ジョン万次郎は1827年(文政10年)の生まれで、14歳の時漁船で遭難しアメリカ捕鯨船に救われてアメリカ本土に渡り、英語や航海術を身に着けてアメリカ人には「ジョン・マン」(John Mung)の愛称で呼ばれ、帰国後は「中浜万次郎」を名乗って、江戸末期から明治にかけてアメリカと日本で活躍した人物です。
中浜万次郎
1880年(明治13年)頃
万次郎は土佐国幡多郡中ノ浜村(現土佐清水市中浜)で貧しい漁師の家の次男として生まれ、万次郎が9歳のとき父が亡くなり母と兄が病弱であったため幼い頃から働いて家族を養い、寺子屋に通う余裕もなく読み書きはほとんどできませんでした。
10歳の頃中浜浦老役の今津太平の元へ下働きに出ましたが、漁師になることを強く望み、母の計らいで宇佐の筆之丞の元で漁師修行することになりました。
1841年1月27日(天保12年)14歳になった万次郎は、早朝の宇佐浦で足摺岬沖の鯵鯖漁に向かう漁船に炊係(炊事と雑事を行う係)として乗り込みます。仲間は船頭の筆之丞(38歳、後に伝蔵と改名)、筆之丞の弟で漁撈係の重助(25歳)、同じく弟の櫓係の五右衛門(16歳)、もうひとりは櫓係の寅右衛門(26歳)の4人でした。
万次郎達は足摺岬の南東15㎞ほどの沖合で操業中突然の強風で航行不能となり、船ごと吹き流されて5日後伊豆諸島の無人島の鳥島に漂着、この島でわずかな溜水と海藻や海鳥で143日間生き延びました。1841年6月27日ウィリアム・ホイットフィールド船長のアメリカ捕鯨船ジョン・ハウランド号が島に立ち寄り万次郎達が救助されます。
足摺岬のジョン万次郎と仲間達の記念碑
波濤を背に生き延びようとする遭難中の万次郎(右端)と4名の漁師
当時の日本は鎖国中のため故郷へ帰るすべはなく、捕鯨船に乗ったままアメリカへ向かわざるを得ませんでした。11月20日ホノルルに寄港して万次郎を除く4名は宣教師Gerrit P. Juddの計らいで船を降り、寅右衛門はハワイに移住し、重助は5年後に病死、筆之丞と五右衛門はのちに帰国を果たしました。
万次郎はホイットフィールド船長に頭の良さを気に入られたせいもありますが、何よりも本人が希望して捕鯨船員としてアメリカ本土に向かいます。生まれて初めて世界地図を目にし、世界における日本の小ささに驚きました。
1843年5月7日ジョン・ハウランド号は捕鯨航海を終え、捕鯨の一大拠点であったアメリカ東海岸のマサチューセッツ州ニューベッドフォードに帰港しました。この航海でグアム、ギルバート諸島、モーレア島、ホーン岬などを経由しています。
アメリカ本土に渡った万次郎はニューベッドフォードの隣町の、ホイットフィールド船長の故郷であるフェアヘーブンで、船長の養子のようにして暮らすことになりました。
ウィリアム・ホイットフィールド船長
1843年にはオックスフォード・スクールで小学生に混じって英語を学び、船長がスコンチカットネックに移ったため、スコンチカットネック・スクールに通い、1844年にはフェアヘーブンのバートレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学びました。彼は寝る間を惜しんで勉強し首席となりましたが、民主主義や男女平等など日本人にとって新鮮な概念に触れる一方で、人種差別も経験しました。
学校卒業後、ジョン・ハウランド号の船員だったアイラ・デービスが船長になった捕鯨船フランクリン号にスチュワードとして乗り組み、1846年から数年間捕鯨船員として過ごしました。このとき大西洋とインド洋を経由してホノルルに寄港し別れた仲間と再会しています。また琉球の小島にも上陸しましたが帰国は果たせませんでした。
この航海でボストン、アゾレス諸島、カーボベルデ、喜望峰、アムステルダム島、ティモール島、スンダ海峡、ニューアイルランド島、ソロモン諸島、グアム、マニラ、父島、ホノルル、モーリシャスなどに行っています。
1849年9月再びニューベッドフォードに戻りホイットフィールド船長と再会した後、帰国資金を得る目的でゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへ向かい、数か月間金の採取に励みました。
そこで資金を得た万次郎はホノルルに渡り土佐の漁師仲間と再会、知己であった宣教師で新聞発行者のSamuel C. Damonの協力で、1850年12月17日上海へ向う商船サラ・ボイド号に購入した小舟の「アドベンチャー号」を載せ、伝蔵や五右衛門と共にハワイを出航しました。
年が明けて1851年(嘉永4年)サラ・ボイド号が琉球に近づくと、3人はアドベンチャー号に乗り移って上陸に成功、薩摩藩に服属していた琉球では英語で取り調べを受けたり地元住民と交流した後に薩摩に送られます。
鎖国中に海外から帰国した万次郎達は薩摩藩の取り調べを受けますが、薩摩藩は中浜一行を厚遇し、開明家で西洋文物に興味のあった藩主島津斉彬は自ら万次郎に海外の情勢や文化等について質問しました。
斉彬の命で藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術を教え、薩摩藩はその情報を元に和洋折衷の越通船を建造しました。斉彬は万次郎の英語や造船知識に注目し、後に薩摩藩の洋学校「開成所」の英語講師として招くことになります。
