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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

朝鮮戦争特需

2013-10-30 06:25:45 | 日記
朝鮮戦争は、成立したばかりの大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、北朝鮮が1950年6月25日、国境を越えて侵攻したことによって勃発した内戦ですが、その後国際紛争に発展しました。

諸外国が双方を応援して参戦し、朝鮮半島全土が戦場となり荒廃しました。1953年に休戦に至りましたが、北緯38度線付近の休戦時のフロントラインが軍事境界線となって、朝鮮半島は南北2国に分断されたままです。現在も両国間に、平和条約は結ばれていません。

1945年8月、第2次世界大戦で日本が無条件降伏した時点では、朝鮮半島北部にソ連軍が侵攻中であり、日本の降伏後も進軍を続けていました。アメリカは、ソ連軍が朝鮮半島全体を掌握することを恐れ、朝鮮半島の南北分割占領を提案しました。ソ連はこれを受け入れて、北緯38度線を境に、北部をソ連軍、南部をアメリカ軍が分割占領したのです。

その後米ソの対立を背景に、南部は韓国、北部は北朝鮮として建国されましたが、朝鮮半島の統一支配を目指す北朝鮮は、1950年6月、38度線を越えて軍事侵攻に踏み切りました。韓国側ではアメリカ軍を中心に国連派遣軍が参戦し、北朝鮮側には中国人民義勇軍が参加しました。ソ連は武器調達や訓練などの形で支援するに留まりましたが、結果として、アメリカとソ連の代理戦争になったのです。

開戦直前の軍事バランスは、北が有利でした。韓国軍は総兵力10万6000を有していましたが、訓練は不足気味で、米韓軍事協定によって重装備が全く施されておらず、戦車はなく、砲91門、迫撃砲960門、航空機22機を有するのみでした。

これに対して、朝鮮人民軍は総兵力19万8000で、歩兵師団10師団、戦車1個旅団、戦車240輌、砲552門、迫撃砲1728門、航空機211機を有していました。また、中国人民解放軍に参加して、国共内戦で実戦経験を積んだ朝鮮系中国人が加わって、優れた練度を維持していました。

1950年6月25日、宣戦布告なしに、北緯38度線で北朝鮮軍の砲撃が開始されました。30分後には約10万の兵力が38度線を越え、東海岸ではゲリラ部隊が韓国軍を分断して、その後方に上陸したため、韓国とアメリカを初めとする西側諸国は衝撃を受けました。

前線の韓国軍は大部分の部隊が、当時、軍事警戒態勢を解除していて、最新鋭の戦車のT-34を中核にした北朝鮮軍の攻撃には、全く歯が立たないまま、各所で韓国軍は敗退しました。

連合国軍総司令官マッカーサーは日本にいて、奇襲砲撃開始を知ったのは、1時間後だったと云われます。6月27日の安保理は、北朝鮮を侵略者と認定し、軍事行動の停止と撤退を求める「国際連合安全保障理事会決議82」を全会一致で採択しました。ちなみにソ連はこの年の1月から、理事会を欠席していました。

韓国政府はソウルを放棄し、6月28日ソウルは市民に多くの犠牲者を出した末に陥落しました。マッカーサーは本国に、在日アメリカ軍2個師団を投入するように進言しましたが、回答が届く前に大型爆撃機を日本から発進させて、北朝鮮が占領した金浦空港を空襲しました。トルーマン大統領は、1個師団のみの派兵を許可しましたが、派遣されたアメリカ軍先遣隊は7月4日に北朝鮮軍と交戦し、1日で敗北しました。

国連安保理は韓国防衛のため、必要な援助を韓国に与えるよう、6月27日に加盟国に勧告し、7月7日にはアメリカ軍25万人を中心として、日本に駐留していたイギリス連邦占領軍を含む、国連軍が結成されました。

国連軍は準備不足で人員、装備に劣り、各地で敗北を続け、アメリカ軍が大田の戦いで大敗を喫すると、洛東江戦線にまで追い詰められました。この時韓国軍は、保導連盟員や共産党関係者の政治犯などを、20万人以上を殺害したと云われます。

一方、北朝鮮軍と左翼勢力も、忠清北道や全羅北道金堤で、大韓青年団員、区長、警察官、地主やその家族など民間人数十万人を、右翼活動の経歴があるとして虐殺しました。アメリカ兵捕虜が北朝鮮軍により虐殺された、303高地の事件も起きました。

国連軍は釜山の周辺で、ようやく北朝鮮軍の進撃を食い止めることができ、マッカーサーは新たに第10軍を編成して、9月15日、7万人をソウル近郊の仁川に上陸させ、この作戦に連動した国連軍の大規模な反攻が開始されると、戦局は一変しました。

補給部隊が貧弱であった北朝鮮軍は、38度線から300キロ以上離れた釜山周辺の戦闘で大きく消耗して敗走し、9月28日に国連軍がソウルを奪還、9月29日には韓国の首脳もソウルに帰還しました。ソウル北西の高陽では韓国警察によって、親北朝鮮とみなされた市民が虐殺される、高陽衿井窟民間人虐殺が起きています。

10月1日、韓国軍は李承晩大統領の命を受け、アメリカ第8軍の承認の下に、単独で38度線を突破しました。翌10月2日、北朝鮮は中国に参戦を要請します。中華人民共和国の周恩来首相は、国連軍が38度線を越境すれば参戦すると警告しました。

国連安保理での国連軍による38度線突破の提案は、ソ連の拒否権により葬られましたが、10月7日、アメリカの提案により国連総会で議決され、10月9日に国連軍も38度線を越えて進撃し、10月20日に北朝鮮の臨時の首都の平壌を制圧しました。

