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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

サイボーグ

2023-08-31 06:24:15 | 日記

「サイボーグ」はCybernetic Organismの略で、生命体(organ)と自動制御系の技術(cybernetic)を融合し、人工臓器を埋め込むなどで身体機能の代替をさせるものを云います。米国の医学者マンフレッド・クラインズとネイザン・S・クラインが1960年に提唱した概念で、日本では石ノ森章太郎の漫画「サイボーグ009」でその名が知られるようになりました。

当初は人類の宇宙進出に結び付けて考え付かれた発想でしたが、現在実用に達しているサイボーグは、ペースメーカー、人工心臓、筋電義手・筋電義足、人工内耳、眼内レンズなどの人工臓器です。

義歯や眼鏡は古くから使われてきましたが、サイボーグには含まれません。最も多く使われている人工臓器は人工腎臓ですが、体外に誘導した血液から老廃物を排除して体内に戻す血液浄化装置で、身体装着型ではないためサイボーグではありません。

取り外し可能な義手や義足、パワードスーツなど、人体の外部に取り付けるサイボーグは体内に埋め込む侵襲型の危険性はありませんが、人工心臓やペースメーカー、眼内レンズ、人工内耳などの体内埋め込み型は埋め込んだ機械に自己修復性がなく、感染のリスクが高い問題があります。

米国ではサイボーグの軍事利用の研究が活発で、兵士の身体能力を大きく強化することや、ブレイン・マシン・インタフェースを導入してパイロットの脳と戦闘機の操縦機能を直結し、操縦の反応性を速めることなどが考えられています。

「サイバニクス」は筑波大学山海嘉之教授の提唱した、脳神経科学、行動科学、ロボット工学、ITなどの研究分野を融合した新しい学術領域で、サイバニクスの研究により「HAL」が誕生しました。

HAL

「HAL」(Hybrid Assistive Limb)は身体機能を改善・補助・拡張・再生する世界初の装着型サイボーグです。人が体を動かそうとする際、運動するぞと云う意思の信号が脳から神経を通じて筋肉に伝えられ、微弱な「生体電位信号」が体表に出ます。

HALは皮膚に貼り付けたセンサーでこの生体電位信号を読み取り、装着者がどのような動作をしたいのかを内蔵コンピューターで解析し、装着者の意思に従う動作をしたり、大きなチカラを出したりするのです。

現在2タイプがあり、HAL 3は脚部のみが稼動しますが、HAL 5は腕、脚、胴体のすべてが稼動します。HAL 5では装着者が本来持っている能力の5倍の重量を持ち挙げることができます。

2014年11月12日「HAL 作業支援用」(腰タイプ)と「HAL 介護支援用」(腰タイプ)がパーソナルケアロボットとして世界で初めて、安全性についての国際規格(ISO13482)の認証を取得しました。

2015年11月25日厚生労働省はサイバーダインの装着型ロボット「HAL医療用」を「HAL医療用下肢タイプ」として、筋萎縮性側索硬化症や筋ジストロフィー、脊髄性筋萎縮症、球脊髄性筋萎縮症など8つの緩徐進行性疾患用の医療機器として国内販売を承認しました。

2016年9月2日このサイボーグには、身体に装着して身体の不自由な人の歩行をアシストしたり、いつもより大きなチカラを出させたり、脳・神経系への運動学習を促す有用性が認められて、我が国で唯一診療報酬点数がつけられています。

HAL腰タイプ自立支援用

HALは重量物を扱う際の体を捻る動きや中腰での腰の負担を軽減し、軽微な歩行アシスト機能もあって、しゃがむのにも邪魔になりません。現在HALを導入した消防本部では腰痛の不安を抱える男性隊員に使用させている他、女性隊員が使うと男性隊員並みに重量物が運べると好評です。

HALを装着した女性消防隊員

近年、義肢のテクノロジーが急速に発展し、上肢切断者を取り巻く環境は大きく好転しました。日本では50年前に研究、開発が開始されましたが普及に至らず、2013年に「労働者災害補償保険」による片側前腕切断者への筋電義手給付が実現して、普及の兆しが見え始めました。

現在、多機能、高性能の筋電義手が利用可能になり、外見の補正だけでなく、上肢切断者のニーズに対してより高い水準で対応しうる時代が来ました。しかし現状での筋電義手は高価で、購入資金援助のコンセンサスが得られてはいません。

筋電義手(上)と能動義手(下)

人間の筋肉は脳の指令によって無意識に動かせますが、その際に筋肉に発生する微弱な電流を筋電(表面筋電位)と云います。筋電義手は発生した微弱な筋電をセンサーで感知し、ハンド(手先具)による「掴む」「離す」などの動作を可能にします。擬似的ではありますが、直感的な動作ができるのが筋電義手の特徴です。

筋電義肢にできる動作

筋電義手は基本的に筋電を動作のスイッチに用いるので、まずは筋電を検出できる筋を探す必要があります。他方、不慮の事故や生まれた時から手や足を持たない人に、実際に手足が存在しているかのように感じる「幻肢」と云う現象があって、痛みを伴ったりもします。

幻肢の痛みは実際に身体に存在しない場所で感じる痛みなので直接的な治療法はありませんが、人によって筋電義手の操作で幻肢の痛みが改善されることがあり、残存する筋から発生した筋電を義手に利用することの意味が理解できます。

