第二次世界大戦の敗戦の年の1945年2月から3月にかけて、硫黄島では日本本土空襲のための要の島として壮絶な攻防戦が行われました。日本の守備兵力20,933名中20,129名が戦死か行方不明、米軍の戦死は6,821名、戦傷21,865名の計28,686名で、太平洋戦争の上陸戦で米軍の損害数が日本軍を上回った稀有な戦いです。
硫黄島遠景 2007年
1944年8月グアム島を制圧した米軍は日本本土攻略に向けた次の攻撃予定を検討しました。陸軍のダグラス・マッカーサーは台湾攻略を主張、海軍は台湾攻略を無意味として統合参謀本部で真っ向から対立します。10月2日陸軍航空軍のヘンリー・アーノルドがより効果的な、日本本土の戦略爆撃を可能にする硫黄島攻略を提唱し、沖縄上陸作戦前の硫黄島攻略が基本方針となりました。
1945年2月19日米海兵隊の硫黄島強襲が開始され、日本軍守備隊の激しい抵抗を受けながら3月17日、米軍は同島を制圧、3月21日大本営は17日の硫黄島守備隊の玉砕を発表しました。
硫黄島と日本本土の位置関係
硫黄島は東京の南1,080km、グアムの北1,130kmに位置し、小笠原諸島に属する火山島です。長径8㎞、幅4㎞、21㎢の小さな島で、島の南部にある標高169mの摺鉢山が最高点、土壌は火山灰のため保水性はなく、水は雨水か塩辛い井戸水に頼るしかありません。戦前は硫黄の採掘やサトウキビ栽培などを営む住民が1,000人ほどいました。
開戦時には海軍根拠地隊1,200名、陸軍兵力3,800名が父島に配備され、硫黄島を管轄下に置いていましたが、開戦後は南方と日本本土を結ぶ航空機の中継地点として海軍が飛行場を建設、航空兵力1,500名、航空機20機を配備しました。
1944年2月米軍がマーシャル諸島を占領し、大本営はカロリン諸島、マリアナ諸島、小笠原諸島を結ぶ地域を絶対国防圏として死守することを決めます。
飛行場のある硫黄島が米軍の攻撃目標となることは明らかで、陸軍は本島を重要防衛地域とし守備兵力に第31軍を編成、配下の小笠原地区集団司令官に香港攻略戦の第23軍参謀長でその後は留守近衛第2師団長として内地にいた栗林忠道陸軍中将を任命しました。
硫黄島の衛星写真 2000年
左下が摺鉢山、中央の飛行場は自衛隊の航空基地
1944年夏米軍はマリアナ諸島を攻略し、中国大陸から行っていたB-29による日本本土空襲を11月以降マリアナ諸島からに変えました。小笠原諸島は本土へ向かうB-29の防空監視拠点となり、硫黄島からの報告は最も重要な情報源でした。
B-29はマリアナ諸島からの出撃でも片道2,000kmを要するため護衛戦闘機を随伴できず、日本上空で損傷を受けたB-29が帰り着けないことも多く、日本の「飛龍」や「銀河」、一式陸攻がしばしば硫黄島を経由してマリアナ諸島の飛行場を襲い駐機中のB-29に損害を与えました。
米統合参謀本部はマリアナまで帰れないB-29の中間着陸場と護衛戦闘機の基地の確保、日本軍機の攻撃基地の撃滅と早期警報システムの破壊、日本本土まで硫黄島を避けて飛ぶ航法上のロスの解消を目指し、沖縄侵攻を見据えた硫黄島攻略が決定され「デタッチメント作戦」と命名されます。
1944年6月栗林忠道中将が父島へ赴任、22日に陸軍部隊は他の在小笠原方面部隊と併せて第109師団に改編され、要塞のある父島に司令部を置く予定を変えて師団司令部と主力が硫黄島に移動しました。
留守近衛第2師団長時代の栗林忠道陸軍中将
(硫黄島戦闘中に陸軍大将)
