「日米和親条約」は1854年(嘉永7年)江戸幕府とアメリカ合衆国が締結した条約です。日本側全権は林復斎大学頭、アメリカ側全権は東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーで、この条約で日本は下田と箱館(函館)を開港し鎖国が終りを迎えました。
ペリーによる黒船来航に関しては「泰平の眠りをさます上喜撰たった四盃で夜も寝られず」という有名な狂歌が引き合いに出され、攘夷論のある中で江戸幕府がなすすべもなく開国に追い込まれたとする論調に、ほぼ、統一されていた時代もありました。
「日米和親条約」については2021年6月10日のブログに私も書いていますが、今回は来航したペリー提督と対応した、林大学頭のやり取りに限って述べてみたいと思います。
ペリー来航の1年前、嘉永5年6月5日(1852年7月21日)オランダ商館長ヤン・ドンケル・クルティウスは例年どうり「別段風説書」を長崎奉行に提出し、アメリカが日本との条約締結を求めて艦隊を派遣すること、司令官がペリーであること、出航は翌年4月下旬以降になることを伝えていました。
翌嘉永6年(1853年)6月3日浦賀沖にペリーの艦隊が現れます。それまでのロシアやイギリスの帆船とは異なり、もうもうと煙を吐いて蒸気機関で外輪を回して航行し、帆船を1艦ずつ曳航している黒塗りの船を、我が国の人々は「黒船」と呼びました。
浦賀奉行戸田氏栄は、米艦隊旗艦「サスケハナ」に与力の中島三郎助を派遣し、ペリーの渡航の目的がアメリカ合衆国大統領の親書を将軍に渡すことであることを知ります。ペリーは最高位の役人にしか親書は渡さない、身分の高い役人を派遣しなければ江戸湾を北上して兵を率いて上陸し、将軍に直接手渡しすることになると脅しをかけます。
時の将軍徳川家慶は病床にあって国家の重大事を決定できる状態にはなく、老中首座阿部伊勢守は6月6日に「国書を受け取るぐらいは仕方なかろう」との結論に達し、6月9日ペリー一行の久里浜上陸を許可し、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道がペリーと会見しました。
ペリーは開国を促す大統領フィルモアの親書を手渡し、幕府が将軍の病気のため返答に1年の猶予を求めると、ペリーは1年後に再び来航すると告げて何の交渉もせず立ち去りました。
フィルモア大統領がペリー提督に託したアメリカの国書は、第一に日本とアメリカの通商を希望していました。
「私は日本と合衆国双方の利益のため、もし皇帝陛下が二国間の自由貿易を許す所まで祖法を変更できれば、相互に非常な利益があると期待している。もし皇帝陛下が外国貿易を禁じる祖法を完全に廃止することに不安があれば、五年から十年に限り、試みに祖法を一時中止することも出来る。」
続けてアメリカ遭難船員の救助と保護、アメリカ船の日本寄港と石炭・必需品・水の供給、対価の支払い、この目的のために一港を開港する希望が述べてありました。
この国書は英文の本書に蘭文と漢文の訳文が付けられていて、幕閣は昌平坂学問所の筒井肥前守に漢文を読ませ、大意は食料・薪水の給与、石炭の置き場、和親・通商の要求であると理解し、儒学者である林大学頭(はやし だいがくのかみ)、林式部少輔、筒井肥前守の3人を中心に、幕府の儒学者4人、幕府天文方の蘭学者3人の10人に詳細な蘭文の翻訳を命じます。
蘭文の国書の日本語訳が完成したのは6月25日で、幕閣は評定所に回して意見を求め、7月1日に老中阿部伊勢守が諸大名や幕臣に示して建白を許しました。
ペリーが再来航を告げて浦賀を出航した直後の6月22日将軍家慶が亡くなり、9月25日阿部伊勢守はこれを理由に、オランダ商館長クルチウスを通じてアメリカ政府とペリー提督に、再来航の延期を求めることにしました。
長崎奉行大沢豊後守・水野筑後守がオランダ商館長に、延期の申し入れをアメリカへ通達するよう依頼した後、アメリカ国書の取扱いについてクルチウスに諮問し、4日に渡りクルチウスが返答しています。
「オランダのアメリカ駐在公使からの情報では、現在、多くの国々が日本近海に来たいと願っており、その国々の船が日本に願うことを一切聞かなければ、戦争の発端になる危険性がある。
唐国は日本同様に外国人を寄せ付けずに戦争になり、広東などの五港を開港した。戦争になってからではよくない。二百年来の日本の鎖国は外国にも良く知られているが、これまでの姿勢で済ますことは困難である。