物を掴む筋電義肢

人が1本の腕だけではできない作業は、日常、いくらでもあります。多少不器用でも筋電義手が2本目の腕として正常な腕とほぼ変わらない動作をしてくれれば、大抵の手作業はこなせるでしょう。片方の手を失った人にとってこれ以上の喜びはない筈です。

これからの筋電義手の開発の課題は、動きの自由度をどこまで高められるかにありますが、欧米では大人用だけでなく小児用の筋電義手も普及し始めています。筋電義手の開発者はこれまで低コストで自由度の高い筋電義手を作るよう努力してきましたが、現在は150万ほどの高価なもので筋電義手の無料給付は厳しいと云わざるを得ません。

しかし低コスト化ができれば、給付されなくても購入できるかもしれません。近藤玄大さんは自らが開発した筋電義手を、DIYで僅か数万円の製作原価で作成できる仕組みを一般公開しました。

近藤さんが最初に発表した筋電義手「handiii」(ハンディー)は、国内外のハードウェアコンテストで数々の賞に輝き、世界的な複合フェス「SXSW」(サウスバイサウスウェスト)でも大きな注目を集めました。

他の義手と異なり操作用のハーネスが不要で、どの位置でも開閉操作をすることができ、把持力が非常に強いので、重量のあるものや薄いものをしっかり掴む動作が得意です。

近藤玄大さんの筋電義手

驚かされたのは、続く「HACKberry」(ハックベリー)です。3Dプリンタさえあれば誰もがDIYできるように、全世界に向けて設計図を公開したのです。これまで150万円は下らなかった筋電義手を、設計図に従って僅か5万円で製作できるようにした意義は極めて大きいのです。

人工弁、人工血管、ペースメーカー、人工心臓は、心臓領域の代表的体内植え込み型人工臓器ですが、2018年12月「健康寿命の延伸等を図るための脳卒中、心臓病その他の循環器病に係る対策に関する基本法」が成立し、循環器病の医療が大きく前進する可能性が開かれました。

人工心臓の登場は画期的で、心臓の機能が極度に低下した患者さんが心臓移植を待つ間の延命装置として「植え込み型補助人工心臓」が医療保険の対象になりました。2021年には心臓移植を前提としなくても植え込み型補助人工心臓の装着が医療保険の対象となり、幅広い重症心不全患者さんが「人工心臓で生きる時代」が来ました。

我が国の人工心臓開発は国立循環器病研究センターが先導してきていて、40年以上前に独自の開発を始め、1980年代後半に「国循型補助人工心臓」を完成しました。

人工心臓は全身に血液を送るポンプが体外にある「体外設置型」と、体内に植え込まれる「体内植え込み型」に別れますが、国循型補助人工心臓は体外設置型です。開発当時にはまことに画期的で、現在も、緊急用に使用されています。

心臓は筋肉でできたポンプで右心房、右心室、左心房、左心室からなり、全身から右心室へと帰ってきた血液を肺へ送り、肺で酸素を取り込んで左心室へ戻ってきた血液を全身へ送る作業を、休むことなく、一生涯、続けます。

現在、心臓に栄養を送る冠動脈が詰まる心筋梗塞は、発症後3時間以内であれば冠状動脈内にカテーテルを挿入して、狭窄部を拡張したり、狭窄部にコイルを挿入して、心筋が壊死に陥る前に修復することが可能です。

心不全は何らかの原因で心臓の筋肉の力が落ちてしまった状態ですが、心不全を起こす病気は様々で、心臓の弁に障害が起きる心臓弁膜症や、心臓の筋肉が弱くなる拡張型心筋症は、症状が悪化すると心臓移植や人工心臓装着の対象で、根本的な解決策は心臓移植しかありません。

1997年脳死を巡る長い論争の末に我が国で「臓器移植法」が施行され、1999年臓器移植法に基づく我が国初の心臓移植が実施されました。免疫抑制剤の向上で移植臓器の生着率は向上していて、重症心不全に対しては心臓移植が最良の治療法ですが、脳死での心臓提供が極めて少ないのが現状です。

1990年代に米国で開発された「植え込み型補助人工心臓」は、これまで日本でも心臓移植を待つ患者さんに限って装着が許されてきました。植え込み型補助人工心臓はポンプを体内に埋め込み、コードを体外のコントローラーとバッテリーに接続する、より小型で、より安定した機種へ進歩し、95%以上の症例で心臓の左側の機能だけを補助する人工心臓で心臓の機能が保たれます。

植込み型は次第に小型化されて、米国では2000年代から人工心臓を着けて自宅で生活することが可能になりました。実際、欧米では多くの患者さんが長期間人工心臓で生活しています。我が国でも心臓移植を予定していない患者さんへの公的医療保険の適用が決まり、植え込み型補助人工心臓を装着して自宅に帰ることができるようになりました。

一定の制限はあるものの人工心臓で生きることが可能になり、自宅での生活はもちろん、外出や運動もでき、就学、就職、出産・子育てもできます。心不全の患者さんの生活の質は大きく改善しました。

人工心臓の開発の歴史では、軸流ポンプシステム、遠心ポンプシステムと様々な機種が開発されてきました。1999年ウイーン大学からドベイキー型軸流式補助人工心臓ポンプシステムの臨床応用成功例が報告され、2005年にはシドニーでオーストラリア国産の遠心型ポンプ、人工心臓ヴェントラアシストの臨床応用が成功しましたが、連続流ポンプが出現して一気に世界中に広がります。

