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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

ペリー提督と林大学頭 

2024-07-18 06:16:18 | 日記

「日米和親条約」は1854年(嘉永7年)江戸幕府とアメリカ合衆国が締結した条約です。日本側全権は林復斎大学頭、アメリカ側全権は東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーで、この条約で日本は下田と箱館(函館)を開港し鎖国が終りを迎えました。

ペリーによる黒船来航に関しては「泰平の眠りをさます上喜撰たった四盃で夜も寝られず」という有名な狂歌が引き合いに出され、攘夷論のある中で江戸幕府がなすすべもなく開国に追い込まれたとする論調に、ほぼ、統一されていた時代もありました。

「日米和親条約」については2021年6月10日のブログに私も書いていますが、今回は来航したペリー提督と対応した、林大学頭のやり取りに限って述べてみたいと思います。

ペリー来航の1年前、嘉永5年6月5日(1852年7月21日)オランダ商館長ヤン・ドンケル・クルティウスは例年どうり「別段風説書」を長崎奉行に提出し、アメリカが日本との条約締結を求めて艦隊を派遣すること、司令官がペリーであること、出航は翌年4月下旬以降になることを伝えていました。

翌嘉永6年(1853年)6月3日浦賀沖にペリーの艦隊が現れます。それまでのロシアやイギリスの帆船とは異なり、もうもうと煙を吐いて蒸気機関で外輪を回して航行し、帆船を1艦ずつ曳航している黒塗りの船を、我が国の人々は「黒船」と呼びました。

浦賀奉行戸田氏栄は、米艦隊旗艦「サスケハナ」に与力の中島三郎助を派遣し、ペリーの渡航の目的がアメリカ合衆国大統領の親書を将軍に渡すことであることを知ります。ペリーは最高位の役人にしか親書は渡さない、身分の高い役人を派遣しなければ江戸湾を北上して兵を率いて上陸し、将軍に直接手渡しすることになると脅しをかけます。

時の将軍徳川家慶は病床にあって国家の重大事を決定できる状態にはなく、老中首座阿部伊勢守は6月6日に「国書を受け取るぐらいは仕方なかろう」との結論に達し、6月9日ペリー一行の久里浜上陸を許可し、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道がペリーと会見しました。

ペリーは開国を促す大統領フィルモアの親書を手渡し、幕府が将軍の病気のため返答に1年の猶予を求めると、ペリーは1年後に再び来航すると告げて何の交渉もせず立ち去りました。

フィルモア大統領がペリー提督に託したアメリカの国書は、第一に日本とアメリカの通商を希望していました。

「私は日本と合衆国双方の利益のため、もし皇帝陛下が二国間の自由貿易を許す所まで祖法を変更できれば、相互に非常な利益があると期待している。もし皇帝陛下が外国貿易を禁じる祖法を完全に廃止することに不安があれば、五年から十年に限り、試みに祖法を一時中止することも出来る。」

続けてアメリカ遭難船員の救助と保護、アメリカ船の日本寄港と石炭・必需品・水の供給、対価の支払い、この目的のために一港を開港する希望が述べてありました。

この国書は英文の本書に蘭文と漢文の訳文が付けられていて、幕閣は昌平坂学問所の筒井肥前守に漢文を読ませ、大意は食料・薪水の給与、石炭の置き場、和親・通商の要求であると理解し、儒学者である林大学頭(はやし だいがくのかみ)、林式部少輔、筒井肥前守の3人を中心に、幕府の儒学者4人、幕府天文方の蘭学者3人の10人に詳細な蘭文の翻訳を命じます。

蘭文の国書の日本語訳が完成したのは6月25日で、幕閣は評定所に回して意見を求め、7月1日に老中阿部伊勢守が諸大名や幕臣に示して建白を許しました。

ペリーが再来航を告げて浦賀を出航した直後の6月22日将軍家慶が亡くなり、9月25日阿部伊勢守はこれを理由に、オランダ商館長クルチウスを通じてアメリカ政府とペリー提督に、再来航の延期を求めることにしました。

長崎奉行大沢豊後守・水野筑後守がオランダ商館長に、延期の申し入れをアメリカへ通達するよう依頼した後、アメリカ国書の取扱いについてクルチウスに諮問し、4日に渡りクルチウスが返答しています。

「オランダのアメリカ駐在公使からの情報では、現在、多くの国々が日本近海に来たいと願っており、その国々の船が日本に願うことを一切聞かなければ、戦争の発端になる危険性がある。

唐国は日本同様に外国人を寄せ付けずに戦争になり、広東などの五港を開港した。戦争になってからではよくない。二百年来の日本の鎖国は外国にも良く知られているが、これまでの姿勢で済ますことは困難である。

日本全体で自由な通商を許せば国法を破ることになろうが、土地を限っての通商なら国法を変えることにはならないのではないか。

アメリカの第一の目的は石炭置き場と船の修理場の確保であって、難風に会った時の避難場所確保と薪水食料の供給を望み、ペリーはこのような交渉の後に通商問題を持ち出すと思われる。」

この情報は時を移さず幕閣に報告されましたが、何らかの確約をペリーに与えねばと、阿部伊勢守の最終決断に影響を与えたことに疑いの余地はありません。

翻訳されたアメリカ国書を受け取った諸大名からは様々な意見が出されましたが、日本で太平な世が続いた200年余の間に海防に大きな遅れをとった状況を理解している阿部伊勢守は、前水戸藩主徳川斉昭に海防参与として幕閣評議への参加を求めます。

アメリカの国書を受け取った1か月後、ロシアのプチャーチン提督が修好・通商を希望して長崎に来ました。状況が緊迫する中で幕府中枢の意見は通商許可に傾きましたが、これに強く反対する徳川斉昭は8月6日阿部伊勢守に海防参与の辞退を告げます。

嘉永6年(1853年)11月1日付けで阿部伊勢守は「老中達し」で、アメリカ国書の取扱いに関する幕府の基本方針を示達しました。

「アメリカから出された書翰に付き夫々が建議した内容を各々熟覧し、これを衆議の参考にした上で上覧に付した所、和戦の二字に帰着した。夫々が建議した通り現在は防御力が備わっていないので、来年アメリカ軍艦が来航しても彼らの書翰の云う通りに聞き届けるかどうかには触れず、当方はなるべく平穏に取り計らう積りである。

先方から乱暴を仕掛けてこないとも限らず、その覚悟が無くては国辱ともなりかねない。防御策が実用となるよう心掛け、全員が忠憤を忍び、義勇を持ち、彼等の動静を熟察し、万一先方より戦端を開く時は全員が奮発し、一髪も国躰を汚さぬ様に上下を挙げて心力を尽くし、忠勤に励むべしとの上意である。」

阿部伊勢守はアメリカ側と戦闘状態になった場合に備えて、江戸湾警備を増強すべく7月23日に江川太郎左衛門らに砲撃用の台場造営を命じ、江川は富津-観音崎、本牧-木更津、羽田沖、品川沖の4線の防御ラインを提案しましたが、予算や工期の関係からまず品川沖に11か所の台場が造営されることになります。

11月14日には建造途中の1~3番台場の守備に川越藩、会津藩、忍藩が任ぜられ、大船建造の禁を解除して各藩に軍艦の建造を奨励、幕府自らも洋式帆船「鳳凰丸」を9月19日に浦賀造船所で起工し、ペリーが去ってから1週間後の6月19日にオランダへの艦船発注も決めています。

阿部伊勢守は翌嘉永7年(1854年)1月11日付けで林大学頭、井戸対馬守、鵜殿民部少輔、松崎満太郎の4名にペリー提督との交渉役を命じ、江戸詰めの浦賀奉行伊沢美作守も任地に派遣して応接の一員にしました。

林大学頭 岩村町観光協会臓

1月14日に帆船の「サザンプトン」が現れ、1月16日までに旗艦「サスケハナ」「ミシシッピ」「ポーハタン」の蒸気外輪フリゲート、「マセドニアン」「ヴァンダリア」の帆走スループ、「レキシントン」帆走補給艦の6隻が到着しました。