日本全体で自由な通商を許せば国法を破ることになろうが、土地を限っての通商なら国法を変えることにはならないのではないか。
アメリカの第一の目的は石炭置き場と船の修理場の確保であって、難風に会った時の避難場所確保と薪水食料の供給を望み、ペリーはこのような交渉の後に通商問題を持ち出すと思われる。」
この情報は時を移さず幕閣に報告されましたが、何らかの確約をペリーに与えねばと、阿部伊勢守の最終決断に影響を与えたことに疑いの余地はありません。
翻訳されたアメリカ国書を受け取った諸大名からは様々な意見が出されましたが、日本で太平な世が続いた200年余の間に海防に大きな遅れをとった状況を理解している阿部伊勢守は、前水戸藩主徳川斉昭に海防参与として幕閣評議への参加を求めます。
アメリカの国書を受け取った1か月後、ロシアのプチャーチン提督が修好・通商を希望して長崎に来ました。状況が緊迫する中で幕府中枢の意見は通商許可に傾きましたが、これに強く反対する徳川斉昭は8月6日阿部伊勢守に海防参与の辞退を告げます。
嘉永6年(1853年)11月1日付けで阿部伊勢守は「老中達し」で、アメリカ国書の取扱いに関する幕府の基本方針を示達しました。
「アメリカから出された書翰に付き夫々が建議した内容を各々熟覧し、これを衆議の参考にした上で上覧に付した所、和戦の二字に帰着した。夫々が建議した通り現在は防御力が備わっていないので、来年アメリカ軍艦が来航しても彼らの書翰の云う通りに聞き届けるかどうかには触れず、当方はなるべく平穏に取り計らう積りである。
先方から乱暴を仕掛けてこないとも限らず、その覚悟が無くては国辱ともなりかねない。防御策が実用となるよう心掛け、全員が忠憤を忍び、義勇を持ち、彼等の動静を熟察し、万一先方より戦端を開く時は全員が奮発し、一髪も国躰を汚さぬ様に上下を挙げて心力を尽くし、忠勤に励むべしとの上意である。」
阿部伊勢守はアメリカ側と戦闘状態になった場合に備えて、江戸湾警備を増強すべく7月23日に江川太郎左衛門らに砲撃用の台場造営を命じ、江川は富津-観音崎、本牧-木更津、羽田沖、品川沖の4線の防御ラインを提案しましたが、予算や工期の関係からまず品川沖に11か所の台場が造営されることになります。
11月14日には建造途中の1~3番台場の守備に川越藩、会津藩、忍藩が任ぜられ、大船建造の禁を解除して各藩に軍艦の建造を奨励、幕府自らも洋式帆船「鳳凰丸」を9月19日に浦賀造船所で起工し、ペリーが去ってから1週間後の6月19日にオランダへの艦船発注も決めています。
阿部伊勢守は翌嘉永7年(1854年)1月11日付けで林大学頭、井戸対馬守、鵜殿民部少輔、松崎満太郎の4名にペリー提督との交渉役を命じ、江戸詰めの浦賀奉行伊沢美作守も任地に派遣して応接の一員にしました。
林大学頭 岩村町観光協会臓
1月14日に帆船の「サザンプトン」が現れ、1月16日までに旗艦「サスケハナ」「ミシシッピ」「ポーハタン」の蒸気外輪フリゲート、「マセドニアン」「ヴァンダリア」の帆走スループ、「レキシントン」帆走補給艦の6隻が到着しました。
幕府との取り決めで1年間の猶予であったところを半年で決断を迫ったわけですが、ペリーは香港で将軍家慶の死を知って国政の混乱の隙を突こうとしたのでした。
2月13日から浦賀奉行所の組頭黒川嘉兵衛とペリー艦隊のアダムス中佐で応接場所の折衝が始まり、ペリー側は浦賀では納得せず2月27日横浜とすることで決着しました。3月6日横浜に応接所が完成し、3月8日アメリカ側の総勢446人が横浜に上陸します。
この時点で幕閣は、話しを長崎で聞くとしてきた従来の対応ではペリーが納得しないことを確信します。阿部伊勢守は徳川斉昭を評議の席に加えてアメリカ国書への回答案を協議し、幕閣の殆んど全員が通商を許可しないと戦争が始まると危惧しましたが、徳川斉昭のみは「通商不可」の自説を貫きました。
日本側の軍備の遅れからある程度の妥協は止むを得ないとする海防掛の意見や、ペリー艦隊を実際に見て彼らの優れた武備を危惧する林大学頭、強硬意見を述べる徳川斉昭との間に立って、阿部伊勢守はアメリカ国書の日本側対応策として 「遭難者の救助、薪水食料の供給、石炭の供給などは行う」が「通商は行わず」と心を決しました。
この時の阿部伊勢守の覚悟は、例え一時の試みと云えども通商は許されない。このため若し彼らがみだりに戦端を開けば止むを得ないが、彼等としてもこんな暴挙に出る筈はないとの読みでした。この決断をくれぐれも言い含められた林大学頭と井戸対馬守は2月6日神奈川にとって返します。
