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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

伊藤博文

2024-09-26 06:33:12 | 日記

伊藤博文(いとう ひろぶみ)1841年10月16日(天保12年9月2日)生まれは、初代内閣総理大臣として大日本帝国憲法起草の中心となり、第2次内閣で日清戦争の講和を結び、第4次内閣で立憲政友会の初代総裁として政党政治への途を開き、初代の枢密院議長、貴族院議長、韓国統監を歴任して、明治の日本を牽引した人物です。

伊藤博文 初代内閣総理大臣 国立国会図書館臓

伊藤は百姓の子に生まれましたが父が長州藩の足軽伊藤家の養子となり、下級武士の身分を得て松下村塾に学び、尊王攘夷運動に参加して、1863年長州五傑の一人として幕府に隠れてイギリスに密航留学しました。

1864年米英仏蘭四国連合艦隊の長州藩攻撃の計画を知って急遽帰国し、藩に開国を説きましたが受け容れられません。同年幕府の第一次長州征伐に恭順を示す藩の対応に憤慨した高杉晋作が「功山寺挙兵」して藩内の内戦に勝利し、この挙兵に参加した伊藤も藩政改革に参画するようになりました。

明治維新後は政府に出仕し、1869年(明治2年)陸奥宗光らと政治改革の建白書を提出、開明派官僚として頭角を現わします。大蔵少輔兼民部少輔として貨幣制度の改革を担当、1870年財政幣制調査に渡米して翌年の金本位制の採用と新貨条例の公布を主導しました。

1871年(明治4年)岩倉使節団の副使として欧米を視察します。1873年の帰国後、大久保利通らとともに内政優先の立場から西郷隆盛の征韓論に反対し、同年10月西郷が下野すると参議兼工部卿に補されました。1878年(明治11年)大久保が暗殺された後を継いで内務卿に就任し、以後明治政府の中心人物となります。

1881年(明治14年)伊藤は、イギリス型議会政治を目指す急進的な大隈重信の憲法案を抑制すべく、大隈ら急進派官僚を下野させ(明治十四年の政変)、1882年ドイツ、オーストリアの憲法を調査して、1884年に宮中に制度取調局を創設し長官に就任、立憲体制への移行に伴う諸制度の改革に着手しました。

1885年(明治18年)初代内閣総理大臣に就任し、井上毅や伊東巳代治、金子堅太郎らと憲法、皇室典範、貴族院令、衆議院議員選挙法の草案を起草、1888年(明治21年)に枢密院が創設されると議長に就任し憲法草案を審議しました。

1889年(明治22年)「大日本帝国憲法」が制定され、君主権の強いドイツ型の憲法になりましたが、伊藤は立憲主義的な憲法理解で立憲政治の意義は君権制限と民権保護にあると強調します。

1890年(明治23年)に帝国議会が創設されて初代貴族院議長に就任、1893年(明治26年)第2次伊藤内閣を組閣し首相として日清戦争の講和条約に調印しました。

1898年(明治31年)第3次伊藤内閣は自由党や進歩党との連携に失敗、地租増徴が議会の反発で挫折して総辞職。1900年立憲政友会の初代総裁となった伊藤は第4次内閣で政党政治への途を開きますが、翌年貴族院の反発と財政問題の閣内不一致で総辞職し、伊藤は大隈重信と板垣退助を後継に推して、日本最初の政党内閣である第1次大隈内閣を成立させました。

1905年(明治38年)日露戦争後の朝鮮、満州の処理問題で、初代「韓国統監」に就任して韓国の国内改革と保護国化の指揮にあたり、3度にわたる日韓協約で韓国の外交権や内政の諸権限を制限しました。伊藤は日韓併合には慎重でしたが、統監の職務が韓国民の恨みを買い、1909年(明治42年)ハルピン駅で暗殺されます。

青年時代の伊藤は1857年(安政4年)2月江戸湾警備に派遣された折に上司の来原良蔵と昵懇となり、来原の紹介で「松下村塾」に入門しましたが、身分が低いため戸外での立聞きでした。

吉田松陰の推薦で7月から10月まで京都派遣に随行、帰藩後来原に付いて翌年6月まで長崎で学び、10月からは来原の義兄の桂小五郎(木戸孝允)の従者となって長州藩江戸屋敷に移り、志道聞多(井上馨)と親交を結びます。

同年10月「安政の大獄」で松陰が打ち首の刑となり、伊藤は師の遺骸を引き取ることになりました。桂、久坂玄瑞、高杉、井上馨らと尊王攘夷運動に加わり、1862年には品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加しています。

1863年(文久3年)5月井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉(井上勝)らと長州五傑の一人としてイギリスへ密航留学しますが、伊藤の荷物は間違いだらけの「英和対訳袖珍辞書」1冊だけだったと云います。

9月にロンドンに到着し、化学者アレキサンダー・ウィリアムソンの邸に滞在して英語や礼儀作法を学び、博物館や美術館に通い、海軍施設、工場などを見学し、圧倒的な国力の差を目にして開国論者に転じます。

1864年(元治元年)3月米英仏蘭四国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知り、井上馨と急ぎ帰国して戦争回避に奔走しました。英国公使オールコックや通訳官アーネスト・サトウと話し合いましたが、8月5日四国連合艦隊の砲撃で長州の砲台は徹底的に破壊されました。伊藤は高杉の通訳として、ユーライアラス号の艦長クーパーとの和平交渉に当たります。

翌1865年(慶応元年)藩の実権を握った桂に命じられて、薩摩藩との交渉や外国商人からの武器購入に携わり、1868年(明治元年)外国事務総裁東久世通禧に見出されて出世の足がかりを掴みました。

伊藤は維新後に博文と改名、長州閥の有力者として外国事務局判事、大蔵少輔兼民部少輔、初代兵庫県知事(官選)、初代工部卿、宮内卿など明治政府の要職を歴任しますが、これは木戸の後ろ盾があり、井上馨や大隈重信とともに改革を進めることが見込まれたからでした。

1869年(明治2年)1月「国是綱目」を捧呈し、君主政体、兵馬の大権の朝廷への返上、世界万国との通交、国民の上下の別をなくす自在自由の権、世界万国の学術の普及、国際協調などを主張しました。

1870年に工部卿として殖産興業を推進し、同年11月から翌年5月まで渡米して中央銀行について学び、帰国後の建議で日本初の貨幣法である新貨条例が制定されます。

1871年(明治4年)11月岩倉使節団の副使として渡米、1873年(明治6年)3月ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に謁見、宰相ビスマルクから強い影響を受けます。帰国後の1873年征韓論に反対し、大久保、岩倉、木戸らの内治優先を支持して大久保の信任を得ました。

西郷の下野後(明治六年政変)政権の重鎮となった大久保や岩倉と連携しますが、1877年(明治10年)に木戸が病死し、西南戦争で西郷が敗死、大久保も翌年暗殺されて、維新の三傑なき後の明治政府の指導者を伊藤が継承します。

1881年(明治14年)1月伊藤は井上馨や大隈と日本の立憲体制につき会談しましたが、大隈が急進的な構想で秘密裏に独走していることを知ると、10月14日大隈を下野させ、10年後の1890年(明治23年)の国会開設を国民に告げます(明治十四年政変)。

時間をかけて国会開設を準備する伊藤中心の体制ができあがり、1882年(明治15年)3月憲法調査のため渡欧、ベルリン大学の公法学者ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受け、ウィーン大学の憲法学者ローレンツ・フォン・シュタインに師事して法学や行政を学び、帰国後には大日本帝国憲法起草の中心的役割を果しました。

1885年12月内閣制度に移行しましたが、初代内閣総理大臣の候補は太政大臣の三条実美と、内閣制度を作り上げた伊藤の2者に限られました。三条は藤原北家閑院流の嫡流で高貴な身分、伊藤は維新の直前武士になった下級武士で、宮中会議で井上馨が「これからの総理は外国電報が読めなくては」と口火を切り、山縣有朋が賛成、伊藤が初代内閣総理大臣になります。

第1次伊藤内閣では憲法発布前の準備機関の創設に奔走し、1886年(明治19年)2月に各省官制を制定しました。1887年6月から伊東巳代治、井上毅、金子堅太郎らとともに憲法草案の検討を開始します。1888年4月28日枢密院の開設で初代議長となるため首相を辞任しました。

