された国家でいました。しかし中南米でトップクラスの高所得水準を誇った時期にも格差はあり、多数の貧困層を抱えます。また農業の生産性が低く国内産業も貧弱であったため、食料品を含む生活必需品の多くを輸入に頼っていました。

1960年代、1970年代は OPECの原油値上げとともに高成長が続きましたが、南米で最高だった一人当たりのGDPは、原油価格が下落した1983年を境に急落します。

1999年にベネズエラ大統領になったウゴ・チャベスは、少年時代に社会主義に感化され、士官学校時代にはペルーで軍事革命政権を樹立したアルバラード将軍や、アメリカとパナマ運河返還交渉を行ったパナマトリホス将軍に強い影響を受けたと云われます。1975年に陸軍に入り、後に革命的ボリバリアーノ運動200と呼ばれた軍隊内の地下組織を、同僚らと1982年に組織しました。

1989年2月カラカス貧困層が蜂起し、鎮圧のために陸軍が発砲して多数の死傷者を出したことに衝撃をうけた陸軍中佐チャベスは、1992年2月にクーデターを試みましたが失敗して投獄されます。その後は武装闘争から合法的な政治活動に方針を転換して第5共和国運動を組織し、7年後の1999年にベネズエラ大統領になります。

 

チャベスは反米とポプリスモとボリバル主義を掲げ、1999年12月には国名を「ベネズエラ・ボリバル共和国」に改称します。2002年にCIAが援助した軍部のクーデターで失脚しましたが3日で政権に復帰し、反米的なキューバボリビアエクアドルニカラグア中国ロシアイランとの関係を強化しました。また、ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体南米諸国連合米州ボリバル同盟南米銀行の設立を主導し、中南米の結束を図りました。

国内的には反市場原理主義、反自由主義を鮮明にし、富の偏在・格差の縮小など国民の大多数の貧困層の底上げ政策「21世紀の社会主義」を掲げました。チャベス保健教育を最重要視する政策をとります。

低所得層のための無料診療所の開設、学校の建設、非識字者や学校中退者のための補習プログラムなどがその例ですが、貧困層重視の政策は強引な政治手法とあいまって、富裕層、中産階級、以前の有力政党と結ぶ労働組合から強い反発を受けます。

2002年12月から2003年2月にかけてチャベス辞任を求めるゼネストが起こり、ベネズエラ経済は大打撃を受けます。しかし2004年には原油価格上昇により経済が急速に回復し政権支持率も上昇しました。8月15日の大統領リコールの国民投票が否決されると、政情は一応の安定をみます。2006年12月3日の大統領選挙でチャベスは3度目の当選を果たしました。 

1999年以来強烈なカリスマ性とリーダーシップを発揮し、「21世紀の社会主義」を標榜して政治経済変革を推し進めたチャベスは2013年3月5日に死去し、4月に行われた大統領選挙で副大統領であったニコラス・マドゥロが大統領に就任しました。 

経済危機に有効な対策をとれないマドゥロと与党ベネズエラ統一社会党への不信で、2015年12月6日の議会選挙では反チャベス派の民主統一会議が勝利します。二極化した政治体制と危機的なマクロ経済を受け継いだマドゥロ大統領は、困難な政権運営を余儀なくされています。 

2014年夏以降の世界的な原油価格下落局面で外貨の減少を招いた政府は、国有化した企業やサービスを週に二日だけの運用にしています。役所が開くのは週に二日、裁判所もほとんどの日が休みで、水道も給水制限の対象ですし、停電が常態化しています。学校も週休三日になりました。

べネズエラ政府は保有している金を売却し食いつないでいます。2016年第一四半期だけで137万オンスを売却しました。IMFの試算するベネズエラの金の持ち高は740万オンスです。

ベネズエラは北はカリブ海に面し、国土の80%が中央部を流れるオリノコ川の流域にあり、平らな大草原が広がっています。南米大陸にありますが、国土はすべて赤道以北です。人口の大部分は北方の海岸線沿いの、標高800m-1300mの住むのに適した気候の地に住んでいます。