サイパン島奪回が不可能となり、奪回のために用意された歩兵第145連隊と戦車第26連隊が小笠原に回され、大本営直轄部隊として小笠原兵団が編成されました。小笠原兵団は第109師団以下の陸軍部隊を「隷下」に、第27航空戦隊以下の海軍部隊を「指揮下」とし、兵団長は第109師団長栗林中将です。
兵団の有力部隊として、秘密兵器であった四式二十糎噴進砲・四式四十糎噴進砲(ロケット砲)を装備する噴進砲中隊、九八式臼砲を装備する各独立臼砲大隊、九七式中迫撃砲を装備する各中迫撃大隊、一式機動四十七粍砲(対戦車砲)を装備する各独立速射砲大隊が配属されました。
サイパン島の戦いで制空権と制海権を持つ米軍を水際防御で上陸を阻止できず内陸での戦いになったこと、ペリリューで中川州男陸軍大佐が地下の洞窟陣地を活用して長期の抗戦に成功したことを承知していた栗林中将は、敵上陸部隊を内陸部に誘い込んで持久戦を行い、できるだけ大きな損害を与えて1日でも本土進攻を遅らせるのを基本方針とし、島の全面要塞化を図り住民すべてを疎開させました。
地上設備は艦砲射撃や爆撃に耐えないので、天然の洞窟と人工坑道からなる地下要塞を広範囲に構築することにし、水際陣地構築は貴重な資材や時間の無駄として構築の撤回を命じました。
これに対して水際陣地と飛行場確保に固執する海軍側(同島守備隊と大本営海軍部)からは強硬な批判が起こり、栗林中将が譲歩する形で一部の水際、飛行場陣地を構築することになりますが、後方地下陣地構築による持久戦方針は一切変えず、水際、飛行場陣地用の海軍提供資材の半分を後方地下陣地構築に転用します。
後方陣地と全島の施設を地下で結ぶ全長18kmの坑道構築を計画、その坑道設計のために本土から鉱山技師を呼びました。硫黄島の火山岩は非常に軟らかく十字鍬や円匙などの手工具で掘れるので全将兵に陣地構築を命じ、工事の遅れを無くすために上官巡視時の敬礼を止めるなど合理性を徹底しました。栗林中将は島内各地を巡視し21,000名の全将兵と顔を合わせ、歩兵第145連隊の連隊旗を工事現場に安置して将兵の士気を鼓舞し、軍紀の維持に努めました。
地下工事は至難の業で激しい肉体労働に加えて、防毒マスクを必要とする硫黄ガスや30℃から50℃の地熱にさらされ、作業は5分続けるのが限度でした。飲用の水は雨水に限られましたが、塩辛く硫黄臭のする井戸水にも頼らざるを得ず、激しい下痢に悩まされました。米軍の空襲や艦砲射撃で死傷者が出ても治療や補充は困難でした。
坑道の深さは12mから20mで長さは摺鉢山の北斜面だけでも数kmに上り、地下室は少人数用から400名収容の部屋を複数備えたものまで多種多様でした。近くで砲弾や爆弾が爆発した際の影響を最小限にするため出入口は精巧な構造とし、閉じ込められるのを防ぐために地下通路には複数の出入口と相互の連絡通路を備えました。地下室の大部分に硫黄ガスが発生したため換気には細心の注意が払われます。
島北部の北集落から500m北東の地点に兵団司令部が設置され、地下20mの司令部は坑道によって各種の施設と接続されていました。島で2番目に高い屏風山には無線所と気象観測所が置かれ、そこからすぐ南東の高台上に硫黄島の全火砲を指揮する混成第2旅団砲兵団の兵団本部が置かれました。
その他の各拠点にも地下陣地が構築され、地下陣地の中で最も完成度が高かったのが北集落の南に作られた主通信所です。長さ50m、幅20mの部屋を軸に壁と天井の構造は司令部と同じで、地下20mの坑道でつながっていました。摺鉢山の海岸近くのトーチカは鉄筋コンクリートで壁の厚さが1.2mありました。