幕府との取り決めで1年間の猶予であったところを半年で決断を迫ったわけですが、ペリーは香港で将軍家慶の死を知って国政の混乱の隙を突こうとしたのでした。

2月13日から浦賀奉行所の組頭黒川嘉兵衛とペリー艦隊のアダムス中佐で応接場所の折衝が始まり、ペリー側は浦賀では納得せず2月27日横浜とすることで決着しました。3月6日横浜に応接所が完成し、3月8日アメリカ側の総勢446人が横浜に上陸します。

この時点で幕閣は、話しを長崎で聞くとしてきた従来の対応ではペリーが納得しないことを確信します。阿部伊勢守は徳川斉昭を評議の席に加えてアメリカ国書への回答案を協議し、幕閣の殆んど全員が通商を許可しないと戦争が始まると危惧しましたが、徳川斉昭のみは「通商不可」の自説を貫きました。

日本側の軍備の遅れからある程度の妥協は止むを得ないとする海防掛の意見や、ペリー艦隊を実際に見て彼らの優れた武備を危惧する林大学頭、強硬意見を述べる徳川斉昭との間に立って、阿部伊勢守はアメリカ国書の日本側対応策として 「遭難者の救助、薪水食料の供給、石炭の供給などは行う」が「通商は行わず」と心を決しました。

この時の阿部伊勢守の覚悟は、例え一時の試みと云えども通商は許されない。このため若し彼らがみだりに戦端を開けば止むを得ないが、彼等としてもこんな暴挙に出る筈はないとの読みでした。この決断をくれぐれも言い含められた林大学頭と井戸対馬守は2月6日神奈川にとって返します。

第2回目の来航で小柴沖まで侵入したペリー艦隊の行動は日本側に大きな動揺を与え、武威を誇示して交渉を優位に進めるペリー提督の作戦は大いに功を奏しました。日本側が交渉場所を横浜で妥協したのも、羽田沖までの測量を終えたペリー艦隊は、あと2里も北上すれば品川沖という危機感からでした。

最悪の場合を想定する幕閣は海防掛に「万一応接不調時に、一時に品川海上へ異船が数艘乗り入れて彼の願望を遂げたいと兵威を示すことでもあれば、予めの覚悟が無くてはならない」とその対応を諮問します。

安政元年(1854年)2月11日海防掛大目付井戸石見守からの答申は「諮問内容を塾考し討論した結果、応接方が上手く行かずにペリー艦隊が品川沖へ乗り入れて兵威を示しても、彼より事を破っては名義にかかわり長年の情願が空しくなるので、容易に兵端を開くことは無かろうと思われる。

暴慢無礼を働いて緊急事態を造り出し、日本側から事を破る様に計策を施すかも知れないが、彼に釣り出されての勝利は覚束ない。前回の上意の趣旨を塾考すれば、一先ず穏便に退帆させることである。防備が調えば種々処置の仕方も出て来る筈だから、万一品川沖まで乗り入れても更に動揺することなく、横浜で応接したと穏やかに諭すべきである。

それでも承伏しなければ、艦隊の薪水食料が枯渇し退帆するまで待ち、気長に鋭気を養い、持久戦に持ち込むことが肝要である。いささかの頓着もせず平穏の姿を示したほうが、どんな謀があろうかと疑念を生じて容易に発砲などしないと思われる。ペリー側の挑発に乗っては負けてしまう」がその趣旨でした。

2月10日予ねて約束の如くペリー提督は600人程の海兵隊を先頭に上陸し、横浜応接所に入ります。双方の初対面の挨拶の直後にペリー提督は、公方様に21発、大学頭様に18発、そして今回は自分達の初めての上陸を祝い18発の祝砲を打つと云い、57発もの大音響の祝砲を放って日本側の度肝を抜こうとしました。

マッシュ・ペリー提督

林大学頭は、早速、 単刀直入に「昨年夏に貴国大統領より我が大君に対し書簡を貰ったが、その希望事項の中で薪水食料の供給と日本産の石炭の供給は行う。漂民の救助も行う。しかしこの2項以外の交易などには一切同意できない」と明確に伝えました。
ペリー提督はこれに直接答えず、艦隊に軽輩1人の病死者が出たので金沢の夏島に埋葬したいと云い出しました。大学頭は日本では軽輩でも寺院に埋葬すると述べ、近くの寺院への埋葬が決まります。
ペリーは「日本では外国船に向け発砲し、外国船の遭難者を囚人のように扱い、アメリカが日本人遭難者を送り届けても直ぐ受け取ろうともしない。これでは敵国と同じでアメリカは国力を尽くして戦争をせねばならないが、我々はその準備をしてきている。我国は近年メキシコと戦争し、その首都まで攻め取った。貴国も同様になるが、良く考えてもらいたい」とまくし立てます。

林大学頭は「その時の事情で戦争もするが、使節の云うことには事実との相違が多く、誤った伝聞を誤認していると指摘します。日本は外国と国交が無いから我国の政情が分からないのは当然であろうが、我が国が人命を重んじることは万国に優れていて、その証拠に我国では300年も平和が続いている。

大船を建造しての外国との行き来は許されていないので、海上で他国船を救助することはないが、近海で難渋し日本に薪水食料を乞う場合に充分手当てすることは、海外へも通知してある。他国の船に従来通り薪水食料を与える。

また漂民を囚人の様に獄に入れて拘束するなどは、まったくの伝聞の誤りである。国法により、何処に漂着しても厚く手当てして長崎に護送し、オランダ商館長に引渡して帰国させている。既に貴国の人民も北方の松前近くに漂着したことがあったが、彼らも皆厚く手当てして長崎に送り貴国に返している。

しかし漂民の中にも不良人物がいて我が国法を犯してわがまま勝手に振舞い、止むを得ず拘束して長崎に送ったこともある。それが誤伝につながったかも知れないが、非道の政事などは一切無く、実情を知れば貴殿も疑念が解けよう。これが戦争を始める程のこととは思われず、貴殿もとくと考えるべき問題である。」

林大学頭の明快な論理にペリーは納得しました。ペリーは言葉を継いで、今や万国は交易により必要品を得て交易を通じて富強になっている。交易を何故しないと云うのか。貴国も交易を開始すれば格別国益になると強く推奨しました。

林大学頭は元来日本は自給自足ができ、外国の品が無くとも事欠かないから交易は開かない法になっている。先に受け取った国書によれば、今回の渡来の主意は第一に人命尊重の難渋船の救助である。その望みが叶えば、交易の件は利益の論であって、人命とは無関係ではないか。先ず、第一の眼目が立てばそれで宜しくはないかと詰め寄ります。

暫く考えていたペリーは「確かに人命の尊重と難渋船の救助を求めて渡来したことが主意であり、人命が交易利益とは異なることはその通りである。強いて交易の件は願わない」として引き下がりました。このようなやり取りで、この交渉での大枠が決まり、以降の交渉で細部の詰めがなされて行くことになります。
林大学頭は応接掛に任命される3か月程前の嘉永6年(1853年)10月、幕府の命により日本外交史料をまとめた 「通航一覧」を完成しており、引き続き続編 「通航一覧続輯」もその3年後に完成します。

そんな史料の調査過程を通じて、嘉永元年(1848年)5月のラゴダ号船員の遭難と長崎送致及び、嘉永2年(1849年)4月のアメリカ軍艦プレブル号への引渡しの経過は充分調べていた筈で、ペリー提督の強い非難に対し「囚人同様の扱いなどは無かった」と言下に具体的回答が出来たのでしょう。こんな正確な対応もペリー提督を納得させる大きな要因だった筈です。

ペリー提督が帰国後政府に提出した「公式遠征報告書」の第一巻では、日本側が西洋の地理や文化や科学技術の発展を正確に理解し、夫々の国情についてもある程度の知識があることもよく理解した。このような情報は主としてオランダ提出の「別段風説書」から得たものだが、林大学頭はよく読んで理解していた様に見えると指摘しています。

