gooブログはじめました!

歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

近衛文麿

2022-11-24 06:22:13 | 日記

近衞文麿は1891年(明治24年)公爵近衛篤麿の長男として生まれました。近衞家は皇別摂家で、400年前の後陽成天皇の男系子孫にあたります。3度内閣総理大臣に任命され、第1次近衞内閣では盧溝橋事件が支那事変に拡大、近衛声明や東亜新秩序で対応、戦時体制に向け国家総動員法を発動しました。

第2次・第3次近衞内閣では大政翼賛会総裁となり、八紘一宇と大東亜共栄圏構想を掲げ、日独伊三国同盟や日ソ中立条約を締結しましたが、南部仏印進駐で対米戦争不可避に追い込まれ、政権を投げ出します。

公爵近衛文麿

父の篤麿は学習院院長や貴族院議長を務め「アジア主義」の盟主として東亜同文会を興しました。母の衍子は加賀前田家の出身で文麿が幼いときに病没、父は衍子の異母妹貞を後妻に迎え、文麿は貞を長年実母だと思って成人し、事実を知った後「この世のことはすべて嘘だと思うようになった」と文麿の人格に大きな影響を与えています。

1904年(明治37年)父が41歳で死去し、文麿は12歳で近衛家の当主として父が残した多額の借金も相続しました。父のアジア主義は明治初期から我が国で唱えられたもので、日露戦争に勝利した後はアジア諸国の反植民地運動を支援する思想に発展し、日中戦争初期の昭和研究会による「東亜協同体論」での政策化、次いで「大東亜共栄圏」構想へと繋がっていきます。

近衞は当時華族の子弟が進学した学習院高等科には進まず一高に入学、東京帝国大学哲学科に進みましたがあきたらず、マルクス経済学者で共産主義者であった河上肇や、被差別部落出身の社会学者米田庄太郎に学ぶため、京都帝国大学法科大学に転学しました。河上の自宅を頻繁に訪ねて社会主義思想を学び、深く共鳴しています。

妻の千代子とは恋愛結婚で、華族女学校の美女だった千代子を一高生の文麿が電車の中で見初めたものです。京都帝大在学中に京都で挙式し「学生結婚」にはそぐわない豪勢な生活を送りました。

在学中の1914年(大正3年)オスカー・ワイルドの「社会主義下における人間の魂」を翻訳し「社会主義論」の表題で雑誌「新思潮」大正三年五月号、六月号に発表、五月号は発禁処分になりました。

1916年(大正5年)満25歳で貴族院議員になり、1918年に雑誌「日本及日本人」に「英米本位の平和主義を排す」を発表しました。1919年(大正8年)「パリ講和会議」の西園寺公望全権に随行、ヴェルサイユ条約締結の前に調印された「国際連盟規約」へ提出した、自らも提案に加わった我が国の人種的差別撤廃提案が否決され、白人に強い恨みを抱くようになったとされます。

1927年(昭和2年)木戸幸一、徳川家達らとともに火曜会を結成して貴族院内に政治的地盤を作り、次第に西園寺から離れて院内革新勢力の中心人物となっていきました。五摂家筆頭の家柄と一高から2つの帝大への高学歴や、180cmを超す長身の貴公子然とした風貌、対英米協調外交の既成政治打破の主張で大衆的人気も獲得し、早くから将来の首相候補に擬せられ、1933年(昭和8年)貴族院議長に就任しました。

同年近衞を中心とした「昭和研究会」が後藤隆之助らにより創設され、暉峻義等、三木清、平貞蔵、笠信太郎、東畑精一、矢部貞治、企画院事件で逮捕される稲葉秀三、勝間田清一、正木千冬、和田耕作ら、後にゾルゲ事件で死刑になった尾崎秀実もメンバーでした。

1934年5月訪米、フランクリン・ルーズベルト大統領、コーデル・ハル国務長官と会見しましたが、帰国後の記者会見で「ルーズベルトとハルは極東についてまったく無知だ」と語っています。

1936年(昭和11年)3月4日二・二六事件で辞職した岡田啓介首相の後継として西園寺から推薦され、組閣の大命降下がありましたが健康問題を理由にして辞退しました。

3月5日広田弘毅に大命が下り、自由主義者の吉田茂を外相に押す広田の組閣人事に陸軍が干渉し、軍に大幅に譲歩した形で3月9日広田内閣が成立しました。広田内閣は対中国政策で行き詰まり1937年1月に総辞職、陸軍の宇垣一成が大命を受けましたが陸軍内の反対で組閣できず、林銑十郎内閣も3か月の短命で5月31日辞任しました。

近衞は西園寺の推薦で再び大命降下を受け、6月4日に第1次近衛内閣を組閣します。45歳の首相就任年齢は初代伊藤博文に次ぐ史上2番目の若さでした。杉山元陸相、米内光政海相が留任し、外相は広田弘毅、昭和研究会から有馬頼寧が農相、風見章が内閣書記官長に加わり、民政党と政友会からも大臣を迎えました。陸海軍からの受けもよく、財界、政界から支持を受け、国民の期待度は非常に高いものでした。

