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Boys, be ambitiousと明治のお雇い外国人

2024-05-09 06:31:41 | 日記

北海道大学の前身「札幌農学校」の初代教頭クラークの発した “Boys be ambitious”の語は、札幌農学校の代名詞のごとくに知られていますが、当時の在学生たちに果たして認識されていたかどうかには疑問が提出されています。

ウィリアム・スミス・クラーク

他ならぬ北海道大学付属図書館から出されているのが、以下の疑問です。

高校や中学の教科書の中に “Boys, be ambitious! Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, not for that evanescent thing which men call fame. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.”と続けた言葉を載せたものがあります。

“Boys, be ambitious”が広まったのは昭和39年3月16日の朝日新聞の「天声人語」欄で紹介されてからですが、稲富栄次郎著「明治初期教育思想の研究」(昭和19年)を出典として「青年よ大志をもて。それは金銭や我欲のためにではなく、また人呼んで名声という空しいもののためであってはならない。人間として当然そなえていなければならぬあらゆることを成しとげるために大志をもて」と訳文が添えられていました。

この“Boys, be ambitious”に続く言葉をクラーク博士のものとするのにはいくつかの疑問があって、まず“Boys, be ambitious”が帰国に際して島松まで見送った学生たちに向って最後に述べられた言葉だとすると(第一期生大島正健博士の著書)、多くの学生たちが聞き知っていたことは疑わしいのです。

また、その後に長い英文を書き加えたのが誰かもまったく不明です。天声人語が引用した稲富氏の著書にも言及はなく、岩波の「教育学辞典」(昭和11年)の海後宗臣氏の「クラーク」の項からの引用かと思われます。

海後氏は同文館の「教育大辞書」増訂改版(大正7年)の小林光助氏の「クラーク」の項によったのでしょう。小林氏はこの長文が“Boys, be ambitious”の意図する内容であるとしていますが、海後氏はこの英文全体をクラーク博士の離別の言葉だと述べていて、明治の中頃までは札幌農学校においてさえも“Boys be ambitious”は知られていなかったのではないかと思われます。

札幌農学校の文書でこの語が最初に確認できるのは、明治27年予科生徒安東幾三郎が学芸会機関誌「恵林」に掲載した「ウイリアム・エス・クラーク」なる文章です。「暫くにして彼悠々として再び馬に跨り学生を顧みて叫んで日く、Boys, be ambitious like this old man(小供等よ、此老人の如く大望にあれ)と」。

明治31年学芸会編集の「札幌農学校」と名付けた本は、巻頭に「Boys, be ambitious」を掲げ「この語は彼が最後の遺訓にして」とあり、札幌農学校の出版物にこの語が見られるようになるのはこの本以後のことです。

いずれにしてもこの語は長い間埋れたのち、札幌農学校が確固たる基盤を獲得し、学生たちの間に自信と誇りが培われた頃に想い起され、特別の意味を与えられるようになったようだと云うのが、北大図書館報「楡蔭」No.29の見解です。 北大の図書館報の見解ですから、その通りなのでしょう。

クラーク像 羊が丘展望台

お雇い外国人は明治政府によって雇用され、日本の近代化に必要な西欧の先進技術や知識をもたらし、我が国に海外の生活習慣を伝え、日本文化を世界に紹介する役割も果たしました。

明治政府は江戸幕府が計画していた鉄道網の建設構想や、殖産興業を大々的に推進するために工部省を創設し、大勢の技術系外国人を雇用しました。報酬は当時の日本人の給与体系よりも高く、1871年(明治4年)の時点で太政大臣三条実美の月俸が800円であったのに対し、外国人の最高月俸は造幣寮支配人ウィリアム・キンダーの1045円でした。

お雇い外国人の人選は政府間協定や信用のある機関を通して行われたため、ほぼ全員が真摯に役目を果たしました。日本人とのやり取りはすべて彼らの母国語でしたから、外国人の教えを理解するために必要な彼らの母国語の習得に当時の日本人がどれほど努力したかは、明治時代の半ばに日清戦争に勝てる近代国家を創り上げた成果からも明らかでしょう。

お雇い外国人は緊縮財政のため1876年(明治9年)に多くが解雇され、工部大学校の卒業生や海外留学生が力を発揮しはじめて、外国人の雇い入れは次第に少なくなります。

ほとんどの外国人は任期を終えると日本を離れましたが、ラフカディオ・ハーンやジョサイア・コンドル、エドウィン・ダンのように日本文化の魅力に惹かれて滞在し続け、日本で妻帯したり生涯を終えた人物もいます。

