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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

日清戦争(1)朝鮮を巡る日清の争い

2022-03-31 06:24:47 | 日記

「日清戦争」は1894年(明治27年)から1895年(明治28年)にかけて、李氏朝鮮の地位と朝鮮半島の権益を巡り、日本と清国の間で行われた戦争です。朝鮮半島と遼東半島、遼河平原で陸軍が、黄海で海軍が勝利し、山東半島の威海衛を攻略「日清講和条約」(下関条約)の調印によって終結しました。

日清戦争の交戦領域

1868年(明治元年)明治新政府は我が国の王政復古を伝える外交文書を朝鮮に届けますが、朝鮮は江戸時代の形式と異なる文書であるとして受け取りません。朝鮮では摂政の大院君が進めた「衛正斥邪」運動が高まる中で、1866年フランス極東艦隊との交戦に勝利し(丙寅洋擾)、同年アメリカの艦隊を退けたことで(辛未洋擾)自信を深め、鎖国と攘夷を続けていました。1873年(明治6年)日本国内では「征韓論」が大きな政治問題になります。

1880年代前半の朝鮮は清の冊封国の立場の維持に重きをおく守旧派と朝鮮の近代化を目指す開化派の対立が続き、日本の朝鮮進出を警戒した清が朝鮮に西洋諸国との条約締結を促し、1882年の「米朝修好通商条約」をはじめ英独とも条約を締結しました。

1882年(明治15年)7月23日開国近代化に否定的な興宣大院君らの煽動と民衆の反日感情によって、首府漢城で開国派の政権と日本に対する大規模な反乱が起こり、日本の軍事顧問が殺害され日本公使館が襲撃されました(壬午軍乱)。

日清両国がともに朝鮮に出兵し、清が朝鮮に軍隊を駐留させる一方、8月30日日朝間で「済物浦条約」が締結され、日本公使館警備の兵員の駐留が決められました。清の方針に従う穏健開化派を清が、これを不当とする急進開化派を日本が支援します。

1884年(明治17年)清仏戦争が勃発して朝鮮に駐留する清軍の半数が引揚げた12月4日、急進開化派が日本公使竹添進一郎の支援で穏健開化派政権打倒のクーデターをおこし、4日夜竹添公使は日本の警護兵百数十名を連れて国王保護の名目で王宮に参内しました(甲申政変)。

清の軍事介入で6日にクーデターは失敗しましたが、日清両軍が衝突して双方に死者が出ました。日本の目論見であった日清両国が協調して朝鮮の近代化を図り、日清朝3国で欧米列強に対抗しようとする計画が挫折し、日本の影響力が大きく低下します。

1885年4月18日甲申政変で緊張状態を生じた日清両国は、事件の事後処理と両国間の緊張緩和のため「天津条約」に調印し、日清両軍の朝鮮からの撤退と、以後の朝鮮出兵の際の事前通告および事態収拾後の即時撤兵を決めます。

ロシアは東欧でのかねてからの南下政策が阻止されて極東で南下に乗り出し、ロシアが朝鮮半島情勢に関与し出すとその動きに反発したのがイギリスです。1885年4月15日イギリスはロシアの機先を制して朝鮮半島の南の沖にある巨文島を占領し、ロシアはウラジオストク防衛のために朝鮮半島制圧に乗り出します。1891年ロシアはシベリア鉄道の建設を開始し、1897年東の終点のウラジオストクからハバロフスクまでのウスリー線がまず完成しました。

1894年(明治27年)1月東学党の大規模反乱が勃発し、5月末には数万の反乱軍が各地で政府軍を破り全羅道全州を占領します。閔氏政権は5月30日に清国に援軍を要請、日本も天津条約に基づいて6月2日に日本人居留民保護のための兵力を派遣しました。

朝鮮政府は6月11日に反乱を終結させて日清両軍に撤兵を求めますが、日本政府は日清共同による朝鮮内政の改革案を15日清国に提示し、清国が改革案を拒絶したので日本は単独での決行を宣言、24日に清国政府に絶交書を送り追加部隊を派遣、6月30日時点で清国兵2,500名に対し日本兵8,000名が首府漢城周辺に集結しました。

7月14日日本政府は二度目の絶交書を清国側へ送ります。イギリスは日本が親英政策を採ると判断して16日「日英通商航海条約」に調印し、日本の背中を押します。日本政府は翌17日に清国との開戦を決めて23日朝鮮王宮を占拠し、清国からの独立と清国兵追放の意思を高宗から引き出し、この大義名分によって、25日の海戦と28日の陸戦で首府周辺を勢力下におき、8月1日清国に宣戦布告しました。