アメリカ軍を中心とした国連軍は、トルーマン大統領やアメリカ統合参謀本部の命令を無視してさらに北上を続け、日本海側にある軍港の元山まで迫り、先行していた韓国軍は、一時、中朝国境の鴨緑江に達します。ソ連はアメリカを刺激することを恐れ、軍事的支援は中国に肩代わりを求めていましたが、参戦に消極的だった中国も、この事態で遂に義勇兵派遣を決定し、国際紛争の様相が前面に現れます。

朝鮮戦争勃発後の1950年8月25日に、アメリカ軍の在日兵站司令部が横浜に置かれました。直接調達方式により大量の物資が買い付けられ、その額は1950年から1952年までに10億ドル、1955年までに36億ドルに達したと云われます。

当初調達された物資は、主に土嚢用麻袋、軍服、軍用毛布、テントなどに使用される繊維製品でした。この他に、前線での陣地構築に必要な各種鋼材、コンクリート材などがあり、食料品と車両修理もありました。

日本企業に兵器や砲弾などの、軍需品の生産の命令が下されたのは1952年3月のGHQの覚書で、第2次世界大戦中に戦闘機や戦車を生産していた、現三菱重工や富士重工に、車両の修理や航空機の定期修理を命じました。

これらの結果、敗戦で疲弊し切った我が国の経済状態は、急速に回復の兆しを見せはじめ、朝鮮特需と呼ばれました。三菱重工や小松製作所などは、朝鮮特需とともに、1950年に発足した警察予備隊に供与された戦車の整備や修理を請負い、後に、61式戦車などを製造するようになります。

国民は知りませんでしたが、当時の日本は、占領軍経費を終戦処理費として負担しており、初期には一般会計の50パーセントにも及んでいました。1952年(昭和27年)までの占領総経費は47億ドルと云われ、朝鮮特需による売上の総計に匹敵します。朝鮮特需の46億ドルは、実は、我が国の税支出で賄われたと云ってもよいことになります。

当時のアメリカは、日本の復興を好意で支援してくれたわけではありませんでした。有利子の借款や駐留経費の4割の負担など、後の「思いやり予算」などからの想像を超えた、苛烈な要求を突き付けてきていたのです。

我が国は無条件降伏後の占領下で、GHQによる極度の報道管制が敷かれており、国民は経済状況の上向きから、朝鮮特需の恩恵こそ感ずることができましたが、朝鮮戦争の実態は、近くて遠い国の内戦としか知りようがありませんでした。


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コスモスポーツ

2013-10-24 06:21:25 | 日記

コスモスポーツは、1967年(昭和42年)に2シータークーペモデルとして発売された、世界初の量産実用化 ロータリーエンジン搭載車でした。ロータリーエンジンは、100年以上の理論的蓄積にもかかわらず、それまで量産されるには至っていなかったのです。

1968年8月に東洋工業は、mazda110Sの名でコスモスポーツを擁して、ニュルブルクリンクで行われた、84時間耐久レースに挑戦しました。このレースは、生産車のスピードと耐久性が競われるマラソンレースで、ポルシェ、ランチア、BMW、SAAB、オペル、シムカ、ダットサンなどと激戦を展開した結果、総合4位入賞を果たしました。参加59台中、完走は26台だったと云います。

コスモスポーツは、前期型が1967年(昭和42年)に343台販売され、1972年(昭和47年)の後期型の最終販売車までに、累計で1176台が販売されたにすぎません。私が見かけたことがあったのは幸運と思えるほどでしたが、当時の国産車では考えられない、洒落たスタイルの車でした。しかもレシプロエンジンではなく、ロータリーエンジンを積んだ車でしたから、自動車のファンとしては、憧れたわけです。

ロータリーエンジン搭載用に設計されたボディは、セミモノコックで開口部以外には継ぎ目がなく、開口部のリッド類はすべて前ヒンジとされました。ロータリーエンジンはできるだけ後方に極力低く置かれ、革新的なロータリーエンジンにふさわしい、思い切ったスタイリングが生まれました。のちのマツダのアイデンティティーとなる、フロントミッドシップの発想が生かされたものです。

基本レイアウトはフロントエンジン・リアドライブですが、当時の国産乗用車としては、高度なスペックが盛り込まれていました。サスペンションは、フロントがダブルウィッシュボーンとコイルスプリングの独立懸架で、リアは独立懸架こそ断念されましたが、バネ下重量の軽減を図り、ド・ディオンアクスルをリーフスプリングで吊る形式が採用されています。

トランスミッションは4速フルシンクロで、ブレーキは前輪がダンロップ型ディスク、後輪はアルフィンドラムでした。なおブレーキは前後2系統が独立した、タンデムマスター式となっています。
全高は1,165 mm と低く、伸びやかなリアオーバーハング、ボディ中央のプレスラインとあいまって、コスモスポーツの未来的なイメージがさらに強調されています。また、バンパーを境に上下に分けたテールランプも特徴的でした。全長に比してリアオーバーハングが大きいため、運動性では不利になり、スポーツカーと云うよりは、グランドツーリスモの性格が強くなりました。

ロータリーエンジンは、1963年(昭和38年)開催の第10回全日本自動車ショウに、400cc×1ローター(35PS)と400cc×2ローター(70PS)の2種類の試作が出展され、翌1964年の第11回東京モーターショーに、初めてのコスモスポーツのプロトタイプが出展されました。1966年第13回全日本自動車ショーにも展示され、1967年春の発売予定とアナウンスされました。

ロータリーエンジンは、基本的に、繭型断面形状のハウジングと、その中にある三角形のローターで構成され、両者に囲まれた作動室内で、燃料と空気の混合気を燃焼させ、その膨張圧力でローターをまわす仕組みです。

マツダで開発した2ローターのロータリーエンジンは、2つのローターハウジングを3つのサイドハウジングでサンドイッチする構造で、2つのローターハウジングでそれぞれローターが回転します。ローターはステーショナリーギアーで規制され、燃焼時の膨張圧力はローターを介して、エキセントリックシャフトに伝達されて出力を発生します。

