2016年1月29日、全日本海員組合が記者会見し、民間船員を予備自衛官とする防衛省の計画に対し、「事実上の徴用で断じて許されない」とする声明を発表しました。
防衛省は日本の南西地域での有事を想定して民間フェリー2隻を選定し、海上自衛隊による有事運航を可能とする一方、民間船員21人を予備自衛官とする予算を2017年度政府予算案に盛り込む方針であるとしました。
海員組合の森田組合長は「太平洋戦争中、物資や人員の輸送のため徴用された民間の船舶が、1万5,000隻以上撃沈され、6万人余りの船員が犠牲になった」と指摘し、「同じような悲劇を繰り返してはならない」と訴えました。
第二次世界大戦で失った民間船舶については、病院船に準じた扱いを日米で取り決めたのに撃沈された阿波丸、本土へ避難する沖縄の児童を乗せていて撃沈された対馬丸について戦後も関心がもたれましたが、海軍艦艇の運命が詳細なのに、民間船舶の運命の正確な全体像は把握できていません。
しかし戦没船の船員・民間人便乗者・部隊輸送乗船者の情報が積み重ねられて、「戦没した船と海員の資料館」 研究員の大井田 孝氏の記述では、日本殉職船員顕彰会の記録が紹介され、戦時中に亡くなった船員の数は60,608 名、戦没船の数は7,240隻となっています。
軍艦ではない民間船舶の最初の喪失事例は、1941年12月8日の真珠湾攻撃の日、マレー半島コタバルへの陸軍部隊の上陸作戦に加わった淡路山丸で、敵機の銃爆撃をうけて総員退船したのち燃え続け、12日に沈没しました。
意外にも船舶の喪失は、戦後にも続きます。終戦の8月15日以後にソ連潜水艦に撃沈された2隻があり、昭和58年に掃海が完了するまでの戦後38年間に、戦時中に敷設した日米の機雷により139隻が沈没しています。
第二次世界大戦中に日本の商船は根こそぎ陸海軍に動員され、喪失率は海軍艦艇以上に高いのです。徴用された民間船には海上護衛がつけられないことがしばしばで、民間船員の死者の約6万人は当時の日本人船員の43%に当たります。陸軍将兵の戦死率20%、海軍将兵の16%と比較して、船員の死亡率がいかに高いかが分かります。
戦前の日本は、総量600万トンの世界有数の商船団を誇っていました。開戦にあたり「輸送船の半分の300万トンを軍が使い、年40万トンから、20万トンずつ増やして建造すれば間に合う」と楽観的な見通しを立てていたようです。この見通しは本格的戦闘状態に入った翌昭和17年(1942年)に早くも崩れ、輸送船舶喪失量は年100万トンに達し、建造トン数は年30万トンと予定を下回ります。
日本海軍の潜水艦が米国艦艇しか攻撃の対象としなかったのに対し、米軍は我が国の商船すべてを軍事輸送船として通商破壊の目的で潜水艦の総力を挙げて攻撃し、日本商船の被害の45%は米潜水艦によるものでした。
連合艦隊司令部は「対米英作戦任務の立案・指揮が本務」であるとして、陸軍部隊の輸送や資源搬入などの船団の護衛には重きを置きませんでした。昭和17年4月に船団護衛の責任部門、第1、第2海上護衛隊を設立し、昭和18年11月に海上護衛総隊に統合しましたが、海上護衛総隊は艦艇が少なく装備も旧式で、同年12月には対潜や護衛を主任務とする第九〇一海軍航空隊が直属部隊となったものの、護衛にあたる指揮官も艦艇もすべてその場の臨時編成でした。
あまりに急激な輸送船喪失への対応として、戦前に規格化した戦時標準船の設計を見直し、生産性を高めた第二次戦時標準船の建造に変更されます。この第二次戦時標準船の航海速力は10ノットに満たず、工期短縮のために造船常識を覆して二重船底や隔壁を省略しました。
大戦後半のアメリカ潜水艦の魚雷は威力を増し、日本の輸送船団の暗号無電は米軍側に解読されて待ち伏せされ、ドイツのUボートを真似た3隻のグループが連携して襲う戦術で攻撃される羽目になりました。
昭和18年(1943)年後半に潜水艦による通商破壊が本格化しましたが、19年後半以後は空母機動部隊が日本の輸送路遮断にあたりました。それまでは数パーセントだった輸送船団の会敵率が、19年中頃には100%を超えます。
その結果、船舶喪失量は昭和17年(1942年)に100万トン、以後18年200万トン、19年400万トンと倍々に膨らんでいきます。その間日本の建造数は、30万、80万、175万トンと喪失量をはるかに下回り、必然的に海上交通路は遮断されました。
必要な乗組員も足りず、高等商船学校出身者を予備士官としましたが、教育期間を大幅に短縮して送り出された彼らは、必然的に、兵学校出の士官よりも危険にさらされることになります。一般船員も徴用の対象となりました。
昭和20年(1945年)春のレイテ沖海戦後には、海外のシーレーンの確保はおろか、内海の交通路すら米軍の投下機雷で封じ込められます。日本海軍最後の艦隊行動は片道の燃料を積んで沖縄へ向かった海上特攻ですが、戦艦大和以下、軽巡洋艦1隻、駆逐艦4隻、3,700名の将兵を失って終りを告げました。
我が国では自給できる資源量が少なく、南洋群島からの鉱物資源輸送、ボルネオ・インドネシアからの原油輸送、最前線となったマーシャル諸島・ソロモン諸島への人員・物資輸送など、すべて船舶を使わなければならない状況でした。
商船が戦時中航行する際は船団で行動し、船団を護る護衛艦が付くのが基本です。連合軍の場合数十隻の商船を縦横に並べ、その周辺を護衛空母や護衛艦、駆逐艦等の艦艇で固めて船団を護衛しました。我が国では船団護衛が軽視され、連合国に比較すれば顧みられていないと云える状況でした。