植民地時代ベネズエラはコーヒーとカカオを主とした農業国でしたが、マラカイボ湖周辺で石油が発見されて石油メジャーによる油田開発が進められ、1950年代にアメリカ、ソ連に次ぐ産油国となりましたが、国内に製油施設はありません。

ベネズエラは石油メジャーの支配に対抗して1960年に設立されたOPECの原加盟国です。ベネズエラ政府は1976年に国内油田の国有化を宣言し、国営石油公社(PDVSA)が設立されました。

マラカイボ湖周辺の油田は軽質油ですが、オリノコ川流域から産出される石油は通常の石油精製施設では精製ができない「超重質油」で、生産が本格化したのは1990年代以降です。超重質油開発を行う外資系企業に対して、2006年にチャベス政権はPDVSAが60%以上のシェアを持つことを要求したため、複数の石油メジャーが撤退しています。

チャベス政権が開始した「21世紀の社会主義」政策は経済活動の硬直化を招き、物資不足と二桁のインフレが常態化しました。2012年には原油価格の高騰で5%の成長率まで回復しましたが、2013年以降のベネズエラ経済は世界的な原油価格低下により、ハイパーインフレに進行する危機的状況を迎えています。

2015年9月から12月のインフレ率は108.7%に達し、2016年1月にマドゥロ大統領は経済緊急事態を宣言する事態となりました。最高裁が承認した経済緊急事態宣言は「必要なあらゆる措置を講じるための権限」と云う理由で、政府に食料の生産と流通に関連するすべての資産を没収する権限を与えました。

政府の最新の計画はCLAPと云う食料配給隊が、食料を、直接、人々の家庭に配達するものです。しかしCLAPが自分たちの分を先取りしている、配達される食料が少なすぎる、ごく一部の人にしか行き渡らないと云う不満の声が上がっています。

ベネズエラは、本来、鉱物資源に恵まれた国です。石油以外にも2009年に推定埋蔵量7,8兆立方フィートの大規模な天然ガスが発見されました。金属鉱物資源ではボーキサイトニッケルのほか、金、ダイヤモンド、リンを産します。

人口は1830年には80万人、1920年にも200万人でしたが、第二次世界大戦後に急増し1967年には900万人、2007年には2,600万人を越えました。人口の都市化率は85%で公用語スペイン語です。ベネズエラは多くの人種と民族の世代を重ねた混血が進み人種がはっきり区分できませんが、メスティソと呼ばれる混血が67%、ヨーロッパ系21%、アフリカ系10%、インド系2%とされます。

ベネズエラにはびっくりするほど美女が多く、世界三大ミス・コンテストのミス・ユニバースでは優勝7回、優勝回数では1回差の2位、ミス・ワールドでは優勝6回で1位、ミス・インターナショナルでは優勝6回で1位です。ベネズエラに美女が多いのは、メスティソが7割を占めるからと云われます。

ベネズエラの特色ある教育として音楽教育があります。ホセ・アントニオ・アブレウが1975年に始めたもので、貧困層の児童を対象に無償で施されるクラシック音楽の教育は、ストリートチルドレンや非行少年の更生に大きな成果を上げてきました。日本でも良く知られているコーヒー・ルンバウーゴ・ブランコのヒット曲です。

南米諸国では例外的に野球が盛んで、ボビー・マルカーノロベルト・ペタジーニアレックス・カブレラらが日本でも活躍し、アレックス・ラミレスは日本プロ野球で初のベネズエラ人監督となりました。

チャペス大統領は世界の国々の元首の中でも、ずば抜けて強烈な個性とカリスマ性を発揮した存在でしょう。キューバのカストロと親交があり、強大国アメリカに対し反米感情をむき出しに云いたい放題の発言を繰り返し、ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体南米諸国連合米州ボリバル同盟南米銀行の設立を主導して中南米の結束を図った度胸と実行力は大したものです。 