コスモスポーツの前期型には、10A型ロータリーエンジン(491 cc ×2)が搭載され、9.4の高圧縮比とツインプラグによって、110 PS /7,000 rpm、13.3 kgf•m /3,500 rpm を発揮しました。車重は940 kg と軽量でした。

コスモスポーツの10A型エンジンは、それ以降ファミリアロータリークーペ、サバンナRX-3などにも搭載されました。10A型エンジンは開発目的が量産規模の小さいスポーツカー搭載用であったため、エンジンは全て総アルミニウム合金でした。コスモスポーツ以後の量産モデルでは、サイドハウジングが鋳鉄に変更されています。

市販までのテストは、各地のディーラーに委託されたコスモスポーツ60台により1年間実施され、その間本社では試作車による、10万kmの連続耐久テストを含む、総距離300万kmに達する走行テストが行われたと云います。

フルパッドのダッシュボードに組み合わされるアルミニウムのインパネは、艶消しの黒で統一され、無反射ガラスの7連メーターが並びました。内装は天井も含めて黒のビニールレザーのフルトリムとされ、通気性を考慮してシート中央は、白黒の千鳥格子柄のウールを使用しています。

前後に調節可能な、3本スポークのウッドステアリングホイールが標準で、床敷物は真っ赤な絨毯、シフトノブは自然に手を下ろした位置にあり、腕を大きく動かすことなく操作できる、ショートストロークになっていました。リアガラスは非常に曲率の大きなものが用いられ、室内の開放感を高めました。価格は148万円で、ダットサン・フェアレディ2000の88万円、プリンス・スカイライン2000GT-Bの94万円と比べるとはるかに高価でした。

当時、レシプロエンジン搭載の国産車は、4,000 rpm を過ぎるあたりから騒音と振動が大きくなり、100 km/h を超える高速走行では会話が困難となりました。しかし、ロータリーエンジンは、レシプロエンジンとはまさに異次元の感覚で、レッドゾーンの7,000 rpm まで、静粛かつスムーズに吹け上がったと云います。

私がロータリーエンジンの特性を実感できたのは、当然、コスモスポーツではなく、3代目コスモのことになります。初代コスモは、カーグラフィック誌による燃費テストで、公道998 km、サーキット108 kmの試験距離で、8.3 km/Lを記録しています。

1968年(昭和43年)7月には早くもマイナーチェンジが行われ、ラジエーターエアインテークの拡大、ブレーキ冷却口の新設、ホイールベース、全長、トレッドの拡大、トランスミッションの5速化がおこなわれ、前後ブレーキへの倍力装置が装着されました。

ラジアルタイヤの標準化や、エンジン出力の110 PS /13.3 kgf•m から 128 PS /14.2 kgf•mへのパワーアップが施され、最高速度は185 km/h から 200 km/hへ、0-400 m 加速も16.3秒 から 15.8秒へと16秒を切りました。この後期型の価格は158万円でした。1967年(昭和42年)には、中央自動車道の調布八王子間が開通し、高速パトロールカーとして、交通機動隊に配備されたのは特筆ものでしょう。

10A型ロータリーエンジンは、総排気量1000ccの2ローターでしたが、これを搭載したファミリアロータリークーペがレースに登場すると、当時常勝を誇っていた日産の2000GT-Rを苦しめ始め、1971年にサバンナRX-3が市販化されると、とうとうGT-R の連勝記録にストップをかけることになり、ロータリーエンジンのレースデビューは鮮烈なものでした。

しかし燃費の良くないロータリーエンジンは、オイルショックの到来と同時に悪者扱いされ、マツダは経営不振に陥ります。同社の経営危機を救ったのは、小排気量のレシプロエンジンを搭載した経済車ファミリアでした。ファミリアは何の変哲もない車でありながら、社運を挽回するだけのユーザーからの支持を受けたのは、技術力を背景にしたマツダの、車への堅実な取り組み方が評価されたものでしょう。

マツダと云う不思議なメーカーの、4輪車への取り組みとして、コスモスポーツの前にもう1つ見逃せない、マツダR360クーペがあります。マツダR360クーペは1960年に発売され、マツダはこの車で4輪乗用車市場に、はじめて参入しました。戦後の日本車で、クーペを名乗った最初の車です。価格は30万円で、当時のスバル360より安く設定されました。

2ドアで4人乗りでしたが、後部の座席は大人には無理でした。このクラスは1人か2人で乗ることが多く、2+2と割り切ったものです。軽量化対策が徹底して行われ、アルミニウム合金、マグネシウム合金、プラスチックなどの軽量素材を多く用いています。

モノコックボディは、社内デザイナーによるもので、尖ったノーズと凹んだヘッドライト回りの処理はスマートで、スバル360同様、ミニカーのデザインとしては完成度の高いものでした。オート三輪を作っているメーカーからは、想像もできない洒落た感覚のスタイルですが、その秘密は後のコスモスポーツと担当者が同じだったことにあります。

エンジンは同社のオート三輪K360と同じく、排気量356cc、16馬力の強制空冷V型2気筒4ストロークOHVエンジンでしたが、鋳鉄のK360とは異なり、アルミ合金製でした。動弁機構や補機類には、マグネシウム合金まで多用した軽量設計で、許容回転数は5,000rpmを超え、当時としては異例の高回転エンジンでした。

その後マツダは、アルミ合金製エンジンを白いエンジンと呼び、セールスポイントの一つとするようになりました。このエンジンを車体後部に縦置きし、後輪を駆動するリアエンジン方式が用いられています。

この車には、4速マニュアルトランスミッションのほか、軽自動車で初となる、トルクコンバーターを用いた、オートマチックトランスミッションを装備しました。これによって下肢に障害のある身体障害者の運転を容易にしましたが、軽自動車でいち早くトルクコンバーターを採用したのは、日本の自動車業界で画期的と言えます。

