明石 元二郎(あかし もとじろう)は1902年(明治35年)ロシア帝国公使館付陸軍武官に赴任し、1904年(明治37年)日露戦争が始まるとロシア国内の政情不安を画策して、戦争継続を困難にするほどの諜報活動に従事しました。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世をして「明石元二郎一人で満州の日本軍20万に匹敵する戦果を上げた」と称賛せしめたほどです。日本の勝利に貢献した実績は広く評価されていますが、諜報活動と云う表には出せない活躍のためその実態はほとんど知られていません。明石は後に陸軍大将に進級、大正7年(1918年)7月台湾総督に就任します。
明石元二郎
明石は1864年9月1日(元治元年8月1日)明石助九郎貞儀の次男として生まれました。明石家の家格は福岡藩黒田家の家中で最上位に次ぐ「大組」で、1,300石の大身の家系でした。1877年(明治10年)陸軍士官学校幼年生徒となり、1883年(明治16年)陸軍士官学校(陸士6期)を卒業して歩兵少尉に任官、1889年(明治22年)陸軍大学校(5期)を卒業しました。
ドイツ留学、仏印出張、米西戦争のマニラ観戦武官を経て、1901年(明治34年)フランス公使館付陸軍武官となります。翌1902年ロシア帝国公使館付陸軍武官に転任、後に首相となる田中義一陸軍武官が当時行っていたロシア国内の情報を収集して、ロシアの反政府分子と接触する工作活動を引き継ぎました。
パリ公使館付武官のころ 2列左から2人目
首都ペテルブルクのロシア公使館に着任した明石は、日英同盟下のイギリス秘密情報部員シドニー・ライリーと知り合います。日英同盟は外国とは同盟を結ばなかったイギリスが我が国と初めて軍事同盟を結び、ロシアの満州支配の動きを牽制しようとしたものです。
1903年(明治36年)明石の依頼で、ライリーは建築用木材の貿易商と偽って戦略的要衝である旅順に移住し、ロシア軍司令部の信頼を得てロシア軍の動向に関する情報や、旅順要塞の図面などをイギリスや日本にもたらしました。
1904年(明治37年)日露戦争が始まると、駐ロシア公使館は中立国スウェーデンのストックホルムに移動し、明石はこの地を本拠として活動します。開戦直前の1月参謀本部次長児玉源太郎は、開戦後もロシア国内の情況を把握するためペテルブルク、モスクワ、オデッサに、非ロシア人の情報提供者2名ずつを配置するよう明石に電令を発し、明石は日露開戦と同時に参謀本部直属のヨーロッパ駐在参謀職になります。
ロシア第一革命は日露戦争の最中の1905年1月に起こった「血の日曜日」事件をきっかけに、国会の開設などの改革をロシア政府に実行させた騒動です。1月9日の血の日曜日事件は旅順の陥落直後にガポン神父が計画した請願行進で「憲法制定会議の召集、労働者の諸権利の保障、敗北を重ねる日露戦争の中止、各種の自由権の確立」など、当時のロシア民衆の皇帝への素朴な請願を代弁したものでした。当時のロシア民衆は皇帝を信頼し、皇帝への直訴で情勢が改善されるものと信じていたのです。
その以前にサンクトペテルブルクで行われたストライキは10万5千人に及んだと云われ、当日の請願行進参加者は6万人に達しました。デモ隊を市街中心部へ入れないように動員された軍隊は、余りの人数の多さに侵入を阻止できず、各地で非武装のデモ隊に発砲して血の日曜日になりました。
ペテルブルクに続いて各地で労働者が暴動を起こし、変革を求める声は全国に広がります。この段階では、厳しく弾圧されたロシア社会民主労働党や社会革命党などの社会主義者は、地下に潜るか国外に亡命中で、まだ、ロシア国内で主導権を握っていませんでした。
ロシア陸軍は1月の旅順陥落に続いて3月に奉天会戦で敗れ、5月にはバルチック艦隊が日本海海戦で全滅、戦争中止を求める声が強まりました。6月に黒海艦隊所属の戦艦ポチョムキンの水兵が反乱を起こし、オデッサでも市民が蜂起します。皇帝は戦争の継続を断念するに至り、1905年9月5日ポーツマス条約を締結します。
明石の工作の目的はロシア国内の反乱分子を糾合し、革命政党エスエルを率いるエヴノ・アゼフなどへの資金援助を通じて、ロシア国内の反戦反政府運動の火に油を注ぎ、ロシアの対日戦争継続の意図を挫折させようとしたものでした。