国家には強力なリーダーシップを持った統治者が大切ですが、どんなに理想に燃えたリーダーでも、独裁者であっては統治の実を挙げることができないことをチャペスも証明したようです。世界一の石油資源を有するOPECの創始国と云えども、舵取りを誤れば国民の食料まで事欠く、まさかの事態に成りうるのですから、もって他山の石とすべきでしょう。

 


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キャッシュレス社会

2016-08-10 06:12:39 | 日記

2013年のことですが、スウェーデンのストックホルムで貧しい人たちが路上で売って生活の糧を得ていた雑誌が、数年の間に売れなくなっていました。スウェーデンでは現金を使わなくなったせいで、通行人の誰もが50クローナ(790円)の小銭の持ち合わせがなくなったのです。

この窮状を救ったのは、雑誌社から支給されたデビットカードの読み取り機です。通行人の誰もが持つカードを読み取れるカードリーダーが、路上で雑誌を売る人たちの生活必需品になりました。

 

スウェーデンでは現金での商いを止めた小売店が増えていて、地下鉄の切符も現金では買えません。銀行も現金を取り扱わない支店が半数を超え、ATMも撤去が進んでいます。モバイルアプリが登場した2010年頃から一挙にキャッスレス社会に向かい、iZettleの開発したカードリーダーに向かってカードで支払うか、銀行業界の統一アプリ「Swish」で支払うかと云う状況です。

デンマークやアイスランドでも、あらゆるものがクレジットカードや携帯電話のテキストメッセージサービス(SMS)で支払われます。大半のバスが現金で運賃を受け取らずに外国人観光客を困らせています。デンマークは2016年末で中央銀行が現金の生産をストップするそうです。

北欧諸国は急速にキャッシュレス社会に移行し、小売売上高に占める現金の割合はスウェーデンの27%、デンマークでは25%まで低下しています。近い将来に現金がなくなることはないでしょうが、現金を使わない社会は現に到来しています。

我が国でも買い物をする際にクレジットカードや電子マネーなど、現金を使わない多様な決済手段があります。ネットショッピングではクレジットカードのほかに、商品が届いた際の代金引換、コンビニエンスストアで支払うコンビニ収納代行、相手の銀行口座に送金する銀行振込などです。

2014年度に最も利用されたキャッシュレス決済サービスは、クレジットカードで 47.0兆円です。次はコンビニ収納代行の9.7兆円、三番目は電子マネーの4.0兆円です。現金による決済は 87.2兆円もあり、キャッシュレス決済サービスの合計額を上回っています。

2020年度に最も利用されると予想されるキャッシュレス決済サービスはクレジットカードで 、70.5兆円まで成長すると見込まれています。二位はコンビニ収納代行の12.7兆円で、三位は電子マネーの11.3兆円です。2020年度における現金の取扱高は 73.7兆円の予想ですので、クレジットカードだけで現金に匹敵し、キャッシュレス決済サービスの合計では現金を上回ることになります。

クレジットカードは、かつて、高額の決済に利用されてきましたが、現在は5,000円以下の少額でも広く使われるようになり、オンラインショッピングで最も多く利用される決済手段です。消費者の多くは3~4枚のクレジットカードを持っていて、ポイントが割増になったり、割引を受けられる特典などによって、利用するカードを使い分けています。コンビニ収納代行は、光熱費や自治体に対する公金の支払いにも利用されます。

電子マネーは自動販売機やコンビニエンスストアのような少額の決済で利用され、利用件数が多い特徴があります。スーパーやコンビニがポイントや割引のサービスを受けられる独自の電子マネーを発行したことで広がりました。Suikaをはじめ、いちいち、乗車券を購入しなくても鉄道やバスに乗れるプリペイドカードが、都市圏から地方に広く普及しました。

