伊藤博文(いとう ひろぶみ)1841年10月16日(天保12年9月2日)生まれは、初代内閣総理大臣として大日本帝国憲法起草の中心となり、第2次内閣で日清戦争の講和を結び、第4次内閣で立憲政友会の初代総裁として政党政治への途を開き、初代の枢密院議長、貴族院議長、韓国統監を歴任して、明治の日本を牽引した人物です。
伊藤博文 初代内閣総理大臣 国立国会図書館臓
伊藤は百姓の子に生まれましたが父が長州藩の足軽伊藤家の養子となり、下級武士の身分を得て松下村塾に学び、尊王攘夷運動に参加して、1863年長州五傑の一人として幕府に隠れてイギリスに密航留学しました。
1864年米英仏蘭四国連合艦隊の長州藩攻撃の計画を知って急遽帰国し、藩に開国を説きましたが受け容れられません。同年幕府の第一次長州征伐に恭順を示す藩の対応に憤慨した高杉晋作が「功山寺挙兵」して藩内の内戦に勝利し、この挙兵に参加した伊藤も藩政改革に参画するようになりました。
明治維新後は政府に出仕し、1869年(明治2年)陸奥宗光らと政治改革の建白書を提出、開明派官僚として頭角を現わします。大蔵少輔兼民部少輔として貨幣制度の改革を担当、1870年財政幣制調査に渡米して翌年の金本位制の採用と新貨条例の公布を主導しました。
1871年(明治4年)岩倉使節団の副使として欧米を視察します。1873年の帰国後、大久保利通らとともに内政優先の立場から西郷隆盛の征韓論に反対し、同年10月西郷が下野すると参議兼工部卿に補されました。1878年(明治11年)大久保が暗殺された後を継いで内務卿に就任し、以後明治政府の中心人物となります。
1881年(明治14年)伊藤は、イギリス型議会政治を目指す急進的な大隈重信の憲法案を抑制すべく、大隈ら急進派官僚を下野させ(明治十四年の政変)、1882年ドイツ、オーストリアの憲法を調査して、1884年に宮中に制度取調局を創設し長官に就任、立憲体制への移行に伴う諸制度の改革に着手しました。
1885年(明治18年)初代内閣総理大臣に就任し、井上毅や伊東巳代治、金子堅太郎らと憲法、皇室典範、貴族院令、衆議院議員選挙法の草案を起草、1888年(明治21年)に枢密院が創設されると議長に就任し憲法草案を審議しました。
1889年(明治22年)「大日本帝国憲法」が制定され、君主権の強いドイツ型の憲法になりましたが、伊藤は立憲主義的な憲法理解で立憲政治の意義は君権制限と民権保護にあると強調します。
1890年(明治23年)に帝国議会が創設されて初代貴族院議長に就任、1893年(明治26年)第2次伊藤内閣を組閣し首相として日清戦争の講和条約に調印しました。
1898年(明治31年)第3次伊藤内閣は自由党や進歩党との連携に失敗、地租増徴が議会の反発で挫折して総辞職。1900年立憲政友会の初代総裁となった伊藤は第4次内閣で政党政治への途を開きますが、翌年貴族院の反発と財政問題の閣内不一致で総辞職し、伊藤は大隈重信と板垣退助を後継に推して、日本最初の政党内閣である第1次大隈内閣を成立させました。
1905年(明治38年)日露戦争後の朝鮮、満州の処理問題で、初代「韓国統監」に就任して韓国の国内改革と保護国化の指揮にあたり、3度にわたる日韓協約で韓国の外交権や内政の諸権限を制限しました。伊藤は日韓併合には慎重でしたが、統監の職務が韓国民の恨みを買い、1909年(明治42年)ハルピン駅で暗殺されます。
青年時代の伊藤は1857年(安政4年)2月江戸湾警備に派遣された折に上司の来原良蔵と昵懇となり、来原の紹介で「松下村塾」に入門しましたが、身分が低いため戸外での立聞きでした。
吉田松陰の推薦で7月から10月まで京都派遣に随行、帰藩後来原に付いて翌年6月まで長崎で学び、10月からは来原の義兄の桂小五郎(木戸孝允)の従者となって長州藩江戸屋敷に移り、志道聞多(井上馨)と親交を結びます。