小型化に有利な連続流ポンプシステムは、現在、世界各国で幅広く臨床応用され「脈のない」人工心臓として脚光を浴び、容積効率性の観点から注目されています。長期のフォローアップデータで、連続流の植え込み型補助人工心臓がより優れていることが判明し、拍動式補助人工心臓の開発は中止されました。

日本では2005年に国産の臨床が始まり、2010年にサンメディカル社のエバハートシステム、テルモ社のデュラハートシステムの2機種が製造認可されましたが、現在国産の補助人工心臓システムはエバハート1機種になっています。

エバハートのシェーマ

第二次世界大戦から10年経った昭和30年代(1955年~1965年)は、臨床医学がそれまでの診断する医学から、治療する医学に代わった時代でした。この時代に現在行われている外科手術のほとんどが出来るようになり、癌による死亡率が下がりました。

効果があり安定して使える血圧降下剤が普及して、高血圧に伴う脳出血や心筋梗塞の死亡率が下がり、効果の高い抗結核剤の出現で国民病と云われた結核が治る時代となり、平均寿命が一気に延びました。

癌による死亡率の減少は癌を生じた臓器を外科的に切除することによっていて、癌そのものを治しているのではないので、切除しっぱなしに出来ない臓器では臓器移植が唯一の機能回復手段となります。

人工臓器は臓器移植とともに研究開発が始まりましたが、有効な代替え手段となりうる人工臓器が臨床応用できるようになるまでには長い年月を要しました。しかし体内埋め込み型の各種の人工臓器が実用段階に入るに及んで、かつては夢物語に過ぎなかったサイボーグが、現実に、人類の役に立つ時代になったのです。

人はみな誰しも歳を取れば、次第に歩くことも大変になります。歩くだけでなく、すべての動作が大変になるのです。特に家庭内での女性の仕事は立ったまま、中腰、しゃがんだままの仕事が多く、腰タイプのサイボーグに助けてもらえれば、当然、楽になります。

現在の価格では個人が購入するのには高すぎて公的資金援助が必要でしょうが、サイボーグが家庭内の日常動作をアシストしてくれるようになれば、多くの老年者が若い人の手を借りずに、何年間かは老いの辛さを減じて、自分自身で明るく生活できるのではないかと期待されます。

 

 

 


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関東大震災100年 

2023-08-17 06:19:04 | 日記

「関東大震災」は1923年(大正12年)9月1日に南関東に甚大な被害をもたらした大地震です。死者行方不明者10万5,000人と明治以降の日本の地震被害として最大規模でした。

昭和6年生まれの私は関東大震災と云う言葉をしょっちゅう聞かされて育ちましたが、東京の大火災で大半の焼死者が出た話と親達の経験談以外には、大震災の全体像はまったく知らずにいました。

母親は当日逗子にいたのだそうですが、こんな大きい地震の後には津波が来るから早く高い所に逃げろと云われ、裏山に登った話をしていました。津波が実際に来たかどうかまでは聞かされた覚えがありません。

我が国の戦前、戦中、戦後の歴史は、敗戦後GHQによってすべて封鎖されて知ることが出来なくなりました。関東大震災にしても詳しく知ることが出来るようになったのは、インターネットで情報が得られるようになった近年のことです。

関東大震災は地震の発生時刻が、丁度、昼食の支度の時間帯で、火を使っていたこともあり、同時多発的に火災が発生して次々に延焼しました。当時の東京市15区の130か所余りで火災が発生し、このうち70か所以上で燃え広がったとみられています。

焼失面積は東京市の4割に当たる34平方キロ余りに及び、この日は日本海から東北へ台風が通過していた影響で関東地方に強風が吹いていたことが、火災を広げた要因でした。

京橋の第一相互ビル屋上より見た日本橋と神田方面の惨状

本所区(現墨田区)にあった被服廠跡地では、避難してきたおよそ4万人が四方から迫る火災に囲まれ、夕刻に起きた炎を含む竜巻状の巨大な「火災旋風」で空高く巻き上げられて、15キロ先まで飛ばされた人がいたと云われ、ほぼ全員が焼死しました。1日深夜の東京の気温は46度まで上昇し、被服廠跡地以外でも火災で大半の命が失われました。

被服廠跡地の避難民の遺体

11時58分に相模湾北部を震源として発生した海溝型の巨大地震は、主要動が10分間続きました。震源地は伊豆大島北端にある千ヶ崎の北15km付近の相模湾海底で、激震地域は伊豆半島を横切り三島から富士山麓を経て甲府盆地に入り、東北に進んで熊谷、館林、古河、下館を過ぎ、土浦から房総半島中央を横断して勝浦付近に至ると云う、余りにも広大で不規則な円状区域なので、当時から正確な震央はよく分からないとされました。
1993年に岐阜測候所の地震の波形データが発見され、11時58分に発生したM7.9の本震の震央は神奈川県西部で、3分後の12時01分に東京湾北部のM7.2の地震、5分後の12時03分に山梨県東部のM7.3の地震と、3度の巨大な揺れが発生していたことが判明しました。