ところが就任直後に国内各論の融和を図るとして、治安維持法違反の共産党員や二・二六事件の服役者の大赦を主張し周囲を驚かせます。この大赦論は荒木貞夫が陸相時代に提唱したもので、二・二六事件以降皇道派将校の救済の意味を持つようになり、真崎甚三郎の救済に熱心だった近衞は以前から共感を示していましたが、西園寺の反対で大赦はできませんでした。

1937年(昭和12年)7月7日盧溝橋事件をきっかけに北支事変が勃発します。7月9日に閣議で不拡大方針を確認し、杉山陸相が香月清司支那駐屯軍司令官に「盧溝橋事件ニ就テハ、極力不拡大方針ノ下ニ現地解決ヲ計ラレタシ」と命じ、7月11日現地の松井太久郎大佐(北平特務機関長)と秦徳純(第二十九軍副軍長)との間で停戦協定が締結されました。

ところが近衞は蔣介石が4個師団を新たに派遣しているとの報で、11日午後3個師団を派兵する「北支派兵声明」を出します。現地の停戦努力を無視する行動でした。

近衞はその後の特別議会でも「事件不拡大」を唱え続けながら、17日には1,000万円余の予備費支出を閣議決定、26日陸軍が要求もしていない9,700万円余の第一次北支事変費予算案を閣議決定し、31日に4億円超の第二次北支事変費予算を追加するなど、不拡大とは正反対の行動をします。

近衛内閣が展開したこの動きは、国民の戦争熱を煽る華々しい宣伝攻勢と見られても仕方のないもので、石原莞爾陸軍参謀本部第一部長は7月18日に杉山陸相に意見具申し「このまま日中戦争に突入すれば底無し沼にはまる。思い切って北支の日本軍を一挙に山海関の満支国境まで下げ、近衛首相が自ら南京に飛び蔣介石と膝詰めで談判する」提案をしました。

当初、近衞は首脳会談に大変乗り気で飛行機の手配までしましたが、直前に取り消します。石原は「二千年にも及ぶ皇恩を辱うして、この危機に優柔不断では、日本を滅ぼす者は近衛である」と激怒しました。

近衞は宋子文を通じて和平工作を図り、国民政府からの特使の派遣を求める電報で、杉山陸相の確認を取り、宮崎龍介を上海に派遣することにしました。陸軍の強硬派がこれに反対で、神戸港で憲兵が宮崎を拘束して和平工作は立ち消えとなり、杉山はこの件の関係者の事情聴取を行わずに拘束を黙認した形となり、以後、近衞は杉山に強い不信感を抱きます。

8月8日に近衞は日支間の防共協定の要綱を纏めますが、9日日中両軍による上海での戦闘が始まると、13日 2個師団追加派遣を閣議決定、15日には海軍が南京を渡洋爆撃し、近衞は「今や断乎たる措置をとる」と声明、17日閣議決定で不拡大方針を撤回しました。

近衞の一連の動きは、日本人主導のアジアの反植民地運動を展開し、大日本帝国の自立を図る父親の創設した「東亜同文会」のアジア主義を受け継ぎ、東三省軍閥の張作霖を倒して満州国を樹立したのに習い、反日勢力を打倒して中国を日本の勢力下に置こうとする行動だったと思われます。

上海事変が全面戦争へ発展すると、9月2日閣議決定で「北支事変」を「支那事変」と呼び代え、臨時軍事費特別会計法を公布し、10月に国民精神総動員中央連盟を設立、企画院を誕生させて計画経済体制の確立に向けて動き、11月には「日独伊防共協定」を締結しました。

近衞は12月5日の夕刊に「全国民に告ぐ」と云う、国民の一致団結を謳った宣言文を載せて全体主義体制確立へ突き進み、12月13日南京攻略により日中戦争は第1段階を終えます。

翌1938年1月11日御前会議で「支那事変処理根本方針」が裁可され、ドイツの仲介で講和を求める方針が決まりましたが、近衞は14日和平交渉の打ち切りを閣議決定し、16日「爾後國民政府ヲ對手トセズ」の声明を国内外に発表して講和の機会を閉ざしました。

5月に日本軍が徐州を占領、7月には尾崎秀実・松本重治・犬養健・西園寺公一・影佐禎昭らの工作により、中国国民党の有力者である汪兆銘に接近して和平派切り離し工作を開始、日本軍は広東と武漢三鎮を占領します。

近衞は「国家総動員法」「電力国家管理法」を5月に施行し、経済の戦時体制を導入。国家総動員法や電力国家管理法はソ連の第一次五か年計画の模倣で、我が国の国家社会主義化が始りました。

3年後の1941年(昭和16年)の「国民学校令」もナチスドイツのフォルクスシューレを模倣したものです。また戦争継続の戦費調達のために大量の赤字国債「支那事変公債」が発行され、強制割当が行われました。

近衞は陸軍参謀総長閑院宮載仁親王らに根回して杉山元の更迭に成功し、後任の陸相には不拡大派の支持があった板垣征四郎を迎えました。この内閣改造で入閣したのは陸軍の非主流派や、石原莞爾らが以前閣僚への起用を考えていた事変不拡大派の人々です。