第2回目の来航で小柴沖まで侵入したペリー艦隊の行動は日本側に大きな動揺を与え、武威を誇示して交渉を優位に進めるペリー提督の作戦は大いに功を奏しました。日本側が交渉場所を横浜で妥協したのも、羽田沖までの測量を終えたペリー艦隊は、あと2里も北上すれば品川沖という危機感からでした。
最悪の場合を想定する幕閣は海防掛に「万一応接不調時に、一時に品川海上へ異船が数艘乗り入れて彼の願望を遂げたいと兵威を示すことでもあれば、予めの覚悟が無くてはならない」とその対応を諮問します。
安政元年(1854年)2月11日海防掛大目付井戸石見守からの答申は「諮問内容を塾考し討論した結果、応接方が上手く行かずにペリー艦隊が品川沖へ乗り入れて兵威を示しても、彼より事を破っては名義にかかわり長年の情願が空しくなるので、容易に兵端を開くことは無かろうと思われる。
暴慢無礼を働いて緊急事態を造り出し、日本側から事を破る様に計策を施すかも知れないが、彼に釣り出されての勝利は覚束ない。前回の上意の趣旨を塾考すれば、一先ず穏便に退帆させることである。防備が調えば種々処置の仕方も出て来る筈だから、万一品川沖まで乗り入れても更に動揺することなく、横浜で応接したと穏やかに諭すべきである。
それでも承伏しなければ、艦隊の薪水食料が枯渇し退帆するまで待ち、気長に鋭気を養い、持久戦に持ち込むことが肝要である。いささかの頓着もせず平穏の姿を示したほうが、どんな謀があろうかと疑念を生じて容易に発砲などしないと思われる。ペリー側の挑発に乗っては負けてしまう」がその趣旨でした。
2月10日予ねて約束の如くペリー提督は600人程の海兵隊を先頭に上陸し、横浜応接所に入ります。双方の初対面の挨拶の直後にペリー提督は、公方様に21発、大学頭様に18発、そして今回は自分達の初めての上陸を祝い18発の祝砲を打つと云い、57発もの大音響の祝砲を放って日本側の度肝を抜こうとしました。
マッシュ・ペリー提督
林大学頭は、早速、 単刀直入に「昨年夏に貴国大統領より我が大君に対し書簡を貰ったが、その希望事項の中で薪水食料の供給と日本産の石炭の供給は行う。漂民の救助も行う。しかしこの2項以外の交易などには一切同意できない」と明確に伝えました。
ペリー提督はこれに直接答えず、艦隊に軽輩1人の病死者が出たので金沢の夏島に埋葬したいと云い出しました。大学頭は日本では軽輩でも寺院に埋葬すると述べ、近くの寺院への埋葬が決まります。
ペリーは「日本では外国船に向け発砲し、外国船の遭難者を囚人のように扱い、アメリカが日本人遭難者を送り届けても直ぐ受け取ろうともしない。これでは敵国と同じでアメリカは国力を尽くして戦争をせねばならないが、我々はその準備をしてきている。我国は近年メキシコと戦争し、その首都まで攻め取った。貴国も同様になるが、良く考えてもらいたい」とまくし立てます。
林大学頭は「その時の事情で戦争もするが、使節の云うことには事実との相違が多く、誤った伝聞を誤認していると指摘します。日本は外国と国交が無いから我国の政情が分からないのは当然であろうが、我が国が人命を重んじることは万国に優れていて、その証拠に我国では300年も平和が続いている。
大船を建造しての外国との行き来は許されていないので、海上で他国船を救助することはないが、近海で難渋し日本に薪水食料を乞う場合に充分手当てすることは、海外へも通知してある。他国の船に従来通り薪水食料を与える。
また漂民を囚人の様に獄に入れて拘束するなどは、まったくの伝聞の誤りである。国法により、何処に漂着しても厚く手当てして長崎に護送し、オランダ商館長に引渡して帰国させている。既に貴国の人民も北方の松前近くに漂着したことがあったが、彼らも皆厚く手当てして長崎に送り貴国に返している。
しかし漂民の中にも不良人物がいて我が国法を犯してわがまま勝手に振舞い、止むを得ず拘束して長崎に送ったこともある。それが誤伝につながったかも知れないが、非道の政事などは一切無く、実情を知れば貴殿も疑念が解けよう。これが戦争を始める程のこととは思われず、貴殿もとくと考えるべき問題である。」
林大学頭の明快な論理にペリーは納得しました。ペリーは言葉を継いで、今や万国は交易により必要品を得て交易を通じて富強になっている。交易を何故しないと云うのか。貴国も交易を開始すれば格別国益になると強く推奨しました。