3年9ヶ月の間に運航された我が国の船団数は1,200を数えます。この数は数十隻におよぶ船団も、単独で航行した船も数えた数字ですが、航行速度は平均10ノットで、なかには8ノットの船団もあり、途中で攻撃を回避するための行動や対潜警戒のためのジグザグ航行をすれば、航行時間が大幅に伸びます。
昭和18年後半から19年11月頃にかけて、中国東北部(満州)にいた陸軍部隊がニューギニア・フィリピン・サイパンへ向かい、兵員を満載した輸送船が東シナ海や太平洋の真ん中で沈没しています。陸軍は兵員を運ぶに当たり面積では4名1坪を、重量では1名1トンを基準としました。4名1坪では同時に4名が横になることは出来ず、輸送途中の兵員に作業を割り当てて、交代制で兵員を休ませたのです。
多くの犠牲者を出した原因として、数千人を乗り込ませて兵員輸送を行っていた第二次戦時標準船では、兵員の甲板への出入り口は二つだけで避難もままならず、二重船底、隔壁もないため、魚雷を一発受ければ、即、沈没でした。遭難者の話では孟宗竹の筏やカポックの救命胴衣など、長時間海上で救助が待てるような装備はしていなかったとのことです。
昭和19年2月25日インドネシア・バリ島付近で、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて撃沈された「丹後丸」6,200トンには、6,000人以上が乗船しており5,734名が犠牲となっています。続いて同じ潜水艦に撃沈された「隆西丸」4,805トンには6,699 名が乗船していて、4,999名が戦死しています。このような乗船基準を無視した兵員輸送は、これだけに限りません、
日本の船団構成では、緒戦のフィリピンのリンガエン上陸作戦での84隻が最高です。その後40隻を超える船団は、昭和19年6月11日サイパン発船団の32隻、護衛艦33隻計65隻と、昭和19年8月28日鹿児島発カタ827船団の32隻、護衛艦10隻計42隻の2船団のみです。サイパン発の65隻の船団はサイパンを出港して間もなく、米空母機動部隊の猛攻を受けてすべての艦船が沈没しました。
他に被害の大きかった船団の例として、マタ27船団が輸送船6隻、護衛艦5隻で編成されてルソン島沖合通過中、米海軍機の集中攻撃を受け、輸送船6隻が沈没し船員を含め256名が戦死しています。本船団は輸送船のほかに第五号海防艦が沈みましたが、他の護衛艦が付近に居たことと、比較的陸に近かったことが人員の被害を少なくしました。
ヒ86船団の輸送船10隻、護衛艦6隻は仏印沿いを北上中、米海軍機の猛攻を受け145名戦死、輸送船10隻すべてと護衛艦3隻が沈没しています。本船団も各船は海岸に乗り上げるなどして、人員の被害を少なくした船団です。
日本殉職船員顕彰会では、戦没した船員の人数は把握していますが、乗船していた民間人については把握できていません。唯一の頼りである戦時船舶史に記載されている戦没民間人は、59,200人を数えます。輸送中の部隊人員、船を守るためとして乗船していた船砲隊(陸軍兵)、警戒隊(海軍兵)を含めた軍人の戦没数は101,300名です。軍人、船員、民間人、さらに捕虜を含めて乗船中に亡くなったとされる人達の総計は 232,000人です。
昭和20年8月15日に終戦の玉音放送はあっても、船舶の沈没は終結しませんでした。8月22日北海道留萌沖でソ連潜水艦から泰東丸・能登呂丸・小笠原丸の3隻が魚雷攻撃をうけ、泰東丸・ 能登呂丸の2隻が撃沈され、多くの樺太からの引き揚げ者が亡くなっています。また8月24日には大湊から朝鮮に向かっていた浮島丸が、連合軍の指示で急遽舞鶴港に向け変針した後に機雷に触れて沈没し、549名の人達が亡くなりました。
戦時中日米双方が敷設した機雷による、戦後の被害は甚大でした。昭和20年(1945年)10月6日GHQの命令で掃海作業が開始されましたが、直後の10月7日神戸沖で室戸丸(355名)、13日華城丸(175名)、14日壱岐島沖で珠丸(541名)、昭和23年1月28日岡山県牛窓に寄港しようとした女王丸(304名)など、昭和58年(1983年)3月25日に掃海完了するまでの38年の間に、139隻もの商船が触雷により沈没しています。
具体的な数値は把握できていませんが、戦後の触雷で亡くなった人は2,000人を超えるのは確実です。また掃海作業中の殉職は77名で、香川県琴平にある掃海殉職者記念碑に記録されています。
第二次世界大戦中の230万人の日本軍の戦没者の過半数が戦死ではなく、餓死ないしは飢餓の末の戦病死であったのは極めて特異です。餓島と云われたガダルカナルだけでなく戦場の広域にわたって飢餓が発生したことに、日本陸軍の兵站軽視の特質を見ることができます。
しかし広範に展開した最前線への兵站は、海軍が船団護衛を重視しなければ果たせなかったのも事実です。艦隊決戦に固執した海軍が船団護衛を軽視した結果は、艦隊行動のための燃料の調達すらできないまでの通商破壊に追い込まれました。
第二次世界大戦がもたらした我が国の商船団の運命については、これまであまり語られて来なかったようです。戦争体験者が超高齢化した今こそ、戦争がどんなに無意味で悲惨なものかを戦争の実態を知らない若い人々に伝えて、日本の将来への戒めにすべきだと思います。