サスペンションは4輪ともにトレーリングアームの独立懸架で、ピボット部に内装されたゴムの弾性を利用する、ナイトハルト式トーションラバースプリングを用いて軽量化を遂げ、ソフトな乗り心地を得ています。後輪にもトレーリングアームを使っていることで、対地キャンバー変化やジャッキアップ現象が抑えられ、ゆったりとした振幅となっていました。

型破りの低価格のため、発売当初は非常に高い人気を得ましたが、完全な4座のスバル360の対抗馬としては、実質2人乗りは不利でした。1962年に発表された、4ドア4座軽乗用車であるキャロルに主力の座を譲った後も、1966年まで生産が続けられ、AT車は身体障害者のドライバー向けに、1969年まで受注生産されました。総生産台数は65,737台でした。

私は、プリンス1500に乗っていて、砂利道でR360クーペの後ろに付いて走ったことがあります。エンジンは圧倒的に大きいのに、後輪がリジッドアクスルであったプリンス1500は、砂利道ではパワーをロスして4輪独立懸架のR360になかなか追いつけず、360㏄の威力に吃驚しました。また、リアエンジンリアドライブのR360クーペが、結構、上り坂に強いのにも、驚いたことがあって、軽自動の走りに一目置く経験をさせてくれました。

オート三輪を作っていた会社がR360クーペを造り、前衛的なロータリーエンジンのコスモスポーツを造り、何の変哲もないファミリアで、長年にわたるユーザーの支持を受けています。マツダと云うのは、一体、どんな自動車メーカーなのだろうと首を捻らせられてしまいます。


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個性

2013-10-18 06:26:34 | 日記

個性と云うのは、ゴルフのスイングについてです。我が国のプロでも、外国のプロでも、誰の記憶にも残る個性的なスイングがあります。中村寅さんや林由郎プロのスイングについては、前にも書きましたが、独特と云う意味で、誰にも負けないスイングの持ち主は、杉原輝雄プロでしょう。

中村寅さんのスイングは、真似できないフォームではありませんが、林プロのバンカー周りの、とんでもないライからの曲打ちは、他のプロと云えども真似はできないでしょう。

林プロの何時ものバンカーショットは、まるで素人が初めてバンカーで打つような格好で、ひょいとクラブを持ち上げて、ひょいと降ろすだけのたわいのないショットなのですが、アリソンバンカーで有名な我孫子の総帥で、青木功や尾崎兄弟のお師匠さんです。

杉原プロは優勝回数では、尾崎将司、青木功に次ぐ歴代3位ですが、関西のドンと云われた時代を越えて全国区になり、特異なフォームで一世を風靡しました。アドレスで曲げた両腕を、トップでも曲げたまま、インパクトでも曲げを保ち、フィニッシュでも両腕は曲がったままと云う変則フォームで、運び屋と云うニックネームがつきました。

通常のスイングでは、少なくともインパクトでは左の腕は伸びていますし、トップでも、フォロースルーでも、左腕が伸びているのが理想的だとされているのに、個性的を通り越した、いかにも変則的なスイングです。

両腕を曲げたままでの素振りは、やってみると真似できるのですが、実際に球を打つとなると強打はできません。しかし、ゆっくり振ってみると、フェースの面を変えずにクラブを振るのには、これが一番合理的なのかなと思えてきます。

プロ入りしたころの中島常幸のフォームは、当時、逆C字型のスイングがもてはやされた時代でしたが、若くて体が柔らかいこともあって,O字型のスイングではないかと思われるほど、よくしなっていました。1978年に初出場したマスターズで、魔女が棲むといわれるアーメンコーナーの13番ホールで、クリークに2度つかまり、11オン2パットの13打を叩いたことがあります。

飛ばさなければと云う思いと、グリーンでも止まる球を打ちたいと云う思いを述べた、マスターズ後の談話がありましたが、そのせいでしょうか、世界でも最も美しいと云われたフォームをいじり、一時は頭の上下動が激しく、素人目にもスイングにならない時期がありました。このままではマスターズで勝てないと感ずるところがあって、スイング改造に臨んだのでしょうが、7年のブランクの後ようやく復活して、AON時代を築いたのはご承知の通りです。

日本人のプロできれいなスイングをした魁は石井朝夫でしょう。第1回日本ゴルフシリーズの優勝者です。私が理想的だと見たスイングの持ち主に、湯原信光がいます。あれだけきれいなフォームなのに、超一流プロになったとは云えません。アマチュアゴルファーに湯原と杉原のどちらのフォームを身に着けたいかと聞けば、杉原と答える人はいないでしょう。しかしプロのトーナメントで長年好成績を続けるのには、フォームがきれいなだけではダメなようです。

アメリカで一世を風靡したプロに、サム・スニードがいます。PGA82勝、メジャー7勝を挙げています。ヒッコリーシャフト時代の、トップで両腕を曲げたスイングから脱して、モダンなフォームを完成したのがサム・スニードでした。まったく無理のないサムのフォームの後で、逆C字型のスイングがもてはやされる時代になります。その最も美しいと云われたスイングが中島だったのです。

ニクラウスも逆C字型でしたが、左手が水平の位置まで下りて来た時点で、コックは素人のように完全にほどけていて、これでどうして、あんなに球が飛ぶのかと思いました。飛距離が出るのでコック使う必要がなく、フェースの向きの正確さを保てるノーコックの方が、遠くに正確に飛ばすのにはよかったのでしょう。

ニクラウスは、私が見たカナダカップ出場のプロの中で、桁外れに球が飛びましたが、形の美しさではウエッジショットです。両膝を揃えて深めに曲げ、膝から頭までの上体がまっすぐになった、いわば、への字を立てて、向きを逆にしたようなフィニッシュが何とも素晴らしく、目に焼き付いています。

逆C字型のスイングでは、飛びの正確さ保つのが難しいせいか、次の時代にはフィニッシュでまっすぐ左足の上に立つ、I字型のスイングが主流になりました。ジーン・リトラーがその代表でしょう。機械のように、正確なゴルフをすると云われました。