東京、神奈川、千葉、埼玉、静岡、山梨に及ぶ広大な地域に震度6以上の揺れが発生し、相模平野から横浜、東京、房総半島南部は震度7で、20cm以上の強い揺れが1分以上続いたのです。

関東大地震は地殻を構成するプレート同士が、接触面で一気にずれ動くことで生じた地震でした。神奈川県西部から小田原、鎌倉、横須賀、横浜、千葉県館山を含む長さ130km、幅70kmの巨大な岩盤が平均2.1mのずれを生じ、陸地測量部による精密測量の結果「非局部大地震に伴う地形変動」と判定されました。

地震の直接被害は震源に近い神奈川の相模湾を望む地域と千葉の房総半島とが甚大で、沿岸部の木造家屋の30%は一瞬で倒壊、震源に近い地域の家屋の倒壊率は70%以上でした。東京と横浜、小田原で死者・行方不明者が10万人以上、千葉県で1,373人、静岡県で450人、埼玉県で280人の死者となりました。
横須賀では重油タンクが爆発炎上、横浜港の大半は海中に没し、神奈川県西部の根府川では大規模な山津波が発生して、東海道線根府川駅に停車中の列車が駅舎やホームもろとも、土石流で海中に転落して乗客112人が死亡、さらにその後に発生した別の土石流で、村の集落170棟が消え去り数百名の犠牲者を出しています。

根府川駅から海中に転落した列車のうち、海岸に残った客車

震央から120kmの範囲内にあった国有鉄道の149トンネルのうち93トンネルで補修が必要となり、激しい被害を受けた熱海線(現在の東海道線)小田原~真鶴間では、11本のトンネルの7本に大規模損傷を生じました。小田原電気鉄道(現箱根登山電車)も路盤やトンネルの崩壊、車両の脱線・埋没など甚大な被害を受け復旧に1年を要します。

最大の焼死者を出したのは本所区(現墨田区)の被服廠跡地でしたが、地震発生直後に旧東京市15区の132か所で一斉に出火し、当日風速10mの強風が吹き荒れていたため瞬く間に延焼して、9月3日午後14時頃やっと鎮火しましたが、市内63万8千棟の内40万棟が全焼しました。

震災当時の東京市(15区)

9月5日の調査で、東京市内の1万2千人以上の集団避難地は160か所となり、もっとも多いのは社寺の59か所、次いで学校の42か所でした。

内務省震災救護事務局が陸軍のテントを借り受けて、明治神宮外苑、宮城前広場などに避難場所を設営し、9月4日からは内務省と東京府が仮設住宅の建設を開始、関西の府県や財閥、宗教団体なども官民の枠を超えて次々と建設を進め、明治神宮や日比谷公園などには瞬く間に数千人を収容する規模のバラックが出現し、各小学校の焼け跡や校庭にも小規模バラックが建設されました。

靖国神社に設置された仮設住宅

大震災発生時連合艦隊は大連沖で訓練中でしたが、地震発生で連合艦隊各艦は急遽関西から救援物資を搭載して東京湾に向かいました。

政府機関が集中する首都が直撃されて国家機能が麻痺し、政府も対応に追われます。内閣総理大臣の加藤友三郎が震災発生の8日前に急死して、外務大臣の内田康哉が兼務していましたが、震災翌日の9月2日に山本権兵衛が新総理に就任、9月27日に帝都復興院を設置して内務大臣の後藤新平が総裁を兼ね復興事業に取り組みました。

政府は復興財源に苦慮し外債が注入されて、モルガン商会が1931年(昭和6年)までに10億円を超える震災善後処理公債を引き受け、その額は当時の日本の年度別の国家予算の6割を超えました。

東京市は市電の運行が出来ず、800台のT型フォードトラック型を輸入してバスに改装「円太郎バス」としてバス事業を開始しました。鉄道の不通でトラックによる貨物輸送が始まり、旅客と物流のモータリゼーションが到来します。

11月15日の調査で市や区の管理するバラックが101か所、収容世帯2万1,367世帯、収容者8万6,581人で、一部はスラム化の様相を見せたため、翌年には内務省社会局・警視庁・東京府・東京市が協議してバラック撤去を開始しました。

バラックの撤去にあたり東京市が月島・三ノ輪・深川区・猿江に、東京府が和田堀・尾久・王子に住宅群を造成し、義捐金を基に設立された財団法人同潤会の住宅建設も進みました。

東京市や横浜市からの大阪府や愛知県などへの移住者が多くなり、1925年に近隣の郡部を編入した大阪市は、東京市を超える世界第6位の人口の都市に躍進します。

関東大震災では190万人が被災し、10万5,000人あまりが死亡か行方不明、建物の全壊が10万9,000棟、全焼が21万2,000棟に及びましたが、従来、東京の火災被害を中心に報じられてきました。

しかし実際の地震被害の中心は震源断層のある神奈川県で、振動による建物の倒壊の他、液状化による地盤沈下、崖崩れ、津波による沿岸部の被害が発生しています。

津波は熱海市で6m、千葉県相浜(現館山市)で9.3m、洲崎 8m、神奈川県三浦 6m。鎌倉市由比ケ浜で局地的に9mに達し、300人あまりが行方不明になっています。建物の倒壊と火災の被害が甚大であったため津波の被害との区別がつかず、津波の全体像は明確ではありません。