同年10月「安政の大獄」で松陰が打ち首の刑となり、伊藤は師の遺骸を引き取ることになりました。桂、久坂玄瑞、高杉、井上馨らと尊王攘夷運動に加わり、1862年には品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加しています。
1863年(文久3年)5月井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉(井上勝)らと長州五傑の一人としてイギリスへ密航留学しますが、伊藤の荷物は間違いだらけの「英和対訳袖珍辞書」1冊だけだったと云います。
9月にロンドンに到着し、化学者アレキサンダー・ウィリアムソンの邸に滞在して英語や礼儀作法を学び、博物館や美術館に通い、海軍施設、工場などを見学し、圧倒的な国力の差を目にして開国論者に転じます。
1864年(元治元年)3月米英仏蘭四国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知り、井上馨と急ぎ帰国して戦争回避に奔走しました。英国公使オールコックや通訳官アーネスト・サトウと話し合いましたが、8月5日四国連合艦隊の砲撃で長州の砲台は徹底的に破壊されました。伊藤は高杉の通訳として、ユーライアラス号の艦長クーパーとの和平交渉に当たります。
翌1865年(慶応元年)藩の実権を握った桂に命じられて、薩摩藩との交渉や外国商人からの武器購入に携わり、1868年(明治元年)外国事務総裁東久世通禧に見出されて出世の足がかりを掴みました。
伊藤は維新後に博文と改名、長州閥の有力者として外国事務局判事、大蔵少輔兼民部少輔、初代兵庫県知事(官選)、初代工部卿、宮内卿など明治政府の要職を歴任しますが、これは木戸の後ろ盾があり、井上馨や大隈重信とともに改革を進めることが見込まれたからでした。
1869年(明治2年)1月「国是綱目」を捧呈し、君主政体、兵馬の大権の朝廷への返上、世界万国との通交、国民の上下の別をなくす自在自由の権、世界万国の学術の普及、国際協調などを主張しました。
1870年に工部卿として殖産興業を推進し、同年11月から翌年5月まで渡米して中央銀行について学び、帰国後の建議で日本初の貨幣法である新貨条例が制定されます。
1871年(明治4年)11月岩倉使節団の副使として渡米、1873年(明治6年)3月ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に謁見、宰相ビスマルクから強い影響を受けます。帰国後の1873年征韓論に反対し、大久保、岩倉、木戸らの内治優先を支持して大久保の信任を得ました。
西郷の下野後(明治六年政変)政権の重鎮となった大久保や岩倉と連携しますが、1877年(明治10年)に木戸が病死し、西南戦争で西郷が敗死、大久保も翌年暗殺されて、維新の三傑なき後の明治政府の指導者を伊藤が継承します。
1881年(明治14年)1月伊藤は井上馨や大隈と日本の立憲体制につき会談しましたが、大隈が急進的な構想で秘密裏に独走していることを知ると、10月14日大隈を下野させ、10年後の1890年(明治23年)の国会開設を国民に告げます(明治十四年政変)。
時間をかけて国会開設を準備する伊藤中心の体制ができあがり、1882年(明治15年)3月憲法調査のため渡欧、ベルリン大学の公法学者ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受け、ウィーン大学の憲法学者ローレンツ・フォン・シュタインに師事して法学や行政を学び、帰国後には大日本帝国憲法起草の中心的役割を果しました。
1885年12月内閣制度に移行しましたが、初代内閣総理大臣の候補は太政大臣の三条実美と、内閣制度を作り上げた伊藤の2者に限られました。三条は藤原北家閑院流の嫡流で高貴な身分、伊藤は維新の直前武士になった下級武士で、宮中会議で井上馨が「これからの総理は外国電報が読めなくては」と口火を切り、山縣有朋が賛成、伊藤が初代内閣総理大臣になります。