1889年(明治22年)2月11日黒田清隆内閣の下で「大日本帝国憲法」が発布されます。伊藤は華族同方会で演説し、立憲政治の重要性、とりわけ、一般国民を政治に参加させることの大切さを主張しました。

第2次伊藤内閣では朝鮮の東学党の乱をきっかけに1894年8月に日清戦争が起き、翌1895年(明治28年)4月全権大使として陸奥宗光とともに李鴻章との間で講和条約(下関条約)に調印しました。朝鮮の独立と遼東半島の割譲を明記した下関条約は、ドイツ・フランス・ロシアの三国干渉を惹き起こして遼東半島を放棄せざるを得なくなり、翌年伊藤は首相を辞任します。

1898年(明治31年)1月第3次伊藤内閣が発足し、6月に衆議院を解散して政党を結成する意思を表明しますが、山縣の反対に遭い首相を辞任。1899年全国を遊説して、民衆への政党創立の準備と立憲体制受け入れを呼びかけ、宮内省に設置された帝室制度調査局の総裁に就任して、皇室典範の増補と公式令の制定に取り組みました。

大隈系の進歩党と自由党はたびたび提携と対立を繰り返していましたが、1898年(明治31年)6月22日両党が正式に合同し憲政党になり、伊藤も1900年(明治33年)9月立憲政友会を創立して初代総裁となりました。

10月19日第4次伊藤内閣が発足しますが、翌1901年6月24日伊藤は首相を辞職する意向を奏上し、後継に大隈と板垣を推薦しました。大隈と板垣の両名に組閣の大命が降下し、日本初の政党内閣である第1次大隈内閣が誕生、板垣は内務大臣で入閣しました。伊藤は貴族院議長に就任します。

日清戦争後の伊藤は陸奥、井上馨らと共に、ロシアとは戦うべきでないと主張し、日英同盟案に反対でした。1904年(明治37年)日露戦争が始まると、ハーバード大学で米国のセオドア・ルーズベルト大統領と同級だった金子堅太郎をアメリカに派遣し、講和の斡旋を依頼しています。

これが翌年の日露講和のポーツマス条約に結びつき、ルーズベルトは講和の仲介では第三者として振舞いましたが、内密には日本側に助言を与えるなどしていて、ルーズベルトはこの功績でノーベル平和賞を受賞します。

1905年(明治38年)11月第二次日韓協約により韓国統監府が設置され、伊藤は初代統監として朝鮮の統治権を掌握しました。大陸への膨張を企図し韓国の直轄を急ぐ陸軍と対立して韓国併合には反対でしたが、韓国の独立運動が盛んになるにつれて考え方を変え、1909年(明治42年)4月桂首相、小村外相の併合方針を是認しました。

伊藤は4度目の枢密院議長に就任し、訪韓して韓国政府に「韓国司法及監獄事務委託に関する覚書」を調印させ、また「韓国軍部廃止勅令」を公布させます。総監として日本に対する韓国民の恨みを買った伊藤は、1909年(明治42年)10月26日満州、朝鮮問題についてロシア蔵相と話し合うため訪れたハルピン駅頭で、韓国の民族運動家安重根によって暗殺されました。享年69、11月4日国葬が営まれます。

話は遡りますが、明治10年代の天皇は保守的な宮中の側近を信任していて、近代化を進める伊藤との関係は円滑ではありませんでした。後年伊藤が初代内閣総理大臣と宮内大臣を兼ねたのには、宮中の保守派を抑えて天皇に立憲君主制への理解を深めてもらう必要がありました。

「機務六条」は1886年(明治19年)9月7日明治天皇と伊藤が1対1で交わした天皇と内閣の関係を規定した約束ごとです。明治天皇が立憲君主としての立場を受け入れ、親政の意思を放棄しました。

明治天皇はお世辞を云わない無骨な正直者で、金銭にきれいな伊藤を信頼しました。伊藤に私財のないことを知った天皇は1898年(明治31年)10万円のお手許金を与えています。

日露戦争直前の御前会議当日の早朝、伊藤を急遽参内させた天皇は「前もって伊藤の考えを聞いておきたい」と述べ、伊藤は「万一わが国に利あらずば、畏れながら陛下におかせられても重大なお覚悟が必要かと存じます」と奏上しました。天皇からは東京を離れてはならぬと命じられます。

伊藤は女子教育の必要性を認識していて1886年(明治19年)「女子教育奨励会創立委員会」を創設し、東京女学館創設など女子教育の普及に取り組み、日本女子大学設立に協力しました。岩倉使節団に随行して米国留学した津田梅子は帰国後伊藤家に滞在していますが、津田は女子英学塾(現津田塾大学)の創始者になりました。

伊藤の女好きは有名で明治天皇にも窘められていますが、衣食住には頓着せず、大磯で隣に住んだ西園寺公望は、食事に招かれても粗末なものばかりで難渋したと云います。

大磯では山縣の外出には護衛が付き、陸奥の散歩は仕込み杖をもち、伊藤は畑の畦に腰を降して老人を相手に暮らし向きの話などをして、村人も伊藤を「テイショウ(大将)」と気軽に呼んでいました。

伊藤は豊富な国際感覚を持った穏健な開明派で、日本の近代化、特に憲法制定とその運用を通じて立憲政治を日本に定着させた最大の功労者です。明治政府は江戸幕府時代の大名たちに版籍奉還をさせたものの実質は殿様として厚遇し、それに引き換え大名の家来であった士族には何もいいことがなく、不平士族の憤懣はいつ爆発してもおかしくない状態でした。

明治政府の初期は維新の三傑の一人であった大久保の役割が絶大で、江藤新平の佐賀の乱から西南戦争に至るまでの全国の不平士族の反乱は、大久保が鎮圧しています。大久保は佐賀の乱がおこると、岩村高俊を県令として佐賀に向かわせました。岩村は戊辰戦争で、長岡藩家老河井継之助に話し合いの場を与えず、新政府軍の敵に回した人物です。江藤は問いかけに答える必要はないと云う岩村の返答で戦を挑み、佐賀城内の鎮台兵を敗走させました。

大久保が現地に出向き、直接、政府軍の指揮を執って佐賀の乱を鎮圧します。江藤が捉えられると、大久保は我が国の司法制度を立ち上げた功績をもつ江藤の裁判を、僅か2日の臨時裁判所の審議で、判決当日の4月13日に11名を斬首、江藤と島を梟首しました。

大久保が最初の不平士族の反乱であった佐賀の乱を、いかに危機感をもって鎮圧したかが窺われる取り組みでしたが、士族の反乱は各地に起こり、最終的には西南戦争にまで発展して、西郷の死をもってようやく収まるのです。

然しそれ以外の大久保の明治初期の内務卿の仕事としては「もう少しお考えになった方がいいでしょう」と云われると、その政治案件が通らなかった話が残されているだけで、大久保の業績として、もう一つ、何をどうしたのかが把握できないのです。

大久保は「伊藤は天下の英物である。国家経綸上に就いて自分は悉く伊藤に相談をする。百年の後を達観する程の見識ある人をよく用いなければならぬが、それに当る者は伊藤である。私の政策は悉く彼の人に相談し、信じて秘談を話す」と語っています。

明治時代の最大の功労者であった伊藤が、明治初期に大久保の考えに共感して内務省の実務を引き受けていたのだとすれば、内務卿として一見何もしていないように見えた大久保が、我が国の将来を伊藤に託した役割の重要性が理解でき、大久保にまつわる明治の歴史の空白が埋められる気がするのは私だけでしょうか。

伊藤はハルピン駅頭で惜しくも暗殺されましたが、明治時代に我が国が世界の強豪国の仲間入りを果たせたのは、維新の三傑の一人の大久保利通の流れを継いだ「明治の一傑」の伊藤博文による立憲君主国の樹立がもたらしたものに間違いないのです。

 

 

 

 

 

 

 


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復員と引揚げ

2024-09-12 06:43:30 | 日記

「復員」は1945年(昭和20年)8月14日に日本政府が受諾した「ポツダム宣言」に基づく、外地からの軍人・軍属の日本本土帰還を指します。「日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ」とのポツダム宣言第9項が法的根拠となりました。