近衞はこの人事で軍部を抑える考えだったとされますが、板垣は傀儡に過ぎず、近衞は広田弘毅に代えて陸軍の宇垣一成を外相に迎えたものの、宇垣の和平工作を助けず、宇垣はこれを不満として辞任しました。

11月3日「東亜新秩序」声明を発表し、日本からの和平工作に応じた汪兆銘の重慶脱出を受けて、12月22日には対中国和平における「近衛三原則」で「善隣友好、共同防共、経済提携」を提示しました。

汪に呼応する中国の有力政治家はなく、重慶の国民党本部は汪の和平要請を拒否、近衞の狙った中国和平派による早期停戦は阻まれました。1939年(昭和14年)1月5日内閣総辞職します。

近衞の後を承けたのは前枢密院議長平沼騏一郎でした。平沼内閣には近衞内閣の七大臣が留任した上、枢密院に転じた近衞自身も班列(無任所大臣)として名を連ねました。

平沼は1937年に締結した日独伊防共協定をさらに進めるべく、ドイツとの防共同盟を模索していましたが、8月23日に「独ソ不可侵条約」が締結されたことに衝撃を受け「欧州の天地は複雑怪奇」という声明を残して内閣総辞職します。

平沼の後は1939年8月30日から1940年1月16日までを陸軍の阿部信行、1月16日から7月22日までを海軍の米内光政が政権を受け継ぎましたが、陸軍は日独伊三国同盟の締結を執拗に政府に要求、米内がこれを拒否すると陸軍は陸相を辞任させて後任を出さず、米内内閣を総辞職に追い込みます。

この間、近衞は新党構想の肉付けに専念し、1940年(昭和15年)3月25日に聖戦貫徹議員連盟を結成、5月26日には木戸幸一や有馬頼寧と共に「新党樹立に関する覚書」を作成しました。

6月24日ソ連共産党やナチスをモデルにした一党独裁を目指す「新体制声明」を出し、これに応じて7月に日本革新党・社会大衆党・政友会久原派ついで政友会鳩山派・民政党永井派、8月に民政党が解散しました。

米内に替わって大命が降下した近衞でしたが、西園寺は近衞を首班に推薦するのを断っています。近衞は閣僚名簿奉呈直前の7月19日荻窪の私邸荻外荘で「荻窪会談」を行い、入閣予定の松岡洋右(外相)、吉田善吾(海相)、東條英機(陸相)と「東亜新秩序」の建設邁進で合意します。

1940年(昭和15年)7月22日第2次近衛内閣を組閣し、26日「基本国策要綱」を閣議決定し「皇道の大精神に則り、先ず日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立をはかる」構想を発表。新体制運動を展開して全政党を自主的に解散させ、8月15日で日本に政党が存在しなくなりました。

9月1日ドイツがポーランドに侵攻、9月3日イギリス、フランスがドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まります。欧州でドイツが破竹の進撃を続け、国内では「バスに乗り遅れるな」という機運が高まりましたが、一党独裁は日本の国体に相容れないとする批判もあって独裁政党の結成には至らず、10月12日の大政翼賛会の発足式では「綱領も宣言も不要」と近衞は新体制運動を投げ出します。

新体制運動の核の一つであった「経済新体制確立要綱」は財界の反発を受け、近衛が商工相に据えようとした商工次官岸信介が辞退し、代わりに任命した小林一三は経済新体制要綱の推進者の岸と対立、小林は岸を「アカ」と批判しました。

内相となった平沼騏一郎は、経済新体制確立要綱を骨抜きにしての決着を図り、経済新体制確立要綱の原案作成者たちを共産主義者として逮捕させ、岸信介も辞職しました。閣僚の新体制推進派も辞任しましたが、平沼は大政翼賛会を政治に関わらない団体に規定して、大政翼賛会の新体制推進派も辞職させました。

その間我が国は9月23日北部仏印に武力進駐し、27日「日独伊三国同盟」を締結、11月10日には神武天皇の即位から2600年目に当たるとして「紀元二千六百年記念式典」を執り行い国威発揚を図りました。

1941年(昭和16年)1月11日近衛と風見章、有馬頼寧の間で「4月の任期満了に伴う衆議院選挙を1年延期して対米戦決意を明らかにし、国防国家建設に全力を挙げる」ことで意見が一致しました。20日に声明を発して対米戦気運を醸成するとともに、大政翼賛会で対米戦に備える国民運動を組織化することを決めます。

4月13日「日ソ中立条約」を締結しますが、6月22日独ソ戦が勃発し日独伊三国同盟を結んでいた日本は、独ソ戦にどう対応するかが求められました。陸軍は仮想敵国ソビエトに軍事行動をとる千載一遇の好機と捉え、海軍はこの機に資源が豊富な南方進出を考え、松岡外相は三国同盟に基づいたソ連の挟撃を訴えました。

7月2日の御前会議では海軍が主張した南方進出と、陸軍と松岡が主張した対ソ戦の準備の二面作戦「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が裁可され、南方に対しては南部仏印進駐を、ソ連に対しては関東軍特種演習名目で7日に兵力を動員し、独ソ戦争の推移次第でソビエトに攻め込む方針を決定しました。