2004年(平成16年)頃までは、関東大震災の死者・行方不明者が約14万人と推定されていましたが、この数字は震災2年後にまとめられた「震災予防調査会報告」に基づいた数値です。

しかし近年の武村雅之らの調査で、14万人の数字には重複して数えられたデータがかなり多い可能性が指摘され、2006年(平成18年)から「死者・行方不明者10万5千あまり」に改められています。

東京市内の建造物の被害では、浅草の凌雲閣(十二階)が8階部分から上部が折れる形で倒壊し、建築途上の丸の内の内外ビルが崩壊して作業員約300名が圧死しました。大蔵省・文部省・内務省・外務省・警視庁などの官公庁の建物や、帝国劇場、日本橋三越本店などの教育・文化・商業施設の多くが焼失し、神田神保町や帝大図書館も類焼で多くの貴重な書籍群や文化財が失われました。

大破した煉瓦造りの凌雲閣(浅草十二階)

震源に近い横浜市では、石造・煉瓦作りの洋館だった官公庁やグランドホテル、オリエンタルパレスホテルなどが一瞬にして倒壊し、内部にいた人達は逃げる間もなく圧死しました。外国領事館のすべてが火災によって焼失し、工場・会社事務所も90%近くが焼けました。

横浜市中区の惨状

千葉県房総半島の被害も激しく、北条町では古川銀行・房州銀行が辛うじて残った以外、郡役所・駅などすべての建物が全壊、測候所と旅館が陥没するなどの壊滅的被害を出しています。

地震後も気象観測を続けていた中央気象台(虎ノ門)では、1日21時ごろから異常な高温となり翌2日未明には46.4度を観測、気象台の本館も引火焼失して多くの地震記録を失いました。

震災当時は、まだ、ラジオもテレビもない時代です。報道手段は新聞に限られていました。東京にあった16の新聞社のうち、東京日日新聞・報知新聞・都新聞の3社は焼け残りましたが、13社が焼失して報道機能は完全に麻痺します。

関東以外の地域からの通信手段や交通手段が絶たれ、新聞記者やジャーナリストの伝聞情報が頼りとなり「東京(関東)全域が壊滅・水没」「津波、赤城山麓にまで達する」「政府首脳の全滅」「伊豆諸島の大噴火による消滅」「三浦半島の陥没」などの噂やデマ情報が新聞紙上に取り上げられました。

山本総理を総裁とした「帝都復興審議会」の復興計画で、江戸以来の東京の市街地の大改造が試みられます。道路拡張や区画整理などインフラ整備も進み、自動車の交通機関としての価値が認識されて、1923年(大正12年)に1万2,765台だった自動車保有台数は1924年(大正13年)には2万4,333台、1926年には4万0,070台と激増しました。

震災復興事業として作られた代表的な建築物には、同潤会アパート、聖橋、復興小学校、復興道路、復興公園、震災復興橋(隅田川)、九段下ビルなどがあります。また復興のシンボルとして、震災前は海だったところをがれきで埋め立てて作られた山下公園は、1935年の復興記念横浜大博覧会のメイン会場になりました。

帝都復興院の後藤総裁が提案した「帝都復興計画」は自動車時代を見越した100m道路やライフラインの共同溝化など、現在から見ても理想的な近代都市計画でしたが、当時の経済状況や当時の政党間の対立で予算が縮小され、計画は実現しませんでした。

関東大震災ではレンガ造りの建物が軒並み倒壊し、鉄筋コンクリート造りの建物も建設中の内外ビルが崩壊したのをはじめ、日本工業倶楽部や丸ノ内ビルも半壊の被害が目立ちました。一方、震災の3か月前に完成した日本興業銀行本店が無傷で、鉄筋コンクリートによる耐震建築への関心が一挙に高まります。

1919年(大正8年)にはすでに市街地建築物法が公布、1920年に施行されていましたが、1924年に耐震基準が規定されて後の建築基準法の基本になりました。

火災による犠牲者が多かったことから、燃えやすい木造建築が密集して狭い路地が入り組んでいた街並みを区画整理し、燃えにくい建物を要所に配置し、広い道路や公園で延焼を防ぐ「不燃化」が帝都復興計画として具体化します。

被害の大きかった東京市や横浜市の市街地からは、郊外への移住者が相次ぎました。前年の1922年に田園都市会社によって洗足田園都市住宅地や、箱根土地による目白文化村の分譲が始まっていましたが、いずれの土地も被害が限定的で震災後の人口が増加しました。

郊外に住んで都心の職場へ通うことがステータスとなり、東京府多摩地域・埼玉県南部・千葉県西部・神奈川県東部が急速に都市化して、首都圏が形成されていきます。

2022年5月25日東京都は首都直下地震の被害想定を10年ぶりに見直しました。被害想定された地震は南海トラフの巨大地震など8つの地震です。8つの地震のうち首都圏に最も大きな被害がおきると想定されたのは、冬の午後6時、風速8mで起きるマグニチュード7.3の「都心南部直下地震」でした。

江東区など11区で震度7、23区の6割で震度6強以上になり、建物の全壊が8万2,200棟、火災での焼失が11万2,200棟、6,150人が死亡し、9万3,400人が負傷する想定です。

10年前の想定で最も大きな被害が出るとされた地震は「東京湾北部地震」でした。震源の位置や深さが今回とは異なり単純に比較はできませんが、今回の死者の想定は前回より3割少なく、建物の全壊も3万4,000棟少なくなっています。

