諸外国が双方を応援して参戦し、朝鮮半島全土が戦場となり荒廃しました。1953年に休戦に至りましたが、北緯38度線付近の休戦時のフロントラインが軍事境界線となって、朝鮮半島は南北2国に分断されたままです。現在も両国間に、平和条約は結ばれていません。
1945年8月、第2次世界大戦で日本が無条件降伏した時点では、朝鮮半島北部にソ連軍が侵攻中であり、日本の降伏後も進軍を続けていました。アメリカは、ソ連軍が朝鮮半島全体を掌握することを恐れ、朝鮮半島の南北分割占領を提案しました。ソ連はこれを受け入れて、北緯38度線を境に、北部をソ連軍、南部をアメリカ軍が分割占領したのです。
その後米ソの対立を背景に、南部は韓国、北部は北朝鮮として建国されましたが、朝鮮半島の統一支配を目指す北朝鮮は、1950年6月、38度線を越えて軍事侵攻に踏み切りました。韓国側ではアメリカ軍を中心に国連派遣軍が参戦し、北朝鮮側には中国人民義勇軍が参加しました。ソ連は武器調達や訓練などの形で支援するに留まりましたが、結果として、アメリカとソ連の代理戦争になったのです。
開戦直前の軍事バランスは、北が有利でした。韓国軍は総兵力10万6000を有していましたが、訓練は不足気味で、米韓軍事協定によって重装備が全く施されておらず、戦車はなく、砲91門、迫撃砲960門、航空機22機を有するのみでした。
これに対して、朝鮮人民軍は総兵力19万8000で、歩兵師団10師団、戦車1個旅団、戦車240輌、砲552門、迫撃砲1728門、航空機211機を有していました。また、中国人民解放軍に参加して、国共内戦で実戦経験を積んだ朝鮮系中国人が加わって、優れた練度を維持していました。
1950年6月25日、宣戦布告なしに、北緯38度線で北朝鮮軍の砲撃が開始されました。30分後には約10万の兵力が38度線を越え、東海岸ではゲリラ部隊が韓国軍を分断して、その後方に上陸したため、韓国とアメリカを初めとする西側諸国は衝撃を受けました。
前線の韓国軍は大部分の部隊が、当時、軍事警戒態勢を解除していて、最新鋭の戦車のT-34を中核にした北朝鮮軍の攻撃には、全く歯が立たないまま、各所で韓国軍は敗退しました。
連合国軍総司令官マッカーサーは日本にいて、奇襲砲撃開始を知ったのは、1時間後だったと云われます。6月27日の安保理は、北朝鮮を侵略者と認定し、軍事行動の停止と撤退を求める「国際連合安全保障理事会決議82」を全会一致で採択しました。ちなみにソ連はこの年の1月から、理事会を欠席していました。
韓国政府はソウルを放棄し、6月28日ソウルは市民に多くの犠牲者を出した末に陥落しました。マッカーサーは本国に、在日アメリカ軍2個師団を投入するように進言しましたが、回答が届く前に大型爆撃機を日本から発進させて、北朝鮮が占領した金浦空港を空襲しました。トルーマン大統領は、1個師団のみの派兵を許可しましたが、派遣されたアメリカ軍先遣隊は7月4日に北朝鮮軍と交戦し、1日で敗北しました。
国連安保理は韓国防衛のため、必要な援助を韓国に与えるよう、6月27日に加盟国に勧告し、7月7日にはアメリカ軍25万人を中心として、日本に駐留していたイギリス連邦占領軍を含む、国連軍が結成されました。
国連軍は準備不足で人員、装備に劣り、各地で敗北を続け、アメリカ軍が大田の戦いで大敗を喫すると、洛東江戦線にまで追い詰められました。この時韓国軍は、保導連盟員や共産党関係者の政治犯などを、20万人以上を殺害したと云われます。
一方、北朝鮮軍と左翼勢力も、忠清北道や全羅北道金堤で、大韓青年団員、区長、警察官、地主やその家族など民間人数十万人を、右翼活動の経歴があるとして虐殺しました。アメリカ兵捕虜が北朝鮮軍により虐殺された、303高地の事件も起きました。
