「日清戦争」は1894年(明治27年)から1895年(明治28年)にかけて、李氏朝鮮の地位と朝鮮半島の権益を巡り、日本と清国の間で行われた戦争です。朝鮮半島と遼東半島、遼河平原で陸軍が、黄海で海軍が勝利し、山東半島の威海衛を攻略「日清講和条約」(下関条約)の調印によって終結しました。
日清戦争の交戦領域
1868年(明治元年)明治新政府は我が国の王政復古を伝える外交文書を朝鮮に届けますが、朝鮮は江戸時代の形式と異なる文書であるとして受け取りません。朝鮮では摂政の大院君が進めた「衛正斥邪」運動が高まる中で、1866年フランス極東艦隊との交戦に勝利し(丙寅洋擾)、同年アメリカの艦隊を退けたことで(辛未洋擾)自信を深め、鎖国と攘夷を続けていました。1873年(明治6年)日本国内では「征韓論」が大きな政治問題になります。
1880年代前半の朝鮮は清の冊封国の立場の維持に重きをおく守旧派と朝鮮の近代化を目指す開化派の対立が続き、日本の朝鮮進出を警戒した清が朝鮮に西洋諸国との条約締結を促し、1882年の「米朝修好通商条約」をはじめ英独とも条約を締結しました。
1882年(明治15年)7月23日開国近代化に否定的な興宣大院君らの煽動と民衆の反日感情によって、首府漢城で開国派の政権と日本に対する大規模な反乱が起こり、日本の軍事顧問が殺害され日本公使館が襲撃されました(壬午軍乱)。
日清両国がともに朝鮮に出兵し、清が朝鮮に軍隊を駐留させる一方、8月30日日朝間で「済物浦条約」が締結され、日本公使館警備の兵員の駐留が決められました。清の方針に従う穏健開化派を清が、これを不当とする急進開化派を日本が支援します。
1884年(明治17年)清仏戦争が勃発して朝鮮に駐留する清軍の半数が引揚げた12月4日、急進開化派が日本公使竹添進一郎の支援で穏健開化派政権打倒のクーデターをおこし、4日夜竹添公使は日本の警護兵百数十名を連れて国王保護の名目で王宮に参内しました(甲申政変)。
清の軍事介入で6日にクーデターは失敗しましたが、日清両軍が衝突して双方に死者が出ました。日本の目論見であった日清両国が協調して朝鮮の近代化を図り、日清朝3国で欧米列強に対抗しようとする計画が挫折し、日本の影響力が大きく低下します。
1885年4月18日甲申政変で緊張状態を生じた日清両国は、事件の事後処理と両国間の緊張緩和のため「天津条約」に調印し、日清両軍の朝鮮からの撤退と、以後の朝鮮出兵の際の事前通告および事態収拾後の即時撤兵を決めます。
ロシアは東欧でのかねてからの南下政策が阻止されて極東で南下に乗り出し、ロシアが朝鮮半島情勢に関与し出すとその動きに反発したのがイギリスです。1885年4月15日イギリスはロシアの機先を制して朝鮮半島の南の沖にある巨文島を占領し、ロシアはウラジオストク防衛のために朝鮮半島制圧に乗り出します。1891年ロシアはシベリア鉄道の建設を開始し、1897年東の終点のウラジオストクからハバロフスクまでのウスリー線がまず完成しました。
1894年(明治27年)1月東学党の大規模反乱が勃発し、5月末には数万の反乱軍が各地で政府軍を破り全羅道全州を占領します。閔氏政権は5月30日に清国に援軍を要請、日本も天津条約に基づいて6月2日に日本人居留民保護のための兵力を派遣しました。
朝鮮政府は6月11日に反乱を終結させて日清両軍に撤兵を求めますが、日本政府は日清共同による朝鮮内政の改革案を15日清国に提示し、清国が改革案を拒絶したので日本は単独での決行を宣言、24日に清国政府に絶交書を送り追加部隊を派遣、6月30日時点で清国兵2,500名に対し日本兵8,000名が首府漢城周辺に集結しました。
7月14日日本政府は二度目の絶交書を清国側へ送ります。イギリスは日本が親英政策を採ると判断して16日「日英通商航海条約」に調印し、日本の背中を押します。日本政府は翌17日に清国との開戦を決めて23日朝鮮王宮を占拠し、清国からの独立と清国兵追放の意思を高宗から引き出し、この大義名分によって、25日の海戦と28日の陸戦で首府周辺を勢力下におき、8月1日清国に宣戦布告しました。
8月に朝鮮半島北上を開始した陸軍は9月中に朝鮮半島を制圧して鴨緑江を越え、11月に遼東半島の旅順を占領、翌1895年(明治28年)3月上旬までに遼東半島全域を占領しました。日本海軍は1894年9月の黄海の艦隊決戦に勝利して陸軍の海上補給路を確保し、1895年2月には陸海共同で山東半島の威海衛を攻略して黄海の制海権を掌握します。日本軍の中国本土への上陸が可能となり、清国の首都北京と天津の一帯は丸裸同然となって、清国側は戦意を失い1895年3月20日から日清両国の間で講和交渉が始まります。
4月17日に調印された日清講和条約で日本は清国に李氏朝鮮の独立を認めさせ、台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲させ、賠償金として2億両(1両=銀37g)を支払わせた他、日本に対する最恵国待遇も承認させました。しかし講和直後の23日に露仏独三国から日本に対する要求が出て、日本は遼東半島を手放さざるを得ないことになりました(三国干渉)。5月下旬に日本軍は台湾に上陸、11月下旬までに台湾全土を平定します。