その後は、なにがなんでも飛距離が欲しいと云う飛ばす時代が訪れ、飛距離は伸びましたが、PGAの男子プロのスイングから華麗さが失われ、強引な打ち方に見えるようになります。

癖のないスイングや、時流に乗ったスイングのプロの他に、個性的なスイングのプロの活躍も目立ちます。逆C字型全盛時代に、電話ボックススイングと云われたダグ・サンダースがいます。両足を大きく開いて、バックスイングは腕を水平までしか上げず、前を向いたまま打ち、フィニッシュも腕が水平までと云う感じです。正確無比なスイングとして注目されましたが、真似してみるとどうしても飛距離が出ませんでした。

強風の中でのゴルフを身に着けた結果、インパクトを過ぎてからのヘッドを低く出すために、強烈に右肩を下げて突っ込むリー・トレビノのフォームは印象的でした。大きな体で、トップでのドライバーのヘッドが右腰の辺りまで下がるジョン・デイリーは、狙ったところへ球が飛ぶのが不思議なくらいの滅茶振りでしたが、メジャー2勝しています。早打ちマックの異名をとったフューバート・グリーンも、小さく縮こまった個性豊かなスイングでした。

時代の流行とは別の、スイングに新しい考え方を持ち込んだトニー・レマに、私は注目しました。上体をできるだけひねって、その巻き戻しの勢いを最大限に活かして強打すると云う当時のゴルフに対して、トニー・レマは、テイクバックは飛球線の後ろに上げるだけ、コックはせずにヘッドの位置は1時半の方向、ダウンスイングの開始は、上げた左足の踵で地面を踏みつけるだけ、あとは勝手にクラブが動くのに任せると云うものです。

それまでの、ヘッドは右肩の後方から左肩の後方までの、斜めのスイング面上で振ると云う概念とは違って、飛球線に沿ってコンパクトに、クラブをできるだけ縦に振ることを目指したものです。結構長打者で、全英オープンにも優勝し、これからと云う時に飛行機事故で亡くなってしまったのは残念です。

トニー・レマの理論に惚れ込んで、私もむかし試してみましたが、上体のひねりで飛ばせと教え込まれた体は、ただクラブを飛球線の後方に持ち上げるだけと云うトップスイングは、不安でできないのです。踵を強く踏み込んで、あとはクラブに任せると云うのですが、フラットにあげたトップスイングでは、左の踵を強く踏み下ろせないのです。新しい時代のスイングを予感させるトニー・レマの真似はできませんでした。

今では傘寿を過ぎて、家の中で短い練習用のゴムのクラブを振って体の衰えを防いでいますが、上体の反動を使って振っていく、若い時にはできたスイングは、今ではまったく無理です。トップでクラブの動きを止める藤田寛之のスイングを見ていて、上から振り下ろすだけなら、インパクトでヘッドを加速しながら振ることができるのを発見しました。

2,3年前の女子プロのフォームは、みんながバックスイングで頭を後方に移動し、その場で止めて、インパクト後もそのままで振り抜いていました。アドレスからトップスイング、インパクトまで、まったく頭を動かさなかったのは、不動裕理とジョンミジョンの2人だけです。

昔よく見ていた奥田靖己プロのフォームも、テイクバックで頭を後方に移動し、頭と左足を直線に保ったまま振り抜くフォームでしたが、確かに歳をとってからでも頭を後方に移動すると、肩がよく入るのです。女子プロと奥田プロのビデオを散々眺めて、テイクバックで頭を後方に動かし、トップで一旦止めたクラブを、振り下ろすだけに専念することで、以前より、安心して球が叩けるようになりました。

現在の女子プロのフォームは、また、全員がアドレスからインパクト、あるいはフィニッシュまで、まったく頭の位置が動かなくなっていますが、私は、頭を後方に動かすことで肩が入るようになり、飛距離も出るようですし、実戦でも試してみましたが、嬉しくなっているところです。


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旧制高校

2013-10-12 06:33:21 | 日記
私は旧制高校の最後に1年間在学しただけですので、旧制高校を語る資格は3分の1しかないかも知れませんが、新旧2つの学制を経験した意味で、発言権はありそうです。新制大学の入試は6月に遅れ、入学は9月でしたから、旧制高校を謳歌する期間は、半年伸びたことになります。

新制大学に入学した直後、角帽をかぶる学生はほとんどいませんでした。半年以上経っても、出身高校の白線帽そのままの者がいて、実感として違和感を覚えたのは角帽だったのです。一番人数の多かった高校で敷地がいかに広いとは云っても、1つの旧制高校の校内に4.5倍の新入生を溢れさせた新制大学は、それだけでも幻滅でした。

昭和 20年( 1945 年 )10 月に アメリカ占領軍は、日本政府に対して、軍国主義教育の排除と民主主義教育の確立を図って、修身、日本史、地理の教科の禁止、社会科の新設の措置をとらせ、昭和 21年には、アメリカ教育使節団が、六三 制の義務教育化と男女共学を勧告しました。

陸軍士官学校や海軍兵学校などの軍の学校は、敗戦によって自動的に消滅しましたが、我が国のエリート育成機関であった旧制高等学校が、占領軍の好むところではなかったのが、六三制移行への眼目ではなかったのかと思います。

戦前の大学、高等学校、専門学校、高等師範学校、女子高等師範学校などは、一括して4年制の新制大学にまとめられました。戦前の昭和10年度( 1935 年 )の大学進学率は僅か3%でしたが、戦後の昭和 25年( 1950 年 )には 6.5 %と倍増し、平成21年度における4年制大学への進学率は、50.2%になりました。

旧制高校は、1918年の高等学校令によっており、敗戦後の1950年に廃止されるまで入学定員数は増えず、1学年の旧制高校の定員と帝国大学の定員は、戦前期を通じては、ほぼ、1対1で、専攻を選ばなければ、どこかに無試験で入学できたのです。