日米の談判は曲折があっても前進し、双方政府からの贈り物交換やポーハタン号での饗応などを経て双方の友好が確立されていき、その後薪水、食料、石炭等の供給港を箱館と下田にすることまで合意しました。

その2月30日の会見でペリー提督は、交易のためでなくともアメリカ船がたびたび来ることになるので、何れ役人を1人派遣し駐在させねばならなくなる。若しアメリカ人と日本人の争論が発生すればこの役人に処置させるためで、これは国際慣例であると提案しました。

林大学頭は難渋船に折々薪水食料を供給する程度ならアメリカ役人は不用であると拒絶します。ペリー提督は18か月後に使節を派遣する時に本件を話し合って欲しいと提案、林大学頭も了承しました。ペリー提督の心中には、当然、その時に通商条約の交渉を行うとの考えがあったとみるべきです。

約1か月にわたる協議の末、12箇条からなる「日米和親条約」が締結、調印されましたが、日本語版、オランダ語版、漢文版の何れも、双方が同じ版に署名したものが1通もなく、正文を何語にするかの交渉は日米間で一度も行われていません。

ペリーは横浜に上陸し下田と箱館を訪れましたが、部下が見聞したこともすべて報告させ、日本人が礼儀正しく、町が清潔で、労働者は粗末であってもきちんとした身なりをしており、物乞いの姿は見られず、女性の地位が高く主婦が家庭を仕切り、識字率が抜群に高く誰でもがお上からの掟書きを理解し、書籍を読みこなしている。職人の技術は非常に高度で、国際社会に加わればいずれ先端的な立場になるのではないかと高く評価しています。

幕府側が譲歩したのは下田、箱館の2港の開港だけですが、この条約の第11条は和文と英文で内容が異なっており、和文の第11条では両国政府が必要と認めたときに限って、本条約調印の日より18か月以降経過した後に米国政府は下田に領事を置くことができるとなっているのに、英文では両国政府のいずれかが必要とみなす場合にはとなっていて、この違いは後にタウンゼント・ハリスが総領事として下田に赴任した際に大きな外交問題に発展します。

我が国は戦後長らくGHQによって戦前、戦中、戦後の我が国の歴史に触れることを厳禁され、学校教育から地理、歴史の教科はなくなり、それが解禁された後も長らく日本を悪者と考える自虐史観がはびこりました。

我が国の自虐史観は今でこそ影を潜めつつありますが、江戸幕府には狂歌に歌われたように、まったく、なんの手を打つ術もなかったのではなく、林大学頭はペリー提督に対して一歩も引けを取らずに、正々堂々、渡りあったのです。生まれた時から米軍がいて、米軍が居るのが当たり前になっている現代の日本人も知っておくべき、明日に繋がる歴史の一齣でしょう。

 




 

 


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Hondajet

2024-07-04 06:40:36 | 日記

2024年2月1日ホンダエアクラフトカンパニーは、2015年の納入開始以来250機目の「ホンダジェット」を納入したと発表しました。主翼の上にエンジンを搭載した世界的に珍しいデザインや、空気抵抗を低減する先進的な空力技術などにより、従来のビジネスジェット機に比べて燃費性能を17%、速度を10%、客室容積を30%改善し、操作性や静粛性などにも優れ、超軽量ジェット機としては低価格の490万ドルをベースプライスにして販売してきたのです。

初期のホンダジェットは乗員を含む7人乗りで、全長13m、幅12m、高さは4.5m。最大運用高度は13,106m、最大巡航速度は782 km/hで、航続距離2,265 km。2007年(平成19年)には「グッドデザイン賞金賞」を受賞するなど、デザインの美しさも高く評価されました。

初期の「ホンダジェット」 グッドデザイン賞金賞受賞

2015年(平成27年)12月連邦航空局(Federal Aviation Administration FAA)から型式証明を取得し、北アメリカ、ヨーロッパ、ラテンアメリカ、東南アジア、中国およびインドに販売サービスネットワークを拡大しました。ホンダジェットの魅力については2016年4月6日のブログに私も書いています。

2017年(平成29年)の出荷機数は43機で、同年の軽量小型ビジネスジェット機の出荷量では、セスナの主力機サイテーションM2の39機を抜いて世界一を達成し、2018年に37機、2019年には36機、2020年には31機を出荷し、4年連続でカテゴリー最高の出荷機数を達成しました。

初期のホンダジェットは1500km離れたシカゴとニューヨークの間を飛べましたが、2021年改良版のHondaJet Elite Sをラインナップに追加、航続距離を222km延ばし、2022年HondaJet Elite IIを発表、航続距離がElite Sより更に204km伸びて2,865kmとなりました。

2021年10月にはElite IIより大型の新機種HondaJet Echelonが発表されて航続距離が4,862 kmとなり、アメリカ大陸横断が無着陸で可能になります。全長17.62m、翼幅17.29m、全高4.84mと大型化され、それに伴って客室容積も拡大されて11人乗りになり、最大運用高度は14,326m、最大巡航速度は834km/hまで向上し、同クラス帯の「ライトジェット機」に対して20%以上、さらに上のクラスである「中型ジェット機」クラスの機体に対しては40%以上の燃費向上を目指し、パイロットの負荷軽減と安全性の向上を図っています。

ホンダの航空機事業子会社であるホンダ エアクラフト カンパニー(Honda Aircraft Company HACI)は、2023年10月17日から19日まで米国ネバダ州ラスベガスで開催された世界最大のビジネス航空機ショー「2023 ビジネス アビエーション コンベンション アンド エキシビション NBAA-BACE」に、より大型の新機種「HondaJet Echelon」を展示しました。

会場ではHondaJet Echelonのモックアップモデルと、現在販売しているHondaJet EliteⅡの両モデルを並べ、HACIとしては初めての2モデルの製品ラインアップになりました。HACIはHondaJet Echelonの2028年の型式証明取得に向けて、2026年の初飛行を目指し今後の開発を進めていきます。

HondaJet Echelon

HondaJet EchelonはElite IIと同じ構想のスタイルを踏襲して大型化し、あらゆる面で移動効率を高め、ライトジェット機より上位の機体カテゴリーと同等レベルの飛行を提供します。Honda独自の技術である主翼上面のエンジン配置、自然層流翼型ノーズ、コンポジット胴体をさらに進化させ、乗員乗客合わせて最大11名が搭乗できるようになりました。

Elite IIより20%、上位カテゴリーの中型ジェット機に対しては40%以上燃費を向上させ、ライトジェット機として世界で初めてノンストップでアメリカ大陸横断飛行を可能としました。

Elite IIとEchelonの一番分かりやすい形態上の差は、胴体の客室の窓が片側3個から6個に増えていることでしょう。Echelonでは機体の大型化によって、グッドデザイン賞金賞を受賞したElite IIのいかにも小気味良い形態は残念ながら失われてしまいましたが、これはやむを得ないでしょう。

個人の所有するライトジェット機ではオーナーで操縦を楽しむ人が多いため、Echelonには操縦席が主、副と2席ありますが、1名での運航が可能です。操縦者の負担軽減が図られていて操縦者に何かあった場合には、ボタン1つ押せば直近の空港へ自動操縦で着陸できる安全性も確保されました。

客室は長距離飛行に適した広いキャビン空間と優れた静粛性を実現し、快適で高効率な移動によるプレミアムなオーナーシップを提供します。通常の座席をベッドに代えて横たわれるようにすることも可能です。

名前の由来の「Echelon」は「梯形編隊飛行」を意味し、航空機では高効率な空力性能を実現する飛行パターンとして、燃費や二酸化炭素排出量削減などに効果があると云われており、HondaJetの特長をよく表しているので、HondaJetブランドの最上級モデルの意味を込めて命名されました。

主翼の上面は空気をきれいに流して揚力を得ることが重要であるため、空気の流れを妨げるものを設置しないのが航空機開発の常識です。そのため、従来のビジネスジェット機は胴体後部にエンジンが取り付けられ、胴体内部にエンジンの大きな支持構造部材が設けられています。

HondaJetでは世界で初めてエンジンを主翼上面に配置して胴体後部のエンジン支持構造をなくし、内部スペースを最大限に利用できるようにしました。開発にあたってHondaは独自にさまざまなアイデアに基づく研究を重ね、空力的にも大きな効果を得る最適な位置に最適な形状を備えたユニークな主翼上面形態を採用しました。

胴体内部のエンジン支持構造部材をなくしたことで、これまで他機になかった大きな室内空間と荷物室を確保し、エンジンが胴体から離れたため室内空間に伝達される騒音と振動が低減されて静粛性に寄与し、静かで快適な室内空間を実現しています。

高速で飛ぶと主翼上面の空気の流れが速くなり、衝撃波が発生して空気抵抗が大きくなりますが、エンジンの前だけは空気の流れが遅く衝撃波が小さくなります。この衝撃波を抑える効果で空気抵抗が減り、同クラスの他機を上回る速度向上と低燃費の実現に寄与しているのです。


主翼の衝撃波シミュレーション画像

胴体構造には軽くて強いカーボン複合材を採用しました。胴体の組立てでは、ハニカムサンドイッチパネルとスティフンドパネルの2種の構造様式を組み合わせて一体成型する製造技術を開発し、カーボン複合材と一体成型技術の採用は軽量化、高剛性化だけでなく、HondaJetの美しい外観を支えています。

HondaJetは小型で軽量ながら高推力を発揮するGE Honda エアロ エンジンズ社製の新型ターボファンエンジン HF120を採用しています。HF120は環境負荷の低減という観点からは、航空環境保護委員会 (CAEP) の基準値以下の低排出ガス化を達成しました。

HF120にはデジタルエンジン制御 (FADEC: Full Authority Digital Electronic Control) が用いられ、高効率で高い信頼性を実現しています。ターボファンエンジン HF120は最大径が約53.8cmときわめて小型で高推力を発揮するため、高い飛行速度と低燃費の実現に寄与しています。

高性能と静粛性を実現させたターボファンエンジン HF120を主翼上面に搭載することは、静粛性においてもCFR36のステージ4の要求水準を満たし、これまでのビジネスジェットにはない静かさを実現しました。また、低排出ガス化により環境負荷を低減するため、より地球に優しいフライトをもたらします。

創業当初からのHondaの企業としての夢は、人が乗って自由に移動できるモビリティの提供でした。Hondaは陸上だけでなく、空を自由に移動できる夢の実現に向けて1986年からジェットエンジンの研究・開発を開始し、2013年には小型ターボファンエンジン「HF120」が米国連邦航空局(FAA)の型式認定を取得し、スタートから29年後の2015年にビジネスジェット機 「ホンダジェット」を世に出したのです。

コンパクトで軽量な機体でありながら、十分な広さと優れた乗り心地を実現した「HondaJet」は今回「Echelon」を加えて2機種となり、小型ビジネスジェットを革新する存在です。地上から大空へと広がったモビリティの舞台で自由な移動の喜びを提供するために、Hondaはこれからもチャレンジを続けていきます。

ホンダは2024年6月18日「ホンダジェット」を法人向けに貸し出すシェアリングサービスを、月内に開始すると発表しました。契約した企業が、ちょっとぜいたくな旅行や迅速な移動など自らの顧客に提供する、さまざまなサービスに活用することを想定していて、機体のスケジュールはホンダが管理するのだそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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薩英戦争

2024-06-20 06:18:43 | 日記

「薩英戦争」は幕末に、薩摩藩とイギリス艦隊との間に起こった戦争です。その引き金になったのは文久2年(1862年)8月江戸から薩摩へ帰る途中の薩摩藩主島津茂久の父久光の大名行列に、武蔵国生麦村(現横浜市鶴見区生麦)で川崎大師に観光に向かう途中のイギリス商人リチャードソンら4人が、騎乗のまま行列の中へ入り込み、列を乱したことに始まります。

当時一般庶民が大名行列に出会えば、平伏して通り過ぎるのを待つのが慣わしでした。藩士がリチャードソンらに向かって馬から下りて道の脇にどくよう告げましたが、リチャードソンらはそのまま大名行列に入り込んで列を乱し、さらに久光が乗った駕籠の付近まで迫ったことから、藩士がリチャードソンらイギリス人商人を死傷させる「生麦事件」が起きたのです。

事件が起こる前に、アメリカ人商人のユージン・ヴァン・リードが久光の行列に遭遇しましたが、下馬した上で馬を道端に寄せて道を譲り、脱帽して礼を示しています。薩摩藩士側も外国人が行列に対して敬意を示していると了解し、問題は起こりませんでした。

ヴァン・リードは大名行列を乱す行為がいかに無礼なことで、礼を失すればどうなるかを理解しており「彼らは傲慢にふるまった。自ら招いた災難だ」とイギリス人4名を非難する意見を述べています。

この生麦事件に対してイギリスの代理公使ニールは、江戸幕府に対し10万ポンドの賠償金、薩摩藩には2万5,000ポンドとイギリス士官の立会いのもとでの犯人処刑を要求します。幕府は犯人の差出しを拒否する薩摩藩を従わせることができず、賠償金を支払うしかありませんでした。

ニールは要求に応じない薩摩藩に対し7隻の艦隊を率いて薩摩に向かい、犯人の処刑を迫ります。薩摩藩が応じず、文久3年(1863年)7月2日「薩英戦争」が始まったのでした。

生麦事件が起きた直後、イギリスや諸外国の軍艦から水兵が上陸して横浜の居留地や領事館の警備を固めましたが、激怒した居留民たちには実力行使すべきだと云う者も現れます。

ニールは「外国人に対して罪を犯した日本人は日本の司直が処罰する」という条約を結んでおり犯人を逮捕処罰する権限がないこと、また日本と本格的な戦いになると戦力が不足で、居留民を守りきれるかどうか分からないと説得し、江戸幕府に対して生麦事件の賠償金と犯人逮捕、処罰を要請したのでした。

イギリスはイギリス艦隊が関門海峡・大坂湾・江戸湾などを封鎖して、日本商船の廻船航路を閉じる制裁措置を幕府に仄めかしながら、10万ポンドの高額な賠償金と謝罪文を要求、薩摩藩へは直接犯人の処罰と2万5,000ポンドの賠償金を要求しました。

当時、朝廷や京では「攘夷論」が高まっていましたが、幕府にイギリスと戦う覚悟はなく、文久3年(1863年)6月24日ニールは幕府から生麦事件の賠償金10万ポンドを受け取りました。

ニールは薩摩と直接交渉するために7隻のイギリス艦隊を率いて横浜を出港、6月27日鹿児島湾に到着して鹿児島城下の南約7kmの谷山郷沖に投錨し、薩摩は総動員体制に入ります。

イギリス艦隊はさらに前進して鹿児島城下の前之浜1km沖に投錨、艦隊を訪れた薩摩の使者に国書を渡し、生麦事件犯人の逮捕と2万5000ポンドを要求しました。島津家は回答を保留し翌日の鹿児島城内での会談を提案しますが、イギリス側は城内での会談を拒否し早急な回答を求めます。

島津家は「生麦事件に関して責任はない」とする返答書をイギリス艦隊に渡し、イギリス艦隊は桜島の横山村、小池村沖に移動しました。奈良原喜左衛門らはイギリス艦が薪水・食料を求めてきたことから奇襲を計画し、海江田信義、黒田清隆、大山巌らが国書に対する答使とスイカ売りになって艦隊に接近しました。使者を装った一部は乗艦に成功しましたが、艦隊側に警戒されてほとんどの者が乗船を拒まれ奇襲作戦は行えませんでした。

ニールは要求が受け入れられない場合は、武力行使すると通告します。島津家は開戦を覚悟し、鹿児島城が英艦隊の艦砲の射程内と判断されたため、藩主島津茂久と久光は近在の千眼寺に移って本営とし、町人にも避難指示を出しました。

7月2日の夜明け艦隊の5隻は島津家との交渉を有利にするため、薩摩の蒸気船天佑丸、白鳳丸、青鷹丸の3隻の乗組員を銃剣で殺傷するなどして強制的に陸上へ上げ、奪取しました。3隻は桜島の小池沖に曳航され、これをイギリス艦隊の海賊行為と受け取った薩摩は7か所の砲台に追討の指令を出します。

湾内各所に設置した砲台の中で薩摩本営に最も近い天保山砲台へは、正午に追討令の急使として大久保一藏が差し向けられ、旗艦「ユーライアラス」(3125t)に向けて砲撃が開始されました。

対岸の桜島側の袴腰砲台は城下側での発砲を知って、眼下の「パーシュース」(1365t)に対して砲撃を開始します。この砲台の存在を知らなかった「パーシュース」の艦長は砲台からの命中弾に錨の切断を命じ、その場から逃走しました。

不意を突かれたキューパー提督は戦列を整え、「ハボック」一艦を残して奪った3隻の薩摩船から貴重品を略奪させて放火し、沈没を見届けさせます。

薩英戦争の図 冨山房「大日本読史地図」

その後イギリス艦隊は「ユーライアラス」を先頭に単縦陣で、第8台場、第7台場、第5台場に向けて両舷側の自在砲を発砲。艦隊の107門の砲のうち21門が最新式の40ポンド・110ポンドの最新式のアームストロング砲で、この砲で陸上の砲台を攻撃したのです。これに対して薩摩の砲台、台場の大砲の発砲は数百発に及び、小銃隊も砲撃の合間を縫って接近する艦隊を狙撃します。

イギリス艦隊の攻撃で薩摩側の大砲8門が破壊されました。薩摩側は暴雨風による砲台への浸水や備砲の射程が短い不利がありましたが、薩摩砲台に接近したイギリス艦隊は荒天や機関故障で操艦を誤り、薩摩側に有利な展開となります。

薩摩は敵艦への突撃用に上荷船の船首に18斤単銅砲や24斤単銅砲を備えた小型艇12艘を出動させましたが、荒天のため引き返しました。

午後3時前辨天波戸砲台の29拇臼砲(ボンベン砲)の弾丸1発が「ユーライアラス」の甲板に落下し艦橋で破裂、居合わせた艦長や副長などの士官が戦死、キューパー司令官も左腕に傷を負います。

祇園之洲砲台に接近して砲撃中の「レースホース」(877t)は、折からの強い波浪と機関故障で流されて砲台の手前200ヤードで座礁して大きく傾き、発砲が出来なくなりました。薩摩側は座礁とは思わず、端艇が下ろされたことで陸戦は必定とみて台場の陰で敵の上陸を待ち構えました。

午後4時イギリス艦隊の3隻が「レースホース」の離礁を試み、これに対して新波戸砲台が盛んに砲撃を加え「アーガス」(1630t)に3発の命中弾を浴びせましたが、「レースホース」は他艦に曳航されて5時半頃離礁します。

午後7時砲撃戦に参加しなかった「ハボック」が単独で砲台のない磯に移動し、停泊中の琉球船3隻と日向国の赤江船2隻を襲い焼却しました。その後「パーシュース」(1365t)も加わって藩営集成館一帯を攻撃し、近代工場群をことごとく破壊します。午後8時「パーシュース」の艦砲射撃で上町方面に火災が起こり、民家(350余戸)、侍屋敷(160余戸)、寺社の多くが焼失しました。

7月3日イギリス艦隊は前日の戦闘で戦死した旗艦の艦長や副長ら11名を錦江湾で水葬します。艦隊は戦列を立て直し、市街地と両岸の台場を砲撃して市街地を焼き、第11台場と突出台場では火薬庫が爆発して反撃が止まりました。艦隊は沖小島台場からの砲撃に応戦しながら湾内を南下、谷山沖に停泊して艦の修復を行います。

7月4日イギリス艦隊は弾薬や石炭燃料を消耗し、多数の死傷者を出して薩摩を撤退しました。「レースホース」は損壊が甚だしく、小根占の洋上に停泊して修理を行い、7月6日夜他艦に曳航されて行きます。

7月11日全艦隊が横浜に帰着しました。薩摩側の砲台によるイギリス艦隊の損害は、大破1隻、中破2隻、死者13人、負傷者50人(内7人死亡)に及びました。

一方、薩摩側の人的損害は祇園之洲砲台で1名が戦死し6名が負傷、他の砲台では沖小島砲台で2名が負傷したのみで、市街地では7月2日に流れ弾に当たった守衛兵が3人死亡、5人が負傷し、7月3日も流れ弾で守衛兵1名が死亡しました。

物的損害は台場の大砲8門、火薬庫の他に、鹿児島城内の櫓、門等の損壊、集成館、鋳銭局、寺社、民家350余戸、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻、琉球船3隻、赤江船2隻を焼失。軍事施設以外の被害が甚大で、艦砲射撃による火災の焼失面積は城下の市街地の10分の1に及びました。

イギリス艦隊では艦長の戦死や司令官の負傷、台風による損害や武器・食糧の不足などを理由に最終的に撤退を決定し、薩英戦争は痛み分けの形で終わります。

薩英戦争後薩摩藩は砲台や集成館の修復を急ぐ一方、今回善戦できたのは悪天候に助けられたのが大きく、大砲の射程距離が圧倒的に違っていたことから、普通に戦っていたら勝負にならなかったと認識し、攘夷の実現は難しいと判断します。

薩摩藩はイギリスと和平交渉し、大砲や軍艦の技術を吸収して藩を発展させるべく方向を転換し、親族の佐土原藩主からも講和の勧告を受け、薩摩藩はイギリスとの和平交渉に乗り出しました。

薩英戦争から3か月経った11月11日、薩摩藩は重野厚之丞らを使者として横浜のイギリス領事館でニールと講和のテーブルに着き、交渉は何度も決裂しそうになりましたが、4回目にお互いに譲歩をする形で交渉が纏まりました。

賠償金の支払いについては、幕府から借用した賠償金を佐土原藩が支払う形で決着。犯人の処罰については「処刑しようにも行方不明のため実行できない」と云う薩摩藩の主張を黙認する形で交渉が成立したのです。

この戦争でイギリスは日本を手に入れることを断念、イギリスは講和交渉を通じて薩摩を高く評価するようになり、薩摩側も欧米の文明と軍事力の優秀さを改めて理解して、イギリスとの友好関係を深めていきました。

戦争をした薩摩藩とイギリスは、一転、19名の薩摩藩士をイギリスに留学させるなど、交流を深めます。そして、この友好関係を通じてイギリスから買い付けた武器が、その後の倒幕運動に大きな影響を与えていくことになります。

 

 

 


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国産種子島銃 

2024-06-06 06:13:55 | 日記

我が国に火縄銃が伝来したのは1543年(天文12年)大隅国の種子島に南蛮船が漂着したことによります。インドを出て中国へ向かっていた南蛮船が、台風で種子島最南端の門倉岬に漂着したのです。

船に乗っていたポルトガル商人が火縄銃を持ち込んでいることが分かり、南蛮人が射撃の実演をして見せると、初めて火縄銃に出会った種子島の人々は雷のように轟く発射音に驚かされました。

火縄銃の威力を直に目にした種子島領主の「種子島時尭」(たねがしまときたか)は、父の「種子島恵時」と共に1挺1,000両で2挺の火縄銃を購入しました。これが日本に伝来した最初の火縄銃で、時尭は種子島在住の刀鍛冶「八板金兵衛」に鉄砲の複製を命じます。

種子島は良質な砂鉄の産地で多くの刀鍛冶がおり、金兵衛は島の刀鍛冶をまとめる「総鍛冶」を務めていた41歳の仕事盛りでした。金兵衛らは苦心の末2年後の1545年(天文14年)に日本初の国産鉄砲を完成させ、これが基になって種子島から日本各地へ国産の火縄銃が広まります。

金兵衛が買い取った火縄銃を調べたところ、銃身の末端に尾栓のネジが使われていました。尾栓とは銃筒の末端を密閉するネジで、ネジが蓋の役目を果たしていたのですが、当時の日本にはネジと云うものがありませんでした。

金兵衛は苦心の末、数か月後には寸分たがわないコピー銃をつくり上げましたが、ただ一つ、どうしてもコピーできないものがあり、それが銃底を塞ぐ尾栓の「雌ネジ」でした。「雄ネジ」は糸を螺旋状に捲いてヤスリで仕上げるとか、三角形状の針金を捲いて溶着させる等の方法が計れましたが、このナットの雌ネジ切りがどうしてもコピーできませんでした。

やむなく銃身の底を焼き締めて鍛接した三十丁をつくりましたが、この複製銃は銃底に溜まった火薬のカスを取り除くことができず、十発も撃てばカスが一杯に溜まります。また、銃腔の真直度が鍛接時に歪んでも、それが修正出来ず、導火孔が目詰まりするため不発や暴発を引き起こす欠陥銃でした。

ですが屋久島が薩摩から攻められた際に、種子島勢はこの欠陥銃を用いて十倍の薩摩勢を破り圧倒的な勝利を得ました。しかし鍛接部がはずれるために肩を砕く事故もあって、ネジの開発が強く求められます。

これを解決したのは「お金」です。雌ネジを製作する技術が高く売れるとみて、ポルトガル人が寧波より鉄砲鍛冶を連れて再び種子島に来ました。製造方法は鍛冶説と切削説の2つがあり、どちらが先だったのかは分かっていません。

種子島では金兵衛が娘の若狭をポルトガル人に嫁がせて、真赤に焼いた銃筒に雄ネジを入れて叩き出す秘法を手に入れたと伝えられていますが、この話は口伝えのみで、立証する資料や記録は残っていません。

この八板金兵衛が作ったとされる火縄銃は、種子島にある「種子島開発総合センター 鉄砲館」に展示されています。

国産火縄銃 種子島 

有形文化財(工芸品) 種子島開発総合センター鉄砲館

種子島時尭が買い取った2挺の火縄銃のうち、他の1挺は薩摩藩主「島津義久」に贈られ、義久はそのまま室町幕府12代将軍「足利義晴」に献上、義晴はその火縄銃を近江の国友(現長浜市)の刀匠に貸与し、複製を作るよう命じます。

国友の職人は半年ほどで2挺の火縄銃を作り上げて、種子島と同じく火縄銃の国産化を果たしました。国友は後に織田信長に占領された際に専門の鉄砲鍛冶町となり、日本最大の鉄砲生産地として発展しました。

種子島に伝わった火縄銃は瞬く間に日本各地に広まります。史料で確認される限り実戦で使われたのは、種子島に火縄銃が伝来して6年後の1549年(天文18年)薩摩の「島津貴久」が「加治木城」(鹿児島県姶良市)の「肝付兼演」を攻め落とした「黒川崎の戦い」でした。

東国の甲斐の武田軍に火縄銃が登場したのは1550年(天文19年)の「第二次川中島の戦い」で、300挺が用意されました。「武田信玄」が鉄砲を軍役として負担させたのは1558年(弘治4年)で、鉄砲が伝来してから十数年で全国に鉄砲が広まっていたことが分かります。

主力の武器として火縄銃が使われたのは「長篠の戦い」です。1575年(天正3年)の長篠の戦いでは「織田信長」と「徳川家康」率いる連合軍が、3,000挺の火縄銃で一斉射撃を行ない、敵の武田軍の騎馬隊を敗走させました。日本は火縄銃の伝来からわずか30年で、火縄銃を開発したヨーロッパよりも数多くの火縄銃を保有する国になっていたのです。

戦国時代の火縄銃は、まだ、薬莢が存在しておらず、銃口から装薬と弾丸を入れ、銃身に備え付けてあるカルカと云う棒で銃身の奥に押し込んで弾丸を装填していました。

点火装置となる火縄は火縄通しの穴に挟んで固定しておきます。引き金を引くと、弾金(はじきがね)の力で火ばさみの先が火皿に打ち付けられるので、火皿に置かれた点火薬から銃身内の装薬に着火し弾丸が発射されるしくみでした。

日本に伝来した火縄銃には「施条」(しじょう)が施されていません。施条とは銃身内部に刻まれた螺旋状の溝のことで、銃身内で加速する弾丸に回転運動を加えて弾道を安定させる効果があります。施条と言う概念自体は15世紀前半のヨーロッパで考案されましたが、技術的な限界で普及していませんでした。

施条が施されていない火縄銃の命中精度は高くなく、天候によっても弾道や飛距離が左右されてしまいます。しかし戦国時代の鉄砲は騎馬の敵の進行を遅らせることなどに重点が置かれていたので、命中精度は重視されていませんでした。

当時の火縄銃の有効射程距離は100m以内で、厚さ3cmの板を打ち抜けたと云われています。さらに50m圏内であれば、甲冑を貫通するほどの威力がありました。熟練した射撃手なら8~9割の確率で命中させられたのです。

これほど急速に火縄銃の国産化が進んだのは、日本に古くから日本刀を作ってきた刀鍛冶をはじめ高度な技能を持つ職人が多くいたからです。日本刀の良質な鋼鉄を鍛えるノウハウは、伝来した火縄銃を基に日本独自の改良を加えて「種子島銃」と呼ばれる国産火縄銃を作り上げるのに不可欠でした。

火縄銃の構造

日本全国から刀鍛冶や金属加工の職人が種子島に渡り鉄砲の製造技術を習得して、各地で鉄砲が生産されるようになり、特に和泉国堺の「堺衆」、紀伊国の「根来衆」、近江国の「国友衆」らによる鉄砲の製造は合戦を大きく変えました。

堺衆の一人で鉄砲技術の習得に種子島まで渡った「橘屋又三郎」は、鉄砲の製造だけでなく販売も手掛けるようになり、堺は優れた鉄砲生産地として知られるようになります。

戦国時代の堺は交易によって物や情報が集まる港町で、日本を訪れた南蛮人と直接交流を持てる場所でした。早くから堺の南蛮貿易に注目していた信長は1568年(永禄11年)堺を直轄地にします。

信長は堺の「会合衆」による自治を認め、鉄砲の製造を優遇して大量生産させるに留まらず、火薬の原料である硝石や弾丸に使用する鉛なども輸入していました。

火薬を作るのに必要な材料は主に硝石と硫黄で、我が国は硫黄を大量に産出していましたが、当時、硝石を取ることはできていませんでした。また鉛は日本でも取れていましたが、弾丸には外国産を使用していたようです。

信長は堺衆に加え近江国の国友衆にも鉄砲を大量に発注していますが、鉄砲が大量に投入された「長篠の戦い」の跡地からは、タイや中国産の鉛玉が多数出土しています。信長は堺の商人達と結んで、鉄砲に必要な資材が自分の手もとに集中する経路を整えていたのです。

1575年(天正3年)の「長篠の戦い」は誰もが知る織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼との戦いです。両軍の総数は諸説ありますが、織田・徳川軍30,000、武田軍15,000、投入された鉄砲の数は3,000挺とされてきました。近年の研究では1,000挺ほどだろうと云う指摘もありますが、保有されていた鉄砲が3分の1だったとしても、織田・徳川軍が鉄砲で圧勝したのに間違いはありません。

撃った弾丸が敵に当たらなくても、鉄砲の激しい発射音は人や馬に影響を与えました。音に慣れない馬が驚いて暴れれば、乗っていた武士や周囲の者に被害が及びます。長篠の戦いで有名な「三段撃ち」については、足軽が三段に別れてそれぞれ弾込めを終え、間を置かずに順番に射撃したものと考えられています。

長篠の戦 三段打ち

間断なく鉄砲を撃たれた武田軍騎馬隊は、信長軍の鉄砲陣を突破できずに大敗しました。鉄砲が主要武器として効果があることが実証されたのは、この長篠の戦いでした。

武田軍も長篠の戦いでは当然鉄砲を保有していました。戦いの勝敗を分けたのは火薬と弾丸の総量です。国友衆に大量発注した鉄砲で連続射撃を行っても困らないほど充分な火薬と弾丸を、南蛮商人から輸入して備えていた信長が勝利したのでした。

平安時代から鎌倉時代まで、足軽は戦場で騎馬武者の従者や土木作業に従事していました。戦国時代を迎えて集団戦が大規模化すると、日頃から長槍隊・弓隊として訓練を受けている足軽が活躍し、次いで鉄砲足軽の兵力が戦の勝敗を大きく分けるまでになります。

鉄砲の扱いに長けた傭兵部隊として「根来衆」や「雑賀衆」がいます。「根来衆」は真言宗「根来寺」(和歌山県岩出市)の僧兵集団で、数百人規模の鉄砲隊を結成していました。

鉄砲が伝来した折に根来寺の僧兵の長「津田算長」(つだかずなが/さんちょう)が種子島に渡り、翌1545年(天文14年)に算長は紀州で第一号の国産銃を完成させました。算長は鉄砲の量産化に成功し「根来鉄砲隊」を結成して砲術の精度向上にも注力し「津田流砲術」の始祖となります。

「雑賀衆」は有力な地侍が形成した自治共同体の惣国(そうこく)に端を発する集団で、鉄砲は同じ紀伊国の算長らを通して持ち込まれたと考えられています。鉄砲を運用するための火薬の製造や、使用に関する「火術」なども身に付け、高い軍事力を有するようになりました。

雑賀衆は部隊ごとに独自の雇用先を選択することもあり、信長が石山本願寺を攻めた「石山合戦」では、信長に味方する部隊と、石山本願寺側に味方する部隊に分かれて激突、雑賀衆同士が戦うことも度々ありました。

足軽になったばかりの兵でも鉄砲は撃てましたが、日常的に射撃の訓練を積んだ者達の方が扱いに長けているのは当然です。根来衆や雑賀衆に求められたのは数を撃てば当たる一斉射撃ではなく、一発必中で目標に当てる巧みな技量でした。鉄砲隊の力量が勝敗を決するようになると、大名達は通常の足軽鉄砲隊とは技量に大きな差のある優秀な鉄砲集団を雇い入れます。

もともと根来衆と雑賀衆は大名家に属さない存在でしたが、鉄砲を大量に製造し砲術に磨きをかけたことで、戦いを生業とする組織的な鉄砲集団に発展したのです。

戦国時代に伝来した鉄砲は、軍隊の大規模化と陣形の集団化で合戦の在り方に変革をもたらし、長篠の戦いから25年後の「関ヶ原の戦い」に投入された火縄銃は、東軍西軍合わせて25,000挺と考えられており、戦国武将の間に広く普及していたことが分かります。

足軽など徒歩の兵力同士の合戦が中心となると、甲冑も重くて身動きの取りにくい「大鎧」に代わって、鉄砲に対応して軽量化した「当世具足」が考案されます。素材も革製から薄く伸ばした鉄を取り入れるなど鉄砲対策が行われました。

火縄銃に必要な火薬は「世界三大発明」の一つに数えられている人類史上重要な発明です。火薬の誕生は古代中国説や13世紀のヨーロッパ説、インドやアラビアが起源など諸説ありますが、本格的に火薬を銃に用いるようになったのは14世紀で、イタリア「モンテ・ヴァリーノ城跡」で簡素な作りの筒状の銃が発掘されています。

タンネンベルク・ガン

このような筒状の銃は15世紀にポーランドの「タンネンベルク城」でも発見され「タンネンベルク・ガン」と呼ばれます。この銃には火縄式の起源となる「タッチホール式」という発射方法が用いられていました。

我が国で火縄銃が普及したのは輸入品が普及したのではありません。輸入されたのは僅か2丁だけです。戦国の世に実戦で大量に使用された火縄銃は、すべて、我が国の職人たちの努力の賜物の国産品で、戦国時代の戦いを終わらせる重要な武器になったのです。

戦国時代末期の我が国には500,000挺もの火縄銃があったと推測されていますが、これは当時の欧米諸国の総保有数よりも多かったと考えられ、日本は驚くべきことに世界一の銃大国になっていたのです。

南蛮人が売り込みに来ても、南蛮銃に大幅な改良を加えた我が国の種子島銃にはまったく敵わず、種子島銃を仕入れて帰って高値で売り捌いて大儲けした話も伝わっています。

スペインに征服されたインカ帝国のように、たった168名の兵士と1門の大砲によって滅亡した多少の艦隊さえ送り込めば簡単に征服できた国々と異なり、世界を2手に別れて植民地化したスペイン、ポルトガルにも、征服の前段階として布教に従事した宣教師たちにも、500,000万挺の種子島銃を保有した我が国の軍事力が把握され、我が国の植民地化を諦めさせることに繋がったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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ナウマンと中央構造線、フォッサマグナ

2024-05-23 07:55:40 | 日記

ハインリッヒ・エドムント・ナウマン( Heinrich Edmund Naumann ) は1854年生れのドイツの地質学者で、弱冠20才で明治政府に招かれ1875年(明治8年)東京開成学校の金石学・地質学・採鉱学の教師として来日、9年足らずの日本滞在ですが、東京帝国大学地質学教室の初代教授に就任、日本列島の地質調査に従事し「中央構造線」と「フォッサマグナ」の存在を見出して、我が国の本格的な地質図を創り上げました。

青年時代のナウマン博士

ナウマンの名は、我が国にかつて生存していた「ナウマンゾウ」の名前として人々に知られていますが、中央構造線やフォッサマグナの発見者としての偉大な功績はナウマンゾウほどには知られていません。

ナウマンゾウは43~30万年前の寒冷期に大陸から日本列島に渡来し、1万5000年前まで生息していた肩高2.5〜3mとやや小型のゾウです。寒冷な気候に適応して皮下脂肪が発達し、全身は体毛で覆われていたと考えられ、牙が発達していて雄では長さ2m40cm、直径15cmに達し、雌にも存在して長さ60cm、直径6cmほどでした。

明治初期に横須賀で発見された最初の標本がナウマンによって報告され、1921年(大正10年)浜名湖北岸の工事現場で牙・臼歯・下顎骨の化石が発見されて、京都帝国大学理学部槇山次郎助教授が1924年(大正13年)にナルバダゾウの新亜種であるとして、ナウマンに因んでElephas namadicus naumannniと命名しました。

1962年(昭和37年)から1965年(昭和40年)まで行われた長野県野尻湖畔の「立が鼻遺跡」(野尻湖遺跡群)の発掘調査で、旧石器時代の石器や骨器と一緒に大量のナウマンゾウの化石が見つかり、ナウマンゾウは当時の人達の狩猟の対象だったと考えられます。1998年(平成10年)に北海道でもマンモスと入れ替わってナウマンゾウが生息していた事実が明らかになり、日本全国で断片化石が見つかっています。

ナウマンゾウの化石の一部(国立科学博物館)

明治神宮前駅工事で出土

ナウマンが10年間に行った重要な仕事は、日本列島の地質調査に従事して完成した本格的な地質図の作成です。地質調査は北海道を除く全国で行われました。

当時の日本には、海岸や主要街道を測量して我が国の輪郭を正確に把握した伊能忠敬の地図がありましたが、地質は検討されていません。1877年ナウマンは内務省地理局地質課の設立を進言し、1879年に全国の地質調査計画を立案、本州・四国・九州の延べ1万kmを自らが踏査し、1885年ベルリンの「万国地質学会議」で最初の日本列島地質図を発表しました。

1885年の「日本群島の構造と起源について」では「始源片麻岩」が長崎北方の彼杵(そのき)半島と天竜川上流の東側の2か所にだけ確認され、天竜川上流東側では彼杵の片麻岩ほど完全には平行組織を示さず、むしろ花崗岩への漸移岩を形成する傾向があり、北北東から北東に走向して、この片麻岩は西縁では河岸段丘の礫層に覆われ、東縁では大きな断層により突然断たれている」としました。

今からみても領家片麻岩と領家古期花崗岩の関係や走向傾斜がよく描かれていて、これらの東縁を突然断つ大きな断層こそが中央構造線です。結晶片岩系は日本群島の構成上大変重要で、ほとんどすべてが狭く長い地帯をなして出現し、この系に属する一つの帯は四国の北部を通り、その延長は紀伊半島の北部に現れると述べました。

佐田岬半島や二見浦の突出部、愛媛県東部の屈曲、吉野川が結晶片岩帯を横断する大歩危の様子も記載されており「電気石片岩」は別子、銅山川渓谷、徳島付近、和歌山付近や「関東の老山地」が平野に臨む長瀞に産する。これらの結晶片岩の傾斜は、一般に日本海側に向かって傾いている」と記しているのは、現在の知見と同じです。

まだフォッサマグナの語は出てきていませんが、箱根から日本海の海岸まで走る大きな幅広い溝があり、それを「断裂地域の大溝」と呼びました。その地域では前進する褶曲帯が阻止されて生じたような走向(関東~赤石の「ハ」の字構造)が広く支配的であると指摘しています。

日本列島は2000万年から1500万年前にアジア大陸から離れ、太平洋へ向かって移動しました。大陸との間が開いて日本海が拡大し、西南日本は時計まわりに回転、東北日本は反時計まわりに回転して、東西に引っ張られた本州中央部が折れ目となって数千m落ち込んで海底となり、その上に地層が厚く堆積しました。

この本州中央部を南北に横断する地層に覆われた地帯をフォッサマグナと云い、大きな溝の意味で本州中央部の幅の広い地帯を占め、東北日本と西南日本を分けています。フォッサマグナの西縁は糸魚川静岡構造線ですが、東縁の正確な位置は関東平野を埋めている堆積物の下に隠れていて、まだ、よく分かっていません。

新第三紀の日本海拡大時の西南日本の時計まわり回転による南下と、伊豆~小笠原弧との衝突および関東~赤石の地質の屈曲構造を、当時すでに指摘しているのは今日からみて驚くべき慧眼です。

中央構造線の語もまだ出てきませんが、西南日本を「内帯」「中帯」「外帯」に分け、内帯は北九州から鈴鹿山地北部の御在所山にいたる山陰・山陽花崗岩の分布地域と日本海岸の火山地域で、中帯は中部九州から瀬戸内海にいたる地域です。

外帯については秩父帯と三波川帯の境界などもよく記載されていますし、九州と四国の連続性や、四国と紀伊半島の連続性についても記されていて、赤石山脈地域に外帯が連続していること、志摩と赤石山脈の間で外帯の走向が西南西から南北に変わることを指摘し、内帯と中帯も琵琶湖地域から東方へ同じように曲がっていくと述べています。

ナウマンは「結晶片岩は内側の火成岩に対して一つの障壁をなしている。また中帯と外帯との分離は、中帯と内帯との分離に比べるとはるかに鋭くかつ深部に及んでいる」と強調しました。また赤石山脈地域の記述では「結晶片岩の内側の片麻岩との境界線は、ここでも火成岩地域の始まりを表している」と記しています。

1887年の「日本群島の地質構造区分」では、内帯と中帯を併せて内帯に改め、内帯と外帯の境界線に「大中央裂線」(Grosse Mediansplate)の名が付けられ、フォッサマグナの呼称も示されました。

ナウマンの中央構造線とフォッサマグナ

赤線は中央構造線 黄領域はフォッサマグナ

諏訪湖から天竜川に沿った調査では、ナウマンは諏訪湖を頂点とする天竜川と富士川の間の三角形の山岳地帯を「赤石スフェノイド(楔状地)」と呼び「正確な地図の上で上ノ諏訪から天竜川の川口へ1本の直線を引くと、この線の上に多数の小さい流路が乗り、その水は全体として天竜川に注いでいる」としています。

地質調査所が作成した地図を大観すれば分かるように、上述の「上ノ諏訪と天竜川河口とを両端とする120km以上もの連続的で際立って直線的な渓谷は、北部で片麻岩と結晶片岩との境界を示していて、いずれにせよ、断裂によって生じたものである」としました。

この記述は茅野から天竜川河口にいたる水窪(みさくぼ)以北の中央構造線と水窪以南の赤石構造線を結んだまっすぐな谷祖の存在、中央構造線区間の地質境界としての性質を正確に表しています。

ナウマンによって1885年~1887年に書かれた「日本群島の地質構造区分」の図と、現在認識されている中央構造線やフォッサマグナの位置は、まったく同じです。

 

現在認識されている中央構造線とフォッサマグナ

中央構造線は九州から関東に伸びる長大な断層ですが、現在の中央構造線やフォッサマグナの概念は、明治時代に1万kmを自ら踏査して西南日本を縦断する大断層を発見し提唱したナウマンの概念とまったく同じで、この大断層を境に日本海側を内帯、太平洋側を外帯と呼んで区別したのです。

ナウマンは中央構造線の長大な断層の西の端と東の端で地上に顔を出している岩石が、北と南で異なるのを見出し、北側を内帯、南側を外帯として区別しました。岩が風化して崩れてきているため地質境界がはっきりとは見えませんが、色の違いで分かります。

大鹿村の中央構造線北川露頭

中央構造線は日本列島がまだアジア大陸の一部だった頃に誕生した長大な断層です。海溝と平行に西南日本の地質構造を大きく二分していますが、1億年の歴史の中で何度かの活動期があり、その都度異なる方向にずれ動いてきました。250万年前から始まった現在の地殻変動を起こしている力を受けた中央構造線の一部の区間は、現在も、活断層になっています。

フォッサマグナミュージアム展示

北部フォッサマグナは日本列島が大陸から離れた後に東西に引っ張られて、本州の中央が折れ目になり、地殻が数千m沈降した地帯で、当時の海底に堆積した地層と噴出した火山岩で埋まっています。

その地殻変動が終わった数百万年前から現在の地殻変動が始まりましたが、北部フォッサマグナを埋めた地層は大変厚く、海面上に上昇して現在山地になっている山の頂上までもが海底の堆積物です。

フィリピン海プレートは新生代に南洋で誕生した若い海洋プレートで、日本列島が大陸から離れる頃に西南日本の下へ沈み込み始めましたが、伊豆から小笠原列島の部分は下へ沈み込めずに、次々と、本州に衝突しました。

南部フォッサマグナは1500万年前頃にフィリピン海プレート上の伊豆‐小笠原列島が本州に衝突した「多重衝突帯」で、衝突境界の海峡や海溝を埋めた堆積物からなり、海底火山噴出物やマグマの噴出による富士山などの火山も含まれます。

北部フォッサマグナに囲まれた関東山地には西南日本の基盤が露出していますが、群馬県富岡、秩父盆地、五日市盆地、関東平野西部の地下には新第三紀の海の地層が残っているので、関東山地は海底で堆積した被覆層が隆起後に侵食によって失われ、西日本と同じ基盤が露出したものと考えられます。

関東山地の岩石は赤石山脈の岩石と同じ外帯の岩石です。北部の群馬県下仁田には内帯の領家変成帯の花崗岩がわずかに見られ、中央構造線が通っていることが確認できます。領家変成帯の花崗岩や変成岩は関東平野の下に埋まっていて、その北東の筑波山で露出しています。

現在のような航空写真もなく、衛星画像もなく、陸地の経年的な移動も測定できなかった時代に、日本列島が大陸から離れる前に存在していた大断層である中央構造線を、自分の眼と脚による岩石の鑑別だけを頼りに見出し、現代の地質学の成果と比べて誤りのない正しい知見を得たのは、ナウマンの信じられないくらいの見事な業績です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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