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杉原千畝

2024-03-14 06:38:07 | 日記

杉原千畝(すぎはら ちうね)1900年(明治33年)1月1日 生は、1939年リトアニアのカウナス領事館に赴任し、1940年7月から8月にかけてナチス・ドイツの迫害で欧州各地から逃れてきたユダヤ人たちに、日本経由の大量のビザ(通過査証)を発給し、多くの避難民の命を救ったことで知られています。

ルーマニア・ブカレストの杉原千畝

千畝は早稲田大学高等師範部英語科在学中に官報で外務省留学生試験の存在を知り、米国の雑誌を片端から閲覧する猛勉強の末合格しました。1919年(大正8年)11月外務省の官費留学生になり、ロシア語の重要性を説かれてロシア語講習生として満州のハルピン学院でロシア語を学びます。

1920年12月から1922年(大正11年)3月まで、一年志願兵として朝鮮駐屯の陸軍歩兵第79連隊に入営して陸軍少尉、1923年(大正12年)3月満洲里領事館へ移動命令を受け、1924年に外務省書記生に採用されてハルピン学院でロシア語、ソ連の政治・経済および時事などの講義を担当しました。

1924年に白系ロシア人クラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワと結婚、1926年(大正15年)600頁の報告書「ソヴィエト聯邦國民經濟大觀」を書き上げ、外務省から高い評価を受けます。

1932年(昭和7年)3月建国直後の満洲国外交部へ出向、1933年ソ連との北満洲鉄道(東清鉄道)譲渡交渉に携わりました。当初ソ連側は当時の日本の国家予算の一割強の6億2,500万円の巨額の要求をしてきましたが、譲渡代償金1億4,000万円とソ連側従業員の退職金3,000万円での買収に成功し、杉原らによる譲渡協定締結は外交的大勝利でした。

1935年(昭和10年)に満洲国外交部を退官、千畝は正教会の洗礼を受けます。聖名は「パヴロフ・セルゲイヴィッチ」です。

ハルピン在職中にユダヤ人や中国人の富豪の誘拐殺害事件を身近で体験、これらの事件の背後には関東軍が後援した白系ロシア人組織がありました。千畝は関東軍から破格の金銭的条件でスパイになるよう強要されましたが拒否、大日本帝国の軍国主義を冷ややかに見るようになります。

関東軍は妻クラウディアがソ連のスパイであるとの風説を流し、1935年(昭和10年)離婚の決定的理由になりました。満洲時代の蓄えはクラウディアに渡し、千畝は無一文になります。帰国後知人の妹の幸子と結婚し外務省に復帰します。

1937年(昭和12年)待望のモスクワ日本大使館への赴任が決まりましたが、反革命的白系ロシア人との親交を理由にソ連が千畝を拒否し、ヘルシンキのフィンランド日本公使館に赴任しました。

1938年3月杉村陽太郎駐仏日本大使が「杉原通譯官ヲ至急當館ニ轉任セシメラレ」たしと広田弘毅外務大臣に直訴しましたが拒否されます。1939年(昭和14年)リトアニア共和国のカウナス日本領事館領事代理として8月28日に着任しますが、千畝には日本の国家存亡に係わる独ソ間での重大任務が待ち受けていました。

カウナスに残る旧日本領事館 1940年

9月1日ドイツがポーランド西部に侵攻し、第二次世界大戦が始まります。9月17日「独ソ不可侵条約付属秘密議定書」に基づいてソ連がポーランド東部へ侵攻を開始、10月10日軍事基地建設と部隊の駐留を認めることを要求したソ連の最後通牒をリトアニア政府が受諾し、1940年6月15日ソ連軍がリトアニアに進駐しました。

カウナスにおける任務について千畝は、1967年(昭和42年)に以下のように述べています。

「カウナスはソ連邦に併合される以前のリトアニア共和国における臨時の首都で、1939年の秋外務省の命令で私は日本領事館を開設しました。

第二次世界大戦の数年前、参謀本部の若手将校がファシストドイツと親密な関係を結ぼうとしていて、この運動の指導者の一人が陸軍中将大島浩駐独大使で、ドイツが本当にソ連を攻撃するかどうかの確証を掴みたがっていました。