8月に朝鮮半島北上を開始した陸軍は9月中に朝鮮半島を制圧して鴨緑江を越え、11月に遼東半島の旅順を占領、翌1895年(明治28年)3月上旬までに遼東半島全域を占領しました。日本海軍は1894年9月の黄海の艦隊決戦に勝利して陸軍の海上補給路を確保し、1895年2月には陸海共同で山東半島の威海衛を攻略して黄海の制海権を掌握します。日本軍の中国本土への上陸が可能となり、清国の首都北京と天津の一帯は丸裸同然となって、清国側は戦意を失い1895年3月20日から日清両国の間で講和交渉が始まります。

4月17日に調印された日清講和条約で日本は清国に李氏朝鮮の独立を認めさせ、台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲させ、賠償金として2億両(1両=銀37g)を支払わせた他、日本に対する最恵国待遇も承認させました。しかし講和直後の23日に露仏独三国から日本に対する要求が出て、日本は遼東半島を手放さざるを得ないことになりました(三国干渉)。5月下旬に日本軍は台湾に上陸、11月下旬までに台湾全土を平定します。

1895年4月17日に調印された下関条約

我が国では清との開戦が困惑と緊張をもって迎えられましたが、勝利の報が次々に届くと国内は湧き立ち、従軍記者を送った「大阪朝日新聞」「中央新聞」が忠勇美談で発行部数を伸ばし、国民の間に新聞や雑誌で世界を知る習慣が定着しました。

日清戦争は近代日本が初めて経験した大規模な対外戦争で、この体験を通じて我が国は近代的国民国家に脱皮しました。戦争遂行の過程で国家は人々に国民としての義務と貢献を求め、人々は国家の一員である認識を深めました。明治天皇と大本営の広島移転は国民に天皇親征を強く印象づけ、国家の統合意識の形成に重要な役割を果たしました。

戦時経済は開戦当初の悲観的な見通しとは異なり大きな問題を生じることなく、その要因は日清戦争が比較的短期かつ小規模で兵役適齢層の動員率が5.7%に留まり、その多くが10か月以内に復員できたためです。当時の日本は過剰労働力が少なく、農業でその傾向が強く出征兵士留守宅への農作業の支援で、戦時下の農業生産額はかえって増加しました。

最も懸念された軍需品の輸入増による国際収支は、戦費の約1/3が外国に支払われ必需品の輸入が抑制されましたが、輸出が伸び、戦地での支払いに日本貨幣が円滑に流通し、結果的に大きな影響はありませんでした。商業への影響は民需品の物流が滞ったのを除くと大きくなく、工業は兵器関連業や綿糸紡績業などの兵站にかかわる産業の特需で活況を呈しました。

戦費は2億3,340万円(臨時軍事費特別会計支出2億48万円、一般会計臨時事件費79万円・臨時軍事費3,213万円)で、開戦前年度の一般会計歳出決算額8,458万円の2.76倍に相当しました。臨軍特別会計収入額は2億2,523万円(1894年6月1日〜1896年3月末日)で、支出額構成比は陸軍費が82.1%、海軍費が17.9%、臨軍特別会計の主な内訳は公債金51.9%、賠償金35.0%、1893年度の国庫剰余金10.4%でした。1893年度末の全国銀行預金額は1億152万円で、軍事公債1億1,680万円の引き受けは容易でなく、国は国民の愛国心に訴えて地域別割り当公債募集を推進しました。

1893年(明治26年)陸軍は戦時編制を改めます。翌明治27年には野戦七箇師団と兵站部、守備諸部隊など、人員220,580人、馬47,221頭、野戦砲294門を動員できる態勢を整えました。日清戦争では最終的に計画を上回る240,616人が動員され、兵員174,017人 (72.3%) が国外に出征し、文官など6,495人、国外で運搬に従事する軍夫]10万人以上が動員されました。

陸軍は日清戦争で2つの大きな問題を露呈します。その1つは兵站で、陸軍がモデルにした仏独陸軍は物資輸送に馬を用いましたが、日本陸軍は馬と馬糧の調達に制約があり、物資の運搬を人の背負子(しょいこ)と一輪車、大八車に頼ります。朝鮮では大八車は用意されず、現地徴発の朝鮮人人夫と馬はしばしば逃亡したため、兵站部所属の軍夫では足りずに、戦闘部隊所属の軍夫も駄馬を引き背負子で物資を運搬し、ときに戦闘員も物資を運搬しました。

兵站の問題はこの後も日本陸軍の弱点として持ち越され、兵員が必要とする糧食が最前線にまったく供給されない状況が多くの軍歌で歌われています。20世紀の第二次世界大戦に至っても兵站の問題は改善されず、陸軍の戦死者の大部分は飢餓か栄養失調に基づく戦病死でした。

もう1つは防寒対策です。当時の陸軍は冬季装備をもっておらず、大陸での越冬や威海衛攻略戦で多くの兵士と軍夫が凍傷になり、このため戦後防寒具の研究と冬季訓練が行われ、後年、対ロシア戦を想定した訓練中に起こったのが八甲田雪中行軍遭難事件でした。