第一防衛線は何重にも配備された相互に支援可能な陣地で構成され、北西の海岸から元山飛行場を通り南東方向へ延びていました。至る所にトーチカが設置され戦車第26連隊がこの地区を強化しました。
第二防衛線は硫黄島の最北端である北ノ鼻の南数百mから元山集落を通り東海岸へ至る線で、自然の洞穴や地形の特徴を最大限に利用しました。摺鉢山は海岸砲とトーチカからなる半ば独立した防衛区として構築されました。戦車が接近しうる経路にはすべて対戦車壕が掘られ、摺鉢山北側の地峡部の南半分は摺鉢山の、北半分は島北部の火砲群が照準に収めていました。
1944年末にはセメントに島の火山灰を混ぜると高品質のコンクリートになることが分かり、陣地構築は加速します。飛行場の付近の海軍陸戦隊陣地では放棄された一式陸攻を地中に埋めて、地下待避所としました。
米軍の潜水艦と航空機により輸送船が撃沈されて建設資材が思うように届かない上、到着した資材や構築する兵力を海軍側の強要で水際陣地、飛行場構築に割かざるを得ないので、坑道はその後に追加された全長28kmの計画のうち17km程度しか完成せず、司令部と摺鉢山を結ぶ坑道も残り僅かが未完成のまま米軍を迎撃することになりましたが、戦闘が始まると地下陣地は所期の役割を十二分に発揮します。
栗林中将は混成第2旅団5,000名を父島から硫黄島へ移動し、旅団長は12月に千田貞季陸軍少将になります。池田益雄大佐指揮の歩兵第145連隊2,700名も硫黄島へ着任し、海軍では第204建設大隊1,233名が到着、8月10日市丸利之助海軍少将が着任、続いて飛行部隊および地上勤務者2,216名が到着しました。
次に増強されたのは砲兵で1944年末までに75mm以上の火砲約361門が稼動状態となりました。陸軍の新兵器のロケット砲二十糎噴進砲(弾体重量83.7kg・最大射程2,500m)、四式四十糎噴進砲(弾体重量509.6kg・最大射程4,000m)、緒戦から大威力を発揮続けていた九八式臼砲(弾体重量約300kg・最大射程1,200m)などは、大きな威力をもち、発射台が簡易構造で迅速に放列布置が可能で、発射後もすぐに地下陣地へ退避することができました。
四式二十糎噴進砲(I型)
硫黄島戦で第109師団噴進砲中隊第1小隊が使用した実物
靖国神社遊就館収蔵
四式四十糎噴進砲
硫黄島で鹵獲された九八式臼砲
機動九〇式野砲
一式機動四十七粍砲
これらの火力は通常の1個師団の砲兵火力の4倍で、隠匿性に優れた迫撃砲、ロケット砲が集中運用され、多数の戦車、装甲車を撃破し特段に活躍することになります。
しかし海岸砲を主体とする摺鉢山の海軍の火砲陣地は、栗林中将が事前に定めていた防衛戦術を無視して上陸偵察舟艇に発砲し、火砲位置を露呈して艦砲射撃を集中され米軍上陸前に全滅しました。
硫黄島へ配備された戦車第26連隊の連隊長は、騎兵出身でロサンゼルス・オリンピック馬術金メダリストの「バロン西」こと男爵西竹一陸軍中佐で、兵員600名と戦車23両でした。
西竹一陸軍大佐 陸軍騎兵中尉時代
26連隊の輸送船は7月18日潜水艦に撃沈され、戦死者は2名でしたが戦車はすべて沈みました。補充が12月に行われ11両の九七式中戦車と12両の九五式軽戦車が陸揚げされましたが、面積が極めて狭い孤島の硫黄島への戦車連隊の配備は異例です。
九七式中戦車
戦車第26連隊が使用した実物
米軍が無傷で鹵獲しアバディーン性能試験場内陸軍兵器博物館収蔵
九五式軽戦車
グアム移送時に撮影