参謀本部がドイツ軍のソ連攻撃に重大な関心を持っていたのは、満洲にいる関東軍をソ満国境から可及的速やかに、南太平洋諸島に転進させたかったからです。

ドイツ軍による攻撃の日時を迅速かつ正確に特定することが公使たる小官の主要な任務で、私は何故参謀本部が外務省に対してカウナス公使館の開設を執拗に要請したのか合点がいったわけです。」

千畝が欧州に派遣された1938年当時、ドイツのユダヤ人迫害政策によって極東に向かう避難民が増えていることに懸念を示す山路章ウィーン総領事は、ユダヤ難民が日本に向かう場合の方針を照会する請訓電報を送り、10月7日近衛文麿外務大臣から在外公館へ極秘の訓令が回電されました。

「貴殿第三九號ニ關シ、陸海軍及内務各省ト協議ノ結果、獨逸及伊太利ニ於テ排斥ヲ受ケ外國ニ避難スル者ヲ我國ニ許容スルコトハ、大局上面白カラサルノミナラス現在事變下ノ我國ニ於テハ是等避難民ヲ收容スルノ餘地ナキ實情ナルニ付、今後ハ此ノ種避難民(外部ニ對シテハ單ニ「避難民」ノ名義トスルコト、實際ハ猶太人避難民ヲ意味ス)ノ本邦内地竝ニ各殖民地ヘノ入國ハ好マシカラス(但シ、通過ハ此ノ限ニ在ラス)トノコトニ意見ノ一致ヲ見タ」

リトアニアにはユダヤ教の神学校があり、ドイツに降伏したオランダの出身のナタン・グットヴィルトとレオ・ステルンハイムがいました。6月末グットヴィルトは弁護士でユダヤ難民たちのリーダーだったゾラフ・バルハフティクに相談し、オランダ領事ヤン・ズヴァルテンディクに出国の協力を求めました。

ズヴァルテンディク領事は「在カウナス・オランダ領事は、本状によって、南米スリナム、キュラソーを初めとするオランダ領への入国はビザを必要とせずと認む」とした文書をフランス語で書いてくれました。

ズヴァルテンディクの手書きのビザは途中でタイプに替わりましたが、難民全員の数を調達できないと考えたバルハフティクは、オランダ領事印と領事のサインのついたタイプ文書のスタンプによって偽「キュラソー・ビザ」を作成し、日本公使館に持ち込んだのです。難民たちの逃げ道はシベリア鉄道を経て極東に向かうルートしか残されてなく、日本に向かうビザ取得のためにカウナスの日本領事館に殺到したのでした。

「忘れもしない1940年7月18日の早朝のことであった」と回想する千畝は「6時少し前、表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然喧しい話し声で騒がしくなり、ヨレヨレの服装をした老若男女ザッと100人が何かを訴えている光景が眼に映った」と述べています。

千畝は亡命ポーランド政府の諜報機関を情報収集に活用しており、地下活動にたずさわるポーランド軍将校4名や、海外の親類の援助を得て来た数家族へのビザ発給を予定していましたが、それ以外のビザ発給は外務省や参謀本部の了解を得ていません。

千畝は本省に「発給対象はパスポート以外での領事が最適当と認めたもの」とする情状酌量を求める請訓電報を打ちますが、本省からは行先国の入国許可手続を完了し、旅費および本邦滞在費などの携帯金を有する者にのみに査証を発給せよと、条件厳守の指示が繰り返されました。

難民の憔悴する子供の姿に「町のかどで、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ」という旧約聖書の預言者エレミアの「哀歌」が、突然、幸子夫人の心に浮かんだと云います。「領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう。」という千畝の問いかけに夫人も同意。千畝は「人道上拒否できない」として、本省の訓命に反し受給要件を満たしていない者にも、独断で、通過査証を発給しました。