デビットカードの利用は欧米や中国では盛んですが、日本では低調です。この背景として、後払いのクレジットカードを低所得者が取得しにくい国では即時払いのデビットカードに頼ること、クレジットカードの利用残高に金利がかかる国ではデビットカードを好む違いが挙げられます。

現金は店舗にとって盗難のリスクがあり、売上の勘定やお釣りの準備にコストがかかります。どの顧客がどの商品を購入したのか分からず、得意客を優遇したり顧客に合った商品を案内する販売促進活動ができません。

消費者にはATMから現金を引き出す時間がかかり、場合によっては手数料がかかります。さらにカードでないとポイントや割引などの恩典が得られません。国にとってもキャッシュレスが進展すれば、硬貨の鋳造費を削減でき、税務効率も向上する可能性があります。

政府の成長戦略「日本再興戦略改訂2015」では、キャッシュレス化の普及拡大を図り、東京オリンピックが開催される2020年に向けて、自国のクレジットカードを持って訪日する多くの外国人が、ストレスを感じることなくカードを利用できる環境整備を目指しています。

クレジットカード取引では、カード情報の保護、カード偽造の防止、不正使用対策の3つが重要ですが、安全対策に関する鍵はカードのIC化で、日本以外のアジア諸国ではICカードが標準です。ヨーロッパはもちろんアメリカでもIC化は急速に進んでいて、我が国でも2020年までには100%IC化を実現しなければなりません。

電子決済を利用しない多くの人の懸念はセキュリティですが、2016年5月15日に2時間半の間に、17都府県のコンビニATMで偽造クレジットカードによる大量の不正引き出しが発生し、被害総額は18億円に上りました。カード会社から現金を借りる「キャッシング」の手法で、各ATMから1万7千回以上の限度額の引き出しが行われました。 

事件当時のATMの1回の引き出し限度額は、セブン銀行が10万円(一部20万円)、イーネットが20万円でした。外国では米国は約5万円、イタリアは約3万円が引き出し限度額で、事件後セブン銀行は限度額を5万円に、イーネットは4万円に引き下げたそうです。 

セブン銀行やゆうちょ銀行などは、すでに外国のクレジットカードが使えるATMを数多く設置していますが、使用されたのは南アフリカの偽造カードです。犯人が日本を狙ったのはカードのIC化が遅れていて、安全性の低い磁気カードが通用する弱点を突いたものでした。 

現在イオングループでは、クレジットカードと電子マネー(WAON)をあわせたキャッシュレス比が50%を超えているそうですが、現金社会の日本では個人消費におけるカード支払いは17%です。 

韓国(73%)、カナダ(68%)、中国(55%)、米国(41%)と比べると圧倒的に低いのですが、その理由は現金を持ち歩いても安全なこと、ATMが多くどこでも現金を引き出せること、自動振替や振り込みなどの仕組みも整っていて、電子決済の必要性を感じないためと云われています。 

ボズワナや、南アフリカ、ケニア、ザンビアなどのアフリカの開発途上国では銀行口座が普及していませんが、モバイルフォンの大幅な普及が契機になって、通信キャリアを活用した銀行外の口座からの支払いや送金が増え、一挙にモバイルバンキングに進みました。

オーストラリアでもiPhoneの発売された2007年には、国民の69%が現金で買い物をしていましたが、2013年には47%にまで下がり、年間5%ずつ現金で買い物をする人が減っています。2030年頃までにキャッスレス社会になると予測されています。

インターネットバンキングは、自宅で土日・休日や夜間・早朝でも利用できるメリットがあります。ネット振込みは店頭やATMの実店舗での混雑の緩和、処理集中の分散、業務の省力化を促進するため、実店舗利用の場合に比べて手数料が割安に設定されている場合もあります。 

既存の金融機関のもつATM店舗網と提携できることに着目して、インターネットのみで利用する仮想店舗を設け、自社の窓口やATMを持たない新たな形態の銀行の営業が、我が国でも始まりました。