7月18日に第2次近衞内閣は総辞職しますが、大日本帝国憲法では閣僚を罷免する権限が総理になく、足枷でしかなかった松岡外相を更迭する目的でした。同日第3次近衛内閣を組織して、外相には南進論者の海軍の豊田貞次郎を任命します。

7月23日すでにドイツに降伏していたフランスのヴィシー政権から、仏領インドシナの権益の移管を取り付け、28日南部仏印に進駐しました。アメリカは東南アジアの戦略的最重要地である南部仏印への日本軍の進駐を容認できず、石油全面輸出禁止等の対日制裁強化を行い日本は窮地に立たされます。

9月6日の御前会議で、アメリカに対する交渉が10月上旬までに受け入れられない場合、アジアに植民地を持つイギリス、アメリカ、オランダに対し開戦する「帝国国策遂行要領」が裁可されました。

9月6日の夜近衞はようやく日米首脳会談による解決を決意し、駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと極秘に会談、危機打開のための日米首脳会談の早期実現を強く訴えます。

事態を重く見たグルーは、その夜直ちに首脳会談の早期実現を要請する電報を打ち、国務省は首脳会談をアラスカで行うことまで一旦決めましたが、日本を力によって封じ込めるべく、10月2日首脳会談を拒否する回答を示しました。

陸軍は日米交渉が事実上終了したと判断、参謀本部は政府に外交期限を10月15日とするよう要求します。10月12日戦争の決断を迫られた近衞は、豊田貞次郎外相、及川古志郎海相、東條英機陸相、鈴木貞一企画院総裁を荻外荘に呼び、対米戦争への対応を協議し、近衞は「今、どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ない。戦争に私は自信がない。自信ある人にやってもらわねばならん」と述べ、18日に内閣総辞職します。

近衞と東條は東久邇宮稔彦王を次期首相に推しましたが、木戸幸一内相らは皇族に累が及ぶことを懸念し、次期首相には東條が決まりました。近衞は東條を首相に推薦する重臣会議を病気の理由で欠席し、後世の近衞批判の一因となりました。

ここまでの経過を要約すると、日露戦争に勝利した後のアジア主義は、植民地と化したアジア諸国の独立運動を日本が支援する思想になり、日中戦争初期には「東亜協同体論」から、日本を盟主とする「大東亜共栄圏」構想へ発展していきます。

近衞は北支事変の不拡大を唱えながら陸軍の軍事費を増大し、北支事変が全面戦争に拡大すると、不拡大方針を撤回する閣議決定をし、1936年(昭和16年)年頭からは対米戦気運を醸成するとともに、大政翼賛会で対米戦に備える国民運動を組織化し、近衞自身の軍部に押し切られたのではない、積極的な行動を積み上げます。

7月2日の御前会議で「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が裁可され、松岡と陸軍が主張した対ソ戦の準備と、海軍が主張した南方進出の二正面作戦でしたが、南部仏印進駐で米国との開戦が避けられない途を選びました。

対米開戦が不可避となるまでの近衞の構想は、すべて父から受け継いだアジア主義から描き出されたもので、手段はソ連共産党やナチスドイツの全体主義体制を踏襲したものです。ここまで来て近衛は戦争をする自信がないと政権を投げ出しました。

近衞は1945年(昭和20年)8月17日から10月9日まで続いた敗戦処理の東久邇宮内閣に副総理格の無任所国務大臣として入閣していますが、巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限の12月16日未明、青酸カリで服毒自殺を遂げます。

「自分は政治上多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない、僕の志は知る人ぞ知る」と書き残しますが、首相として我が国を日米開戦まで強引に導いた経過を詳細に知ることができるようになった今日、近衞は我が国の歴史上もっとも許すべからざる人物に見えてきます。

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マッカーサー退任演説

2022-11-10 06:12:07 | 日記

「朝鮮戦争」は、1950年6月25日北朝鮮が韓国へ侵攻して勃発した朝鮮半島の内戦ですが、諸外国が双方を応援して参戦し、半島全土が戦場となりました。1953年に休戦に至りましたが朝鮮半島は南北2国に分断されたままで、現在も両国間に平和条約は結ばれていません。
第二次世界大戦後1945年から1950年まで、日本占領の連合国軍最高司令官(GHQ)だったダグラス・マッカーサーは、朝鮮戦争末期にマシュー・バンカー・リッジウェイに交代しましたが、当時の日本人にとっては雲の上の話で交代の理由など何一つ伝わっては来ませんでした。

真相はトルーマン米大統領が停戦を模索しているなかで、マッカーサーが中国を叩く声明を発表した後に38度線を突破、満州の戦略爆撃を検討し、原子爆弾の使用を提言するなど、国連や米政府の意向を無視した発言が相次いだため、1951年4月11日トルーマンがマッカーサーを解任、リッジウェイを後任としたものでした。

後年知り得たトルーマンの解任理由は「大統領の権限を尊重しないから私は彼を解任した」で、大統領にはあるまじき“son of a bitch”という言葉を吐いてマッカーサーを侮辱しています。

