「屯田兵」(とんでんへい)は明治政府がロシアに対する北方警備と北海道の開拓を目的として、1873年(明治6年)12月25日北海道に兵農の人員を組織的に配備することを決めた制度です。1875年から実施され1904年(明治37年)まで続きました。
現代の我々にとっての北海道は、1951年(昭和26年)に羽田と千歳が空路で結ばれ、1970年(昭和45年)札幌市が百万都市となって、2004年(平成16年)パリーグの日本ハムが本拠地を移し、2016年(平成28年)北海道新幹線が開業して、本州、四国、九州と同じ感覚になっていますが、150年前の蝦夷地はまったく違いました。
縄文時代の日本列島には北は北海道から南は沖縄まで、現代の日本人とDNAのハプロタイプを同じくする縄文人が住んでいました。西日本から始まった米作りの弥生文化は東北地方までしか達せず、紀元前数世紀から7世紀(弥生時代から古墳時代)頃までの蝦夷地の文化は「続縄文文化」と呼ばれ「擦文文化」に続きます。
続縄文時代の蝦夷地の人々は本州との交易によって鉄器を手に入れ、縄文文化を発展させていきました。明治初期の蝦夷地には縄文人の子孫と、本州から道南に渡った和人、5世紀以後に沿海州から渡ってきたアイヌがいたのです。
1778年(安永7年)ロシア商人がノツマカップ(現根室市)で松前藩の役人に初めて接触し、通商交易を申し入れます。松前藩は「長崎で交渉して欲しい」と回答して、幕府に報告はしませんでした。
ロシアは皇帝イワン4世時代にウラル山脈を東に越えてシベリヤの征服を目指し、1581年コサックが西シベリアを征服して東進し、1636年にはオホーツク海に達し、1697年にはカムチャッカ半島に到ります。ロシア人はウルップ島や国後・択捉島に上陸して、アイヌにラッコを獲らせました。
江戸幕府はこのままではロシアの南下政策に対処できないと判断し、1807年(文化4年)蝦夷地を幕府直轄地として、東北地方の諸藩に防備を命じました。1811年(文化8年)来航したロシア艦長ゴローニンが、国後島で南部藩兵に逮捕された「ゴローニン事件」が知られています。
幕府は1855年(安政元年)アメリカと和親条約を締結、同年ロシアとも日露和親条約を結び樺太の雑居制を約束しました。1868年(明治元年)1月公卿の清水谷公考が蝦夷地の現況を明治政府に伝え、鎮撫使を派遣するよう建議します。
新政府は蝦夷地に箱館府を設置して清水谷を知事に任命し、清水谷は同年4月幕府の箱館奉行を廃して、奉行のもとにいた藩兵を指揮下におきます。
戊辰戦争末期の1868年9月榎本武揚の旧幕府艦隊が仙台で旧幕府脱走軍を収容し、10月20日蝦夷地に上陸して新政府軍を破り、25日箱館を占拠しました。新政府は1869年3月征討軍を派遣して4月9日江差北方に上陸、5月13日政府軍参謀黒田清隆が五稜郭の榎本に降服を勧告、榎本は18日に開城して戊辰戦争が終わりました。
1868年7月政府は蝦夷地を北海道と改め「開拓使」として長官に鍋島直正、次官に清水谷を命じ、佐賀藩士島義勇が札幌北府の建設を命ぜられて札幌の中央に当たる大通公園、創成川を基線に街づくりの基礎を描きました。
1869年2月第二代長官東久世通禧と意見が対立して島は更迭されますが、建設構想は出来上がっていて、島は「北海道開拓の父」として、北海道神宮境内の開拓神社に祭られています。
日露の雑居制を結んだ樺太では紛争が次々と発生し、政府は樺太出兵論を抑えて事態の収拾を図ります。1870年(明治3年)5月黒田が北海道開拓使次官に任命され、黒田は国内の機構整備を主張して樺太は放棄しても止むを得ないとする立場でしたが、7月に樺太に出張してロシア側の態度を確かめ、益々、樺太放棄に傾きます。
黒田清隆 後の第二代内閣総理大臣
黒田は樺太の帰途に西側から北海道の奥地に入り、気候風土やアイヌの生活を視察しました。黒田は石狩に全道を総括する鎮府を置くこと、総督に大臣級を任命すること、道内を統括するには諸県とすること、歳費を150万両とすること、樺太を北海道開拓使が統治すること、開拓のため外国人を招聘すること、人材確保を目的で留学生を外国に派遣すること、開拓機器を外国から購入することなど、北海道に和人を早急に移住させる建議をします。
黒田の建議は政府内で大きな反響を呼び、1871年黒田はアメリカヘ渡り北海道の開拓に必要な人材を求め、1871年7月駐米公使の森有礼が推挙した米国農務省総裁ケプロンが来日して、北海道開拓の第一歩を踏み出します。
問題は北海道の国防でした。参議西郷隆盛の発想は鎮台の設置でしたが、地元の人口が少なくて徴兵では人数が調わず、移住者を土着兵として鎮台を設置する案になります。西郷は桐野利秋少将を北海道へ派遣し、桐野は札幌西部の琴似周辺が鎮台の設置に有望であると回答しましたが、西郷は1873年(明治6年)10月に征韓論に破れて下野します。
1873年6月北海道で初めての漁民の騒乱事件が起きました。青森県の管轄下にあった道南の福山・江差地区がこの年から開拓使の管轄下に置かれ、5%だった漁税が10%に引き上げられたのが事件の発端でした。
函館支庁の杉浦誠は東京の黒田に報告し、青森の鎮台に派遣を要請、6月26日黒田が現場に到着して事件を処理しましたが、他県から軍隊を派遣したのは初めてでした。
黒田は「屯田兵制度」を検討し、早急に実現すべきと判断します。陸軍中将の黒田が屯田兵と開拓使の両方の長の要件を満たし、屯田兵が軍事と開拓の両方を行う「屯田憲兵例則案」を政府に提出しました。道南の騒乱後であったため黒田の建議に反対の意見はなく、1873年(明治6年)12月25日屯田兵制度の実施が決定されます。
屯田兵の基本法が通ると、屯田兵とその家族の入植準備が進められました。黒田の建白書には青森・宮城・酒田3県の士族で生活に困窮している者を招募すると書かれ、この士族は戊辰戦争時の賊軍を指していました。
1875年(明治8年)5月青森・宮城・酒田3県と道内の函館周辺にいた士族ら合計198戸、その家族965人が札幌の西方の琴似兵村へ入植しました。翌年には札幌の南方の山鼻兵村へ240戸が入植し、それに加えて琴似兵村の補充屯田兵32名が発寒兵村へ入植、この年は275戸とその家族1,074人でした。琴似兵村が第一中隊、山鼻兵村が第二中隊として、屯田兵第一大隊を編成します。
初期の屯田兵とその家族
1877年(明治10年)屯田兵部隊が西南戦争に出征します。屯田兵部隊の幹部の多くは鹿児島出身で親兄弟と戦わなければならず、兵は戊辰戦争の賊軍や子が大半で親兄弟の仇を取る戦になりました。
屯田兵部隊は7人の戦死者と多くの負傷者を出しましたが、終焉をまたずに9月29日小樽港に帰還し、琴似・山鼻両兵村へ帰りました。開拓使は戦闘に参加した屯田兵の扶助期間を1年延長する措置を取り、屯田兵達は政府がやっと賊軍の汚名の返上を認めたと納得しました。
1882年(明治15年)開拓使が廃止され、札幌・函館・根室3県と事業局の時代になり、屯田兵は陸軍省の管轄下に入ります。管理運営費は北海道全般の予算から支出されましたが、屯田兵入植に関する費用は含まれませんでした。
農商務省は全国の士族の北海道への開拓移住を計画し「移住士族取扱規則」を施行します。1882年(明治15年)から1889年(明治22年)まで、毎年250戸(札幌県150戸、函館県50戸、根室県50戸)を入植させる計画でした。
この計画は2年目で中止され、その予算の残額が1884年(明治17年)から5年計画の屯田兵の入植費用に振替えられます。札幌防衛のための江別兵村だけでは、太平洋沿岸にいつ上陸するか知れないロシアに対抗できないと、屯田事務局長の永山武四郎が政府に陳情した結果でした。
1884年(明治17年)から江別に追加入植が行われ、翌年、翌々年の江別の補充と野幌兵村の220戸、根室の和田兵村220戸が入植し、1887年(明治20年)には室蘭地区の輪西兵村および札幌の北方の新琴似に屯田兵を入植させました。
屯田事務局は受入れ対策の強化に乗り出します。その第一は「屯田兵条例」や「召募規則」を整備すること、第二は幹部の育成でした。札幌農学校の生徒に屯田兵の幹部への途を開き、琴似・山鼻の屯田兵の中で優秀な者を札幌農学校へ入学させて幹部を養成しました。
屯田兵の中央機関は屯田兵本部になり、本部長は陸軍少将で独立旅団と同格になります。規則、組織、機構を拡大して屯田兵の増加計画が実施できたのは、北海道の実情を深く理解していた黒田が総理だったのと無縁ではありません。
1889年(明治22年)屯田兵本部長になった永山は、石狩川流域の開拓を主体とした屯田兵20個中隊編成の計画を提出します。1個中隊220名とその家族を入植させる計画で、その数は計4,400名です。
この年に篠路兵村に220名、西和田兵村に追加の100名、輪西兵村にも追加の110名の入植を見、翌年には厚岸町の太田両兵村440名と滝川両兵村400名の入植が実現しました。1890年からは年間予算が帝国議会で審議されることになり、1891年より毎年500名の屯田兵入植の予算が決定されました。
屯田兵は入植した地域の特性によって、軍備主体か、開拓主体かになりました。札幌地区4個中隊、江別地区2個中隊は札幌防備が主体で開拓事業を併せて行いましたが、太平洋沿岸地区5個中隊は国防のみで、土地は農業適地ではなく開拓は成功しませんでした。
空知地区4個中隊は現在の滝川市を中心の入植で、石狩川中流は沃肥な農業適地で農業経営に成功し、騎兵160戸、砲兵120戸、工兵120戸が入植した美唄地区は最も農業に適した地域でした。
雨竜地区5個中隊は、1895年(明治28年)から1896年(明治29年)にかけて1千戸の入植者で形成した石狩川流域の最終入植で、各兵村ともに水稲栽培に成功します。旭川地区の6個中隊も沃肥で農業適地であったため、屯田兵村の典型的な農業経営が行なわれました。
常呂・湧別地区には国防のための5個中隊が設置されましたが農業には適せず、天塩川地区は3個中隊で1899年(明治32年)剣渕及び士別に最後の屯田兵が入植しました。
日清戦争中に屯田兵4個大隊と特科隊騎兵・砲兵・工兵各隊が召集され、臨時第七師団が編成されます。これをきっかけに戦後第七師団が新設され、屯田兵は第七師団に所属することになりました。
明治30年代の屯田兵は9つの地区に37の兵村を置き、兵数は7,337名、その家族は3万9,911人に上りました。屯田兵の最後の入植者が5年間の現役を終えて後備役となった1904年(明治37年)9月に屯田兵制度は廃止されます。
屯田兵とその家族の兵村での開拓生活の実態は、毎年4月から11月の間は朝4時のラッパで一斉に起床、主婦は30分ぐらい前に起きて朝昼の食事を準備、中隊の兵屋前に全員が整列して5時に週番士官が点呼を取ります。
6時のラッパを合図に屯田兵は中隊本部前に集合、家族は直接それぞれの開拓現場へ行き、正午まで一切休みなし、午後は1時から6時まで仕事が続けられました。
春から秋までは休日以外全員が仕事をする重労働で、屯田兵による開拓は一般の開拓者より速いとされますが、中隊の組織の下で厳しく進められた結果です。
開拓者が未開地へ行こうと決心するには大きな勇気が必要でした。一般開拓者は予め北海道内の場所の説明を受けて出発しましたが、九州・四国・中国地方の人々は、北国の過酷な環境について説明されても実感できなかったとみられます。
屯田兵は入植地がどんな場所か、まったく、知らずに現地入りしました。毎年5月、6月の移住でも春の遅い北海道の寒さは厳しく、兵村に到着しても自分の兵屋を見つけるのに一苦労で、原始林の中にぽつんと建つ自分の家をやっと見付けた時の心情は「女子供はみんな泣きました。こんなところに来て」と綴られています。
納内村に建てられた屯田兵屋
納内屯田兵屋の内部
「芋の屯田兵」としばしば呼ばれましたが、日銭がまったくなく、官給の米を食べずに売って日用品を買う生活でした。屯田兵とその家族は次第にこの生活に慣れ、開拓では皆で協力しなければ太い木の幹が切り倒せず「協同」という言葉は兵村にすぐに根付いたと云われます。
屯田兵や家族が最も嫌がったのは他人より開墾が遅れることでした。機械を利用できない時代なので人手が多いほど早く開墾でき、家族が少ないほど苦労が多くなりましたが、入植時に抽選で決まる土地の「くじ運」も大きく左右しました。
北海道を早急に開拓する必要性は北の護りが第一でしたが、未開地での農業経営も国家の大事業でした。その大事業の担い手は屯田兵とその家族で、屯田兵は禁じられた水稲づくりにも挑戦し、営倉に入れられながらも試作を続けて成功したのです。
北海道全道に点在した屯田兵村
1869年(明治2年)の札幌本府の建設開始以前に札幌に住んでいた和人は、僅か2家族でした。札幌農学校やクラーク博士は、清らかな北の大地の実り豊かな開拓者としての明るいイメージを持ちますが、農学校の開設もクラーク博士の招聘も屯田兵制度の中での計画です。
1872年(明治5年)東京に設けられた北海道開拓使仮学校が1875年札幌に移転し、1876年8月クラーク博士を教頭(最高責任者)として札幌農学校が開校されたのです。
屯田兵村の広がりは分布図でよく分かりますが、北海道の農業基盤は原始林の中に初めて自分の家を見て、女子供がみんな泣いたと云う、屯田兵とその家族の苦労が創り上げたものです。
軍備を主眼に不毛の地に設置された屯田兵村は別として、北の原野であらゆる困難を克服して粘り強く農地を開発した屯田兵とその家族の開拓者精神こそが、北海道発展の礎となったのです。日本民族が忘れてはいけない後世に永く伝えるべき歴史のドラマでしょう。