1895年4月17日に調印された下関条約
我が国では清との開戦が困惑と緊張をもって迎えられましたが、勝利の報が次々に届くと国内は湧き立ち、従軍記者を送った「大阪朝日新聞」「中央新聞」が忠勇美談で発行部数を伸ばし、国民の間に新聞や雑誌で世界を知る習慣が定着しました。
日清戦争は近代日本が初めて経験した大規模な対外戦争で、この体験を通じて我が国は近代的国民国家に脱皮しました。戦争遂行の過程で国家は人々に国民としての義務と貢献を求め、人々は国家の一員である認識を深めました。明治天皇と大本営の広島移転は国民に天皇親征を強く印象づけ、国家の統合意識の形成に重要な役割を果たしました。
戦時経済は開戦当初の悲観的な見通しとは異なり大きな問題を生じることなく、その要因は日清戦争が比較的短期かつ小規模で兵役適齢層の動員率が5.7%に留まり、その多くが10か月以内に復員できたためです。当時の日本は過剰労働力が少なく、農業でその傾向が強く出征兵士留守宅への農作業の支援で、戦時下の農業生産額はかえって増加しました。
最も懸念された軍需品の輸入増による国際収支は、戦費の約1/3が外国に支払われ必需品の輸入が抑制されましたが、輸出が伸び、戦地での支払いに日本貨幣が円滑に流通し、結果的に大きな影響はありませんでした。商業への影響は民需品の物流が滞ったのを除くと大きくなく、工業は兵器関連業や綿糸紡績業などの兵站にかかわる産業の特需で活況を呈しました。
戦費は2億3,340万円(臨時軍事費特別会計支出2億48万円、一般会計臨時事件費79万円・臨時軍事費3,213万円)で、開戦前年度の一般会計歳出決算額8,458万円の2.76倍に相当しました。臨軍特別会計収入額は2億2,523万円(1894年6月1日〜1896年3月末日)で、支出額構成比は陸軍費が82.1%、海軍費が17.9%、臨軍特別会計の主な内訳は公債金51.9%、賠償金35.0%、1893年度の国庫剰余金10.4%でした。1893年度末の全国銀行預金額は1億152万円で、軍事公債1億1,680万円の引き受けは容易でなく、国は国民の愛国心に訴えて地域別割り当公債募集を推進しました。
1893年(明治26年)陸軍は戦時編制を改めます。翌明治27年には野戦七箇師団と兵站部、守備諸部隊など、人員220,580人、馬47,221頭、野戦砲294門を動員できる態勢を整えました。日清戦争では最終的に計画を上回る240,616人が動員され、兵員174,017人 (72.3%) が国外に出征し、文官など6,495人、国外で運搬に従事する軍夫]10万人以上が動員されました。
陸軍は日清戦争で2つの大きな問題を露呈します。その1つは兵站で、陸軍がモデルにした仏独陸軍は物資輸送に馬を用いましたが、日本陸軍は馬と馬糧の調達に制約があり、物資の運搬を人の背負子(しょいこ)と一輪車、大八車に頼ります。朝鮮では大八車は用意されず、現地徴発の朝鮮人人夫と馬はしばしば逃亡したため、兵站部所属の軍夫では足りずに、戦闘部隊所属の軍夫も駄馬を引き背負子で物資を運搬し、ときに戦闘員も物資を運搬しました。
兵站の問題はこの後も日本陸軍の弱点として持ち越され、兵員が必要とする糧食が最前線にまったく供給されない状況が多くの軍歌で歌われています。20世紀の第二次世界大戦に至っても兵站の問題は改善されず、陸軍の戦死者の大部分は飢餓か栄養失調に基づく戦病死でした。
もう1つは防寒対策です。当時の陸軍は冬季装備をもっておらず、大陸での越冬や威海衛攻略戦で多くの兵士と軍夫が凍傷になり、このため戦後防寒具の研究と冬季訓練が行われ、後年、対ロシア戦を想定した訓練中に起こったのが八甲田雪中行軍遭難事件でした。
日本はこの戦争を転機に国民国家に脱皮し経済が飛躍しました。戦後は藩閥政府と議会政党が提携して積極的な国家運営を図り、懸案であった各種政策の多くが実行され、産業政策や金融制度、税制体系など以後の政策の原型が作られ、清の賠償金を元に軍備を拡張して日露戦争を迎えることになりました。
清は日清戦争に敗れ、国際的な威信を失墜して東アジア情勢を激変させ、朝鮮には宗藩関係を解消したことで大きな影響を与えました。
朝鮮は三国干渉で日本の威信が失墜した6月に第2次金弘集内閣が崩壊、1895年10月8日に乙未事変(閔妃暗殺事件)が起こって大院君が執政に擁立され、親露派が一掃されて第4次金内閣が国内改革を再び進めました。
翌1896年1月「衛正斥邪」を掲げる守旧派が政権打倒を目指して挙兵します。王宮の警備が手薄になったのを突いて政権から追われていた親露派がクーデターを決行、閔妃暗殺事件で后を殺害された高宗とその子供をロシア水兵の助けでロシア公使館に移し、2月11日新政府を樹立しました(露館播遷)。
こうして日本の目指した朝鮮の単独支配は日清講和条約の調印から1年も経たないうちに挫折しました。1897年10月12日高宗は皇帝即位式を挙げ、国号を「朝鮮」から「大韓」に改め「大韓帝国」の成立を宣言します。
日清戦争(2)戦闘経過 に続く。