西中佐は熟慮の結果、戦車を機動兵力として運用する計画から、移動トーチカならびに固定トーチカとして待伏攻撃に使う方針に変更しました。移動トーチカとしては事前に構築した複数の戦車壕に車体をダグインさせて運用し、固定トーチカとしては車体を地面に埋没させるか砲塔のみに分解して巧みに隠蔽しました。
多くの輸送船が米軍の潜水艦と航空機により沈められましたが1945年2月まで兵力の増強は続き、最終的に小笠原兵団は陸海軍兵力計21,000名になりました。しかし兵力の半数の海軍部隊は指揮官である市丸少将以下兵に至るまで、水際防御、飛行場確保、地上陣地構築に固執し、完全な隷下とすることができませんでした。
栗林中将は海軍の一連の不手際、無能無策を強く非難し、陸海軍統帥一元化に踏み込んだ総括電報「膽参電第三五一号」を1945年3月7日大本営陸軍部に打電しています。
栗林中将の作戦は「米軍に位置が露見しないよう、上陸準備砲爆撃の間は発砲をしない。艦艇に対する砲撃は行わない。上陸の際水際では抵抗しない。上陸部隊が500m内陸に進めば元山飛行場付近に配置した火器による集中攻撃を加え、海岸の北へは元山から、南へは摺鉢山から砲撃を加える。上陸部隊に可能な限りの損害を与えた後に、火砲は千鳥飛行場近くの高台から北方へ移動する」でした。
火砲は摺鉢山の斜面と元山飛行場北側の高台の海上からは死角となる位置に巧みに隠蔽されて配置され、食糧と弾薬は2.5か月分が備蓄されました。混成第2旅団長の大須賀應陸軍少将、第109師団参謀長の堀静一陸軍大佐、硫黄島警備隊および南方諸島海軍航空隊司令の井上左馬二海軍大佐らは水際作戦にこだわり栗林中将の戦術に強く反対したため、大須賀少将、堀大佐を賛成派の千田貞季少将、高石正大佐に代え司令部の意思統一を図りました。
1945年1月に発令された最終作戦は陣地死守と強力な相互支援を求めたもので、兵力の大幅な損耗に繋がる強固な敵陣地への突撃は厳禁されました。
栗林中将は「敢闘ノ誓」を硫黄島守備隊全員に配布し、戦闘方針を徹底するとともに士気の維持に努めています。特に「我等ハ敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ」「我等ハ最後ノ一人トナルモゲリラニ依ツテ敵ヲ悩マサン」と長期持久戦を将兵に徹底させ、この誓いは実際の戦闘で生かされることになります。
栗林中将が起草し全軍に配布した「敢闘ノ誓」のビラ
戦後の遺骨収集団が地下陣地跡で回収したもの
栗林中将は防御準備の最後の数か月間兵員の建設作業と訓練との時間配分に腐心し、訓練により多くの時間を割くため北飛行場での作業を停止しました。12月前半の作戦命令により1945年2月11日が防御準備の完成目標日とされます。
米航空部隊は12月8日までに硫黄島に800tを超える爆弾を投下しましたが日本軍陣地に損害を与えられず、その後もB-24爆撃機がほぼ毎晩現れ、空母も頻繁に出撃し頻繁な空襲で妨害されましたが、作業が遅れることはありませんでした。
1845年1月2日十数機のB-24爆撃機が飛行場を空襲して損害を与えた際、栗林中将はわずか12時間で飛行場を再び使用可能としましたが、飛行機がないのに飛行場確保に固執する海軍の要請を栗林中将は戦訓電報で批判しています。
2月13日海軍の偵察機がサイパンから北西へ移動する170隻の米軍艦隊と船団を発見します。小笠原諸島の全部隊に警報が出され、硫黄島も迎撃準備を整えました。
硫黄島の戦い(2)地上と地下の戦闘 に続く。