1953年1月アイゼンハワーが米大統領に就任、3月スターリンが死去、7月27日板門店で北朝鮮、中国軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦闘は終結しましたが、現在に至るまで一時的停戦状態のままです。

マッカーサーは1951年4月19日、米連邦議会上下院の合同会議に出席し退任に際しての演説を行い、後年、我が国にも「老兵は死なず。ただ消え去るのみ」と云う言葉だけが伝えられましたが、私はこの演説を日本人が一度は読むに値すると考え、一回のブログとしては長すぎるのですが、全文をそのまま掲載することにしました。

ダグラス・マッカーサー元帥

1951年4月19日のダグラス・マッカーサーの米連邦議会での離任演説全文

上院議長閣下、下院議長閣下、ならびに連邦議会議員の皆様、私は深い謙虚さと大きな誇りを感じつつ、この演壇に立っています。これまでに、ここに立った米国の歴史の偉大な構築者たちのことを思えば、謙虚にならざるを得ません。

立法府の議論が行われるこの場所が、これまでで最も純粋な形で人間の自由を体現していることを思えば、誇りを覚えざるを得ません。ここには全人類の期待と願望と信義が凝縮しています。私はここにいかなる党派的な大義の唱道者としても、将軍ダグラス・マッカーサーとしても立ってはいません。

なぜなら争点となっているのは根本的な問題であり、党派的な考慮の範囲を大きく超えるものであるからです。我々の進む道が健全であることを証明し、我々の未来を守ろうとするなら、これらの問題は最高水準の国益に基づいて解決されなければなりません。

従って私がここに述べることを、同じ一米国国民が熟慮した見解を表明しているものと皆様が正当に受け止めてくださることを確信します。 人生のたそがれ時にここで演説するにあたり、私には何の遺恨も苦渋もありません。心にあるのは、ただ1つ、国のために尽くすという目的だけです。

諸課題は世界的な規模に広がり、あまりにも深く絡み合っているため、ほかの側面を気にも止めずに1つの側面だけを検討することは、全体の破綻を招くことでしかありません。アジアは一般的に欧州への玄関口と呼ばれていますが、それに劣らず欧州がアジアへの玄関口であることもまた事実です。

一方の広範な影響が他方に及ばないことはあり得ません。わが国の軍事力はこの2つの前線を守るには不適切であり、我々の努力を分割することはできないと言う人がいます。これは敗北主義の表明の最たるものです。もし仮想敵国がその軍事力を2つの前線に分けることができるのなら、それを迎え撃てばいいのです。

共産主義の脅威は地球規模のものです。共産主義が1つの地域で進出に成功すれば、他のすべての地域が破壊される恐れがあります。アジアで共産主義に譲歩、あるいは降伏することは、同時に欧州においてその進出を阻む我々の努力を無駄にすることになります。 こうした一般的な道理を指摘した上で、アジア全般のことに限って論じたいと思います。

いま存在している状況を客観的に評価するには、その前にアジアの過去と、現在までに際立ってきた革命的な変化について、多少なりとも理解しておかなければなりません。アジア諸国の国民は、いわゆる植民地勢力から長い間搾取されてきており、フィリピンにおけるわが崇高な米国統治が指針としてきた社会正義や個人の尊厳、生活水準の改善などを達成する機会をほとんど与えられてきませんでした。そしてようやく、先の戦争に植民地主義の足かせから解放される機会を見出しました。

今、新たな機会の到来と、これまで感じることのなかった尊厳と、政治的自由に根ざす自尊心を目の当たりにしているわけです。地球の人口の半分と、天然資源の60%が集まったこの地域で、アジアの人々は物心両面で新たな力を急速に結集させており、これを用いて生活水準を向上させ、近代化の構想を確立し、自らの独特の文化的環境に適合させようとしています。

植民地化の概念に執着する人がいようといまいと、これがアジアの進む方向であり、この動きを止めることはできません。これは世界経済の辺境が移動することの当然の帰結であり、世界情勢の全体的な中心は、巡り巡って、それが始まった地域に戻るものなのです。

このような状況において、わが国としては、植民地時代がすでに過去のものになった以上、アジア諸国の国民が自力で自由な運命を形作る権利を切望しているという事実に目を背ける路線を取るのではなく、こうした基本的な進化の状況に共鳴するように、自国の政策を合わせていくことが死活に重要になります。彼らが今求めているのは、友好的な指導、理解、支援であり、尊大な指図ではありません。

尊厳ある対等であり、隷属という恥辱ではないのです。彼らの戦前の生活水準は哀れなほど低いものでしたが、戦争が終わった今、戦争の残した惨禍で、生活水準は果てしなく悪化しています。世界中のさまざまなイデオロギーはアジア人の思考にほとんど影響を及ぼしていませんし、理解もされていません。

アジアの人々が求めているのは、少しだけ多くの食を胃に入れること、少しだけまともな衣服を身に着けること、少しだけ頑丈な屋根の下で寝起きすること、そして政治的自由を求める正常な民族的欲求を実現する機会を得ることなのです。

このような政治的・社会的状況は、わが国の安全保障にとって間接的な意味しかありませんが、それは目下の計画の背景をなすものであり、我々が非現実主義の落とし穴を回避しようとするなら、それを慎重に検討しなければなりません。