ネットバンキングでもサイバー犯罪は問題です。2005年度には49件だったネットバンキングの預金の不正払い戻しは、2007年度には233件被害総額は1億9千万円を超える大幅な増加傾向を示したため、2008年2月全国銀行協会は預金者に過失がない場合、全額補償する方針を打ち出しました。

各銀行は強固なセキュリティ対策と顧客への啓発を進め、2009年までには58件に減少しましたが、2013年にはウィルスを送り込まれてパスワードを盗まれ不正送金される事件が再び増加し、被害総額は年間14億円となりました。手口が非常に巧妙化していて、ネットセキュリティ会社では今後も被害は増えつづけると予測しています。

現金決済では、すでに紙幣が金との交換が保証された兌換券ではなくなってはいても、物が買える紙切れが手元にあります。完全にキャッシュレス化した場合、何らかの意図でカードの使用が停止されると、物を手に入れるための目に見える交換手段はなくなります。現金の使用をやめるのは、人々の経済的自主権を奪うことになると心配する人は、結構、います。

1887年アメリカのエドワード・ベラミーは、西暦2000年の政府が生産手段をすべて制御し生産の成果を市民の間に均等に配分する手段として、クレジットカードを構想しましたが、2000年を待たずに彼の構想したクレジットカ―ドは実用化されました。

2050年には人の職業の60%がロボットに奪われると専門家は予測していますが、すべての人が平等に給付を受けられる制度も実現して、ロボットにできる仕事はロボットに任せ、残された仕事をみんなで分かち合い、平等に余暇も楽しむ、豊かで平和な社会が実現するとしたら、是非、そうあって欲しいものです。


 


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パナマ運河

2016-08-03 06:15:09 | 日記

2016年6月27日、パナマ運河の拡張工事が完成した記念式典が行われました。1914年に開通したパナマ運河は、船舶の大型化や通行量の増大に対応するため、2007年から既設の航路に併設する新たな航路の工事が行われてきました。

この結果、航行できる船の幅がおよそ17m広がり、全長366m、幅49mまでの超大型船の通過が可能になり、これまでの2倍の通航量が見込めることになりました。

パナマ運河の構想は、大西洋と太平洋との間の狭い地峡の存在が発見された直後からありました。1534年スペインのカルロス1世が調査を命じましたが、当時の技術力では建設は不可能で、運河の開通は400年後になります。

パナマ運河の規模は全長約80km、アメリカの手によって10年の歳月をかけて1914年に開通しました。1999年12月31日パナマに返還されるまで長らくアメリカが管理していましたが、現在はパナマ政府の運河庁に移行しています。2002年の年間通航船舶数は13,185隻、通航総貨物量は1億8,782万トンでした。

19世紀半ばの米墨(アメリカ・メキシコ)戦争カリフォルニア州を獲得して以降、アメリカで両大洋間の連絡手段を求める声が強まりました。地峡部の横断鉄道の建設は1850年に始まり、1万2千人を超える労働者の死者を出しましたが、1855年1月28日両大洋岸を結ぶ最初の鉄道が開通しました。

鉄道と運河は極めて近くを並走し、鉄道は運河の建設に大きく寄与しました。線路の一部は運河建設のために接収やルートの変更が行われ、パナマ鉄道の再構築工事は1912年に完了しました。

パナマ運河に最初に着工したのは、スエズ運河建設者のレセップスです。レセップスはパナマ地峡に海面式運河の建設を計画し、パナマ運河会社を設立して資金を募りました。当時この地を支配していたコロンビア共和国から運河建設権を購入し、フランスの主導で1880年1月1日に建設を開始しましたが、黄熱病の蔓延や工事の技術的問題と資金調達の難航で、1889年にスエズ運河会社は倒産し計画は破棄されました。

アメリカにとっては両洋間を結ぶ運河は経済的にも軍事的にも重要で、その後アメリカによって運河建設は進められることになりました。パナマ地峡はコロンビア領であったため、アメリカは運河を自らの管轄下におくべく1903年1月に、コロンビアとの間でヘイ・エルラン条約を結びましたが、コロンビア議会は批准しませんでした。