被害想定が小さくなった理由に耐震基準に基づいた住宅が増えて9割以上になり、木造住宅が密集する地域が半減したことを挙げていますが、都が積極的に地震対策を行って来た結果とは云えません。

1960年(昭和35年)関東大震災のあった9月1日が「防災の日」に定められました。防災の日の前後に全国的に防災訓練が行われるのはいいことですが、居住地区での防災訓練に参加できるのは老人か、手の離せない幼児のいる若い母親です。

東京都は1979年に初めて、広域的な避難を要しない地区として「地区内残留地区」を指定しました。耐震基準を満たした高層ビルが林立していて、万一火災が発生しても、大規模な延焼火災のおそれがない40地区が現在指定されています。

地区内残留地区の基準は面積65ヘクタール以上、不燃領域が70%以上、木造住宅が50棟以上連担しない地域とされ、千代田区の全域や中央区の銀座、日本橋周辺などが指定されていますが、東京23区内全体ではほんの僅かの区域を占めるに過ぎません。

避難する必要がない地区と云っても地震でエレベーターが止まれば、ビルの高層階はすべて陸の孤島になります。地区内残留地区以外にある林立する耐震性高層ビルも同じく陸の孤島になるのです。高層階の住人にはライフラインの絶たれた陸の孤島で、誰もが何日間かは過ごせる用意を徹底させる呼びかけが、是非とも、必要でしょう。

「建物から出て避難しろ」「避難場所へ行け」と云う木造の低層住宅対象の防災訓練が、高層ビルでも繰り返されていては困るのです。ちなみに「避難場所」と云うのは人々が緊急に火事を避けるため避難できるただの広場で、設備も、備品の用意もまったくありません。人々が生活できる備えのあるのは「避難所」であって、避難場所ではありません。

一番大切なのは個人の努力の及ばない公共システムの災害対策の強化でしょう。災害からの復旧に最も必要なのはライフラインの機能の回復です。完全な被害防止は無理としても、急速な機能回復が得られるよう共同溝化を促進するなど、都や国の判断で実施できる限りの施策が、せめてこれからでも、緊急になされることが望まれます。

 


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村上海賊

2023-08-03 06:51:55 | 日記

2016年(平成28年)日本遺産 第二期の一つに、日本最大の水軍の本拠地であった芸予諸島が「よみがえる村上海賊の記憶」として認定されました。村上水軍が活躍した今治市本土と尾道市本土、芸予諸島に、42項目の遺産があります。

芸予諸島

瀬戸内海は複数の島嶼群を擁し700以上の島がある多島海で、山口県、広島県、岡山県、兵庫県、大阪府、和歌山県、徳島県、香川県、愛媛県、大分県、福岡県が海岸線を持っています。

村上水軍が歴史に登場するのは、瀬戸内海が西日本の経済と交通の大動脈になった平安時代(784年~794年)中期です。承平天慶の頃の瀬戸内海は海賊による被害が頻発していて、承平6年(936年)海賊追捕の宣旨を賜った従七位下伊予掾の藤原純友が伊予国に下向しました。

純友は海賊を支配下に置きましたが、いつしか、伊予国日振島を根拠地に1,000艘を従える海賊の頭目になっていました。関東で起きた「平将門の乱」と時を同じくして、939年(天慶2年)に摂津国、翌940年には伊予国と讃岐国の国府を襲撃し、941年には大宰府を陥落させています。

940年朝廷は小野好古を山陽道追捕使に任じ、それに従う河野好方の300隻の水軍が村上水軍の案内で純友を討伐したのが「藤原純友の乱」で、将門の乱と併せて「承平・天慶の乱」と呼びます。

平安時代末期から鎌倉時代にかけての、瀬戸内の武士団の頭は河野氏でした。河野氏は伊予の土着で、1180年(治承4年)源頼朝が伊豆で挙兵した時に河野通清、通信親子も兵を挙げ、源義経に従って源平合戦で功を挙げました。この河野氏は鎌倉時代中期に最大規模となり、河野水軍と呼ばれます。

当時の村上水軍は河野水軍に従っていましたが、独立の姿勢を保っています。村上水軍は河内源氏の庶流、信濃村上氏を起源とする説が有力で、村上という苗字は信濃国更級郡村上郷の地名が由来のようです。信濃村上氏では南朝の武将村上義弘が知られていますが、義弘没後に信濃村上氏が伊予に移住した史料があり、これが村上家の始祖とされています。

村上吉豊を祖とする因島村上水軍は、室町時代から因島に根を張り勢力を拡大しました。備後守護の山名氏と結び遣明船の警護もしていますが、中国地方で大内氏が有力となると、山名氏を見切って大内氏に鞍替えします。

因島村上氏五代村上尚吉は大内義隆から備後鞆の浦の地をもらい、三男の亮康に鞆の浦の大河島城を与え、この亮康は因島村上氏からさらに分家した備後村上氏の祖となります。

因島は芸予諸島北東部に位置し、尾道から17km南にあり、島の北東側は布刈瀬戸を挟んで向島、南西側が生口水道を挟んで生口島で、現在はそれぞれ因島大橋、生口橋で結ばれて「しまなみ海道」を構成しています。