日本はこの戦争を転機に国民国家に脱皮し経済が飛躍しました。戦後は藩閥政府と議会政党が提携して積極的な国家運営を図り、懸案であった各種政策の多くが実行され、産業政策や金融制度、税制体系など以後の政策の原型が作られ、清の賠償金を元に軍備を拡張して日露戦争を迎えることになりました。

清は日清戦争に敗れ、国際的な威信を失墜して東アジア情勢を激変させ、朝鮮には宗藩関係を解消したことで大きな影響を与えました。

朝鮮は三国干渉で日本の威信が失墜した6月に第2次金弘集内閣が崩壊、1895年10月8日に乙未事変(閔妃暗殺事件)が起こって大院君が執政に擁立され、親露派が一掃されて第4次金内閣が国内改革を再び進めました。

翌1896年1月「衛正斥邪」を掲げる守旧派が政権打倒を目指して挙兵します。王宮の警備が手薄になったのを突いて政権から追われていた親露派がクーデターを決行、閔妃暗殺事件で后を殺害された高宗とその子供をロシア水兵の助けでロシア公使館に移し、2月11日新政府を樹立しました(露館播遷)。

こうして日本の目指した朝鮮の単独支配は日清講和条約の調印から1年も経たないうちに挫折しました。1897年10月12日高宗は皇帝即位式を挙げ、国号を「朝鮮」から「大韓」に改め「大韓帝国」の成立を宣言します。

 

日清戦争(2)戦闘経過 に続く。

 


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大日本帝国憲法

2022-03-17 06:40:12 | 日記

大日本帝国憲法は明治22年(1889年)2月11日に公布、明治23年(1890年)11月29日に施行された憲法です。大日本帝国憲法の施行期間は昭和22年(1947年)5月2日までの56か年5か月4日(20,608日)でした。

大日本帝国憲法「上諭」1頁目

大日本帝国憲法「上諭」2頁目

大日本帝国憲法「御名御璽と大臣の副署」

大日本帝国憲法「本文」1頁目

慶応3年10月14日(1867年11月9日)江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が明治天皇に統治権の返還を表明し、翌日天皇はこれを勅許(大政奉還)、同年12月9日(1868年1月3日)江戸幕府は廃され、新政府(明治政府)が設立されました(王政復古)。

明治2年6月17日(1869年7月25日)の「版籍奉還」で藩主は土地と人民の統治権をすべて天皇に奉還し、明治4年7月14日(1871年8月29日)の「廃藩置県」で藩は名実共に消滅、国家権力が中央政府に集中されました。

新政府は版籍奉還と同時に堂上公家と藩主を華族とし、武士を士族、その他の人民を「大日本帝国臣民」として平民にしました。明治5年(1872年)の徴兵制で士族の軍事的職業の独占はなくなります。

王政復古の大号令によって由利公正、福岡孝弟、木戸孝允らは、公議輿論の尊重と開国和親を基調とした新政府の基本方針をまとめました。慶応4年3月14日(1868年4月6日)明治天皇がその実現を天地神明に誓った五箇条の御誓文です。

政府は御誓文を具体化するため、同年閏4月21日(1868年6月11日)政体書を公布しました。三権分立の考えを入れて七官を設置し、そのうちの一官を公議の中心となる立法議事機関の議政官とし、議政官は上局と下局に分かれ、上局は議定と参与で構成し、下局は各藩の代表者1名から3名の貢士としました。

明治2年3月(1869年4月)には新たに立法議事機関として公議所を設置し、これは各藩の代表者1名で構成されるものでしたが、9月には集議院に改組されます。明治4年7月14日(1871年8月29日)廃藩置県が実施されると太政官官制が改革され、太政官は正院・左院・右院から成るものとし、集議院は左院に置き換えられ官撰の議員による立法機関となりました。

「明治六年政変」で征韓論の争議に敗れて下野した副島種臣・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らは明治7年「民撰議院設立建白書」を提出します。この建白書では新たに民選議員で構成される立法議事機関を開設し、官僚による専制政治を止めることが国家の維持と国威発揚に必要であるとしました。

これを契機に薩長藩閥による政権運営に批判が噴出し、自由民権運動となって各地で政治結社が名乗りを上げます。不平士族による反乱が頻発し、明治7年の佐賀の乱、明治9年の神風連の乱など、最終的に明治10年の西南戦争に至りました。

明治8年4月14日立憲政体の詔書が出され、元老院、大審院、地方官会議を置き、段階的に立憲君主制に移行することが宣言されます。地方の政情不安に対処して明治11年府県会規則を公布し、各府県に府県会を設置しました。これが日本で最初の民選の地方議会です。

自由民権運動ではさまざまな憲法私案(私擬憲法)が各地で盛んに提唱されましたが、政府は独自に大日本帝国憲法を起草し、明治8年の讒謗律、新聞紙条例、明治13年の集会条例、明治20年の保安条例に至るまで、国民の言論と政治運動を弾圧しました。