第1次伊藤内閣では憲法発布前の準備機関の創設に奔走し、1886年(明治19年)2月に各省官制を制定しました。1887年6月から伊東巳代治、井上毅、金子堅太郎らとともに憲法草案の検討を開始します。1888年4月28日枢密院の開設で初代議長となるため首相を辞任しました。
1889年(明治22年)2月11日黒田清隆内閣の下で「大日本帝国憲法」が発布されます。伊藤は華族同方会で演説し、立憲政治の重要性、とりわけ、一般国民を政治に参加させることの大切さを主張しました。
第2次伊藤内閣では朝鮮の東学党の乱をきっかけに1894年8月に日清戦争が起き、翌1895年(明治28年)4月全権大使として陸奥宗光とともに李鴻章との間で講和条約(下関条約)に調印しました。朝鮮の独立と遼東半島の割譲を明記した下関条約は、ドイツ・フランス・ロシアの三国干渉を惹き起こして遼東半島を放棄せざるを得なくなり、翌年伊藤は首相を辞任します。
1898年(明治31年)1月第3次伊藤内閣が発足し、6月に衆議院を解散して政党を結成する意思を表明しますが、山縣の反対に遭い首相を辞任。1899年全国を遊説して、民衆への政党創立の準備と立憲体制受け入れを呼びかけ、宮内省に設置された帝室制度調査局の総裁に就任して、皇室典範の増補と公式令の制定に取り組みました。
大隈系の進歩党と自由党はたびたび提携と対立を繰り返していましたが、1898年(明治31年)6月22日両党が正式に合同し憲政党になり、伊藤も1900年(明治33年)9月立憲政友会を創立して初代総裁となりました。
10月19日第4次伊藤内閣が発足しますが、翌1901年6月24日伊藤は首相を辞職する意向を奏上し、後継に大隈と板垣を推薦しました。大隈と板垣の両名に組閣の大命が降下し、日本初の政党内閣である第1次大隈内閣が誕生、板垣は内務大臣で入閣しました。伊藤は貴族院議長に就任します。
日清戦争後の伊藤は陸奥、井上馨らと共に、ロシアとは戦うべきでないと主張し、日英同盟案に反対でした。1904年(明治37年)日露戦争が始まると、ハーバード大学で米国のセオドア・ルーズベルト大統領と同級だった金子堅太郎をアメリカに派遣し、講和の斡旋を依頼しています。
これが翌年の日露講和のポーツマス条約に結びつき、ルーズベルトは講和の仲介では第三者として振舞いましたが、内密には日本側に助言を与えるなどしていて、ルーズベルトはこの功績でノーベル平和賞を受賞します。
1905年(明治38年)11月第二次日韓協約により韓国統監府が設置され、伊藤は初代統監として朝鮮の統治権を掌握しました。大陸への膨張を企図し韓国の直轄を急ぐ陸軍と対立して韓国併合には反対でしたが、韓国の独立運動が盛んになるにつれて考え方を変え、1909年(明治42年)4月桂首相、小村外相の併合方針を是認しました。
伊藤は4度目の枢密院議長に就任し、訪韓して韓国政府に「韓国司法及監獄事務委託に関する覚書」を調印させ、また「韓国軍部廃止勅令」を公布させます。総監として日本に対する韓国民の恨みを買った伊藤は、1909年(明治42年)10月26日満州、朝鮮問題についてロシア蔵相と話し合うため訪れたハルピン駅頭で、韓国の民族運動家安重根によって暗殺されました。享年69、11月4日国葬が営まれます。
話は遡りますが、明治10年代の天皇は保守的な宮中の側近を信任していて、近代化を進める伊藤との関係は円滑ではありませんでした。後年伊藤が初代内閣総理大臣と宮内大臣を兼ねたのには、宮中の保守派を抑えて天皇に立憲君主制への理解を深めてもらう必要がありました。
「機務六条」は1886年(明治19年)9月7日明治天皇と伊藤が1対1で交わした天皇と内閣の関係を規定した約束ごとです。明治天皇が立憲君主としての立場を受け入れ、親政の意思を放棄しました。