因島大橋

四国と大島の間の来島海峡は瀬戸内海最大の海の難所であるため、因島の北側が古くから来島海峡を避けた瀬戸内の主要航路となり、因島は村上水軍の拠点として栄えました。

室町から戦国時代にかけての村上水軍は、1419年(応永26年)頃に村上師清の三人の息子たちが跡を継ぎ、長男吉顕が能島村上の祖、次男吉房が来島村上の祖、三男吉豊が因島村上の祖になったと云われています。

能島は瀬戸内海のほぼ中央、伯方島と大島との間の宮窪瀬戸で鵜島の南西に位置する、周囲720mの地図にも表示されないほどの小島ですが、大規模な水軍城でその南にある鯛埼島を出城にしていました。

能島と鯛埼島

 伯方島と大島との間の宮窪瀬戸で鵜島の南西

その後毛利氏が台頭すると因島村上氏は毛利氏につき、室町幕府が滅びて織田信長に追われた足利義昭が毛利氏を頼って鞆の浦に滞在した折、村上亮康が警護にあたり義昭の直臣となりました。

伊予水軍と総称された瀬戸内の水軍の実態は、河野氏に従った村上氏を中心に、忽那氏・今岡氏・得居氏などが海上での組織的な戦闘力、行動力、情報力によって、中世の瀬戸内を制圧していたのです。いずれも島々や沿岸の要害の地に堅固な海城を築き、急潮渦巻く各瀬戸ににらみをきかせていました。

それぞれの水軍は瀬戸内海を航行する船舶から、帆の大きさによる帆別銭、積荷の多少による荷駄別銭、櫓の数による櫓別銭などの関銭を徴収する代わりに、水先案内や警固をし、それぞれの水軍の経済基盤を強固にしたのです。

村上水軍が歴史の舞台に登場して明確に名を挙げた最初の戦いは、1555年(弘治元年)の毛利元就と陶晴賢(すえはるかた)との「厳島合戦」でした。毛利軍が圧倒的に不利な状況下で、村上水軍が元就を支援して勝利をもたらし、村上三家は毛利氏に接近することになります。

石山本願寺を織田信長が攻めた1576年(天正4年)の「石山本願寺合戦」では、本願寺を支援する毛利元就に従った村上水軍が、信長が率いる難波・熊野水軍と摂津の木津川口(大阪湾)で戦いました。村上水軍は「焙烙火矢」(ほうろくひや)と呼ばれる火薬弾による果敢な焼き討ち攻撃を欲しいままにし、織田軍船を撃滅して村上水軍の名を高めました。

村上水軍の軍船

1578年(天正6年)第2次木津川口の海戦では、信長に命じられて外壁をすべて鉄張りとした新造大型安宅船(あたけぶね)6隻を率いた九鬼嘉隆が出撃、村上水軍の火薬弾の攻撃は鉄船にはまったく役立たず、安宅船の強力な大砲で村上水軍が惨敗しました。

信長の「中国征伐」が始まると、豊臣秀吉の工作で来島村上氏が村上三家から離反し、毛利氏と因島村上氏、能島村上氏から猛攻を受け、村上三家の団結にひびが入ります。来島村上水軍は村上水軍が拠点とした三島の中で最も四国本土に近く、吉房は瀬戸内海で最難所とされる来島海峡の要衝来島に城を構えました。

来島村上氏は秀吉の四国征伐の際に毛利軍の先鋒として伊予に猛攻を掛けた恩賞として、伊予・風早の鹿島城、恵良城の2城と1万4千石を秀吉から与えられ、村上三家の中で唯一豊臣取立大名になりました。

伊予に残った来島村上氏の家臣団は塩田開発や海運、造船で生き残り、現在の今治市の礎を築きました。来島村上氏が拠点とした来島城は島全体が城の作りで、現在も石垣などが残っています。

1585年(天正13年)全国統一を目指す秀吉は四国平定にかかり、小早川隆景が伊予国に進攻して河野通直が降伏し、他の豪族も豊臣政権の軍門に降りました。
能島の村上武吉・元吉らは1586年(天正14年)隆景の指示で、来島海峡の要害である務司(むし)・中途(なかと)城から撤収して水軍を解体しました。能島村上家は周防国屋代島に移住し、因島村上氏とともに毛利氏の家臣に編入されて舟手衆を務めます。

1588年(天正16年)天下を取った秀吉は「刀狩り」に続いて、「海賊禁止令」を公布し、これにより村上水軍をはじめとして瀬戸内海から水軍はすべてその姿を消しました。

来島康親は関ヶ原合戦で東軍に属しましたが、伊予国は小早川氏の支配下となって、1601年(慶長6年)豊後国玖珠(くす)郡森に移封されて1万2千5百石を与えられます。海のない森藩を治めることになった来島村上氏は260年の江戸時代を乗り切って幕末を迎え、町の人たちは今でも「日本一小さな城下町」と誇っているそうです。

関ヶ原の戦いで敗北した毛利氏は、長門と周防以外の領地をすべて没収されました。因島村上氏は吉亮の子元充が継ぎましたが、領地が削減されて家臣たちが四散、吉亮は領地を返上して因島に帰り、元充の子孫は代々毛利氏の船手組番頭として明治維新に至ります。

今日水軍の活躍の跡を伝え、昔の雄姿を偲ぶことのできるのは、瀬戸内の島々の海城の遺構です。島々の海城遺構の岩礁には水軍の軍船の使用した桟橋跡の柱穴の跡を多数見ることができ、かつての海城施設と水軍の活動を物語っています。