戦前の熾烈な受験競争は、大学入試ではなく高校入試にありました。厳しい選考の結果、旧制高校に入学した段階で、全人口の1%にしか当たらないエリートとして扱われ、高校生の側もその自覚に立って、厳しく自らを律する風潮を確立していました。

マント、朴歯(ホウバ)の下駄は、旧制高校生の典型的な身なりで、白線帽は旧制高校生の象徴でした。私の場合は敗戦後で、中学時代に靴はなく、下駄しか履くものがなかったのですが、朴歯の下駄に履き替え、半年前にやっと手に入れた中学時代の帽子に、白線を巻いて汚してかぶりました。従兄からマントを譲ってもらえたのは、なんとも幸運でした。

旧制高校には第一高等学校から第八高等学校までの、ナンバースクールとして一目おかれる高校群と、尋常科を持つ7年制の高校群がありました。専門学校は中学5年卒で受験したのですが、旧制高校は中学4年修了でも受験できました。尋常科には、小学校5年から受験することもできたのです。

旧制高校にはその特色として、現在では考えられないような、在学中の自由があったのです。受験から解放されて何の制限もなく、若者同士がお互いの語らいを通じて、自らの精神的成長を遂げ、自らの気概を高める競争がありました。

教師と生徒も、師弟と云うよりは先輩後輩の間柄で、自由な場における両者の触れ合いが、今もなお語り継がれています。学年ごとに1回ずつ落第し、翌年はクラスのトップになって6年居続けたような、旧制高校大好き人間も各校にいました。

私は食糧事情から、寮へは入りませんでしたが、入学式の当日は寮に缶詰で、徹夜で先輩の説教にあいました。お前たちはこれまで、ただ受験勉強して来ただけだろう。人間がいかなるものかを知らず、世間がいかなるものかを知らない。お前たちには我の自覚がなく、動物と同じく周りの環境の中で、ただ、生きてきた存在に過ぎないと云うのです。

確かに受験勉強中は、教科書か参考書しか読む時間はなかったのですから、分かっても分からなくても、西田幾多郎の禅の研究を齧ったり、唯物論的弁証法を覗き見た先輩たちには、まったく手も足も出ないのです。

頭が畳につくまでではなく、畳にめり込むまでやられるのです。2年生と3年生の差は1年しかありませんが、2年生と新入生の差は無限大です。でも、なんとなく、別の世界に来たと云う期待感が膨らんだものです。

旧制中学の4年から旧制高校の最後の入試を受けた時点で、世の中では新制高校への移行の準備が進んでおり、新制高校の2年次、3年次の教科書もすでに発行されていました。旧制高校の入試の出題範囲も、新制高校3年までの全過程が含まれるものとして、受験勉強をしていたのです。

その意味から旧制高校の1年目の授業には、ドイツ語を除いて目新しいものはありませんでした。私の入った高校は7年制の高校で、クラスは尋常科からの選抜者と、高等科への入学者が半数づつを占めました。

次の年には新制大学の入試があるので、クラスメートは、結構、真面目に勉強していましたが、私は、自他ともに認めるバンカラの大将に掴まり、その大将が支配下に置くバレー部に入れられてしまいました。バスケット部はインターハイ全国制覇の栄光を背負っていましたが、バレー部は弱小でした。

翌年の入試にドイツ語はいらない、1年目の授業は新制高校の範囲を越えないとなると、やることはバンカラのまねと、中学でもやっていたバレーボールになってしまったのです。校内一のバンカラを標榜する割に、バレー部には上下の隔たりはまったくなく、当時の9人制バレーの、前衛左のポイントゲッターとして、先輩にも敬意を払ってもらいました。

当時は食糧事情から、1か所に集めてインターハイを開催することができず、関東甲信越ブロックに出場しましたが、決勝で敗れ、ほっと胸をなでおろしたのがマネージャーでした。京都へ行くのには、米を持って行かないと宿屋に泊めてもらえないのですが、その米をどう算段するかで日夜悩んでいたのです。

当時は、常時、空腹なので、10時になると弁当を食べていましたが、晴れている日はコートの隣りで食べるので、そのまま日暮れまでバレーボールの練習です。もちろん土のコートで、シューズはありませんでした。授業に出るのはコートに出られない、雨の日に限られていました。

先輩から吹き込まれた、それまでにもっていた社会に対する価値観への疑問や、自分自身に対する存在意義の疑問などを解決すべく、高校生の読むとされる本は、片っ端から目を通すことになりましたが、私は、我の自覚とはなにかに捉われました。

入学して3か月くらい経った時でしょうか、ある朝,突然、真紅に染まった朝焼けのような視覚をともなって、これが自分だ、今までの自分はすべて他人の見様見真似だったと、思い返す瞬間が訪れました。この瞬間、私は、我の自覚が得られたのだと思っています。

このことは、他人には一切話したことはなく、旧制高校の消滅によって、後輩に説教することもありませんでしたが、世の中の多くの人は、このような経験をしていないのではないかと思います。世間には、本心の分からない人がよくいますが、本心を他人に見せないのではなく、本当は、我の自覚のない人ではないかと思います。

良きにつけ悪しきにつけ、かつての旧制高校には、国家を背負って立つ気概を受け継ぎ、将来の責任ある役割を夢見る若者の姿がありました。この気概を煽ったのは、寮歌です。寮歌の代表である一高の「玉杯」には、それがよく現れています。

三高の「琵琶湖周航の歌」は「雄松(おまつ)が里の乙女子は、赤い椿の森陰に、はかない恋に泣くとかや」と、恋と云う言葉の出てくる唯一の寮歌です。北大予科の「都ぞ弥生」は、「豊かに稔れる石狩の野に、雁(かりがね)はるばる沈みてゆけば、羊群(ようぐん)声なく牧舎に帰り、手稲の巓(いただき)黄昏(たそがれ)こめぬ」と牧歌的で、カラオケでも歌われていて、皆さんもご存知でしょう。