明石は様々な人物と接触しました。フィンランドの反ロシア抵抗運動指導者カストレーン、シリヤクス、スウェーデン陸軍将校アミノフ、ポーランド国民同盟ドモフスキ、バリツキ、社会革命党チャイコフスキー、グルジア党デカノージ、ポーランド社会党左右両派、その他ロシア国内の社会主義政党指導者、民族独立運動指導者などです。
特に、当時革命運動の主導権を握っていたコンニ・シリヤクス率いるフィンランド革命党を通じて、様々な抵抗運動組織と連絡を取って資金や銃火器を渡し、デモやストライキ、鉄道破壊工作などが展開されていきました。デモやストライキが先鋭化し、ロシア軍はその鎮圧のために兵力を割かねばならず、極東へ派兵しにくい状況が作られました。
1904年(明治37年)5月児玉源太郎がポーランドの反ロシア民族主義者ロマン・ドモフスキと会談しました。満洲軍で激務にあった児玉がわざわざ時間を割いたのは、明石の手で連携がとれていたためです。
明石のロシア国内の政情不安を画策し、ロシアの戦争継続を困難にすることを意図した活動は、日露戦争後の1906年(明治39年)に参謀本部に提出された「明石復命書」によって、日本陸軍最大の謀略戦と称えられるようになります。
明石は当時の国家予算2億3,000万円の内100万円の巨額な工作資金を、一人で消費しましたが、それは参謀総長山縣有朋、参謀次長長岡外史らの決断で参謀本部から支給されたものです。
100万円は今の価値では400億円以上の大金でしたが、大国ロシアを掻き回すにはいくらあっても足りなかったでしょう。この大金の使途は復命書に明細を添え、残金27万円が返却されています。
明石復命書は明石の情報工作の手法が具体的にまとめられたもので、情報活動に携わる者の必読の書とされ、後に陸軍中野学校ではスパイ養成のテキストにしたほどでした。
明石はロシア帝国公使館付陸軍武官として赴任する前に、ドイツ留学、仏印出張、米西戦争のマニラ観戦武官を経て、1901年にフランス公使館付陸軍武官を務めています。ドイツ語、フランス語、ロシア語、英語に堪能だったと云い、この語学力を生かしてロシア国内の情報を収集、ロシアの反政府運動家との接触を試みる工作活動を行ったのです。
1894年(明治27年)ドイツ留学を命じられた時の明石は、フランス語は得意でしたがドイツ語の習得に、寝食を忘れて没頭しました。同年日清戦争がはじまって呼び戻されたので、4か月でドイツ語をマスターしたことになります。
フランスでの出来事でしょうか、ドイツとロシアの軍人が横にいた明石に「ドイツ語は話せるか」とフランス語で訊ね、明石が「ドイツ語は分からない」と答え、安心した2人の秘密の会話をすべて聞くことが出来たという話があります。
参謀次長長岡外史は「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評していますが、明石の謀略活動の意図は、研究者の間で、ほぼ、評価が一致しているようです。
明石は1904年(明治37年)ジュネーヴのレーニンの自宅で会談し、レーニンの社会主義運動に日本政府が資金援助することを申し出ました。レーニンは、当初、応ぜず、明石は「タタール人の君がタタールを支配するロシアのロマノフを倒すのに、日本の力を借りるのが何で裏切りだ」と説き伏せ、レーニンをロシアに送り込むことに成功しました。後にレーニンは「日本の明石大佐には本当に感謝している」と語っていたそうです。
このレーニンとの会談やレーニンの発言には、事実かどうかの疑念も提示されていますが、明石は指導者としてのレーニンに一目おき、復命書の中で「礼仁」という字を当てて敬意を払い、1917年のロシア革命当時に至っても日本政府にレーニンの名を知っている者のは誰もいなかったことから、実際に会った公算が大きいと思われます。
明石の諜報活動を知ることができるのは参謀本部に提出された明石復命書だけですが、原本は終戦の際に焼却されてしまい、残っていた複写に明石自身が「落花流水」と題をつけています。その大半はロシアの成り立ちから日露戦争に至るまでの歴史を詳しく調べ上げたもので、あの年代に日本で書かれたロシア史の中で完璧なものと云われます。