伊予国の中世城郭は大小合わせて700余り存在しますが、瀬戸内海の島々や沿岸に立地した海城が多く、島全体が城郭化されて要塞としての役割を果たしていました。船折瀬戸の島城(国指定史跡)をはじめ、鼻栗瀬戸の甘崎城(県指定史跡)、来島海峡の務司城、斎灘の鹿島城、クダコ水道の久多児(くだこ)城などの名が挙げられます。

いずれも海上交通上の要衝で急潮が渦巻く海の難所に築かれた堅固な海城で、実戦向きの曲輪配置を取り、海面が土塁や堀の役割を果たしている攻略しがたい城塞でした。

能島の隣の鵜島には造船所や船奉行屋敷・船大工屋敷が設けられて、能島の対岸の宮窪集落、甘崎城の対岸の甘崎集落に水場を造って用水を確保し、海城付近の見張り用砦を含めてその海域全体を要塞化していました。
今に残る因島村上水軍ゆかりの地には、因島村上氏の菩提寺である因島の金蓮寺があります。

因島村上氏の菩提寺の金蓮寺

因島では村上水軍にちなんで毎年「水軍まつり」を開催、村上水軍が使用した「小早」と呼ばれる小船を使ったレースが行われています。

水軍祭り

江戸時代まで村上水軍は「村上海賊」と呼ばれていて、明治以降に水軍の名が使われましたが、近年は「海賊」と呼ぶことが増えてきました。相手構わず攻撃し略奪する西洋の海賊とは異なり、村上海賊は潮流の激しい海峡で水先案内を務め、船の襲われるのを護る役を務めて通行料を取っていた海の男たちでした。

今治市の「今治市村上水軍博物館」は2020年4月1日に「村上海賊ミュージアム」に名称を変更し、海賊をテーマの初のミュージアムになりました。能島村上氏に伝わる古文書をはじめ、美術工芸品や能島城跡の出土品などの実物資料や模型やジオラマ、映像などを使い、村上海賊を紹介しています。昔と変わらない最大10ノット(約18km/h)の激しい潮流を肌で感じる40分の能島水軍体験は迫力満点です。

日本三大潮流はすべて瀬戸内海にありますが、瀬戸内海は潮の干満の差が大きく、狭い水道や瀬戸などが多く、流れの速い潮流が生まれます。潮流の速さは最速の鳴門海峡が10.5ノット(時速19.4km)、来島海峡が10.3ノット、関門海峡が9.4ノットと続きます。

干潮と満潮の水位差は東部の大阪湾が150cmで、明石では1mを切ります。播磨灘も姫路が134cm、淡路島江井が125cmです。瀬戸大橋あたりから西では干満差が非常に大きくなり、瀬戸内海中部・西部では4mに近く、最西部の山口県長府は392cmです。

満潮に向かうと太平洋からの波が紀伊水道と豊後水道を北へ進みますが、紀伊水道に入った潮波は淡路島の南で狭い鳴門海峡と広い大阪湾の2方向に分かれ、大阪湾方向の波は明石海峡を抜けて播磨灘に入り淡路島を一周して鳴門海峡の西に達し、豊後水道を経てきた波と合流します。この間に紀伊水道側は干潮になるので、鳴門海峡の西と東で最大1.5mの水位差が生じ「鳴門の渦」が発生するのです。

複数の島が連なる来島海峡では、大潮の日には潮流が速度を増して鳴門海峡に変わらぬ10ノット(18.5km)に達します。

来島海峡の潮流

来島海峡の潮流を乗り切るために、海峡には東向き、西向きの航路が決められました。

来島海峡の航路

瀬戸内海中部の島が密集した海面では、360度見回してもすべて緑に囲まれていて出口が分からず波がなくて、山の中の湖と見間違う風景が展開されます。数え切れないほど多い島々の位置と潮の流れを熟知していなければ、瀬戸内を航行することはできず、ここに昔から水軍が存在する理由があったのです。

瀬戸内海を見下ろすように立つ因島水軍城は、1983年(昭和58年)に歴史家の監修のもとに新たに築かれた水軍資料館です。城に上がる道や入り口、城の刈り込みまで、丸に上の字が入った因島村上水軍の家紋が飾られています。

因島水軍城

大三島は古くは「御島」(みしま)と呼ばれた神の島で、日本総鎮守の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)が伊予国の一宮とされ、海の安全を守る神様として古くから海賊たちの信仰を集めました。

大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)拝殿

亀老山展望台は大島の南端に位置し、瀬戸内海国立公園指定の亀老山展望公園内にあります。世界初の三連吊橋「来島海峡大橋」と日本三大急潮の一つ「来島海峡」の潮流を望む絶好のビューポイントです。

亀老山展望公園からの展望

瀬戸内海は大型フェリーの航行する現在でこそ、太平洋から隔離された波の静かな内海ですが、すべて風任せの小さな帆前船の時代には、西日本の交通の大動脈の役割を果たしていたものの、瀬戸内をよく知らない人々にとっては想像を絶する交通の難所でした。現在の瀬戸内は700に及ぶ島々と、その島々の間の厳しい潮の流れによって、多くの絶景が見られる貴重な観光地域になっています。

 

 

 

 


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