東京の本省は条件不備の難民などは眼中になく、千畝は厳しく叱責されます。千畝は自分の罷免は避けられないが、自分の人道的感情と人間への愛から1940年8月31日にカウナスを出発するまで書き続けたと、ビザ発給の理由を説明しています。

本省の譴責に真っ向から反論すれば、本省の指示の無視で通行査証が無効になるおそれがあり、千畝は本省との論争を避けて、米国への入国許可が確実で十分な携帯金も所持しているポーランド出身猶太系工業家レオン・ポラクへのビザ発給の可否を本省に問い合わせたりして、ビザ発給条件に関する返信を遅らせました。

カウナス公使館を閉鎖した後に、行先国の許可や必要な携帯金のない多くの避難民にもビザを発給したことを述べ、「外國人入國令」(昭和14年内務省令第6号)の拡大解釈を既成事実化しました。

杉原千畝が作成した通過ビザ

多量のビザを手書きして万年筆が折れ手を痛めた千畝を気遣い、亡命ポーランド政府の情報将校ダシュキェヴィチ大尉は、ゴム印を作って一部だけ手で書くよう提案、簡略化された形のゴム印が作られます。

ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながら1か月あまりビザを書き続けた千畝も、ベルリンへの異動命令を無視することができなくなり、9月5日ベルリンへ旅立つ車窓からもビザを手渡し、発行されたビザの枚数は2,139枚にのぼりました。

汽車が走り出し「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。」と列車と並んで泣きながら走っている人達は、千畝たちの姿が見えなくなるまで叫び続けていました。記録に残っていないビザや渡航証明書の実数は把握できませんが、一枚のビザが一家に有効でしたから、少なくとも数千名の難民の国外脱出を助けたと考えられます。

1940年9月5日以降チェコのプラハの領事館勤務、1941年2月にドイツ勤務となりました。

逃げ遅れたユダヤ人たちの多くは「移動殺戮部隊」の手にかかったり、ドイツやソ連の強制収容所に送られ、カウナスでは1941年(昭和16年)8月末までに保護を口実に設置されたゲットーへのユダヤ人移送が完了し、開戦後わずか2か月で1万人ものユダヤ人が殺害されました。幸子夫人は「カウナスでのあの1か月は、私たちがこういうことをするために、神に遣わされたのではないかと思った」と述べています。

千畝の本省への回電に「スモレンスク」「ミンスク」に関する情報が含まれていたのは、ポーランド諜報網との協力の成果でした。千畝は1941年(昭和16年)5月9日の電信で「獨蘇關係ハ六月ニ何等決定スヘシトナス」と6月22日に勃発した独ソ戦の時期を正確に予測し、ソ連側が穀物の大量備蓄を始めて長期戦に備えていると報告しています。

1941年(昭和16年)8月7日ドイツ国家保安本部のラインハルト・ハイドリヒは、外相リッベントロップに「ドイツ帝国における日本人スパイについて」の報告書を提出し、日本領事杉原の名前を筆頭に挙げています。北満州鉄道買収交渉の時代からソ連にマークされていた千畝は、ドイツ諜報機関の最大の標的にもなったのです。

千畝は同盟国のドイツを出し抜き、名目上は敵国である亡命ポーランド政府の情報将校とさえ協力する、非情な情報戦の世界に生きていました。杉原ビザ発給の最初の契機は、千畝が活用していたポーランドの情報将校を、家族を含めて安全地域に逃すための通過ビザでした。

ここまでは日本の外務省も参謀本部も周知でしたが、ナチスに追われたポーランドからの大量の難民がリトアニアへ流入し、カウナスの日本領事館へ殺到する想定外の出来事が発生したのです。

ドイツはカウナス領事館の向かい側に監視用の部屋を整え、ソ連の秘密警察もカウナス領事館を監視し、暗号電報の一部の解読にも成功しています。

ポーランド参謀本部との協力関係は「シベリア出兵」中に日本が入手したソ連の暗号表をポーランドに提供し、この見返りにポーランドの暗号専門家ワレフスキ大尉が、1919年(大正8年)日本の暗号システムを全面的に改定したのが始まりです。赤軍の配置と移動を次々と見破る、当時のポーランド参謀本部の諜報能力は驚異的でした。