1903年11月3日自治権を持つこの地域は、パナマ共和国としてコロンビアから独立を宣言します。アメリカは10日後の11月13日に独立を承認し、11月18日にはパナマ運河条約を結び、運河の建設権と関連地区の永久租借権を取得して工事に着手しました。

当初パナマ資本で工事が始まりましたが工事は遅々として進まず、海面式運河にするか閘門式(こうもんしき)運河にするかの建設計画さえ決りませんでした。1904年5月にアメリカ資本による建設事業がスタートします。

1905年に着任した主任技師スティーブンスはマラリア黄熱病の感染を防ぐ蚊の駆除に尽力し、福利厚生にも気を配り労働環境は整ったものになりました。スティーブンスは閘門式運河を採用する結論を下しましたが、精神的に疲労して1907年に退職、後任にはゲーサルスが就任しました。

ゲーサルスは労働者の不満を吸い上げる自由面接制度を整え、工事週報の発刊で労働者たちにも工事の進捗状況を分からせ、工事を地域別に分けて競争意識をあおったため、工事のテンポは格段に早くなりました。

1910年にはガトゥンダムが完成し、1913年にはダムが満水となってガトゥン湖が誕生しました。一番の難工事だった山間部のクレブラ・カットの開削も完了し、パナマ運河は予定より2年早く、1914年8月15日に開通しました。運河収入はパナマに、運河地帯の施政権と運河の管理権はアメリカに帰属しました。

パナマ運河は、南北アメリカ大陸を繋ぐ地峡がもっとも狭い場所につくられましたが、岩山が多く海抜95m以上ありました。運河は大西洋側のガトゥン閘門、ガトゥン湖、クレブラ・カット及び太平洋側のミラフローレス閘門とペドロ・ミゲル閘門から構成されています。

パナマ運河は、船舶が出入する扉付きの閘門システムを利用しています。閘門はいわば水のエレベーターの役割を持ち、船舶を大西洋または太平洋の海面レベルから海抜26mのガトゥン湖の高さまで上昇させます。船舶はその高さでガトゥン湖及びパナマ中央山脈を横切るクレブラ・カットを縦断します。 

階段状の閘門のチェンバーは幅33.53m、長さ304.8mあります。それに応じてパナマ運河の通過を望む船舶の大きさは、幅32.3m、長さ294.1mに規制されてパナマックスサイズと云われます。船舶の運河水域に滞在する平均時間は約24時間で、運河通過時間は8~10時間です。 

カリブ海からきた船は、コロンでパナマ運河へ進入します。コロンはカリブ海有数の港で、コロン自由貿易地域やラテンアメリカ最大のコンテナ港であるマンサニージョ港があり、パナマ地峡鉄道の起点もあります。

コロンを過ぎるとすぐにガトゥン閘門にぶつかり、ここには閘室が3つあって、船は海面から一気に26m上昇します。ガトゥン閘門の最後の閘室を抜けると、パナマ運河の最高地点である海抜26mのガトゥン湖です。

ガトゥン湖はカリブ海側に流れるチャグレス川をせき止めた人造湖で、かつての山頂や尾根が半島や島として点在します。ガトゥン湖を抜けると、クレブラ・カットと呼ばれる切り通しへ入ります。

ここは両洋の分水嶺にあたり、地質がもろいため崖崩れが起きやすく、運河建設時の最難関現場となった区間です。現在では度重なる崖崩れに対処するため側面がコンクリートで固められ、大幅に拡張されてパナマックス船のすれ違いが可能になっています。

クレブラ・カットを過ぎると1閘室のみのペドロ・ミゲル閘門があり、ここでやや高度を下げてミラフローレス湖へと入ります。この先には2閘室あるミラフローレス閘門があって、ここで船は完全に太平洋の海面へと高度を下げます。ミラフローレス閘門を過ぎてすぐにバルボア市がありますが、ここはパナマ運河の太平洋口で、パナマ地峡鉄道の終着駅やバルボア港があります。