国連軍は釜山の周辺で、ようやく北朝鮮軍の進撃を食い止めることができ、マッカーサーは新たに第10軍を編成して、9月15日、7万人をソウル近郊の仁川に上陸させ、この作戦に連動した国連軍の大規模な反攻が開始されると、戦局は一変しました。
補給部隊が貧弱であった北朝鮮軍は、38度線から300キロ以上離れた釜山周辺の戦闘で大きく消耗して敗走し、9月28日に国連軍がソウルを奪還、9月29日には韓国の首脳もソウルに帰還しました。ソウル北西の高陽では韓国警察によって、親北朝鮮とみなされた市民が虐殺される、高陽衿井窟民間人虐殺が起きています。
10月1日、韓国軍は李承晩大統領の命を受け、アメリカ第8軍の承認の下に、単独で38度線を突破しました。翌10月2日、北朝鮮は中国に参戦を要請します。中華人民共和国の周恩来首相は、国連軍が38度線を越境すれば参戦すると警告しました。
国連安保理での国連軍による38度線突破の提案は、ソ連の拒否権により葬られましたが、10月7日、アメリカの提案により国連総会で議決され、10月9日に国連軍も38度線を越えて進撃し、10月20日に北朝鮮の臨時の首都の平壌を制圧しました。
アメリカ軍を中心とした国連軍は、トルーマン大統領やアメリカ統合参謀本部の命令を無視してさらに北上を続け、日本海側にある軍港の元山まで迫り、先行していた韓国軍は、一時、中朝国境の鴨緑江に達します。ソ連はアメリカを刺激することを恐れ、軍事的支援は中国に肩代わりを求めていましたが、参戦に消極的だった中国も、この事態で遂に義勇兵派遣を決定し、国際紛争の様相が前面に現れます。
朝鮮戦争勃発後の1950年8月25日に、アメリカ軍の在日兵站司令部が横浜に置かれました。直接調達方式により大量の物資が買い付けられ、その額は1950年から1952年までに10億ドル、1955年までに36億ドルに達したと云われます。
当初調達された物資は、主に土嚢用麻袋、軍服、軍用毛布、テントなどに使用される繊維製品でした。この他に、前線での陣地構築に必要な各種鋼材、コンクリート材などがあり、食料品と車両修理もありました。
日本企業に兵器や砲弾などの、軍需品の生産の命令が下されたのは1952年3月のGHQの覚書で、第2次世界大戦中に戦闘機や戦車を生産していた、現三菱重工や富士重工に、車両の修理や航空機の定期修理を命じました。
これらの結果、敗戦で疲弊し切った我が国の経済状態は、急速に回復の兆しを見せはじめ、朝鮮特需と呼ばれました。三菱重工や小松製作所などは、朝鮮特需とともに、1950年に発足した警察予備隊に供与された戦車の整備や修理を請負い、後に、61式戦車などを製造するようになります。
国民は知りませんでしたが、当時の日本は、占領軍経費を終戦処理費として負担しており、初期には一般会計の50パーセントにも及んでいました。1952年(昭和27年)までの占領総経費は47億ドルと云われ、朝鮮特需による売上の総計に匹敵します。朝鮮特需の46億ドルは、実は、我が国の税支出で賄われたと云ってもよいことになります。
当時のアメリカは、日本の復興を好意で支援してくれたわけではありませんでした。有利子の借款や駐留経費の4割の負担など、後の「思いやり予算」などからの想像を超えた、苛烈な要求を突き付けてきていたのです。
我が国は無条件降伏後の占領下で、GHQによる極度の報道管制が敷かれており、国民は経済状況の上向きから、朝鮮特需の恩恵こそ感ずることができましたが、朝鮮戦争の実態は、近くて遠い国の内戦としか知りようがありませんでした。