私擬憲法には政府による言論と政治活動の弾圧が背景の人権に関する詳細な規定が共通しています。天皇の地位に関しても自由民権家は明治維新の尊皇家でもあったため、国民の権利、利益の擁護者の地位を一様に天皇に仰ぎみています。

明治9年9月6日明治天皇は「元老院議長有栖川宮熾仁親王へ国憲起草を命ずるの勅語」を下し、元老院はこの諮問に応えて憲法取調局を設置、フランスやベルギーの大陸法を基盤にして治罪法(刑事訴訟法)、民法、共通法などの構築作業が展開されました。これに対しイギリス、ドイツ派は1877年に日本赤十字社の前身の博愛社を設立し、駐ドイツ帝国公使青木周蔵はドイツ人ヘルマン・ロエスレルを日本に送り込む動きを見せます。

明治13年元老院は「日本国国憲按」を提出、大蔵卿大隈重信も「憲法意見」を提示しました。日本国国憲按は皇帝の国憲遵守の誓約や議会の強権を定めるベルギー憲法(1831年)やドイツ帝国統一以前のプロイセン王国憲法(1850年)の影響を強く受けていたため、岩倉具視、伊藤博文らの反対に遭い、大隈の憲法意見も採択されるには至りませんでした。

明治14年8月31日伊藤博文を中心とする勢力は「明治十四年の政変」で大隈を罷免し、その直後に御前会議で国会開設を決定しました。9月18日には主だった官僚や政治家をメンバーとする独逸学協会を設立し、ドイツ帝国式立憲主義推進の立場を強めます。

10月12日の「国会開設の勅諭」では明治23年の国会開設が約束され、その組織や権限を政府が決めること、これ以上の議論をしないよう政治休戦すること、内乱を企てる者は処罰すると警告します。この勅諭によりドイツ勢が政局の主導権を得ました。

明治15年3月独逸学協会名誉会員で参議の伊藤博文らは政府の命令でヨーロッパに渡り、ドイツ帝国系立憲主義、ビスマルク憲法の理論と実際について調査を始めました。伊藤はその結果ドイツ帝国の憲法体制が日本に最も適すると信ずるに至り、明治16年に帰国して井上毅(いのうえこわし)に憲法草案の起草を命じ、憲法制定と議会開設の準備を進めます。

伊東博文

明治18年太政官制を廃し内閣制度が創設されて伊藤博文が初代内閣総理大臣となり、明治19年井上は政府の法律顧問となったヘルマン・ロエスレルやアルバート・モッセなどの助言を得て憲法草案を起草します。

井上毅

明治20年5月井上は憲法草案を書き上げ、伊藤、井上、伊東巳代治、金子堅太郎らが、夏島(横須賀市)にある伊藤の別荘で検討を重ね、「夏島草案」をまとめました。伊藤は天皇の諮問機関として枢密院を設置し、自ら議長となってこの憲法草案の審議を行います。枢密院での審議は明治22年1月に終了しました。

明治22年2月11日「大日本憲法発布の詔勅」が出され、大日本帝国憲法が公表されました。この憲法は欽定憲法として発布され、皇室の家法である皇室典範も定められます。議院法、貴族院令、衆議院議員選挙法、会計法なども同時に定められ、第1回帝国議会が開会された明治23年11月29日に施行されました。

国民は憲法の内容が発表される前から憲法発布に沸き立ち、当時の自由民権家や新聞各紙も大日本帝国憲法を高く評価して憲法発布を祝いましたが、福澤諭吉は人民の精神の自立を伴わない憲法発布や政治参加に不安を抱き、中江兆民も「玉か瓦か、まだその実を見るに及ばずして、まずその名に酔う」と溜息をつきます。

大日本帝国憲法には「内閣」「内閣総理大臣」の規定がありません。これは1871年のプロイセン憲法を下敷きにしたためです。ルドルフ・フォン・グナイストは伊藤に対して「イギリスのような責任内閣制度を採用すべきではない。いつでも大臣の首を切れる首相を作ると国王の権力が低下する。あくまでも行政権は国王や皇帝の権利である」と助言しました。

大日本帝国憲法は7章76条からなります。第1章 天皇では、天皇主権、皇位継承、統治大権、官制大権及び任免大権、統帥大権、編制大権、外交大権、戒厳大権が定められ、第2章 臣民権利義務では、公務への志願の自由、兵役の義務、居住・移転の自由、言論・出版・集会・結社の自由、非常大権が定められました。続いて第3章 帝国議会、第4章 国務大臣及枢密顧問、第5章 司法、第6章 会計、第7章 補則と続きます。

言論の自由、結社の自由や信書の秘密などが、天皇から臣民に与えられた「恩恵的権利」として保障されましたが、憲法発布以前に自由民権運動を抑圧する法令がいくつか出されたことを考えると、憲法で人権が保障された点に意義があり当時としてはかなり先進的な憲法でした。