明治天皇はお世辞を云わない無骨な正直者で、金銭にきれいな伊藤を信頼しました。伊藤に私財のないことを知った天皇は1898年(明治31年)10万円のお手許金を与えています。
日露戦争直前の御前会議当日の早朝、伊藤を急遽参内させた天皇は「前もって伊藤の考えを聞いておきたい」と述べ、伊藤は「万一わが国に利あらずば、畏れながら陛下におかせられても重大なお覚悟が必要かと存じます」と奏上しました。天皇からは東京を離れてはならぬと命じられます。
伊藤は女子教育の必要性を認識していて1886年(明治19年)「女子教育奨励会創立委員会」を創設し、東京女学館創設など女子教育の普及に取り組み、日本女子大学設立に協力しました。岩倉使節団に随行して米国留学した津田梅子は帰国後伊藤家に滞在していますが、津田は女子英学塾(現津田塾大学)の創始者になりました。
伊藤の女好きは有名で明治天皇にも窘められていますが、衣食住には頓着せず、大磯で隣に住んだ西園寺公望は、食事に招かれても粗末なものばかりで難渋したと云います。
大磯では山縣の外出には護衛が付き、陸奥の散歩は仕込み杖をもち、伊藤は畑の畦に腰を降して老人を相手に暮らし向きの話などをして、村人も伊藤を「テイショウ(大将)」と気軽に呼んでいました。
伊藤は豊富な国際感覚を持った穏健な開明派で、日本の近代化、特に憲法制定とその運用を通じて立憲政治を日本に定着させた最大の功労者です。明治政府は江戸幕府時代の大名たちに版籍奉還をさせたものの実質は殿様として厚遇し、それに引き換え大名の家来であった士族には何もいいことがなく、不平士族の憤懣はいつ爆発してもおかしくない状態でした。
明治政府の初期は維新の三傑の一人であった大久保の役割が絶大で、江藤新平の佐賀の乱から西南戦争に至るまでの全国の不平士族の反乱は、大久保が鎮圧しています。大久保は佐賀の乱がおこると、岩村高俊を県令として佐賀に向かわせました。岩村は戊辰戦争で、長岡藩家老河井継之助に話し合いの場を与えず、新政府軍の敵に回した人物です。江藤は問いかけに答える必要はないと云う岩村の返答で戦を挑み、佐賀城内の鎮台兵を敗走させました。
大久保が現地に出向き、直接、政府軍の指揮を執って佐賀の乱を鎮圧します。江藤が捉えられると、大久保は我が国の司法制度を立ち上げた功績をもつ江藤の裁判を、僅か2日の臨時裁判所の審議で、判決当日の4月13日に11名を斬首、江藤と島を梟首しました。
大久保が最初の不平士族の反乱であった佐賀の乱を、いかに危機感をもって鎮圧したかが窺われる取り組みでしたが、士族の反乱は各地に起こり、最終的には西南戦争にまで発展して、西郷の死をもってようやく収まるのです。
然しそれ以外の大久保の明治初期の内務卿の仕事としては「もう少しお考えになった方がいいでしょう」と云われると、その政治案件が通らなかった話が残されているだけで、大久保の業績として、もう一つ、何をどうしたのかが把握できないのです。
大久保は「伊藤は天下の英物である。国家経綸上に就いて自分は悉く伊藤に相談をする。百年の後を達観する程の見識ある人をよく用いなければならぬが、それに当る者は伊藤である。私の政策は悉く彼の人に相談し、信じて秘談を話す」と語っています。
明治時代の最大の功労者であった伊藤が、明治初期に大久保の考えに共感して内務省の実務を引き受けていたのだとすれば、内務卿として一見何もしていないように見えた大久保が、我が国の将来を伊藤に託した役割の重要性が理解でき、大久保にまつわる明治の歴史の空白が埋められる気がするのは私だけでしょうか。
伊藤はハルピン駅頭で惜しくも暗殺されましたが、明治時代に我が国が世界の強豪国の仲間入りを果たせたのは、維新の三傑の一人の大久保利通の流れを継いだ「明治の一傑」の伊藤博文による立憲君主国の樹立がもたらしたものに間違いないのです。