「嗚呼玉杯に花うけて」で始まる一高の寮歌は、大抵の人は一高生が玉杯を挙げているものと誤解しているのですが、玉杯を挙げて治安の夢に耽る榮華の巷を、向ヶ岡から見下ろしている、五寮の健兒の意氣を謳った歌です。

2番には、「一たび起たば何事か、人生の偉業成らざらん」という、文句が来ます。3番では、「濁れる海に漂へる、我国民(くにたみ)を救はんと」と云う句があります。「行途を拒むものあらば、斬りて捨つるに何かある、破邪の剣を抜き持ちて、舳に立ちて我よべば、魑魅魍魎(ちみもうりょう)も影ひそめ、金波銀波の海静か」の5番で終わるのです。

一高では明治の昔から寮生に自治が与えられていました。「我のる船は常へに、理想の自治に進むなり」と云う歌詞もあって、我々はこの寮歌の内容を、自らを戒め、自らを高く侍する意味にしか、受け取っていなかったのですが、こんな寮歌を毎日歌っていたら、占領軍ににらまれるのは当たり前でしょう。

しかし「玉杯」は、1902年(明治35年)の寮歌で、日露戦争前の歌です。寮歌に国家主義的な思想が横溢していたのは、時代の流れです。時の流れと云う意味では、旧制高校が廃止される直前の1947年(昭和22年)当時には、私の属するバレー部の中にも、共産党細胞の先輩がいました。何もかもひっくるめた包容力が、旧制高校の本質であったのです。

  
旧制高校では、生徒は原則として寮に入ることになっていました。全国各地から選りすぐった生徒が集まるので、寮では多くの出会いがあり、そこで得られる人間形成が評価されていました。旧制高校の寮には、それ自体、教育の場としての意味があったのです。学校の教科にしばられず、宗教、哲学、思想などに関する書物を自学自習し、学識の基礎を身につけることを志しました。

不潔さと、見かけ上の怠惰、理不尽な先輩との付き合いなど、古い体質の寮が存在したのも事実です。しかし自分自身の心底をさらけ出して、夜を徹して議論し、あるいはストームで大暴れをするのは、それまでの親元では決してなかった滅茶苦茶な生活であり、また過去の価値観を覆す毎日であったのです。同質の精兵を鍛え上げることを目指した、旧陸軍における画一的な教育などとは正反対の、それぞれの個の確立を自らが図る過程でした。

人生の経験が未だ乏しい若者にとっては、何らかの意味で、他人とは異なる優れた点を、だれかに認められたい願望があります。君たちは弊衣破帽で、下駄を鳴らして練り歩き、世間の人の注目を惹いている気になっている。しかし本当は誰も君たちを見てくれてはいませんよと、痛烈な警句を発した教師がおられました。先輩としてのなにげないこの指摘の的確なことに、ぎゃふんとなった覚えがあります。

旧制高校の教養主義教育は、時代とともに忘れ去られようとしています。しかし教養が、専門知識の基礎として果たす重要な役割には変わりありません。英才教育は、海外諸国では厳然として存在していますし、社会的な必要性が認められています。

戦後の初等教育は、英才教育を悪とみなし、安易な平等を標榜して、徒競走でも全員が1等賞と云う、横並びでなければ安心できない弊害を植え付けました。そして個の確立とはまったく質の異なる横並びの中で、他人より優位に立ちたいと云う、次元の低い争いを生む弊害をもたらしました。

将来を担うエリートとしての暗黙の保証があったことが、旧制高校生に余裕のある勉学を促し、おおらかな人間関係を育てたと云えるかも知れません。旧制高校の環境が人生の揺籃期にあって、将来の人生設計とそのための思想と行動を養う、充分な時間と空間を保証してきたのは間違いないでしょう。

全寮制の旧制高校では、選抜された優秀な仲間と3年間寝食を共にするため、あやふやな行動が許されるはずはなく、自分の意見を率直に提示しないとやっていけない厳しい環境で、いやがうえにも個が鍛えられました。旧制高校は同世代の1%以下の数の若者が享受しえた、ひと握りのエリートのための教養教育だったのです。









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夜間走行

2013-10-06 06:18:30 | 日記
昭和28年(1953年)にヤナセが輸入を開始したフォルクスワーゲンは、カブトムシでした。みんなの憧れの的だったのですが、フロントウインドは、まだ平面のガラスで、リアウインドも左右2つに分かれていました。当時、走行性能は高く評価されたのですが、電装系が6Ⅴの時代で前照灯は暗く、よくドイツでは、これで走れるものだと思ったものです。

日本では点灯についての法的基準が特になく、夜間やトンネル内など前照灯が必要な場合は、原則ハイビームで走行し、先行車や対向車がいる場合は、ハイビームを消してロービームにするか、フォグランプで走ることとされています。

ハイビームは最低前方100メートルまで、ロービームは40メートルまで照らすことになっていますが、ロービームはすれ違い前照灯と定義されていて、街の中でハイビームを使っていけないことにはなっていません。

薄暮に人身事故が多発することから、原動機付自転車および自動二輪車の前照灯が、消灯できない構造に定められ、1996年以降製造の車両は全てその構造になっています。EUでは2011年2月以降、乗用車のデイライトが義務化されて、日中でもフォグランプなどを、点灯させなければならないことになりました。我が国でも、いずれ、そうなるでしょう。

ちなみに車両の場合、前方に赤色灯火を、後方に白色灯火を使用することが、法令で禁止されています。遠くからでも、車の前と後を区別しやすいようにするためです。白色の後退灯は例外です。車幅灯は単に車両の幅を示すためのもので、前照灯とは別の灯火とされていますから、法的には車幅灯を点けても、前照灯の代わりにはなりません。