林大学頭は元来日本は自給自足ができ、外国の品が無くとも事欠かないから交易は開かない法になっている。先に受け取った国書によれば、今回の渡来の主意は第一に人命尊重の難渋船の救助である。その望みが叶えば、交易の件は利益の論であって、人命とは無関係ではないか。先ず、第一の眼目が立てばそれで宜しくはないかと詰め寄ります。
暫く考えていたペリーは「確かに人命の尊重と難渋船の救助を求めて渡来したことが主意であり、人命が交易利益とは異なることはその通りである。強いて交易の件は願わない」として引き下がりました。このようなやり取りで、この交渉での大枠が決まり、以降の交渉で細部の詰めがなされて行くことになります。
林大学頭は応接掛に任命される3か月程前の嘉永6年(1853年)10月、幕府の命により日本外交史料をまとめた 「通航一覧」を完成しており、引き続き続編 「通航一覧続輯」もその3年後に完成します。
そんな史料の調査過程を通じて、嘉永元年(1848年)5月のラゴダ号船員の遭難と長崎送致及び、嘉永2年(1849年)4月のアメリカ軍艦プレブル号への引渡しの経過は充分調べていた筈で、ペリー提督の強い非難に対し「囚人同様の扱いなどは無かった」と言下に具体的回答が出来たのでしょう。こんな正確な対応もペリー提督を納得させる大きな要因だった筈です。
ペリー提督が帰国後政府に提出した「公式遠征報告書」の第一巻では、日本側が西洋の地理や文化や科学技術の発展を正確に理解し、夫々の国情についてもある程度の知識があることもよく理解した。このような情報は主としてオランダ提出の「別段風説書」から得たものだが、林大学頭はよく読んで理解していた様に見えると指摘しています。
日米の談判は曲折があっても前進し、双方政府からの贈り物交換やポーハタン号での饗応などを経て双方の友好が確立されていき、その後薪水、食料、石炭等の供給港を箱館と下田にすることまで合意しました。
その2月30日の会見でペリー提督は、交易のためでなくともアメリカ船がたびたび来ることになるので、何れ役人を1人派遣し駐在させねばならなくなる。若しアメリカ人と日本人の争論が発生すればこの役人に処置させるためで、これは国際慣例であると提案しました。
林大学頭は難渋船に折々薪水食料を供給する程度ならアメリカ役人は不用であると拒絶します。ペリー提督は18か月後に使節を派遣する時に本件を話し合って欲しいと提案、林大学頭も了承しました。ペリー提督の心中には、当然、その時に通商条約の交渉を行うとの考えがあったとみるべきです。
約1か月にわたる協議の末、12箇条からなる「日米和親条約」が締結、調印されましたが、日本語版、オランダ語版、漢文版の何れも、双方が同じ版に署名したものが1通もなく、正文を何語にするかの交渉は日米間で一度も行われていません。
ペリーは横浜に上陸し下田と箱館を訪れましたが、部下が見聞したこともすべて報告させ、日本人が礼儀正しく、町が清潔で、労働者は粗末であってもきちんとした身なりをしており、物乞いの姿は見られず、女性の地位が高く主婦が家庭を仕切り、識字率が抜群に高く誰でもがお上からの掟書きを理解し、書籍を読みこなしている。職人の技術は非常に高度で、国際社会に加わればいずれ先端的な立場になるのではないかと高く評価しています。
幕府側が譲歩したのは下田、箱館の2港の開港だけですが、この条約の第11条は和文と英文で内容が異なっており、和文の第11条では両国政府が必要と認めたときに限って、本条約調印の日より18か月以降経過した後に米国政府は下田に領事を置くことができるとなっているのに、英文では両国政府のいずれかが必要とみなす場合にはとなっていて、この違いは後にタウンゼント・ハリスが総領事として下田に赴任した際に大きな外交問題に発展します。
我が国は戦後長らくGHQによって戦前、戦中、戦後の我が国の歴史に触れることを厳禁され、学校教育から地理、歴史の教科はなくなり、それが解禁された後も長らく日本を悪者と考える自虐史観がはびこりました。
我が国の自虐史観は今でこそ影を潜めつつありますが、江戸幕府には狂歌に歌われたように、まったく、なんの手を打つ術もなかったのではなく、林大学頭はペリー提督に対して一歩も引けを取らずに、正々堂々、渡りあったのです。生まれた時から米軍がいて、米軍が居るのが当たり前になっている現代の日本人も知っておくべき、明日に繋がる歴史の一齣でしょう。