わが国の安全保障により直接的な意味を持つのは、先の戦争中に起きた太平洋の戦略的潜在能力の変化です。それまでは米国の西方の戦略的国境は、文字通り、南北アメリカ大陸の境界線であり、危険にさらされた戦線の突出部として、ハワイ、ミッドウェー、グアムを経てフィリピンまでつながる島々がありました。この戦線の突出部はわが国の強力な前哨地ではなく、敵がここを通って攻撃することができる、そして実際に攻撃してきた、わが国の弱さを示す道であることが分かりました。

太平洋は隣接する陸地を攻撃する意図を持った侵略軍にとって、潜在的な進攻地域でした。この状況は我々の太平洋での勝利で一変しました。そして、わが軍の戦略的辺境は移動して太平洋全域を取り囲み、保持する限りわが国を守る広大な濠となりました。実際それは、アメリカ大陸全体と太平洋地域にあるすべての自由な土地にとっては、防御用の盾の役割を果たしています。

わが国と自由な同盟諸国が所有するアリューシャン列島からマリアナ諸島まで、アーチ状に延びる一連の島々によって、我々はアジアの海岸までの太平洋地域を支配しています。この一連の島々から我々は海軍力と空軍力によって、ウラジオストクからシンガポールに至るすべてのアジアの港を支配し、繰り返しますが、海軍力と空軍力によってウラジオストクからシンガポールまでのすべての港を支配し、太平洋に敵対的な動きが入り込むのを阻止することができます。

アジアからの略奪的な攻撃は上陸作戦になるに違いありません。進路上にあるシーレーンとその上空を統制下に置かずに、上陸攻撃を成功させることはできません。我々が海軍力と空軍力の優位と、基地を守るある程度の陸軍部隊を擁していれば、アジア大陸からわが国への、あるいは太平洋の友邦への大規模な攻撃は、すべて失敗に終わるでしょう。

こうした状況下では、太平洋はもはや潜在的な侵略者が近づく危険な通り道にはなりません。逆に穏やかな湖の親しげな様相を帯びています。わが国の防衛線は自然のものであり、最低限の軍事的努力と軍事費で維持することができます。それは、いかなる相手に対する攻撃も想定しておらず、進攻作戦に不可欠な要塞も備えていませんが、適切に維持すれば、侵略に対する無敵の防御手段となるでしょう。この文字通りの防衛線を西太平洋に維持することができるかどうかは、そのすべての部分を維持できるかどうかにかかっています。

非友好的な力によってこの防衛線が一部でも大きく破られれば、ほかのあらゆる主要部分が決定的な攻撃を受けることになるでしょう。私の知る限り、この軍事的評価に対しては、いまだにいかなる軍の指導者も異議を唱えたことがありません。だからこそ私はこれまで軍事的な緊急事として、いかなることがあろうとも台湾を共産主義者の支配下においてはならないと強く勧告してきたのです。

もしそうした事態になれば直ちにフィリピンの自由が脅威にさらされ、日本を失い、我々の西方の最前線はカリフォルニア、オレゴン、ワシントン各州の沿岸部まで後退を余儀なくさせられるでしょう。いま中国大陸で見られる変化を理解するためには、過去50年間にわたる中国人の気質と文化の変化を理解しなければなりません。

50年前までの中国は全く均質性を持たず、互いに意見が対立するいくつかのグループに分かれていました。彼らは儒教の理想である平和主義的文化の教えに従っていたため、戦争を起こすような性向はほとんどみられませんでした。ところが20世紀の初め、張作霖政権下で均質性を高める努力が行われた結果、民族主義的な衝動が生まれました。

蒋介石の指導のもと、この衝動をさらに大きく広げることに成功しましたが、それが現政権下で見事に結実し、いまでは、より支配的で攻撃的な性向を持つ統一した民族主義の性格を帯びるという事態に至っています。

こうして過去50年の間に、中国人は軍国主義的な概念と理想を持つようになりました。彼らは現在、有能な参謀と指揮官を持つ、優秀な兵士になっています。これによって、アジアに新たな強大な勢力が生み出されました。この勢力は独自の目的のためにソ連と同盟を結んでいますが、思想と手段の面では帝国主義的な好戦性を高めており、この種の帝国主義につき物の領土拡張と力の増大を渇望しています。

中国人の気質には、いかなるものであれ、イデオロギー的な概念はほとんどありません。生活水準があまりにも低く、戦争によって資本の蓄積があまりにも完全に消失させられてしまったため、大衆は絶望しており、地方の窮乏を多少なりとも軽減してくれそうな指導者であれば、誰にでも喜んで従おうとしています。

私は最初から、中国共産党による北朝鮮支援は決定的なものだと考えていました。今のところ、彼らの利害はソ連と軌を一にしています。しかし朝鮮半島だけでなく、インドシナやチベットでも近年示され、いまや南に向けられている攻撃性は、太古の昔から、征服者たらんとする者を駆り立ててきた、力の拡大への欲望の表れにほかならないと私は思います。