パナマ独立時の条約によって、運河地帯両岸の永久租借地にはアメリカの軍事施設がおかれ、アメリカ政府はパナマに有形無形の干渉を続けていましたが、第二次世界大戦後にパナマの民族主義が高まり運河返還を求める声が強くなりました。

1968年の軍事クーデター後のトリホス政権は国粋主義的で、運河の完全返還を強く主張するようになりました。1977年新パナマ運河条約が締結され、運河および運河地帯の施政権は1999年12月31日にパナマへ返還されます。

パナマ運河の通航料は、船種や船舶の積載量、トン数や全長など船舶の大きさに基づきパナマ運河庁が定めています。1トンにつき1ドル39セント、平均で54,000ドルです。かつてアメリカ政府がパナマ運河を管轄していた時代には、運河通航料はスエズ運河と比べても非常に低く抑えられていました。

これに対して運河を受け継いだパナマ政府は利益の極大化方針を打ち出し、2000年以降、年3.5%の値上げを20年間継続する方針を打ち出しました。返還初年である2000年の運河収入は1億6,680万ドルにのぼり、近年は船舶の大型化による通航料の最高額更新が続いています。2008年2月24日には豪華客船「Norwegian Jade号」が313,000ドル以上を支払いました。

今回の運河拡張計画は通航量の増大や船舶の大型化の流れを受けて、2006年4月にパナマ運河庁から提案され、10月に国民投票により実施されることが決定したものです。総事業費52億5千万ドルで2007年9月3日に着工しました。

この拡張計画では、大西洋側のガトゥン閘門に並行して3閘室の閘門を新設、太平洋側の1閘室のペドロ・ミゲル閘門と2閘室のミラフローレス閘門をショートカットする形で3閘室の閘門を新設するものです。

ガトゥン湖からクレブラ・カットにかけては既設の運河をそのまま使用しますが、通行量の増大が予想されるため浚渫や拡張を行い、2年の工期の遅れはありましたが、2016年5月31日に竣工し6月26日に完成式典を行い運用を開始しました。

拡張工事の完成によって既存の往復2レーン(閘門サイズ:長さ320m、幅33.5m、深さ25.9m 、最浅部で12.55m)に加え、第3レーン(閘門サイズ:長さ427m、幅55m、深さ18.3m)を併せた3つの航路が通行できるようになりました。パナマ運河を通過できる船の最大のサイズは拡張工事完成後、長さ366m、幅49m、深さ15mとなり、通過可能な船舶の範囲が大幅に拡大しました。

1914年の開通当時、この運河を最もよく利用したのはアメリカついでイギリスで、他国の利用はわずかでした。1960年代以降、日本が経済的に台頭して急速に利用を拡大し、アメリカに次ぐ利用国になりました。

21世紀に入ると中国はじめ東南アジア諸国の経済成長とともに利用が急速に拡大し、2003年には太平洋から大西洋への輸送貨物で中国が第1位となり、南米太平洋沿岸諸国の利用も急拡大して2位がチリ、4位がエクアドルとなって、日本は6位まで後退しました。今後の大西洋から太平洋への貨物輸送では、我が国にとってはパナマ運河経由の石油、LNGの輸入に貢献しそうです。

パナマ共和国はパナマ運河計画によって成立した国ですが、経済的にもその他の面でも運河に多くを負っています。この運河沿いには研究施設や観光施設が相次いで建設され、ガトゥン湖畔には2つのリゾートホテルが建設されて運河の風景と熱帯の自然を楽しめるようになりました。

現在、海を越えての世界各国間の人の移動は航空機に限られ、外洋を航行する客船は姿を消しましたが、パナマ運河は、今後、船旅そのものを楽しむ豪華クルーザーの観光ルートにも組み込まれると云われています。

 

 


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