1940年リトアニア退去後の千畝は、ドイツの保護領になっていたチェコのプラハの日本総領事館に勤務、1941年には東プロイセンのケーニヒスベルク総領事館に赴任し、ポーランド諜報機関の協力を得て独ソ開戦の情報を掴み、5月9日発の電報で詳細に報告したのです。

ドイツ軍兵士たちと写真に収まるケーニヒスベルク在勤時の杉原一家

6月22日千畝の報告の通り独ソ戦が勃発しました。第二次世界大戦の終結後杉原一家はブカレストの日本公使館でソ連軍に身柄を拘束され、1946年(昭和21年)11月16日直ちに帰国するよう求められて、オデッサ、モスクワ、ナホトカ、ウラジオストックと厳寒の旅を続け、翌1947年(昭和22年)4月5日博多港に帰りました。

1968年(昭和43年)「杉原ビザ」受給者の一人で、新生イスラエルの参事官になっていたニシュリが、在日イスラエル大使館で千畝に再会します。ニシュリがSugiharaという名前で外務省に照会しても「該当者なし」でしたが、千畝が職探しで以前イスラエル大使館に自分の住所、電話番号を教えていたため探し出すことができたのです。

リトアニアの人々には千畝(ちうね)という発音がしにくく、千畝は名を音読にして「せんぽ」と名乗っていたので、戦後リトアニアの人々が「センポ スギハラ」で日本の外務省に問い合わせても、外務省は「日本外務省にはSEMPO SUGIHARAという外交官は存在しない」と回答していました。

1969年(昭和44年)12月千畝は、イスラエルの宗教大臣となっていたバルハフティクとエルサレムで29年ぶりに再会します。このとき初めて本省との電信のやりとりが明かされ、失職を覚悟した千畝の独断によるビザ発給を知ったバルハフティクは驚愕します。

「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」という悪意に満ちた中傷や、ニシュリによる千畝の名前の照会時の杓子定規の対応など、旧外務省関係者の千畝に対する敵意と冷淡さは一貫していました。

こうした外務省の姿勢に最初に抗議したのは、東京に在住していたドイツ人のジャーナリスト、ゲルハルト・ダンプマンです。ダンプマンは西ドイツのテレビ協会の東アジア支局長を務めていて、1981年に出版した「孤立する大国ニッポン」のなかで、「戦後日本の外務省が、なぜ、杉原のような外交官を表彰せずに追放してしまったのか、なぜ彼の物語は学校の教科書の中で手本にならないのか、なぜ劇作家は彼の運命をドラマにしないのか、なぜ新聞もテレビも彼の人生をとりあげないのか、理解しがたい」と記しています。 

1983年(昭和58年)9月29日フジテレビが「運命をわけた1枚のビザ 4,500のユダヤ人を救った日本人」を放映、千畝もレポーターの木元教子のインタビューに答えました。

1985年(昭和60年)1月18日ユダヤ人の命を救った功績で、日本人では初めてで唯一の「諸国民の中の正義の人」として、イスラエル政府より「ヤド・バシェム賞」を受賞し千畝の名前が世に知られると、賞賛とともに「政府の訓命に反した国賊」などの中傷の手紙も送られるようになりました。

日本政府による公式の名誉回復が行われたのは2000年10月10日の河野洋平外務大臣の演説です。

「これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。

故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。」

河野外相の演説があったのは救いですが、ダンプマンの指摘の通りの我が国の外務省の硬直した姿勢がなくなったとは思えないのが現実のようです。2019年10月21日「杉原千畝記念財団」は、杉原が参議院に提出した履歴書と人事記録を見付け、外務省の退職は依願退職であったと判明しました。

杉原千畝は1944年(昭和19年)に勲五等瑞宝章を受章、退職金や年金も支給されていて、千畝にとって不名誉な記録は存在しないというのが、現日本政府の公式見解です。

 

 

 

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