万次郎らは長崎に送られ、長崎奉行所などで9か月間尋問を受けました。踏み絵によってキリスト教徒でないことを証明させられ、外国から持ち帰った文物を没収された後、土佐藩から迎えに来た役人に引き取られて土佐に向います。
高知城下でも吉田東洋の取り調べを受けましたが、その際の万次郎の供述を河田小龍が記録し、後に「漂巽紀略」としてまとめました。2か月後に帰郷が許され漂流から11年目にして故郷に帰ることができましたが、万次郎は土佐藩の士分に取り立てられて藩校「教授館」の教授に任命され、後藤象二郎、岩崎弥太郎などを教えます。
中浜万次郎の航海(1850年)
嘉永6年(1853年)7月8日ペリーが来航し17日に去りましたが、翌春の黒船再来航への対応を迫られた幕府はアメリカについての知識を必要とし、7月25日万次郎は幕府に召聘されて江戸へ向かい旗本の身分を与えられます。
その際生まれ故郷の地名「中濱」の苗字を授けられて江川英龍の配下となり、江川は万次郎が長崎で没収された文物を取り戻しました。勘定奉行川路聖謨が万次郎に訊ねたアメリカ事情は「糾問書」にまとめられています。
1856年軍艦教授所教授に任命され、造船の指揮、測量術、航海術の指導に当たり、同時に英会話書「米対話捷径」の執筆、「ボーディッチ航海術書」の翻訳、講演、通訳、英語の教授、船の買付など精力的に働き、この頃大鳥圭介、箕作麟祥などが万次郎から英語を学んでいます。1854年(安政元年)幕府剣道指南団野源之進の娘鉄を娶りました。
英米対話捷径
当時英語をまともに話せるのは中浜万次郎ただ1人で、ペリーとの交渉の通訳には最適でしたが、水戸斉昭からスパイ容疑を持ち出されて通訳から下ろされ、日米和親条約の締結に向けては陰ながら助言や進言をして尽力しました。
万次郎はホーン岬、喜望峰を回って太平洋、大西洋の各所を巡り、アメリカ本土の石造りの市街地、鉄道や汽船の発達を熟知したことで、我が国が開国を要することを痛感していました。
当時は鯨油が今日の石油の役割を果たしていて、西太平洋でアメリカの捕鯨船が活躍するためには補給基地と遭難時の対策が不可欠なのも承知しており、いつの日か日本に国を開かせたいと書かれた万次郎の英文の手紙がアメリカに残っています。
万次郎が幕府に黒船来航のアメリカの真意は捕鯨船団の補給基地の確保であり通商が目的ではないことを説いた結果、ペリーとの交渉の初めに林大學頭が開港を切り出し、ペリーも通商に拘らずに和親条約の締結に向かったと云われます。この結果開港されたのは箱館と下田の2港でした。
1860年(万延元年)万次郎は日米修好通商条約の批准書交換のための遣米使節団の1人として咸臨丸に乗り、再びアメリカに渡ります。船長の勝海舟は船酔いがひどくて指揮を執れず、万次郎と技術アドバイザーとして乗船していたジョン・ブルック大尉が船内の秩序保持に努めました。日本人の乗員も船酔いで、艦の運用はジョン・ブルック指揮下の5名のアメリカ人乗員が代行しました。
サンフランシスコ到着後は使節の通訳として活躍し、帰路ホノルルでSamuel C. Damonと再会しました。福澤諭吉と共にウェブスター英語辞書を購入し持ち帰ります。
1860年 桑港碇泊中の咸臨丸
1861年(文久元年)12月幕府は外国奉行水野忠徳を小笠原諸島に派遣し、小笠原が日本領であることを宣言します。小笠原のアメリカ人やイギリス人と面識がある万次郎も同行しましたが、忠徳の帰府後は松濤権之丞が残って八丈島からの移民とともに小笠原諸島を管理しました。
1862年(文久2年)万次郎は豪商平野廉蔵の出資で買い取った外国船「壹番丸」で捕鯨を行う許可を幕府に求め、翌年小笠原諸島近海で鯨2頭を捕獲しましたが、1863年5月1日たまたま権之丞が外国人をはじめて逮捕するホーツン事件が起こり、権之丞と逮捕した外国人を載せて5月11日に横浜に帰港します。
1864年からは鹿児島に赴任し薩摩藩の開成所の教授になり、1865年に長崎で薩摩藩が船舶5隻購入した際の交渉をしています。1866年(慶応2年)土佐藩の開成館設立にあたって教授となり英語、航海術、測量術などを教え、後藤象二郎と長崎や上海へ行き土佐帆船「夕顔丸」などを購入しました。
1867年(慶応3年)には薩摩藩の招きを受けて鹿児島に赴き、航海術や英語を教授しましたが、同年12月倒幕の機運が高まる中で江戸に戻りました。維新後の1869年(明治2年)明治政府により開成学校(現東京大学)の英語教授に任命されています。
1870年(明治3年)普仏戦争視察団員として、大山巌らと共に欧州へ派遣されます。8月28日グレート・リパブリック号で横浜発、9月23日サンフランシスコ着、鉄道を利用して10月28日にニューヨークに行き、ここでフェアヘーブンに寄り恩人のホイットフィールド船長と再会し、身に着けていた日本刀を贈りました。
11月にロンドンに着きますが、発病したため英蒸気船ダグラス号でスエズ運河を通り東回りで帰国しました。帰国後に軽い脳溢血を起こし数か月後には日常生活に不自由しないほどに回復しますが、以後は静かに暮らします。1898年(明治31年)71歳で亡くなり、1928年(昭和3年)正五位を追贈されました。
江戸時代の知識人の中には陽明学者の中江藤樹や蘭学者の平賀源内など下級武士や庶民出身の人たちもいますが、万次郎は当時米国を肌で知っている唯一の日本人でした。封建的な身分制度を超えて一漂流民の経験と見識から幕府に開国を決断させ、日本建国以来の危機を救うことになったのです。