フォグランプは、濃霧の発生などにより視界が制限される場合に用いられる、白または淡黄色の補助灯です。前方を照らす前照灯とは役割が異なり、広い範囲の視野を向上させるため、左右への照射角を広くしたレンズを備えているのが特徴です。前照灯が70度前後であるのに対し、フォグランプは100度以上の照射角をもっています。

フォグランプは、霧に反射した光が運転者の瞳孔を縮めて、見えにくくすることを防ぐため、前方の霧に強い光が当たらないよう、上下の照射角は前照灯よりも狭く設計されています。このような配光パターンを持つことから、路肩や道路標示、車線分離帯などを照らす、補助前照灯として用いる場合もあります。

日本ではフォグランプの設置が義務付けられていないため、車種やグレードによって、フォグランプのあるなしは異なります。SUVやRVでは必要性の他に、デザインの1つとして装備されることも多く、機能よりも外観上のアクセントになっている場合があります。

1980年代には、ヘッドランプの内側にフォグランプを一体化して組み込んだデザインが、メルセデスをはじめとする高級車を中心に流行しました。かつてはフォグランプは後付けでしたが、近年では樹脂バンパーに、純正のフォグランプを組込むのが主流となっています。

1980年代には前照灯にも、黄色のものが流行しました。単色光は運転者に錯覚を起こさせ距離感がつかみにくいことや、特定の色が認識しにくい現象が知られるようになり、遠方には黄色の光を投射し、手前は白色の光を照射するように色分けされたランプも、流行るようになりました。最近では白色の割合が増加し、HID(高輝度放電ランプ)式のものや、長波長の可視光を遮るコーティングを施した、蒼白い光を放つランプが流行しています。

フォグランプと似て非なるものに、ドライビングランプやスポットランプがあります。ドライビングランプは、ヘッドランプのハイビームに近い配光特性を持つもので、スポットランプはハイビームよりさらに遠くの、狭い範囲を照らすものです。ドライビングランプの中には、上方への拡散を防ぐレンズカットを持つものもありますが、スポットランプはレンズカットが全くありません。

両者とも、ヘッドランプの補助として用いるものですが、SUV車に外付けが始まった当時、中央分離帯のある高速道路でも、前方から来る車が眩しいので、ドライビングランプを点けていることが分かるくらいでした。対面交通の車線でなくても、迷惑したものです。フォグランプ、ドライビングランプ、スポットランプとも、保安基準上は前部霧灯で一括されています。

前照灯を瞬間的に上向きと下向きを交互に点灯させる、パッシングライトがあります。本来は、先行車に進路を譲って欲しいと云う意思表示に使用しますが、強い光の点滅で、威圧的な印象を与えるのも確かです。トラブルを避けるためには、3車線の道路の一番右の車線では、右のウィンカーを点滅させることで代用する方が穏やかです。

今では方向指示器はスモールランプの点滅式ですが、半世紀前は、我が国でアポロと呼ばれた、ボディサイドに装備する矢羽式の方向指示器でした。鉄道の腕木式信号機のように、可動式の表示器をボディに収納しており、操作時にアームを突出して、曲がる意思を周囲に伝える方式です。

乗用車は車体内蔵の矢羽式方向指示器に代わって、左右独立の点滅式方向指示器が義務化されました。未装備の車両では、外付け型のアポロ社製の矢羽式方向指示器が市場を独占しており、そのためアポロが矢羽式方向指示器の代名詞となりました。

乗用車で点滅式が主流となった後でも、三輪自動車、大型トラック、バスでは、新車にもアポロとそのライセンス品が使われていました。その後点滅式への移行に伴う需要の低迷から、アポロは急速に衰退し、1950年代までには点滅式に代わってしまいました。

1960年代アメリカでは、道路交通の過密化、高速化が進み、安全を確保するために、より多くの情報を伝達する必要が生じ、方向指示器を前後左右とも同時に点滅させて、ハザードランプとして、停車中であることを知らせるようになりました。日本車でも輸出向けの車から採用が始まり、ハザードランプは全車に普及していきました。

1990年代に入り電装品の電子制御が進むと、方向指示器は外部から視認が容易な位置にあるため、盗難防止アラームとして点滅させたり、リモコン操作の確認など、車外からの何らかの制御の確認をする目的でも、使用されることになりました。

我が国では、夜間、ロービームでしか走らない習慣の人が多く、中央分離帯のある高速道路でも、下向きのライトのままで走っているのが普通のようです。3車線あって、道路灯が設置されているような場所は、明るいので問題はないのですが、道路灯がないとロービームでは遠くが見えません。

最近のハロゲンランプは非常に明るく、道路灯のない場所で上向きにしてみると、予想もしなかったほど遠くがよく見えるのに吃驚します。自分の車がハイビームにしたおかげで、前を走っている車も、どんなにかよく見えるようになっただろうと思ってしまいますが、遠くがよく見えると云うことは、同時に、遠くにも注意が行き届き、安全性が高まることになります。

制動距離には空走距離が加算されますから、時速100キロで走っている車が停まるまでの制動距離は、80メートルが想定されますが、この制動距離は、ロービームに要求されている、40メートルの視認距離の2倍の長さに当たります。

現在のロービームは、実際には40メートルよりかなり先まで見えますが、雨の日には、乾燥路面での80メートルの制動距離が、100メートルにまで伸びてしまいます。高速道路でスピードを出している場合には、ハイビームで遠くまで確認している方が、危険を回避するのはより易しくなります。

高速道路で路肩に駐車している車にぶつかる事故は、しょっちゅう報道されますが、ロービームで走る習慣にしていては、視認距離が短くて、当然発見が遅れます。よそ見をしているのではない限り、ハイビームにしていれば、停車中の車の発見が遅れることはないはずです。

低速で市街地を走るにはロービームの選択が適正であっても、高速道路で安全を確保するためには、これまでの習慣を見直して、ハイビームで走ることが必要です。高速道路では必ずハイビームにして、これまでより遙かに遠くを見ながら走るようにすれば、この種の事故は減るのではないかと思います。


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