不平党の重要人物の項には「倉保」(クロポトキン)「布破」(プレハーノフ)「瓦本」(ガポン)「礼仁」(レーニン)が出てきます。明石はこういった革命勢力に近づき、煽動し、援助することで、背後からロシアを脅していったのです。
第二次世界大戦後に発刊されたデニス・ウォーナー夫妻の名著「日露戦争全史」には、明石大佐の項の初めに「ニコライ皇帝が想像していたよりも遥かに身近なところで、この戦争とロシア宮廷の運命に極めて大きな影響を与える事件が、今や引き続いて生起しようとしている」と述べられています。
明石の前任者であった田中(後の大将、総理大臣)も非常にロシア語が堪能で、自らギイチ・ノブスケビッチ・タナカ(ロシアの名称は中に父親の名をはさむ)と称するほどでした。この田中と海軍の広瀬武夫がすでに革命党員と接触したり、明石の下工作に当たることをやっていました。
明石はロシア国内にうまくスパイをもぐり込ませ、満州への兵站、輸送の状況などを逐一報告させていますから、バルチック艦隊がどんな編成で、いつ頃出港していくと云う報告なども全部していたはずです。
明石はスパイについて面白い評価を下していて、金が目当てのスパイが一番いい。主義主張でやっているより、ひもじい思いをしているプロのスパイの方がよく働くと云っています。
明治37年10月1日明石はパリにロシア、ポーランド、フィンランドの革命家を集めて資金を出し、ロシアで大反乱をおこす工作を企てます。不平分子を煽動してロシア国内を攪乱させる目的で、まず、フィンランド独立運動を進めているフィンランド人の弁護士シリヤクスに接触、これがフィンランドの独立とロシア革命、日本の勝利に大きな働きをするきっかけになります。
シリヤクスを通じてスウェーデン参謀本部のアミノフ大尉と会え、彼がロシア国内のスパイに秘密の手紙や資金を送ってくれるようになります。長年ロシアの圧制に苦しんでいたフィンランド人の亡命者たちが協力してくれたのです。
ポーランド人も同じで、ロシア陸軍に配属されているポーランド人は「戦前は15%ぐらいだったが今は30%いる。この連中に反軍、独立のサボタージュをおこさせると大きな力になる」と云っています。
1905年(明治38年)には全ロシアで286万人がストライキに参加し、これは前年の115倍だそうです。公正な史書としての評価の高い谷寿夫の「機密日露戦史」は、谷が陸軍大学で日露戦史を講義したテキストですが、その中でもこのことが指摘されています。
ヨーロッパ諜報活動時代 中央が明石
明石は陸軍部内で高く評価されていたのですが、ある将校が明石に「閣下が日露戦争中にやられた働きは、大へんなものでございますね」と云うと、明石は苦い顔をして「俺の功績が日露戦争の正史のどこに書いてあるか」と云ったそうです。
正史とは何を指すのか分かりませんが、谷中将の「機密日露戦史」には「日露戦役戦勝の一原因もまた明石大佐ならざるか」と述べられていて、男爵受爵もこの功によるものとされています。
1914年(大正3年)4月明石は参謀次長に就任しました。日露戦争中の明石は当時の国家予算2億3,000万円の内の100万円の巨額工作資金を一人で使うほど、参謀本部の信頼は厚かったのですが、陸軍部内には「スパイ蔑視」の風潮があってこの路線からは外されていき、1918年(大正7年)7月台湾総督に就任、陸軍大将に進級します。
総督在任中には台湾電力を設立して水力発電事業を推進し、鉄道貨物輸送の停滞を消解するため海岸線を敷設、台湾人が日本人と均等に教育を受けられるよう帝国大学進学への道を開き、台湾最大級の銀行の華南銀行を設立しています。また、嘉南平原の旱魃・洪水対策で嘉南大圳の建設を承認し、台湾総督府の年間予算の3分の1以上にもなったその建設予算の獲得に尽力しました。
総督在任1年4か月の1919年(大正8年)10月公務のため本土へ渡航する洋上で病を得、郷里の福岡で満55歳で亡くなります。「余の死体はこのまま台湾に埋葬せよ。いまだ実行の方針を確立せずして、中途に斃れるは千載の恨事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」と遺言し、遺骸は台北市の三板橋墓地に埋葬されました。1999年に現地の有志により、台北県三芝郷の福音山基督教墓地へ改葬されています。