雇用された専門分野とは異なる分野で功績を残した人物も多く、アーネスト・フェノロサは政治学や哲学の教授でしたが、日本美術の評価で名が知られ、ホーレス・ウィルソンは英語教師として招かれましたが、我が国に野球を伝えて野球殿堂に名を残し、ウィリアム・ゴーランドは大阪造幣寮の技師でしたが、日本の古墳の研究や日本アルプスの命名で知られています。

1868年(慶応4年/明治元年)から1889年(明治22年)までに日本が雇用した2,690人の外国人の国籍は、イギリス人1127人、アメリカ人414人、フランス人333人、中国人250人、ドイツ人215人、オランダ人99人、その他252人でした。

1890年(明治23年)までの期間に最多数を占めたイギリス人の雇用先は政府雇用が54.8 %で、工部省が43.4 %でした。大口雇用ではエドモンド・モレル他の鉄道建設技術者、リチャード・ブラントン他の灯台建設技術者、ヘンリー・ダイアー他の工部大学校教師団、コリン・マクヴェイン他の測量技術者が挙げられます。

アメリカ人の政府雇用は39.0 %で、文部省が15.5 %、開拓使が11.4 %で、フランス人は陸軍が48.8 %を占め、陸軍雇用の外国人の87.2 %はフランス人でした。少人数ですが司法省に雇用されて不平等条約撤廃に功績のあったギュスターヴ・エミール・ボアソナードや、左院でフランス法の翻訳に携わったアルベール・シャルル・デュ・ブスケなど法律分野で活躍した人物もいます。

ドイツ人は政府雇用が62.0 %で、文部省(31.0 %)、工部省(9.5 %)、内務省(9.2 %)が目立ち、エルヴィン・フォン・ベルツをはじめとする医師や、地質学のハインリッヒ・エドムント・ナウマンなどが活躍しました。

幕府が開設した長崎海軍伝習所はオランダ人の指導でしたが、明治の海軍は1873年(明治6年)イギリスから迎えたダグラス顧問団によりイギリス式に変わっています。陸軍がドイツ式に転換されたのは、1885年(明治18年)ドイツ陸軍のクレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル参謀少佐を陸軍大学校教官に任命してからでした。

札幌農学校は北海道開拓に当たる人材の育成を目指す「開拓使仮学校」として1872年(明治5年)東京に設立されました。1875年(明治8年)北海道の組織的な開拓がはじまり、最初の「屯田兵」が札幌郊外の琴似兵村に入植し、仮学校も東京から移転して札幌農学校と改称されます。

マサチューセッツ農科大学学長であったウィリアム・スミス・クラークが札幌農学校の初代教頭に招かれ、僅か8か月の滞在でしたが、マサチューセッツ農科大学をモデルに、農学に限らず幅広い教育を行いました。札幌農学校のカリキュラムは農学、英語、数学、化学、物理学、植物学、測量学、土木工学、経済学、英文学、弁論術など理学、工学、教養の分野にまで及んでいます。

北海道開拓の主体は1875年(明治8年)に始まった屯田兵でしたが、札幌農学校は屯田兵に多くの幹部を送り込んでいます。開校初期はアメリカ出身の教師が多く、大農経営や畑作に重点をおく教育で、1890年代半ばには中小農経営と米作に重点を切り換えました。

1906年(明治39年)札幌農学校を農科大学に昇格して理工科大学とし、予科を設けて「北海道帝国大学」とする案が文部省に上げられ、仙台に理科大学を置いて札幌の農科大学と併せて1つの帝国大学とする案に纏まり、1907年(明治40年)札幌農学校は「東北帝国大学農科大学」となります。

農科大学長佐藤昌介が東北帝国大学総長を兼ね、農科大学には予科が設置されました。1918年(大正7年)札幌の東北帝国大学農科大学は独立して「北海道帝国大学」となります。

かつて北海道、台北、京城の3つの帝国大学には本科に進める予科がありましたが、帝国大学の入学定員は旧制高校生の定員を満たしていたので、旧制高校生は希望する大学や学科を選びさえしなければ、全員、帝国大学へ入学出来たのです。白線帽、マント、朴歯(ホウバ)の下駄が象徴の彼らは、何を学んでいてもよい自由を謳歌しながら、仲間同士で切磋琢磨していました。

各校を繋いでいたのは寮歌です。北大予科の「都ぞ弥生」はどの高校でも歌われていましたが、かつての旧制高校には国家を背負って立つ気概を受け継ぎ、将来の責任ある役割を夢見る若者の姿があり、この気概を煽ったのが寮歌だったのです。

明治は遠くなりました。しかし誰の作か分からない“Boys, be ambitious”に続く “Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, not for that evanescent thing which men call fame. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.”がもっとも望まれるのは150年後の現在の我が国の政界であると云うのは、誠に、嘆かわしいことです。このままでは日本が亡びてしまいかねません。

 

 

 

 

 

 

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