戦後、日本国民は、近代史に記録された中では、最も大きな改革を体験してきました。見事な意志と熱心な学習意欲、そして驚くべき理解力によって、日本人は戦後の焼け跡の中から立ち上がって、個人の自由と人間の尊厳の優位性に献身する殿堂を日本に打ち立てました。そして、その後の過程で、政治道徳、 経済活動の自由、社会正義の推進を誓う、真に国民を代表する政府が作られました。

今や日本は、政治的にも、経済的にも、そして社会的にも、地球上の多くの自由な国々と肩を並べています。世界の信頼を裏切るようなことは2度とないでしょう。最近の戦争、社会不安、混乱などに取り巻かれながらも、これに対処し、前進する歩みをほんの少しも緩めることなく、共産主義を国内で食い止めた際の見事な態度は、日本がアジアの趨勢に非常に有益な影響を及ぼすことが期待できることを立証しています。

私は占領軍の4個師団をすべて朝鮮半島の戦場に送りましたが、その結果、日本に生じる力の空白の影響について、何のためらいもありませんでした。結果はまさに、私が確信していた通りでした。日本ほど穏やかで秩序正しく、勤勉な国を知りません。また、人類の進歩に対して将来、積極的に貢献することがこれほど大きく期待できる国もほかに知りません。

かつてわが国が後見していたフィリピンについては、現在の混乱が消え、長期にわたる戦争の恐ろしい破壊の、より長い余波の中から、強く健全な国が生まれると、確信をもって期待することができます。 我々は辛抱強く理解を示し、決して彼らを失望させてはいけません。私たちが必要としているときには、彼らは私たちを失望させなかったのですから。キリスト教国であるフィリピンは、極東におけるキリスト教の強大な防波堤となっており、アジアにおいて道徳的に強いリーダーシップを発揮する無限の力を秘めています。

台湾に関して中華民国政府は、中国大陸における同国政府の指導力を大きく損なった悪意あるゴシップの大半について、行動によって反論する機会を得ました。台湾の人々は、政府機関に多数派が代表を出すという公正で賢明な政権を戴いており、政治的にも、経済的にも、社会的にも、健全で建設的な路線に沿って進んでいるようです。

以上、周辺地域について短い洞察を加えた上で、朝鮮半島での軍事衝突に話を転じたいと思います。大韓民国を支援して介入するという決定を大統領が下す前に、私はなんら相談を受けていませんでした。その決定は、わが軍が侵略者を押し戻し、その軍事力の多くを減殺したことにより、軍事的な観点から正しかったことが証明されました。わが方の勝利は決定的だったし、目的の達成は目前だったのですが、そこへ共産中国が数の上では上回る陸軍力で介入してきたのです。

この中国介入によって、新たな戦争と全く新しい状況が作り出されました。それは、北朝鮮の侵略者に対してわが軍が投入されたときには考えもしなかった状況です。そして軍事戦略を現実に即して修正するために外交面で新たな決定が求められる状況となりました。そうした決定は、いまだ下されそうもありません。

地上部隊を中国大陸に送り込むことに正気で賛成する人はいないでしょう。実際、そうしたことは、一度も検討されませんでした。しかし状況が一変した今、かつての古い敵を倒したように、この新たな敵を打ち破ることがわが国の政治目標であるならば、戦略計画の根本的な変更が緊急に迫られていたのです。私が見たところ、鴨緑江の北にいる敵に与えられた保護された聖域を無力化することが軍事上必要だったほか、戦争を進める上で、次のようなことが必要だと感じました。

第1は、中国に対する経済封鎖の強化です。第2は中国沿岸部に対する海上封鎖。第3は、中国沿岸地域と満州に対する航空偵察制限の撤廃。そして第4は台湾の中華民国軍に対する制限を撤廃し、共通の敵に対して同軍が有効な作戦を取ることができるような、兵站面での支援を行うことでした。

これらのすべての見解は、朝鮮半島に送られたわが軍を支援し、米国および同盟諸国側の無数の人命を損なうことなく、できるだけ早い時期に戦闘行為を終わらせることを意図して、職業軍人の立場で考えたものでした。軍事的な観点からみると、わが国の統合参謀本部を含め、朝鮮戦争に関わったほぼすべての軍事指導者が、過去にこれと同じ見解を持っていたと私は理解しています。

にもかかわらず、こうした考えを抱いたことで、私は主に海外の素人筋から、厳しく批判されてきました。 私は増援を求めましたが、援軍は得られないことを知らされました。もしも鴨緑江の北に敵が建設した基地を破壊することが認められないということであれば、もしも台湾にいる約60万の友好的な中国軍を利用することが認められないということであれば、もしも中国共産党が外部から援助を受けられないようにするために中国沿岸を封鎖することが認められないということであれば、そして、もしも大規模な増援を送ってもらえる見込みがないということであれば、軍事的にみて勝利を妨げたのは司令部の態度であると私は明言しました。

途切れることなく作戦行動を続ければ、韓国でも、わが軍の補給線が強く敵の補給線が弱い周辺地域では、敵を抑えることができたでしょう。しかし、もし敵が全軍事力を用いた場合、せいぜい我々に期待できるのは、わが軍をひどく消耗させ続ける、決定力に欠けた軍事作戦だけだったのです。