帝国議会は皇族、華族及び勅任議員からなる貴族院と公選された議員からなる衆議院で構成され、帝国議会は法律の協賛権を持ち、臣民の権利、義務など法律の留保が付された事項は帝国議会の同意がなければ改変できませんでした。また帝国議会は予算協賛権を有し、予算審議を通じて行政を監督する力を持ち、衆議院が予算先議権を持つ以外では貴衆両院は対等で、上奏権や建議権も限定付きながら与えられました。

内閣や内閣総理大臣に関する規定は憲法ではなく内閣官制で定められ、内閣総理大臣は国務大臣の首班ですが、国務大臣の任免権がないため明文上の権限は強くありません。しかし内閣総理大臣は各部総督権を有して機務奏宣権(天皇に裁可を求める奏請権と天皇の裁可を宣下する権限)と国務大臣の奏薦権(天皇に任命を奏請する権限)を有し、実質的には大きな権限を持ちました。

司法権は天皇から裁判所に委任された形をとり、これが司法権の独立を意味しました。また、行政訴訟の管轄は司法裁判所にはなく、行政裁判所の管轄に属していました。

大日本帝国憲法では条文に先立つ上諭で「朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ賤(ふ)ミ国家統治ノ大権ハ朕ガ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝ル所ナリ」と述べ、憲法第1条で「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定し、第二条で「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」としました。

1882年(明治15年)の軍人勅諭で「古は天皇自らが兵を率い、中世になって古の徴兵は武士に代わり、兵馬の權が武士の棟梁に歸し、世の亂と共に政治の大權も其手に落ちて、七百年の間武家の政治になった」と我が国の兵馬の権と政治の大権の移り変わりをありのまま述べていますが、大日本帝国憲法ではこの兵馬の権と政治の大権の移り変わりには触れず「朕ガ之ヲ祖宗ニ承ケテ」と万世一系で貫ぬいています。

天皇による法規の制定、条約の締結の権限が議会の制約を受けない例は、他の立憲君主国にありません。しかし運用上天皇が単独で権限を行使することはなく内閣が天皇の了解を得て決断を下すのが常で、帝国議会が可決した法律案を天皇が裁可しなかったことはなく事実上帝国議会が唯一の立法機関でした。ただし憲法改正の発案権は天皇のみにありました。

統帥権を独立させ、陸軍・海軍は議会や政府・内閣に対し一切責任を負わないものとされました。統帥権は陸軍参謀本部・海軍軍令部の専権とされ、軍令機関は統帥権に基づいて帷幄上奏権を有すると解し、軍部大臣現役武官制とともに軍部の政治力の源泉となりました。昭和に入ると軍部がこの統帥権の「陸海軍は天皇に直属する」規定を盾に、政府の指示に従わず満州事変など政府を無視して暴走することになります。

皇室自律主義を採り、皇室典範などの重要な憲法的規律を憲法から分離して議会に関与させず、宮中(皇室、宮内省、内大臣府)と府中(政府)の別が原則でしたが、内大臣が内閣総理大臣の選定に関わるなど大きな政治的役割を担い、しばしば宮中から府中への線は踏み越えられました。

国務大臣や帝国議会、裁判所、枢密院、陸海軍などの国家機関が各々独立して天皇に輔弼する責任を持つ形をとったため、どの機関も他に優越することができず、権力の分立を避けるためには憲法外の実質的な統合者が必要となり、枢密院など内閣を掣肘する議会外機関を置き、元老、重臣会議、御前会議など法令に規定されない役職や機関が多数設置されました。

明治維新までの幕藩体制下では国民が国家に直接結びついてはおらず、天皇を中心に国民を一つにまとめる必要がある一方、議会に力を持たせたバランスの取れた憲法を制定する必要がありました。大日本帝国憲法が公布された2月11日は「建国記念の日」になっています。

「憲法草創之處」碑 横浜市金沢区

我が国は第二次世界大戦に敗れ、大日本帝国憲法は否定されました。大日本帝国憲法での憲法改正の規定は第73条で「將來此ノ憲󠄁法ノ條項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝國議會ノ議ニ付スヘシ」となっていて、「日本国憲法」はこの大日本帝国憲法の第73条によりに改正されたのですが、この憲法を公布した主権者を改正によって変更することは法的にできないとする論があります。

憲法改正を大日本帝国憲法に定められた改正手続きによったのは占領下での超法規的な処置であって、日本国憲法と大日本帝国憲法との間に法的連続性はなく、日本国憲法は新たに制定された憲法であるという解釈が取られています。

 

 


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大久保利通

2022-03-03 06:25:50 | 日記

西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允を維新の三傑と呼びます。西郷と大久保は薩摩の出身、木戸は長州の出身です。三傑が徳川幕府の大政奉還、明治維新の幕開けに果たした役割は極めて大きいのですが、西郷の果たした役割は明治維新までで、大久保と木戸は岩倉使節団に参加して欧米の国々を訪れた知見を基に、明治新政府の指導者として我が国の近代化に尽力しました。

我が国を近代国家に創り上げた功績は三傑の中でも、事実上、すべての政治権力を掌握して独裁的にものごとを処理した大久保に帰しますが、惜しくも道半ばにして暗殺されました。政治家としての資質にもっとも恵まれ、冷徹な判断力と信念をもつ大久保なくしては我が国の将来はなかったでしょう。

大久保利通

大政が奉還された明治元年3月14日(1868年4月6日)明治天皇が天地神明に誓う形で公卿や諸侯に示した「広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ」に始まる「五か条の御誓文」が明治政府の基本方針です。明治天皇はまだ幼少で御誓文の草案は由利公正、列侯会議の盟約書として福岡孝弟が本旨を改め、木戸が加筆しました。

天皇を新しい権力の主体として極めて開明的な語句で新政権の性格を印象づけましたが、翌15日は江戸総攻撃の予定日でした。慶応4年9月8日(1868年10月23日)元号が明治に改められ、明治元年は旧暦1月1日に遡って適用されます。

明治元年の集議所、2年の公議所は、木戸が国会の下院に当るものを構成したのですが、江戸時代の封建意識そのままの各地の不平士族たちに自由に発言させるのは、大久保が廃止すべしと断言するほど非現実的なものになりました。

大久保が版籍奉還の必要を認識したのは慶応2年(1867年)の末で、木戸もその必要性を慶応3年秋に大久保に相談し、薩長両藩の二人の指導者の意見が一致しました。しかし藩主に土地と人民を返すように説得するのは極めて難しく、特に薩摩や長州の藩主は維新に功績こそあれ、その結果として得た権利を失おうとは思ってもいません。

「版籍奉還」は、まず、薩長両藩主が手本を示さなければできません。やっと説得が実を結び、薩摩、長州、土佐、肥前4藩の藩主から版籍奉還の願が出されたのは明治2年(1869年)1月20日でした。6月その他の諸藩も続きます。
版籍奉還で「知藩事」に任命された旧藩主は、官吏として元の領地を支配し続け殿様のままでした。この体制を改めるためには藩そのものを廃止し、旧藩主を元の領地から引き離さなければなりません。大久保は木戸とともにこの計画に臨みますが、地方では中央政府への不満が渦巻いていて、なかでも薩長両藩でその声が高く、長州藩では明治3年に奇兵隊が反乱をおこし、この状況でさらに改革をすすめることは不可能でした。

明治3年10月大久保は公家の岩倉具視に機密の提案をし、11月岩倉が勅使として下向し鹿児島で島津久光と西郷に、山口で毛利敬親に、上京して政府に力を貸すよう求めました。この勅命で薩長の不満が緩められ、明治4年2月薩摩、長州、土佐の兵1万名を東京へ集めて「御親兵」とすることができ、明治政府は軍事力を手にしました。西郷もこの御親兵の創設に尽力しています。

明治4年7月14日「廃藩置県」の命令が出されます。明治2年の版籍奉還は藩主が願い出たのですが、廃藩置県は政府の命令です。明治政府がそれだけ力をつけたのでした。廃藩置県で藩主たちは東京に住むことになり、県には政府から県令(知事)が派遣されます。

明治5年10月頃大久保が肥前藩出身の大木喬任に示した政府の方針は「政府は節約をすること、天皇をよく導くこと、無駄な役員は整理すること、民部省と大蔵省、陸海軍の基礎、会計、民政、外国交際、学校を掌握すること、困っている人を救うこと、有能な人材を用いること」で、国内政治と財政を掌握するのがまず大切だとする大久保の現実政治家らしい面目がよく表われています。大久保は大蔵卿となります。

廃藩置県後に政府の指導者を海外の視察に送る使節団の派遣が具体化しました。岩倉具視を全権大使とし木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳を副使とする「岩倉使節団」一行が明治6年11月12日日本を発ちアメリカに向かいます。派遣された官吏は48名、留学生をいれると100名にのぼりました。留守政府は三条実美、西郷隆盛、大隈重信、板垣退助、山県有朋、井上馨らで、出発にあたって洋行組と留守組は留守中に新しい政策は行わない約束をしました。

使節団はまずアメリカへ渡ってその後ヨーロッパヘ回り、初めてみる西欧国家は一行に強い印象を与えました。大久保はイギリスでリバプールの造船所、マンチェスターの木綿工場、ダラスゴーやニューキャスルの製鉄所、エジンバラの紙すき工場、ブラッドフォードの絹織物と毛織物工場、バーミンガムのビール工場などを見学し、これらの工場を見て舌を巻く思いでした。日本の近代化を考えていた大久保はイギリスの産業のすばらしさに感歎し、ドイツで首相のビスマルクの言葉に耳を傾けます。

1873年3月15日ビルマルクは一行を招き、国際政治における自らの経験を教訓として語りました。いくつもの小国に別れていたドイツはビスマルクがプロシアの富国強兵に努め、1871年ドイツを統一しましたが、イギリス、フランス、アメリカなどに遅れて近代化に乗出したドイツの苦心談は一行に深い感銘を与えました。

イギリスの産業とドイツの政治に学ぶところが多かった大久保のところへ、留守政府から帰国をうながす指令がきます。留守政府の内部で指導者間の対立がおき、外交上の問題が発生していました。なかでも問題だったのは征韓論で、大久保は明治8年5月26日に日本へ戻りましたが、参議ではなく大蔵卿であったため閣議に出席できず、大久保に続いて7月下旬には木戸が、9月13日には岩倉らが帰国しました。

欧米諸国を見た使節団は我が国が外国出兵で無駄な出費をする時ではなく、国内産業を興す方が大切だと考えていました。彼らの話合いで大久保が再び参議に就くことになり、10月14日の閣議で板垣、江藤新平は西郷を支持、岩倉や木戸は大久保に口を添えます。
翌日も会議が開かれ太政大臣三条実美が西郷の朝鮮への派遣を決め、期日は未定としました。大久保と木戸は辞表を出し、岩倉も政府へ出仕しなくなります。征韓はまさに決ったかに見えましたが三条が病に倒れてしまいます。この時大久保が右大臣の岩倉に三条の代理を務めさせ、岩倉から征韓反対を天皇に奏上して天皇がこれを認めるよう秘策を練ります。

事態は大久保の筋書きどおり運んで明治天皇は征韓反対を受入れ、西郷、江藤、板垣、後藤象二郎、副島種臣の五人の征韓論の参議は辞職しました。西郷は郷里の鹿児島へ帰り、彼を慕う人々は続々と職を辞して東京を去りました。これが「明治六年政変」です。この危機が過ぎてみると大久保は政府第一の実力者になっていました。
外遊中岩倉は「こんなに西洋諸国が進んでいるのでは、日本は一体いつになったら追いつけるのだろう」と溜息をついたと云われます。明治8年11月大久保の進言で内務省ができ、大久保が初代内務卿となります。内務省は地方行政や警察を掌握し、勧業、警保、戸籍、駅逓、土木、地理の六つの部門を構成して知事の任免も行いました。

大久保はこの内務省によって日本に新しい産業を興していきます。東京の新宿の農事試験場を広げて牛や羊の飼育や農具、養蚕、製茶などの実験を行い、三田にあった15haもある広大な薩摩藩邸を植物の試験場として西洋野菜や果物を実験的に育てました。駒場は徳川氏の猟場でしたが農学校をつくり、後に東京大学農学部になりました。

牛や羊の飼育は日本にはなかった牧畜を盛んにするためで、養蚕と製茶に力を入れたのは生糸と茶が日本の二大輸出品であったからでした。農地開拓にも力を入れ福島県に安積用水をつくり、千葉県に大きな牧場を開き後に皇室牧場となりました。

世界遺産となった「富岡製糸場」は明治5年10月に官営模範工場の一つとして操業を開始しましたが、群馬県の新町に製糸工場から出る屑糸や製糸できない屑繭を紡いで絹糸(紡績絹糸)をつくる「紡績所」をつくり、東京の千住に毛織物をつくる「製絨所」をつくりました。これらはいずれも官営工場で日本の資本主義の発達には、政府の力が大きかったのです。

世界で最初の「万国博覧会」は1851年の第1回ロンドン万博で、我が国からも個別の参加はありましたが、1876年アメリカのフィラデルフィア、1878年フランスのパリの万国博覧会には日本国として参加し、日本の産物を出品しました。大久保は1877年(明治10年)に東京上野で第一回の「内国勧業博覧会」を開きます。

大久保が内務省を設けた目的の一つは殖産興業でしたが、もう一つの大きな目的は征韓論で政府が分裂したのを機に反政府の人々が活発に動き始めていたので、警察権を握って国内の秩序と治安を保つことでした。
明治7年1月14日岩倉が皇居からの帰り道、反対派に襲われ濠へ跳び込んで危うく命が助かり、その翌日警視庁が開設されました。この月の17日には辞職した参議の板垣、後藤、江藤、副島らが「民撰議院設立建白書」を政府へ提出、国会開設を望む声はたちまち拡がり自由民権運動となって警察は忙しくなります。
不満の空気は明治7年2月「佐賀の乱」で爆発しました。2月9日大久保が三条太政大臣から司法、軍事の全権を委ねられて佐賀に赴き鎮圧しました。江藤とともに立つかと大久保が心配した西郷はその気配をみせませんでした。
国内問題が片付くまもなく対外問題がおこります。台湾問題は1871年に台湾へ流れついた琉球の漁民が原住民に殺された事件で、日本政府は清国政府に抗議しますが清国は台湾が主権の及ばぬ地であるとして取り合いません。

大久保は台湾出兵にきわめて熱心で、不平士族、とくに鹿児島の不平士族の気を国外へそらせるのがその目的でした。明治7年(1874年)4月隆盛の弟の西郷従道を司令官として士族の軍隊を台湾へ送り、原住民を制圧しました。大久保は日清両国の講和条約交渉には全権大使として北京へ赴き、清国側が償金を払う条件で10月交渉をまとめます。
続いて起きたのが朝鮮問題です。明治8年(1875年)日本の軍艦が江華湾内で朝鮮軍から砲撃され、それに応えて日本軍艦が一時砲台を占領しました。政府は朝鮮政府と交渉し翌年朝鮮と条約を結んで開国させます。

明治政府による激しい改革の動きは庶民の生活を破壊し、地方各地での不満の声は単に不平士族のものとばかりは云えなくなりました。木戸でさえも「今日の情勢は農民なり商人なり士族なり皆な不平の者ばかりで、意気揚々としているのは官吏だけ」と日記に記しています。大規模な百姓一揆が全国各地で起り、大久保は木戸と相談して農民の税負担軽減を図ります。

郷里に隠退した西郷は子弟の教育のために私学校を開設、私学校は盛大になり鹿児島の県政に影響を及ぼすまでになりました。政府はこの状況に警戒の念を抱き、明治9年大久保は長州派に押し切られて鹿児島県政改革案を受諾します。

この改革案は鹿児島県令大山綱良の反対でその大部分が実行されませんでしたが、明治10年1月警視庁大警視川路利良が私学校の内部偵察と離間工作のために、24名の警察官を帰郷名目で鹿児島へ派遣しました。

薩摩藩は明治5年の陸軍創設以前から後装式のスナイドル銃を導入しイギリス製の薬莢製造機械を輸入して、スナイドル銃の弾丸の国産化に成功していました。陸軍はスナイドル銃を主力装備としながらも、薬莢製造設備は鹿児島県の陸軍省砲兵属廠にしかなく、政府は1月29日弾丸や薬莢製造装置を大阪へ移すために秘密裏に搬出しました。

この搬出は陸軍の大物の長州の山縣有朋と薩摩の大山巌が打ち合わせて行ったのですが、当時鹿児島にあった火薬・弾丸・武器・製造機械類は薩摩藩士の醵出金で賄ったものであったため、私学校生徒は政府がこれを無断で搬出したこと、さらに西郷の暗殺計画も発覚したことで、怒りをあらわにしました。明治10年の西南戦争のきっかけです。

鹿児島県令も西郷の側につき、むりやり西郷をかつぎ上げて立ち上がった鹿児島の士族たちは1万3千名に及びました。士族たちは「東京の政府に問いただすことがある」として東京に出ようとしましたが、熊本城を攻略できず、田原坂の激戦に敗れて7か月の戦いの後、明治10年9月14日鹿児島の城山で西郷が自決し内戦は終ります。

木戸は西南戦争のさなかに病死し、維新の三傑は大久保ひとりだけとなりました。その大久保も翌明治11年5月14日東京麹町の紀尾井坂で石川県の不平士族らに暗殺されます。47歳でした。

大久保利通の墓所 青山霊園

大久保に対する人物評は数え切れないほどありますが、人には常に礼儀正しく丁寧に応対したのに対し「大久保さんほど怖い人に出会ったことはない」と云うのが共通の感慨で、「怖い人」の一言が大久保利通を現わしていると云っても過言ではないでしょう。

「大久保さんに接すると、まるで大久保さんが二人居るようだった。一人の大久保さんは威儀端然たる大久保さんで、他の一人の大久保さんは謙遜で、敬虔で、よく人の言に耳を傾ける大久保さんだった」

「諸参議の賛成を得て大久保さんの処へ出た議案が、もう一遍よくお考えになったらいいでしょうと云われたら潰れてしまった。あの人の至誠国に尽くす心、あの人格の力である」

「帰朝後は我が國をして宇内萬邦に対峙せしめんには、必ず富国の基礎を強固ならしめなければならぬと語られ、専ら教育、殖産、工業、貿易、航海等の事業を盛んに奨励された」

大久保への人物評が、我が国の近代国家の成立に及ぼした大久保の功績のすべてを象徴しているようです。

大久保は金銭には潔白で私財を蓄えることをせず、予算のつかなかった公共事業に私財を投じていて、死後の財産は現金140円のみで、8,000円の借金が残り所有財産はすべて抵当に入っていました。政府は大久保が鹿児島県庁に寄付した8,000円を回収し、さらに8,000円の募金を集めて遺族を養うことにしました。今の政治家とは真逆です。

大久保があまりに独裁的であったためか「もう一遍よくお考えになった方がいいでしょう」と云う大久保の言葉以外大久保の行政の検証ができず、後年、明治の近代化の歴史の追跡を困難にしました。しかしながら明治初期に他の多くの政治家とは比較すべくもない大久保の大きな功績があったからこそ、我が国の近代化の基礎が急速に固められたのでした。

 


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