「引き揚げ」は8月15日の終戦に伴う、外地や日本軍占領地または内地のソ連軍被占領地に生活基盤を有した民間人の日本本土帰還を指します。終戦当時外務省は現地の状況を認識できないまま、8月14日居留民をできる限り現地に定着させる方針を在外公館に指示していました。

GHQは1945年(昭和20年)10月25日厚生省を引き揚げ問題の中央責任官庁に指定し、1946年3月16日日本政府に対し「引揚げに関する基本指令」を発令、在外邦人の全面帰還の基本方針が決定されました。

終戦当時国外に配備されていた軍人軍属は陸軍311万人、海軍62万人で、一般の在外邦人の推計は約300万人でした。1945年9月2日の「日本政府宛一般命令第1号」によって、軍人軍属と在外邦人はそれぞれの軍管区の連合国司令官に降伏しました。

軍管区ごとの降伏者人数は以下の通りです。

中国軍管区:311万6000人(47%)(中国本土、台湾、北緯16度以北のフランス領インドシナ)。

ソ連軍管区:161万4000人(24%)(旧満洲地区、北緯38度以北の朝鮮、樺太、千島列島)。

東南アジア(イギリスならびにオランダ)軍管区:74万5000人(11%)(アンダマン諸島、ニコバル諸島、ビルマ、タイ国、北緯16度以南のフランス領インドシナ、マライ、スマトラ、ジャワ、小スンダ諸島、ブル島、セラム島、アンボン島、カイ諸島、アル諸島、タニンバルおよびアラフラ海の諸島、セレベス諸島、ハルマヘラ諸島、オランダ領ニューギニア)。

オーストラリア軍管区:13万9000人(2%)(ボルネオ、イギリス領ニューギニア、ビスマルク諸島、ソロモン諸島)。

アメリカ軍管区:99万1000人(15%)(日本国委任統治諸島、小笠原諸島および他の太平洋諸島、日本国に隣接する諸小島、北緯38度以南の朝鮮、琉球諸島、フィリピン諸島)。

復員、引揚の対象者となる陸軍、海軍、在留邦人の総計は約660万人で、復員、引き揚げは5つの軍管区ごとに実施され、日本陸海軍の復員を優先する連合軍の指示で軍人軍属の帰還から始められました。

陸軍の復員業務はソ連軍管区地域を除いて1948年(昭和23年)1月まででほぼ完了し、海軍の復員は1947年(昭和22年)末までにおおむね完了しました。軍人の復員の後に一般人の帰還が行われます。

引揚げには各軍管区で大きな違いがあり、台湾のように比較的順調に引揚げが進んだ地域もあれば、侵攻してきたソ連軍や現地軍民による攻撃や抑留、飢餓などで多くの犠牲者が出た満州のような地域もありました。

第二次世界大戦で7,240隻に及ぶ商船の壊滅的な被害を蒙った我が国にとって、アジア大陸各地や南方の島々などに取り残された600万人以上の人員を帰還させるのは大変な大事業でした。客船を充てるのが最良でしたが、当時の日本の客船は壊滅です。

旧海軍艦艇のうちの航行可能なものに加え、アメリカ海軍からリバティ型輸送船(7000t)100隻、LST艦(戦車揚陸艦3000t)85隻、病院船6隻が貸与され、ピーク時の復員船は旧海軍艦艇172隻、日本船舶55隻、アメリカ貸与船舶191隻となりました。

旧海軍艦艇は航空母艦鳳翔(7,470t)、葛城(17,150t)、巡洋艦鹿島(5,800t)、北上(5,100t)、八雲(9,010t)、潜水母艦長鯨(5,160t)など比較的大きな艦から、駆逐艦波風(1,215t)、海防艦国後(860t)など小さな艦まで様々でした。徴用されていた氷川丸(11,622t)、高砂丸(9,347t)、宗谷丸(3,800t)などはそのまま復員輸送に転用されました。

旧海軍艦艇は兵装を撤去し上甲板に仮設の居住区やトイレを設けて使用され、復員船中最大の艦船であった空母葛城の場合は格納庫を改造して1度に約5,000人を収容できましたが、丙型海防艦では443人の規模でした。

特別輸送艦 空母「葛城」 1946年1月13日

シンプソン港(現パプアニューギニア)

特別輸送艦 軽巡洋艦「酒匂」

艦体の側面に日章旗とローマ字表記が描かれている

主砲はそのままで、損傷部した分が補修された

病院船時代の徴用船 「高砂丸」 9,347トン

米国から貸与されたのは戦時標準型輸送船(リバティ船)と戦車揚陸艦(LST)でしたが、LSTは本来人を輸送する船ではなく、戦車を載せる場所を仮居住区として甲板上にトイレを増設しました。私が天津からの引き揚げの際乗せられたのもLSTです。LSTの乗務員は米軍でした。

米国貸与の 「リバティ船」 

米国貸与の戦車揚陸艦 「LST」

引き揚げ者は浦賀、舞鶴、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、函館、大竹、宇品、田辺、唐津、別府、名古屋、横浜、仙崎、門司、戸畑に上陸しました。 引き揚げ事業開始から4年の1949年(昭和24年)末までに軍人軍属を含む624万人が帰還し、開始から約30年が経過した1976年(昭和51年)末には629万人(軍人軍属311万人、一般人318万人)が帰還しています。

帰還開始から4年間で99%を超える在外日本人が本土に戻ったのですが、伝染病の蔓延を恐れたGHQは日本政府に検疫の厳格な措置を求め、帰還者には厳しい検疫が課せられます。

栄養失調、マラリア、結核、脚気等の罹患者は引き揚げ者全体の10%にのぼり、1950年(昭和25年)末までに18万人が最寄りの国立病院等に搬送され、3980人が死亡しました。1946年(昭和21年)4月には、広東から浦賀に入港した引き揚げ船でコレラが発生し、20隻もが沖合に停泊して7万人の引き揚げ者が祖国を目の前に待機を余儀なくされ、70名が亡くなりました。

終戦時に台湾にいた日本人は軍人16万6000人を含めて48万8000人あまりで、軍人から始められた引き揚げは1946年2月に完了しました。民間人の20万人が台湾に留まることを希望しましたが、国民党政権は日本人の残留を望まず、一部の留用者を除いて1946年4月20日に完了しました。

満洲に取り残された日本人約105万人の送還は、ソ連軍が送還に無関心であったため、ソ連軍の撤退が本格化する1946年3月までは何の動きも見られませんでした。米国は多くの日本人が中国大陸に残留して国共対立の不安定要素となることを懸念し、中国東北部のソ連軍が撤退して国府軍が進駐を開始するや否や、米軍の輸送用船舶を貸与して日本人送還を実行に移します。

1946年5月に錦州地区の日本人引き揚げが始まり、年内には中共軍支配地域を含めて大半の日本人が引き揚げました。満洲からの引き揚げ者は24万5000人にのぼり、このうち8万人近くを満蒙開拓団員が占め、満洲での民間人犠牲者の数は東京大空襲や広島の原爆投下、さらには沖縄戦を上回ります。

終戦時に北緯50度以南のサハリン南部に住んでいた日本人は40万人でした。1946年2月2日ソ連最高会議幹部会令で、南樺太と千島の土地・施設機関の国有化が1945年9月20日に遡って決定され、1947年2月25日にソビエト連邦最高会議は南樺太のソ連領編入を正式決定、ソ連の占領下で生活することになった日本人は技術者を中心に多くがそのまま職場に留まりました。

ソ連は在留日本人の送還にまったく興味を示さず、在留日本人に対してはロシア人と同じ労働条件、同じ給与、同じ職場を与え、実生活面では大きな違いはほとんどありませんでした。

旧満洲地区からの引き揚げが開始された1946年春以降にサハリンと北朝鮮、大連のソ連占領地区からの日本人引き揚げが米ソ間で協議され、12月19日に「在ソ日本人捕虜の引揚に関する米ソ協定」が締結されて、サハリンと千島地区から29万2590人が引き揚げました。

終戦後に日本政府が最優先で取り組まなければならなかった課題は軍隊の武装解除と復員でしたが、多くの帰国者を乗せることの出来る大型船が不可欠で、空母は格納庫に大勢を収容できますが、使用可能な空母は日本海軍最初の「鳳翔」と「葛城」の2隻だけでした。「葛城」は空襲で飛行甲板が大破していましたが航行に支障はありませんでした。  

5000t以上の船は巡洋艦「八雲」「鹿島」「北上」「酒匂」、潜水母艦「長鯨」と病院船「氷川丸」「高砂丸」で、10隻以上残っていた松型を含む駆逐艦、海防艦、輸送艦などを含めた227隻が復員輸送船に投入されることになり、これらの船は損傷個所を修理し、識別のため舷側に日の丸とローマ字の艦名が描かれます。

優先されたのは日本から遠い太平洋の島々からの復員で、日本からの補給が途絶した島嶼部の守備隊では餓死者が続出していました。 1945年(昭和20年)9月1日に第一陣の「高砂丸」が東京港を出航し、カロリン諸島のメレヨン島にいた守備隊を収容しました。さらに空母や「氷川丸」他の大型船がマーシャル諸島、ラバウル、ソロモン諸島、ニューギニアの復員を行い、空母「葛城」(1万7150t)は一度に5000人を輸送しています。

一方、東南アジアや中国大陸、朝鮮半島などの復員と民間人の引き揚げは、巡洋艦や駆逐艦などの小型艦が行いました。復員輸送船で最も古かった「八雲」は日露戦争前にドイツから購入した装甲巡洋艦です。使える船はすべて投入しても日本の艦艇では足りず、12月には物資や兵員輸送用のリバティ船や戦車揚陸艦LST約200隻が貸し出されたのでした。 

復員輸送は1945年(昭和20年)9月26日第一次復員船として「高砂丸」が1700人を乗せて別府港へ帰港したのを皮切りに、同年10月から本格化して翌1946年(昭和21年)春から8月がピークとなり、その後は艦船数を徐々に減らして1947年(昭和22年)夏ごろまで続けられました。

任務中に座礁などの事故で第20号輸送艦、第116号輸送艦、海防艦「国後」、駆逐艦「神風」、雑役船「光済」を喪失しています。

第二次世界大戦では7,240隻に及ぶ日本の商船(漁船、機帆船を含む)が潜水艦、航空機及び機雷によって沈められ、23万人を超える人達が犠牲となっています。日本商船の全被害のうち45%は潜水艦の攻撃によるもので、1万t以上の客船で生き延びたのは病院船であった氷川丸ただ1隻です。

復員輸送に用いられた海軍艦艇の多くは戦時中の酷使に加え、修理・整備が行き届かず、不具合も多発しました。旧軍港から離れた博多や鹿児島などの港が到着港だと修理・整備が困難で、その対策として航行不能になった残存艦艇のうち、主缶と発電機などの主要補機が使用可能な艦艇をこれらの到着港に係留し、復員輸送艦の修理・整備を行いました。

こうして1950年(昭和25年)9月までに約625万人の日本人が帰国を果たしましたが、シベリア抑留者の帰国は1956年(昭和31年)まで、引き揚げ者の輸送は1970年代まで続きます。

これほど大量の自国民が短期間に帰国した例は世界中で他に例はありません。復員と引揚げは誇りとするに足る事業とは云えないのですが、正に敗戦後の日本国を挙げての大事業でした。

しかし戦後の本当の大事業は我が国の復興です。1950年(昭和25年)に突如起こった朝鮮戦争特需の発生がきっかけとなって、広義の特需は1955年までに36億ドルにのぼり、アメリカの対日援助約30億ドルを上回る規模で、この特需と輸出によって日本経済は完全に立ち直って鉱工業生産指数は1950年10月に戦前水準を突破し、翌年度には実質国民総生産が戦前水準に達しました。

1956年(昭和31年)にはイギリスを抜いて造船業が世界一の座に躍り出て、1964年(昭和39年)の新幹線の開通、東京オリンピックの開催をもって日本は戦後の復興を成し遂げたと云ってよいのでしょうが、戦後生まれの人たちはまだ生産者年齢に達していません。

朝鮮戦争と云う特需がきっかけでしたが、B29の空爆によって全国の都市が焼け野原と化した中で「死んだ戦友たちのためにも、俺たちがやらなければ」と云う戦前派の強烈な意識が、戦後の復興に大きく働いたことに間違いはありません。我が国の戦後の復興は自虐史観だけでは説明がつかないのです。

 


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日本の終戦をもたらした要因

2024-08-29 06:21:19 | 日記

我が国のボツダム宣言の受諾は、原爆投下か、ソ連の参戦か、もしくは両者によるものかと云う論争が現在でも行われていますが、実は、100%勝利が確定していた勝者のアメリカが、日本本土決戦に突入しなければ戦争を終わらせることができない状況に落ち込んだのが、決定的要因でした。

勝っている戦争なのにアメリカの意思で戦いをやめることが出来ず、日本本土上陸作戦を強行すれば沖縄本島や硫黄島の上陸作戦の経験から、35%以上のアメリカ軍人の損傷が見込まれ、勝ち戦を終わらせるだけのために更に多くの人的損傷を出す謂れはないので、何としてでも日本本土上陸を回避しなければならなくなっていたのです。

1943年1月モロッコのカサブランカでイギリス首相ウィンストン・チャーチルとアメリカ大統領フランクリン・ルーズヴェルトが首脳会談を行っていますが、北アフリカ戦線での連合軍の勝利が確定し、次の作戦目標としてシチリア島への上陸作戦を行うことで両者の意見が一致しました。

この1943年の2月には日本軍がガダルカナルから撤退を開始し、ドイツ軍がスターリングラードで敗れて、第二次世界大戦の戦局の行方が明確になり、シチリア島上陸作戦は7月6日に実行されて9月8日にイタリアが降伏して枢軸国の一角が崩れました。

このカサブランカ首脳会談の後の記者会見で、実は、ハプニングがありました。「枢軸国に無条件降伏を求める」とルーズヴェルトがいきなり発言したのです。チャーチルはとっさに口裏を合わせたものの、いささか、驚いたと回顧しています。枢軸国への無条件降伏はこの時点で、突然、提示されたのでした。

アメリカ合衆国 第32代大統領 フランクリン・ルーズヴェルト

 英国首相 ウィンストン・チャーチル

ボツダム宣言受諾を巡る日本側のやり取りは、終戦時の鈴木貫太郎内閣の内閣書記官長だった迫水久常氏が、1955年(昭和30年)に御前会議での昭和天皇の全発言について語り、元陸上自衛官中垣秀夫氏が紹介した記録で知られています。

天皇はドイツ敗北前後の1945年春頃から本土決戦に対して一方ならぬ関心を抱き、6 月9日満州の視察から帰った梅津参謀総長の上奏が、在満支兵力は米国の8個師団分しかなく、弾薬保有量も僅か一回の会戦しかまかなえないという悲観的なものであったことから、天皇は 「夫レデハ内地ノ部隊ハ在満支部隊ヨリ遙カニ装備ガ劣ルカラ、戦ニナラヌノデハナイカ」と焦慮を強めました。

沖縄本島での組織的戦闘は4月1日に始まり6月23日に終りましたが「昭和天皇実録」には6月 20 日に天皇が東郷外相に対し、戦争の早期終結を希望する旨の御沙汰を下されたと記されています。天皇は「戦争に就いては最近参謀総長、軍令部総長、長谷川大将の報告により、支那及び日本内地の作戦準備が不充分であることが明かになったから、成るべく速かに戦争を終結するよう取運ぶことを希望する」と述べています。

さらに6月22日天皇は最高戦争指導構成員に「戦争の指導に就ては、曩に御前会議に於て決定を見たるところであるが、他面戦争の終結に就いても此際従来の観念に囚わるることなく、速に具体的研究を遂げ、之が実現に努力せむことを望む」と早期講和を求めたのでした。

陸軍は「一億玉砕」を叫び強気の姿勢で本土決戦に固執し、原爆投下とソ連参戦後の 8月9日に開かれた最高戦争指導構成員会議でも、東郷外務大臣の「日本の本土に上陸させない成算があるのか」との問いに、梅津参謀総長が「戦争であるからうまく行くと計りは考へられない。結局幾割かの上陸可能を認めなくてはならぬが、上陸に際して敵に大損害を与へ得る自信はある」と答えています。

天皇は「一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず、決戦師団の武装すら不十分で、之でどうして勝つことが出来るのか」と不完全な本土決戦準備に言及し「このような状態で本土決戦に突入したら、日本民族はみんな死んでしまわなければならなくなるのではなかろうかと思う。そうなったら、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることができるのか」と問いました。

当時、第 12方面軍の参謀長として関東防衛の職にあった「高島辰彦陸軍少将は、この天皇の発言で第 12方面軍の「最大の欠陥」 を指摘されて恐懼したが、「本土決戦は九十九里浜の陣地に象徴される砂上の楼閣であった」と回想しています。

参謀本部も実際には厳しい現状を認識していて、川邊虎四郎参謀次長は「聖断は下されたり、畏れながら御上のお気持は今後の作戦に御期待なきなり」と日記に記し、本土決戦の準備をめぐって明示された天皇の陸軍に対する不信は、参謀本部に戦争継続を断念させる大きな効果をもたらしました。

8月14日天皇は、杉山元、畑俊六両陸軍元帥、永野修身海軍元帥に見解を糺し、畑元帥は「遺憾ながら敵を撃攘し得る確信はなく、ポツダム宣言受諾はやむを得ない」とし、杉山、永野両元帥は「国軍はなお余力を有し士気旺盛につき、抗戦して上陸する米軍を断乎撃攘すべき」と奉答しました。

軍部の徹底抗戦論の根深さを示すものですが、本土決戦の現実とこれにより表面化した天皇と陸軍との隔たりは、原爆投下やソ連の参戦以上に日本側の戦争終結の過程に決定的な影響を及ぼしたのです。

日本側の経緯はこのように比較的よく知られているのですが、アメリカ側の戦争終結までの経緯は知られていません。日本の本土決戦準備の状況が不完全で貧弱であったにもかかわらず、本土上陸作戦を行えば米軍の35%が死傷した沖縄や硫黄島で蒙った以上の人的損害が必須となり、日本本土上陸作戦が迫るにつれて米国は、本土上陸作戦で日米戦に決着をつけるのに躊躇したのです。

1945年6 月18 日ハリー・トルーマン大統領は日本本土上陸作戦とその人的損害を検討する会議を招集し、ウィリアム・リーヒ統合参謀本部議長らは、沖縄戦の死傷率を上回る犠牲が生じる本土上陸作戦に積極的でなく、本土上陸を行わないで戦争を終えるためには降伏条件を緩和する必要があると主張しました。

7月2日スティムソン陸軍長官がトルーマン大統領に提出したメモには「日本本土への上陸作戦の前に、日本に対して降伏条件の提示を行うべきである」と記されています。

日本は独伊とは異なり島国の地勢学的メリットがあり、アメリカが日本軍の残存兵力と旺盛な抗戦意欲が重大な脅威であると認識していたことが、日本の降伏に際しアメリカが政治的な譲歩をせざるを得ない条件になったのでした。

ポツダム宣言には「日本国ニ対シテ今次ノ戦争ヲ終結スル(to end this war)ノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ」と記されて、日本は本土決戦前に戦争を終結させることができて、全土を占領され東西に分割されたドイツの悲劇を回避し「敗戦」ではなく「終戦」を迎えることが出来たのです。

軍事史家のジョン・フェリス(John Ferris)は「太平洋の戦場で米軍に多大な犠牲を強いた日本軍の戦力は、幾つかの政治的目標を達成した点で、日本の敗北はある種の勝利であった」と指摘しています。

米国には結構「知日派」がいました。船旅で行く時代の外国留学では、欧州よりはるかに近いアメリカで多くの日本人留学生が学び、深かい交流があったのです。知日派以外の米国の政策決定者や軍人の中にも、戦争末期の日本軍の激しい抵抗を目の当たりにして、無条件降伏要求の修正を求める動きがおきました。

日本の立場を象徴する出来事としてルーズヴェルト死去の際の日独の対応があります。日米戦争勝利目前のルーズルト大統領が1945年4月12日脳出血で急死し、後を継いだのは副大統領のハリー・トルーマンでした。トルーマンはその年の1月20日に副大統領になっていますが、ルーズヴェルト大統領とはほとんど会うことがなかったと云われます。

鈴木貫太郎は総理就任後まもなくでしたが、敵国の首脳であるアメリカ大統領の訃報を知ると同盟通信社の短波放送を通じて、

「今日、アメリカがわが国に対し優勢な戦いを展開しているのは、亡き大統領の優れた指導があったからです。私は深い哀悼の意をアメリカ国民に送るものであります。しかし、ルーズヴェルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。我々もまたあなた方アメリカ国民の覇権主義に対し、今まで以上に強く戦います。」

という談話を世界に発信しています。

他方、このニュースに接したナチスの首脳部は、戦局の転機が訪れると歓喜し、ヒトラーは「運命は歴史上最大の戦争犯罪人ルーズヴェルトをこの地上より葬り去った」と声明を発しました。

当時米国に亡命していたドイツ人作家のトーマス・マン(Thomas Mann)は「日本は今アメリカと生死を賭けた戦争をしているが、あの東洋の国にはいまなお騎士道精神と人間の品位に対する感覚が存在し、死に対する畏敬の念と偉大なるものに対する畏敬の念が存する。これが独日両国の差異である」としていて、こうしたエピソードは当時の日米関係と米独関係の相違を如実に物語るものでした。

1940年(昭和15年)我が国は神武天皇の即位から2600年を迎え、紀元節(2月11日)には様々な行事が全国各地で催されました。「日本書紀」には、橿原に都を定めた時の神武天皇の詔勅に「八紘(あめのした)を掩いて宇(いえ)と為す」との記述があることから、第二次近衛内閣が8月に基本国策要綱に大東亜新秩序を掲げた際「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基づく」と述べ、これが「八紘一宇」の登場した最初の文書になりました。

東南アジアの国々は第二次世界大戦の開始時には、タイ1国を除いて、すべて、欧米の植民地でした。1940年に掲げられた八紘一宇は、当初、日本の中国、東南アジアへの侵略を正当化するためのスローガンに過ぎませんでしたが、日本軍がマレー半島を攻略し、英国東洋艦隊を撃滅、シンガポールを占領する快進撃を見るに及んで、アジア人も欧米人に勝てるのだと、アジアのすべての植民地に独立運動が起こり日本が支援した結果、戦後にはすべての植民地が国として独立したのです。

我が国の降伏に際しての最大関心事は国体の護持でした。「天皇統治の大権を変更する要求が含まれていない」という了解の下にボツダム宣言を受諾したのですが、我が国のポツダム宣言受諾の決定的要因は、勝者のアメリカが、どうしても本土上陸作戦を中止して、人的損害を阻止しなければならない必要性だったのです。

軍国日本の時代、日本男児たる者はすべてお国のために命を捧げるべき存在でした。お国のために死んでいった一人一人の日本男児の命は積み重なって、甚大な人的損害が予想された米軍の日本本土上陸を阻止し、我が国の一億総玉砕を回避し得たのでした。

 

 

 


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神風を超えた “DIVINE WIND”

2024-08-15 06:12:58 | 日記

1945年(昭和20年)5月14日午前6時56分、アメリカ海軍の象徴的空母である「エンタープライズ」に神風特攻の零戦が体当たりし、大破したエンタープライズは、以後、第二次大戦中に戦列に復帰することができませんでした。

米軍はこの特攻機の冷静沈着、最期の瞬間まで強い意志を感じさせた行動に感動し、通常の“KAMIKAZE”とは区別して、この特攻機を “DIVINE WIND”(神聖な風)と呼びました。

米第58任務部隊は5月14日夜明けに26機の日本機の来襲を受け、6機を対空砲火で、19機を上空哨戒機によって撃墜しましたが、これらの迎撃をすり抜けた生き残りの1機がいました。航空母艦の最大の弱点は艦載機を飛行甲板へ上げ下げするエレベーターの開口部なのですが、この1機はエンタープライズの飛行甲板の前部エレベーター開口部に、正に、突入したのです。

残りの1機のいることを承知していたエンタープライズは、効果的な防御態勢を取るべく大きく舵を切り零戦に艦尾を向けましたが、実はこれこそ最後の1機が狙っていた瞬間でした。

零戦はエンタープライズの艦尾に差し掛かかると機体を急上昇させ、上空で180度左旋回をして背面飛行に移り、そのまま、対空砲の死角であるエンタープライズの真上から全速力で急降下して飛行甲板前部エレベーターに突入、3階下のフロアで爆発、エレベーターを130mの上空まで吹き飛ばし、エンタープライズは大破、炎上、浸水しました。

空母ヨークタウンに零戦が突入した瞬間

上空120mまで吹き上げられるエレベーター

格納甲板前部とエレベーターに火災が発生し、13名が戦死、68名が負傷、人的被害の割に物的被害が大きく、エンタープライズは大修理を要し海軍工廠送りになりました。

米軍のパイロットの一人は「この零戦は対空砲火や直掩機にやられそうになると雲の中に隠れ、時々、雲から顔を出してはエンタープライズの位置を確認しており、そのすぐ傍まで近づいて急降下を始め、高速での機首上げでオーバーシュートしそうになると背面飛行を行って修正し、艦載機のエレベーターめがけて突入した。」「これまで日本海軍の先輩たちが3年かかってできなかったエンタープライズの戦線離脱を、彼はたった一人で、一瞬の間に、してのけた」と称賛しました。

エンタープライズ直上で背面飛行から突入を敢行する特攻機

消火活動を行うエンタープライズの飛行甲板

正に前部エレベーターの位置に突入している

別のパイロットはこの特攻機を、無謀と云う感覚が付きまとう“KAMIKAZE”と区別して “DIVINE WIND”(神聖な風)と呼び、この零戦の類稀なる計画性と巧妙精緻な技術は、米軍に特別な尊敬の念と大きな感動を抱かせたのです。

この零戦の特攻の詳細が判明したのは、戦後アメリカ側の関係者が「1945年5月14日午前6時56分トミザイという中尉が零戦の特攻機でエンタープライズに突入した」と知らせてくれたことがきっかけです。

エンタープライズでは、突入のあった14日の夕刻戦死した13名を星条旗で包んで水葬にした後に、突入した特攻隊員も水葬にしました。遺体の飛行服の階級章から海軍中尉であることが判明、ポケットの名刺から日系二世の通訳が氏名をtomi-zaiと判読したのだそうです。

当日未帰還の爆戦搭乗員の中にトミザイと云う名はなく、未帰還の中尉4名のうち2名はエンタープライズへの突入時には別の場所にいたことが分り、残りは第6筑波隊の富安俊助中尉と第11建武隊の楠本二三夫中尉だったので、トミザイはトミヤスだと判断されました。

富安俊助海軍中尉

富安は大正11年に長崎で生まれ、頭脳明晰でスポーツも万能な少年で早稲田大学を卒業後、戦局悪化に伴って昭和18年9月に土浦海軍航空隊に入隊しました。

つくば海軍航空隊で零戦搭乗員として訓練を受け、翌年5月には海軍少尉となり、岡崎航空隊に転任して中尉に昇進しました。昭和20年3月には再びつくば航空隊に配属となり予備学生の教官になります。
3月28日「機密航空命令第15号」が発令され、富安は特攻隊長の一人に指名されました。5月14日午前5時30分富安を隊長とする第六筑波特攻隊が、500kg爆弾を装着した零戦52型に搭乗して鹿児島県鹿屋基地から出撃しました。

500kg爆弾を搭載した零戦は「爆戦」と呼ばれて操縦が極めて難しく、特攻命令が下った際にも鹿屋基地では搭乗員から離陸すら懸念されました。エンジン出力を全開にしても速度が上がらず、飛行場一杯を這うようにしてもなかなか浮上しなかったと云います。他の特攻隊と併せて26機が沖縄に接近する米艦隊の空母を目指しました。

エンタープライズは太平洋戦争中の主な海戦のほぼすべてに参加した米空母で、大小15回も損傷を受けながら沈没を防ぎ「ビッグE」 の愛称で親しまれていました。

戦果の拡大公表が当たり前になっていた大本営発表では、エンタープライズ撃沈をなんと9回も繰り返して恥を曝しています。それほど、沈むはずなのに沈まなかった空母とも云えます。

奇跡的にエレベーターホールから富安の遺体が発見され、戦死した13名の米兵とともに最敬礼をもって水葬されましたが、戦後に富安の機体の破片が富安の遺族に手渡され、2020年には富安の飛行服から発見された50銭札も渡されています。
特攻については、今日、人により様々な印象を持っており、人命軽視の非情な戦術と見る人が多いのですが「必ず立派な戦果を挙げる覚悟です」「御国の興廃存亡は今日只今にあります」「我々は御国の防人として出ていくのです」 と富安が遺書に綴っているように、現在とはまるで違う実情、そして人々の思いがあったのは確かで、この時代に、このような人物が我が国にいたことを日本国民として忘れてはならないのです。

その一方、別の意味で戦争を考えさせられる酒巻和男海軍少尉がいます。酒巻は1940年(昭和15年)海軍兵学校(第68期生)卒で、1941年12月8日の真珠湾攻撃では特殊潜航艇「甲標的」の艇長としてハワイ沖にいました。艇の故障や米軍の攻撃で座礁し、自爆装置を作動させて海に飛び込み、意識を失った状態で米軍に収容されて、太平洋戦争の日本人捕虜第1号となりました。

1941年(昭和16年)12月8日、日本海軍はハワイのオアフ島真珠湾に停泊するアメリカ海軍太平洋艦隊と周辺の軍事基地に対する攻撃を実施、空母艦載機による空襲に加えて、大型潜水艦から発進する特殊潜航艇「甲標的」による米軍艦艇への魚雷攻撃を図りました。酒巻少尉の甲標的は出撃前に羅針儀が故障し、現地で修理は出来ず、酒巻が出撃を主張して認められたのです。

12月6日甲標的はオアフ島沖で母艦から離され、真珠湾内のアメリカ海軍艦艇の攻撃に臨みましたが、酒巻艇は羅針儀が使えず珊瑚礁に座礁し、一旦逃れたものの、再度、座礁しました。

甲標的に時限爆弾を仕掛けて鹵獲を防ぎ、同乗の稲垣清二等兵曹と共に脱出しましたが、漂流中に稲垣とはぐれ、酒巻は海岸に漂着し意識のない状態で米軍に収容されたのです。

真珠湾に打ち上げられた甲標的

日本海軍は甲標的全艇が集合地点に帰還せず、米軍が潜水艇撃沈を報じたことから、当初、甲標的の全員が戦死したものと考えていました。後に米軍の放送で酒巻が捕虜となったことが分かりましたが、日本海軍は秘密にします。

1899年オランダ・ハーグで第1回万国平和会議が開かれ、捕虜の扱いを定めた「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」が採択されています。俘虜は人道をもって取り扱うこととされ、1907年の第2回万国平和会議やジュネーヴ条約等で取り決めが拡張されて今日に至っています。

捕虜は尋問を受けた際に自らの氏名、階級、生年月日及び識別番号等を答えなければなりませんが、これ以外に自軍や自己に関する情報を伝える義務はありません。捕虜は出身国に通知され、家族に自身の安否や所在を伝えることも出来るのです。

日露戦争では開戦直後の1904年2月21日に俘虜情報局が設置されていますが、両国の俘虜の名前が交換され、官報での公表や家族への通知も行われていました。旅順要塞降伏後には日本人捕虜101人が解放されましたが、彼らは「旅順口生還者」と呼ばれ冷遇されることはありませんでした。

1942年3月大本営は酒巻を除く9人を「九軍神」として発表します。酒巻家では、実家を訪れた海軍士官から特殊潜航艇乗り組みであったことを伏せて「戦死」と伝えられ、後日来訪した士官からは「生死不明」で、このことは他言無用と云われました。酒巻は1944年(昭和19年)8月31日付で予備役に編入されています。

酒巻は同じ捕虜収容所に収容されたハワイ浄土宗第8代総長の名護忍亮師に「捕虜として生きる教え」を受け、アメリカ本土に移された後には、多くの精神状態を正常に維持できていない捕虜が自決をしないよう説得しています。酒巻は日本語通訳として働き、捕虜としての態度は立派で、アメリカ軍関係者も賞めていました。

酒巻以後に捕虜になった日本の軍人たちは、実名を述べて親族が「非国民」にされるのを恐れて偽名を申告することが多くなり、偽名が通告された捕虜たちは我が国では「未帰還者」として扱われました。

1946年(昭和21年)酒巻はアメリカから復員しました。捕虜を恥とする価値観は敗戦後も我が国では消えず、12月8日が近づくと新聞やテレビの記者が酒巻を訪ねることが続きましたが、一部を手記に発表した他は、家族にも戦争のことは話さなかったと云われます。

酒巻は結婚してトヨタ自動車へ入社、英語を生かして輸出部次長などを勤め、1969年(昭和44年)に「トヨタ・ド・ブラジル」の社長に就任、1987年(昭和62年)にトヨタ自動車を退職、1999年(平成11年)11月29日81歳まで長寿を保ちました。

甲標的の訓練施設があった愛媛県伊方町には1966年(昭和41年)に建てられた「大東亜戦争九軍神慰霊碑」があります。2021年12月8日その慰霊の隣に、酒巻を含めた10人の「史跡 真珠湾特別攻撃隊の碑」が建てられ、この碑には出撃前に撮影された10人の写真が埋め込まれました。

酒巻は戦後に至っても我が国民から「非国民」として非難されましたが、意識を失って米軍に収容されていなければ、酒巻は、正しく、軍神になっていた筈なのです。

史跡 真珠湾特別攻撃隊の碑

前列右端が酒巻少尉

第二次世界大戦で各国の捕虜になった兵員の人数は、ドイツ9,451,000人、フランス5,893,000人、イタリア4,906,000人、イギリス1,811,000人、ポーランド780,000人、ユーゴスラビア682,000人、ベルギー590,000人、フランス植民地525,000人が50万人越えと膨大な数です。日本は40,000人でした。

これほど多くの捕虜が出るのは、どこの国も敗けている部隊が全滅するまで戦うことを命ずることはなく、その部隊が全滅するまでの間に貴重な戦力を新たに注ぎ込むことはしないからです。

戦略的価値を無くした戦線や、形勢逆転の可能性の無くなった部隊に捕虜になることを許容すれば、その戦局を見捨てる選択肢が得られて軍事的に大きなメリットが生じるのです。

1941年(昭和16年)1月8日に陸軍大臣東條英機が示達した戦陣訓(陸訓1号)には「生きて虜囚の辱めを受けず」の一節があります。各国は捕虜になった場合を想定して、敵に味方の情報を与えることがないよう教え込むのですが、捕虜になることを想定しない我が国では、その教育はされませんでした。

敗色濃厚になった1944年(昭和19年)東條は戦争遂行のために国務と統帥の一致が必要であると、首相・陸相と参謀総長の兼務に踏み切り、2月22日の「非常時宣言」の本土決戦の項では「一億玉砕の覚悟」を国民に訴え、婦女子に対しても死を決する精神的土壌を育む意味で竹槍訓練を求めたのです。

戦闘能力のまったくない老人や幼児を含む国民のすべてに「一億玉砕」を求めたところで「竹槍戦術」で日本本土防衛が出来る筈はなく、一億が玉砕してしまっては大和民族の名誉などある筈もないのです。

我が国は戦後GHQに戦前、戦中、戦後の我が国の歴史に触れることを一切禁じられました。戦前の軍国少年ではなかった戦後生まれの人々が、戦争関連の我が国の歴史を改めて考証するようになったのは近年のことです。

敗色濃厚の戦争末期にあっても、軍人として、飛行機乗りとして、敵国の将兵から特別の賞賛を得た富安中尉のような煌めきが存在した歴史は日本国民として忘れてはなりません。今後、再び、「一億玉砕」などと云う戯れごとも繰り返してはならないと云うのが、我が国の無条件降伏によって、自らの生きる機会を取り戻すことが出来た戦前派が抱く強い思いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







 

 

 

 







 

 

 

 


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東条英機と竹槍事件 

2024-08-01 06:21:03 | 日記

「竹槍事件」は第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)2月23日付けの毎日新聞第一面に掲載された、戦局解説記事が原因となった言論弾圧事件です。毎日新聞社政経部の記者で、海軍省記者クラブの主任記者であった新名丈夫(しんみょう たけお)が執筆した「勝利か滅亡か 戦局はここまで来た」という大見出しの記事が南方の防衛線の窮状を説き「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」というもう一つの記事で、さらに、海軍航空力の増強を訴えたのです。

東條英機首相はこの記事に怒り、毎日新聞は大本営報道部長から掲載紙の発禁および編集責任者と筆者の処分を命じられます。毎日新聞は編集責任者を処分しましたが筆者は処分せず、新名はほどなく37歳にして陸軍に召集されます。

この事件の背景には海軍が海洋航空力増強のためにより多くの航空機用資材を求めても陸軍が応じず、海軍機の工場の技師を召集するなど、航空機や軍需物資の配分をめぐる陸海軍の深刻な対立がありました。

深刻な航空機不足に直面していた海軍は陸軍や東條への不満が強まっており、新名が吉岡文六編集局長に「日本の破局が目前に迫っているのに国民は陸海軍の酷い相克を知りません。今こそ言論機関が立ち上がるほかありません」と、海軍に同調した記事を書く上告書を提出したのです。

新名は1つの記事で「勝利か滅亡か戦局はここまで来た、戦争は果たして勝っているのか、ガダルカナル以来過去一年半余我が陸海将兵の血戦死闘にもかかわらず、太平洋の戦線は次第に後退の一途を辿っている事実をわれわれは深省しなければならない」

「日本は建国以来最大の難局を迎えており、大和民族は存亡の危機に立たされている。大東亜戦争の勝敗は太平洋上で決せられるものであり、敵が日本本土沿岸に侵攻して来てからでは万事休すである」と説き、

もう1つの記事「竹槍では間に合わぬ。飛行機だ、海洋航空機だ」では「大東亜戦争の勝敗は海洋航空兵力の増強にかかっており、敵の航空兵力に対して竹槍で対抗することはできない」

「ガダルカナル以来の我が戦線が次第に後退のやむなきに至ったのも、アッツの玉砕も、ギルバートの玉砕も、一にわが海洋航空戦力が量において敵に劣勢であったためではなかろうか」と述べました。

同じ日の一面にあった毎日新聞社説も「今ぞ深思の時である」と精神主義について批判し「我らは敵の侵攻を食い止められるのはただ飛行機と鉄量とを、敵の保有する何分の一かを送ることにあると幾度となく知らされた。然るにこの戦局はこの要求が一向に満たされないことを示す。必勝の信念だけでは戦争に勝てない」と批判し、陥落したばかりのマーシャル・ギルバート諸島から日本本土や台湾・フィリピンへ至る米軍の予想侵攻路が添えられていました。

新名は日米開戦当初から海軍を担当していて、昭和18年1月から約半年間はガダルカナルで前線の惨状をつぶさに見、またマーシャル・ギルバート陥落では大本営が20日間も報道発表をためらって大騒動を演じている様子を見て、日本の窮状と大本営の内状をよく把握していました。

実はこの日の毎日新聞一面の「トップ記事」は、前日の2月22日に東条首相が閣議で発表した「非常時宣言」を載せた特別な記事だったのです。

東條は戦争遂行のために国務と統帥の一致が必要と考えて首相・陸相と参謀総長の兼務に踏み切り、「非常時宣言」の中の本土決戦では「一億玉砕の覚悟」を国民に訴え、銃後の婦女子に対しても死を決する精神的土壌を育む意味で竹槍訓練を求めました。

東条の写真が大きく掲載されたそのトップ記事の直下に「竹槍では間に合わぬ、 飛行機だ、海洋航空機だ」と真っ向からそれに挑戦する見出しが躍ったのです。陸軍報道部は毎日新聞に処分を要求、内務省は掲載新聞朝刊の発売・頒布禁止と差し押さえ処分を通達しましたが、問題の朝刊は配達を終えた後でした。

同日の毎日新聞夕刊のトップには、火に油を注ぐように「いまや一歩も後退許されず、即時敵前行動へ」と題する記事が、再び、掲載されます。

「日本の抹殺、世界制圧を企てた敵アングロサクソンの野望に対し、われわれは日本の存亡を賭して決起したのである。敵が万が一にもわが神州の地に来襲し来らんには、われらは囚虜の辱めを受けんよりは肉親相刺して、互に祖先の血を守つて皇土に殉ぜんのみである。われらの骨、われらの血を以てわが光輝ある歴史と伝統のある皇土を守るべき秋は来たのだ」と戦争自体は肯定した上で、現状の戦況悪化を伝え、その打開策を提言したのでした。

東條は「統帥権干犯だ」と怒り、新名は吉岡文六編集局長に進退伺いを提出しましたが吉岡は受理せず、3月1日吉岡局長自身が加茂勝雄編集局次長ともに引責辞任しました。この記事は毎日新聞読者の大きな反響を呼び、海軍省報道部の田中少佐は海軍省記者クラブで「この記事は全海軍の言わんとするところだ」と述べています。

東條は村田五郎内閣情報局次長に「竹槍作戦は陸軍の根本作戦ではないか。毎日を廃刊にしろ」と命じます。村田は「日本の世論を代表している新聞のひとつがあのくらいの記事で廃刊になれば、世論の物議を醸し、外国からも笑われます」と東條を諫めました。

陸軍報道部は翌24日の朝日新聞に「陸軍の大陸での作戦は、海軍の太平洋での作戦と同じくらい重要だ」という内容の指導記事を掲載させます。

毎日新聞は責任者を処分しましたが、新名には編集局長賞を与えました。記事執筆から8日後に新名に召集令状が届き、新名本人も周囲も、東條首相による「懲戒召集」だと受け止めました。

新名は二等兵として丸亀の重機関銃中隊に入営しました。激戦地となることが予想される硫黄島の「球」部隊へ転属させるよう中央から指令が届いていましたが、「球」の通称を持つ部隊は実は沖縄に配置された第32軍でした。

新名の召集に海軍の抗議があり、新名は日中戦争で善通寺師団の従軍記者をしていた縁で、中隊内では特別待遇を受け3か月で召集解除となり、便宜を図ってくれた中隊長は再召集を避けるのに内地にはいないほうがよいと示唆します。

陸軍は案の定新名の再召集を試みましたが、海軍が先回りして報道班員として外地に送ってしまっていました。当時、新名の年令の召集兵は1人もおらず、陸軍は新名と同じ30台後半の250人を召集して辻褄を合わせました。

当時の海軍報道部長栗原悦蔵少将は「もう太平洋の制空権はほとんど失ってしまった」「海軍としては国民全体に知らせたいと思って、私もずいぶん海軍省記者クラブにも図ったが、書く人がいない。そこを新名さんが書いてくれた」と証言しています。

これに先立つ2月17日、日本海軍が中部太平洋の拠点としたトラック島がアメリカ海軍機動部隊の猛攻で壊滅的打撃を受けて無力化されました。東条内閣は21日には「軍」の意思が政治を支配できるよう、行政と軍の統帥を分ける慣例をやぶって、陸軍大臣、軍需大臣を兼務する東條首相が陸軍参謀総長を兼務、嶋田繁太郎海軍大臣が海軍軍令部総長を兼務する人事を断行しました。

さらに2月22日には閣議を宮中で行うよう従来の慣行を改め、毎日新聞は2月23日一面トップで「皇国存亡の岐路に立つ 首相・閣議で一大勇猛心強調 秋(とき)正に危急、総力を絞り 果断・必勝の途開かん 転機に処す新方策考へあり」 と報じたのです。

しかし、なんと、その一面トップ記事の真下に「勝利か滅亡か 戦局は茲まで来た 眦(まなじり)決して見よ、敵の鋏状侵冠」と題する記事と「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」と題する2つの記事を載せたのです。

「今こそわれらは直視しなければならない、戦争は果して勝つているか、ガダルカナル以来過去一年半余り、わが忠勇なる陸海将士の血戦死闘にもかかわらず太平洋の戦線は次第に後退の一路を辿り来った血涙の事実を、われわれは深省しなければならない」

「航空兵力こそが主兵力となり決戦兵力となった現在の太平洋の戦いにおいて、航空戦が膨大な消耗戦であることから目をそらしてはいけない。海上補給にせよ、潜水艦戦にせよ、飛行機の掩護なしには成り立たず、ガダルカナル以来の戦線が次第に後退したのも、アッツやギルバートの玉砕も、一にわが海洋航空兵力が量において敵に劣勢だったためではないか、航空兵力こそ勝敗の鍵を握るものなのである」と述べ

「敵が飛行機で攻めてくるのに竹槍を以ては戦い得ないのだ。帝國の存亡を決するものはわが航空戦力の飛躍増強に対するわが戦力の結集如何にかかつているのではないか」と締めくくっています。

加えてこの日の社説も「決戦体制がいまなお整備されていない」ことを主題としながら、暗に「大本営発表」に疑問を呈し「わが国が今日まで取り来り現在なお取りつつある施策の方針によつて、最後の勝利を獲得する確信があるのか」と刺激的な文言が並びました。

昭和19年暮ルソン島への敵の上陸が予想され、第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将は第一航空艦隊附の新名に、特攻隊の様子を内地に伝えることを命じ「第一航空艦隊からの出張」の名目で内地に帰らせます。

日本に帰った新名は人間爆弾「桜花」部隊の初出撃や、厚木の第三〇二海軍航空隊などの前線部隊を取材し、終戦工作の立役者である井上成美大将や高木惣吉少将など海軍中枢とのインタビューを行っています。

新名は敗戦後、取材した特攻隊員たちや報道班員たちの記録を個人で保管していました。それらの記録が初めて世に出たのは、1967年(昭和42年)の写真集「あゝ航空隊 続・日本の戦歴」でした。

新名と特攻隊員たちの交流は戦後長く続き、1981年(昭和56年)病に倒れて入院した身寄りのない新名を多くの元特攻隊員が見舞い、交代でつきっきりで看病したと伝えられます。新名は4月30日死去、享年74。

終戦当時、私は中学3年で中国の天津にいました。満州の重工業地帯を爆撃に行くB29の編隊が天津上空を通過し、P-51 ムスタングの2機編隊が連日蒸気機関車を銃撃に来て、華北交通の1200台の蒸気機関車の内800台が機銃照射で蒸気を噴いて動けなくなりました。内地から補充されてくる召集兵が銃を持たずに丸腰でくるのを見て、これでは勝てる筈はないと思ったものです。

3年になってから授業は1日もなく、兵営に寝泊まりして「手投げ爆弾」の製造をさせられていました。誰も自殺兵器だなどと口に出すものはいませんが、戦車が来るまで蛸壺に隠れて待つにしても、身を乗り出して敵の戦車に投げつける手投げ爆弾ですから、生還はまったく期しえません。

製造作業は粉末の火薬を固めて、爆弾として投げられるように形を整える工程でした。暑いので上半身真っ裸で作業をしていましたが、火薬の中毒で、1日の作業で尿に火薬の色が付き、1週間で下痢が始まり、体力を異常に消耗しました。

正規の火薬工場では中毒を避けるため、皮膚を火薬に曝さないように厳重に全身を覆って作業するのだそうですが、当時、作業させる兵隊も、作業する我々も、火薬中毒などまったく知りません。

敗けると決まっていた戦争が終わって「一億総玉砕」でまったく無駄に死ななければならなかった必然性がなくなった時の解放感は、絶大でした。私が戦後にいろいろな困難に耐え抜いて来られたのも、正に、死ななくて済んだと云う底抜けの解放感に支えられたものでした。

毎日新聞の紙面の写真はブログに引用できませんが、当日の朝刊、夕刊の記事の写真を別途にご参照下さると、その迫力にご納得がいくと思います。

 

 

 

 

 


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