この問題の解決に不可欠な新たな政治判断を、私は絶えず要求してきました。 私の立場を歪曲させるための努力も行われました。要するに私は、好戦主義者であると言われてきたのです。これほど、事実から遠いことは、ほかにありません。私は、いま生きている誰よりも、戦争については知っています。私にとっては、これほど嫌悪すべきものは、ほかにありません。

私は長年にわたり、 戦争の完全な撲滅を訴えてきました。敵も味方も破壊するがゆえに、戦争は国際紛争の解決手段としては無用なものになってしまったからです。実際、1945 年9月2日、日本が戦艦ミズーリ号上で降伏文書に署名した直後、私は次のように公式に警告しました。

「人間は、有史以来、平和を求めてきた。国家間の紛争を防ぐ、あるいは解決する国際手続きを作り出すため、さまざまな方法が時代を超えて試されてきた。個々の市民に関しては、当初から実現可能な方法が見つかった。しかし、より広い国際的な広がりを持つ手段の仕組みは、一度も成功したことがなかった。

軍事同盟、勢力均衡、国際連盟など、すべてが次から次へと失敗に終わり、残されたのは戦争という厳しい試練を経る道だけだった。いまや戦争の徹底的な破壊力によって、この選択肢も閉ざされてしまった。

今が最後のチャンスだ。もっと優れた公平な制度を我々が作り出さなければ、ハルマゲドンは玄関口に迫ってくるだろう。問題は、基本的に神学的なものであり、過去2000 年の科学、芸術、文学、そして物質的、文化的発展の、比類のない前進と同調する、精神的再生と人間性の改善に関係している。肉体を救おうとするなら、それは精神を通してである。」

しかし、いったん戦争が我々に押し付けられれば、これを迅速に終わらせるためには、使えるすべての手段を使う以外に選択肢はありません。戦争の目的は、まさに勝利であり、中途半端な状態を長引かせることではありません。戦争では、勝利に代わるものはありません。

さまざまな理由を掲げて、共産中国と宥和しようとする人がいます。彼らは、歴史の明白な教訓に対して盲目なのです。なぜなら、宥和政策は新たな、さらに血なまぐさい戦争を招くだけだということを、歴史ははっきりと強調して教えているからです。

このような結果をもたらす手段が正当化されるような例、 宥和政策が見せかけの平和以上の成果をもたらした例は、歴史上1つもありません。脅迫と同様、宥和政策は、より大きい新たな要求を次々に招く原因となり、最終的には脅迫と同じように、暴力が唯一の取りうる選択肢となってしまいます。

私は、兵士たちから聞かれました。「なぜ戦場の敵に、軍事的な有利さを明け渡してしまうのですか」私は答えられませんでした。 紛争が中国との全面戦争にまで拡大するのを避けるためだと云う人がいるかもしれません。また、ソ連の介入を防ぐためだと云う人もいるでしょう。どちらの説明も正当な根拠があるとは思えません。

なぜなら、すでに中国は全兵力を投入して交戦しているからであり、ソ連は必ずしも自らの行動を我々の動きに合わせてくれようとしないからです。新たな敵も現れるでしょう。彼らはコブラのように、世界的な規模でみて、自分たちの軍事その他の力が相対的に有利であると感じれば、すぐに攻撃を仕掛けてくるでしょう。

朝鮮での悲劇は、その国境線の中に軍事行動が限定されていることによって、さらに高められています。 我々が救わんとするこの国が、海と空からの大規模爆撃による破壊に苦しんでいるのに、敵の聖域は、そうした攻撃や破壊から完全に守られているのです。

世界中の国で、これまでのところすべてを賭して共産主義と戦ってきたのは韓国だけです。韓国人の勇気と不屈の精神は見事であり、筆舌に尽くせません。 彼らは奴隷になるよりも死の危険を冒すことを選びました。彼らの私に対する最後の言葉は「太平洋を見捨てないでほしい」でした。

私は戦地で戦う皆様の息子たちを朝鮮半島に残してきたところです。彼らはそこであらゆる試練に耐えてきました。彼らはあらゆる意味において優れていると、私は今、なんのためらいも無く、皆様に報告することができます。 私は彼らを守り、この残酷な戦闘を、誇り高く、最小限の時間と人命の犠牲で終らせるよう、常に努力してきました。流血の増大は、私に、この上なく深い苦悩と不安をもたらしました。

私はこのような勇ましい兵士のことをしばしば思い起こし、いつも祈りをささげることになるでしょう。 私は今、52年にわたる軍務を終えようとしています。今世紀に入る前に私が陸軍に入隊したとき、それは私の少年時代の希望と夢が成就した瞬間でした。

私がウェストポイントで軍人になる宣誓をして以来、世界は何度も向きを変え、希望や夢はずっと前に消え失せてしまいました。しかし、当時兵営で最も人気が高かったバラードの一節を今でも覚えています。

それは誇り高く、こう歌い上げています。「老兵は死なず。ただ消え去るのみ」と。そしてこのバラードの老兵のように、私も今、私の軍歴を閉じ、消え去ります。神が光で照らしてくれた任務を果たそうとした1人の老兵として。 さようなら。

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする