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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

東北戦争(戊辰戦争)

2023-10-26 06:41:24 | 日記

「戊辰戦争」は1868年(慶応4年)の「鳥羽・伏見の戦い」から始まり、1869年(明治2年)の「箱館戦争」で終わった国内戦争ですが、江戸幕府の中世の政治体制が終わり、明治維新によって我が国は近代国家に生まれ変わりました。

戊辰戦争については、江戸城の無血開城の途を開いた西郷隆盛、勝安芳の会談や、「会津戦争」での鶴ヶ城の落城と白虎隊の最後などは良く伝えられていますが、「東北戦争」で朝敵となった庄内藩の新政府軍への果敢な敵対行為、新政府軍に加わって抜群の功績を挙げた久保田藩(秋田藩)の活躍については、多くは語られていません。

京都所司代として京都の治安を担当していた会津藩主松平容保は、尊王攘夷派を弾圧して志士たちの恨みを買い、鳥羽・伏見の戦いでは弟の桑名藩主松平定敬と共に旧幕府軍の主力となって、朝敵と認定されます。

鳥羽伏見の戦いに勝った新政府は、慶応4年(1868年)1月17日仙台藩に会津藩の追討を命じますが、仙台藩は動きません。2月25日庄内藩に会津藩追討への参加を迫りましたが、庄内藩は拒否します。会津藩は天皇への嘆願書で恭順を表明しましたが、新政府の権威は認めず、謝罪もせず、武装も解きませんでした。

3月22日会津藩と庄内藩討伐のための新政府軍が海路仙台に到着します。「奥羽鎮撫総督府」の総督九条道孝、副総督澤為量、参謀醍醐忠敬、下参謀世良修蔵(長州藩)、大山綱良(薩摩藩)らが率いた薩摩兵、長州兵200名、筑前兵158名、仙台兵100名でした。3月29日奥羽鎮撫総督府は東北地方諸藩に会津藩と庄内藩の追討を命じます。

戊辰戦争の戦線の変遷

4月10日庄内藩主酒井忠篤が江戸城下を荒らし回っていた薩摩藩の江戸屋敷を焼き討し、翌4月11日に江戸城が無血開城、4月19日仙台藩主伊達慶邦率いる仙台軍が会津藩領に進攻しました。仙台藩は3月26日に会津藩に降伏勧告をしており、4月21日会津藩は仙台藩に降伏します。

会津藩の降伏の条件は、会津藩が武装を維持して新政府の立ち入りを許さずに藩主松平容保が城外へ退去して謹慎することと領地の減封でした。しかし会津藩は数日後に合意を翻す内容を仙台藩に伝え、仙台藩は会津藩への降伏の説得を諦めます。

4月23日澤副総督率いる新政府軍が、庄内藩攻撃のため仙台から出陣しました。新政府軍は奥羽鎮撫使先導役を命じられた天童藩の先導で庄内藩に向かいましたが、庄内藩の強力な武力に大敗を喫し、逆に、天童城や城下の半分を焼き討ちされます。

庄内藩は大富豪の本間家の献金で軍備の洋式化が進んでいて、7連発のスペンサー銃など最新式の銃や大量の弾薬を手にしており、最終的には4,500名の兵力を動員します。

宇都宮城を旧幕府軍が4月19日に一時的に占領した報が伝わると、仙台藩では会津藩、庄内藩と協調して新政府に敵対する意見が多数に上ります。閏4月4日仙台藩主席家老但木成行は奥羽14藩の会議を開き、会津藩、庄内藩の赦免の嘆願書を新政府に提出します。歎願書には要求が入れられない場合、新政府に敵対する声明が付けられていました。閏4月17日新政府は嘆願書を却下し、奥羽14藩は政府軍への敵対を決めます。

閏4月20日仙台藩と福島藩は仙台からの新政府軍の留守中に、総督府の下参謀世良修蔵、報国隊勝見善太郎を捕えて斬首し、九条総督と醍醐参謀を仙台城下に軟禁しました。

閏4月21日薩摩藩士鮫島金兵衛を軍監とする盛岡藩兵が新政府軍への援軍として仙台まで来ましたが、仙台藩は盛岡藩の進軍を遮って鮫島を殺害し、盛岡藩兵は仙台藩と戦端を開くのを避けて撤兵しました。

閏4月22日会津藩と庄内藩の赦免を嘆願する会議を、新政府に敵対する軍事同盟に切り換える工作が仙台藩と米沢藩を中心に展開されました。赦免の嘆願書は天皇に直接建白する形に変更され、閏4月23日新たに東北の11藩を加えた25藩による「奥羽列藩盟約書」が調印されて、会津、庄内両藩への寛典を要望する太政官建白書も作成されます。

新政府軍が「北越戦争」で武装中立を認めなかった長岡藩、新発田藩等の「北越同盟」6藩が奥羽列藩同盟に加入し、31藩による「奥羽越列藩同盟」が成立しました。

この列藩同盟は天皇への嘆願を目的とする各藩のゆるい連合体の会議が、途中から新政府に敵対する明確な軍事同盟に換ったため、敵対を考えていなかった藩の思惑とは異なる結果となり、軍事同盟としての統一戦略を欠きます。

仙台藩と会津藩は上野戦争から逃れてきた孝明天皇の義弟、輪王寺宮公現法親王を仙台城下に迎え入れ、6月16日軍事的要素を含まない条件で列藩同盟の盟主に据えました。

新政府は軟禁された九条総督と醍醐参謀救出のために、佐賀藩士前山長定率いる佐賀藩兵と小倉藩兵を仙台に派遣します。閏4月29日この新政府軍部隊が海路で仙台に到着します。仙台藩は到着したのが薩長両藩の部隊ではなかったことから、折角、軟禁していた2名を前山の部隊に引き渡してしまい、新政府に人質を騙し取られた結果になりました。

6月18日救出された総督府の一行は盛岡に到着します。盛岡藩主南部利剛は1万両を献金しますが、態度は曖昧なままです。7月1日総督府一行は久保田藩(秋田藩)に入りました。久保田藩は国学者平田篤胤の出身地で尊王派が勢力を保っていました。

当時の久保田藩内には、弘前藩説得のために弘前に入ろうとした澤副総督が、弘前藩の反政府派に峠を封鎖されて留まっており、総督府の一行は結果的に澤、大山らの残存部隊と、久保田藩内で集結することになりました。

久保田藩の新政府への接近に気付いた仙台藩は、久保田藩に使者7名を派遣します。新政府軍の大山らの働きかけで、仙台藩による世良の殺害を知った久保田藩の尊皇攘夷派が、7月4日仙台藩の使者と盛岡藩の随員全員を殺害し、久保田藩は奥羽越列藩同盟を離脱して、東北地方における新政府軍の拠点となりました。

久保田藩に続いて新庄藩、本荘藩、亀田藩、矢島藩も新政府軍に恭順を示し、庄内藩は一部の部隊を北方へ向けて7月14日新庄藩主戸沢氏の居城新庄城を攻略、以後、反政府の庄内藩、仙台藩の部隊は新政府軍に付いた久保田領、本荘領、矢島領を次々と制圧していきます。

亀田藩は列藩同盟軍との交戦中に新政府軍に見殺しにされて、庄内藩と和議を結び、再度、列藩同盟軍に参加しました。どちらに属するか定まらなかった盛岡藩は、家老の楢山佐渡が列藩同盟に与することに決め、8月9日盛岡藩は久保田藩領に進攻して大館城を攻略しました。

久保田軍は本城の秋田城まで僅か3里(12キロ)の地点に防衛陣地を構築せざるを得ないほど追い詰められましたが、9月7日には新政府軍の援軍が到着して盛岡軍を藩境まで押し返します。

9月12日に上山藩が新政府軍に降伏、22日会津藩が降伏して東北戦争の勝敗がほぼ決し、同日盛岡藩が新政府軍に降伏、9月24日新政府軍の領内への侵入を許さなかった庄内藩も、亀田藩とともに降伏しました。

各藩の位置関係

明治2年(1869年)5月各藩主に代わり「反逆首謀者」として、仙台藩首席家老但木成行、仙台藩江戸詰め家老坂時秀、会津藩家老萱野長修が東京で、盛岡藩家老楢山佐渡が盛岡で刎首刑に処され、仙台藩家老の玉虫左太夫と若生文十郎も切腹させられました。

明治2年6月新政府から東北戦争の賞典として、久保田藩へ2万石、新庄藩へ1万5千石、弘前藩と本荘藩へ1万石、矢島藩へ1千石が、また岩崎藩(久保田新田藩)へは賞典金として2千両が下賜されました。

これらの賞典は各藩が消費した戦費や蒙った戦災の被害に対して、まったく見合わない少額で、特に久保田藩は藩領の3分の2が兵火にかかって人家の4割を焼失し、奥羽鎮撫使に従った15藩の約1万の将兵や、新庄藩、本荘藩、矢島藩から逃亡してきた藩主や藩士の家族の賄いまでのすべてを負担した結果、推定総額675,000両の戦費を消費していました。

新政府軍の中心となって働いた久保田藩の貢献度を、新政府が新政府軍並みに評価しなかった仕置きに不満が高まり、後の久保田藩領内での反政府運動に繋がります。

列藩同盟軍の中心となって敵対した庄内藩は、藩主酒井忠篤が強制隠居の上で謹慎、16万7,000石から12万石への減封で、忠篤の弟の忠宝の後継が許されました。

庄内藩への寛大な処分は、本間家を中心とする御用商人や上級武士、地主などによる新政府への献金や、西郷隆盛の意向が働いたためと云われます。忠篤は西郷への恩義を感じて、西郷の遺訓「南洲翁遺訓」を編纂したほどで、後の西南戦争でも元庄内藩士が西郷軍に参加しています。

盛岡藩主南部利剛は強制隠居の上謹慎、所領20万石が没収されて旧仙台藩領の白石へ13万石で転封され、利剛の長男利恭の後継が許されました。利恭は明治2年7月22日13万石で旧領盛岡への復帰が認められましたが、翌明治3年7月10日財政難により全国に先駆けて廃藩します。

亀田藩主岩城隆邦は強制隠居の上で謹慎、所領2万石のうち2,000石を没収されましたが、親族の堀田家から隆彰を養子に迎えて後継を許されました。

亀田藩の処分も庄内藩と同様に軽く、降伏嘆願書を提出した黒田清隆に、敵味方の両大藩に挟まれた小藩の事情を理解してもらえたのが、処分の軽く済んだ理由と云われています。

仙台藩伊達氏は全国の諸大名の中で最大の34万石の減封をされ、秩禄が減り困窮した家臣団が北海道へ入植して、新政府と共に札幌市を開拓したほか単独で伊達市なども開拓して、北海道開拓に功績を遺すことになります。

明治2年9月11日新政府は、会津松平家の禄高28万石を3万石へ減封して家名存続を許しました。11月3日封地を陸奥に決定し斗南に転封されます。現在の青森県東部の十和田市付近と、下北半島の大半の飛び地への転封でした。

斗南はまったくの不毛の土地で、実際に収穫される米は7千石に過ぎず、主家の存続を喜び、斗南の地の収容能力を超えて移住した1万7千人の旧会津藩士とその家族は、飢えと寒さで病死者が続出し、下北半島の飛び地への移住者は、特に、悲惨でした。

東北戦争の最終戦の函館戦争は、明治3年(1869年)6月黒田清隆の降伏勧告に榎本武揚が応じて終結しましたが、戊辰戦争によって諸藩の財政の極度の窮乏や、藩主の藩内統制力の喪失、勤王、佐幕両派の藩内抗争などが広く顕在化し、幕藩体制の解体が大きく促進されます。

藩主の多くは領地再編成で領主の権威が保たれ、危機から脱出できることを願って新政権への依存度を高め、この藩主階級の願望と新政府の政策が結びついて1869年(明治2年)版籍奉還が実現しました。
欧米諸国は戊辰戦争に対して局外中立の立場を取りましたが、フランスのレオン・ロッシュ公使は旧幕府側を支援、イギリス駐日公使館の通訳官アーネスト・サトウが日本の政権を「将軍」から「諸侯連合」に移すべきと発表するなど中立に反する動きが見られ、イギリスのトーマス・グラバーやプロイセンのスネル兄弟などの武器商人も、新政府、旧幕府の双方に武器を売却していました。

いずれにしても戊辰戦争が1年半の短い期間で終了し、中世の封建制度の終焉と近代の中央集権的統一国家の樹立がもたらされ、諸外国による我が国の植民地化の危機を回避できたのは、我が国にとって、大変、幸いでした。

 

 

 

 


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樋口季一郎

2023-10-12 06:16:50 | 日記

樋口季一郎(ひぐち きいちろう)は1888年(明治21年)8月20日生まれの陸軍軍人で、最終階級は中将です。淡路島出身で歩兵第四一連隊長、第三師団参謀長、ハルピン特務機関長、第九師団長等を歴任、第二次世界大戦終戦時には第五方面軍司令官兼北部軍管区司令官でした。

北部軍司令官時代の樋口季一郎中将 昭和18年頃

樋口は第二次世界大戦の直前、ドイツによる迫害から逃れたユダヤ人避難民に、満洲国を経由して上海を目指すことを認めた「ヒグチ・ルート」で知られています。

第二次世界大戦ではアリューシャン列島のアッツ島で麾下の部隊が初の玉砕を遂げましたが、キスカ島の部隊の奇跡的な完全撤収に成功したことでも知られました。

終戦の玉音放送後の8月18日千島列島北端の占守島に強行上陸してきたソ連軍を大本営の停戦命令に違反して撃退し、ソ連軍の北海道占領を遅らせて日本国の南北分断を未然に防ぎました。

樋口は1902年(明治35年)大阪陸軍地方幼年学校に入学、1909年陸軍士官学校に進み、東京外語学校でロシア語を徹底的に学びます。陸軍士官学校(21期)を優秀な成績で卒業し、1918年(大正7年)陸軍大学校卒業(30期)、1919年歩兵大尉に進級して参謀本部附となり、同年12月「シベリア出兵」中の派遣軍司令部附ウラジオストク特務機関員として、ロシア系ユダヤ人の一家に下宿しました。

以後、満洲、ロシア方面の部署を巡り、1925年公使館駐在武官としてポーランドに赴任しました。ポーランドの暗号解読技術は当時世界一とされていて、樋口と共に暗号解読技術習得のためポーランドに留学した陸軍の百武晴吉らを、下宿先のユダヤ人がよく世話してくれたと云います。

1935年(昭和10年)8月ハルピン第三師団参謀長、1937年3月参謀本部附となりベルリンへ出張。8月2日陸軍少将に進級、ハルピン特務機関長に着任しました。

ハルビン特務機関長時代の樋口
1937年撮影

1937年12月26日第1回極東ユダヤ人大会が関東軍の認可で開催され、陸軍はユダヤ通の樋口と安江仙弘大佐を派遣しました。この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチスドイツの反ユダヤ政策を激しく批判し「ユダヤ人追放の前に彼らに土地を与えよ」と述べ、列席したユダヤ人の喝采を浴びます。

翌1938年3月ドイツの迫害から逃れたユダヤ人たちが、シベリア鉄道でソ満国境のオトポール駅まで来ました。目指すのは上海の米国大使館でしたが、上海に到るには満州国を通過しなければなりません。満洲国外交部は日独防共協定を意識してユダヤ人に入国許可を出しませんでした。

極東ユダヤ人協会の代表アブラハム・カウフマン博士から相談を受けた樋口は、窮状を見かねて、即日、ユダヤ人達へ食料と衣類、燃料の配布、要救護者の治療を実施し、ソ連出国の斡旋や上海租界までの移動の手配をしました。樋口は満鉄総裁松岡洋右に直談判し、満鉄の列車で18人を脱出させます。

杉原千畝がリトアニアのカウナス領事館で、ナチスドイツの迫害で欧州各地から逃れてきた難民に外務省の訓令に反して大量のビザを発給し、6,000人のユダヤ人を救った話は有名ですが、その2年前のことです。

この「ヒグチ・ルート」での脱出に頼るユダヤ人難民は増え続け、東亜旅行社(現日本交通公社)の記録では、ドイツから満洲里経由で満洲へ入国した人数は1938年の245人が、1939年には551人、1940年には3,574人に増えています。

樋口ルートを経由した難民は2万人とも云われますが、樋口の書いた原稿には「彼らの何千人かが満洲里駅西方のオトポールに詰めかけ、入満を希望した」とあったのに、芙蓉書房出版の「回想録」では何故か二万人になっていて、これが難民の実数に混乱をきたす原因になったと指摘されています。1941年の記録は欠けていて、正確な人数は把握できませんが数千人と推定されます。

樋口はポーランド駐在武官当時、日本人の誰も行ったことのないコーカサス地方を旅し、チフリス郊外のある貧しい集落で偶然呼び止めた一人の老人がユダヤ人で、樋口が日本人だと知ると家に招き入れました。

樋口にユダヤ人が世界中で迫害されている事実と、日露戦争に勝利した日本こそがユダヤ人を救ってくれる救世主に違いないと涙ながらに訴えましたが、樋口はオトポールのユダヤ人難民の報告を受けた時、その出来事が脳裏をよぎったと述懐しています。

このヒグチ・ルートは日独間の大きな外交問題となり、リッベントロップ独外相からの抗議で、陸軍内部でも樋口に対する批判が出て、関東軍では樋口の処分を求める声が高まりました。

樋口は関東軍司令官植田謙吉大将に自らの考えを述べた書簡を送り、関東軍司令部に出頭した樋口に参謀長東条英機中将は理解を示して不問とし、ドイツからの再三の抗議を人道上の当然な配慮によるものとして撥ね付けました。

第二次世界大戦開戦翌年の1942年(昭和17年)8月1日樋口は北部軍司令官として、北東太平洋の陸軍を指揮することになります。アリューシャン列島はアメリカ領ですが、アッツ島、キスカ島の2島は、当時、日本軍が占領していました。

アリューシャン列島

1943年に入るとアメリカ軍が反攻に転じます。大本営はこの状況を把握しても南方に多大の兵力を投入している状況下で、アメリカ軍の両島の奪回作戦に増援部隊を送ることは、地理的にも兵力的にも不可能でした。

1943年5月12日アッツ島にアメリカ軍が上陸を開始します。21日大本営はアリューシャンの放棄を決定、アッツ島守備隊の玉砕とキスカ島守備隊の撤収を決めました。

5月29日アッツ島守備隊は我が国初の玉砕を遂げましたが、キスカ島では5月27日から6月21日の間に延べ18隻の潜水艦で820名を救出し、7月27日13時40分濃霧をついて救出艦隊がキスカ湾内に侵入し、一時的に霧の晴れる幸運も加わって、キスカ島守備隊5,200名を僅か55分で収容することに成功しました。

機密の撤収作戦に必要な濃霧が発生する天候を待ち続け、1回目の出撃ではキスカ島の目前まで進出しながらも作戦を強行しなかった海軍の指揮官、木村昌福少将の冷徹な判断が奇跡を呼び起こしたのです。

救出艦隊は守備隊を身軽にするために携行している小銃まで投棄させ、ピストン輸送に使用した大発も回収せず、収容時間を短縮してキスカ湾を全速で離脱し、再び深い霧に包まれた空襲圏外に脱出しました。

木村は総合的な判断から収容時間は1時間が限界とみて、兵士の収容を迅速にするためすべての兵器の海中投棄を陸軍に求め、樋口は大本営や陸軍省上層部の決裁を仰がず、独断で承認しました。当時の陸軍兵士にとって、小銃に刻まれた菊の御紋章は命より大切なものだったのです。

キスカ撤収後にこのことを知った陸軍上層部は海軍に抗議しようとしましたが、木村、樋口と2人の陸海軍現地司令官の決断が、撤退作戦成功の重要な鍵だったと認識されるに至りました。8月15日米軍は大兵力でキスカ島に上陸作戦を敢行しましたが、日本軍はもぬけの殻です。

樋口は同年10月2日札幌三越で開催された「忠烈山崎部隊景仰展」会場を訪れ、自らが玉砕を命じざるを得なかった藤田嗣治の「アッツ島玉砕」の戦争画に見入っていました。

1944年(昭和19年)3月10日樋口は第五方面軍司令官として、南樺太と千島列島を担当地域に置き、1945年2月1日北部軍管区司令官を兼務します。我が国の降伏の直前の8月10日ソ連が対日参戦しました。玉音放送の翌16日大本営はやむをえない自衛戦闘を除き、戦闘行動を停止するよう全軍に命じます。

第五方面軍を指揮していた樋口はその命令後も、南樺太でのソ連軍への抗戦を命じて戦闘を継続させます。樋口はソ連による日本本土占領を懸念していたのです。

8月18日午前1時千島列島北端の占守島(しゅむしゅとう)にソ連軍が侵攻してきました。その報告が樋口の下に届くと、樋口は占守島の第九一師団に「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と、侵攻したソ連軍への反撃を命じます。大本営の停戦命令を無視した独断命令でした。占守島の日本軍は武装解除のため、既に、戦車の武装を外すなどの作業を終えていました。

千島列島

占守島には米軍の侵攻に備えた第九一師団と、精鋭の戦車連隊が置かれていて、戦車第一一連隊長は「戦車隊の神様」と云われた池田末男少将でした。様々な機材をすでに取り外してしまった戦車の再装備に時間がかかりましたが、池田隊長は準備のできた戦車から順次発進させます。

午前6時戦車隊は「池田連隊はこれより敵中に突入せんとす。祖国の弥栄を祈る」と全員死を覚悟した電報を打ち、上陸したソ連軍への攻撃を開始します。戦車隊は27両の戦車が大破、池田隊長以下96名が戦死しましたが、ソ連軍も1,000名以上の死体を残して退却しました。

樋口から第九一師団司令部宛に「18日午後4時をもって全面停戦」の指令があり、8月21日降伏文書の正式調印が行われました。日本側の死傷者は600名、ソ連側の死傷者は3,000名でした。

当時占守島には日本にただ1つ残った日ロ漁業の缶詰工場があって2,500人が働き、400人の女子工員がいました。堤不夾貴師団長と世話役の大尉は、何としても女子工員を無事に北海道に送り返すと決め、18日午後4時半空爆を避けた霧の中で20数隻の漁船に分乗した女子工員を、北海道に向けて送り出すことに成功しました。

ソ連のスターリンは日本が降伏文書に署名する前に、ヤルタで密約があった樺太と千島列島に加えて、北海道も占領して既成事実化する積りでした。16日スターリンは留萌から釧路以北の北海道占領をトルーマン米大統領に要求して拒否されていますが、南樺太の第87歩兵軍団に北海道上陸の準備を命じています。

しかし樋口の独断による占守島の抗戦でソ連の千島列島占領が遅れ、北海道侵攻までには至りませんでした。北海道占領を断念したスターリンは28日、北海道上陸を命じた南樺太の部隊を択捉島に向かわせ、国後島、色丹島、歯舞諸島に至る千島列島全域を占領させ、現在に至っています。

樋口が陸軍随一の対露情報士官としてソ連の北海道占領の野望を見抜き、独断で抗戦を命じていなければ、我が国の南北分断が実現していたことでしょう。スターリンは極東国際軍事裁判で樋口を「戦犯」に指名します。

世界ユダヤ人会議はいち早くこの動きを察知し、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かしてロビー活動が始まったと云われます。日本を占領していたGHQのダグラス・マッカーサーは、ソ連からの引き渡し要求を拒否し樋口の身柄を保護しました。

ニューヨークに総本部を置く世界ユダヤ協会の幹部には、オトポールで樋口に助けられた難民が幾人かいて、樋口救出運動を展開したのです。
樋口自身がこの救出運動を知ったのは戦後5年を経てからでした。1950年アインシュタインが来日して東京渋谷のユダヤ教会でユダヤ祭が開催された際、樋口夫妻が招待されて幹事役のミハイル・コーガンが演壇でスピーチを始めます。

このコーガンはハルピンで開催された極東ユダヤ人大会で樋口の護衛を務めた青年で、世界ユダヤ協会が樋口救出運動に乗り出していたという驚くべき事実を述べました。

続いて1948年のイスラエル建国に当たり、国家建設と民族の幸福に力を貸してくれた功労者を永遠に讃えるための「黄金の碑」を建立しましたが、樋口の名と「偉大なる人道主義者、ゼネラル樋口」の一文が、その碑の上から4番目に刻まれていると伝えたのです。
コーガンの話が終わると講堂を埋め尽くしたユダヤ人たちは「ヒグチ」「ヒグチ」と連呼し、拍手と歓声は鳴りやみませんでした。

樋口は1946年に小樽市に隠棲。過去は語らず、アッツ島玉砕の絵の前で毎朝、戦死者の冥福を祈っていました。1970年に東京都に転居した後10月11日に死去、墓所は神奈川県大磯町の妙大寺です。

歴史は一人一人の行為の集積の上に成り立つのですが、偉大な人物の存在が歴史の方向性を決めていきます。日本民族は樋口の存在を誇りとして後世に伝えて行くべきでしょう。

 


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