gooブログはじめました!

歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

硫黄島の戦い(1)本土空襲の要の島

2021-11-25 06:11:50 | 日記

第二次世界大戦の敗戦の年の1945年2月から3月にかけて、硫黄島では日本本土空襲のための要の島として壮絶な攻防戦が行われました。日本の守備兵力20,933名中20,129名が戦死か行方不明、米軍の戦死は6,821名、戦傷21,865名の計28,686名で、太平洋戦争の上陸戦で米軍の損害数が日本軍を上回った稀有な戦いです。

硫黄島遠景 2007年

1944年8月グアム島を制圧した米軍は日本本土攻略に向けた次の攻撃予定を検討しました。陸軍のダグラス・マッカーサーは台湾攻略を主張、海軍は台湾攻略を無意味として統合参謀本部で真っ向から対立します。10月2日陸軍航空軍のヘンリー・アーノルドがより効果的な、日本本土の戦略爆撃を可能にする硫黄島攻略を提唱し、沖縄上陸作戦前の硫黄島攻略が基本方針となりました。

1945年2月19日米海兵隊の硫黄島強襲が開始され、日本軍守備隊の激しい抵抗を受けながら3月17日、米軍は同島を制圧、3月21日大本営は17日の硫黄島守備隊の玉砕を発表しました。

硫黄島と日本本土の位置関係

硫黄島は東京の南1,080km、グアムの北1,130kmに位置し、小笠原諸島に属する火山島です。長径8㎞、幅4㎞、21㎢の小さな島で、島の南部にある標高169mの摺鉢山が最高点、土壌は火山灰のため保水性はなく、水は雨水か塩辛い井戸水に頼るしかありません。戦前は硫黄の採掘やサトウキビ栽培などを営む住民が1,000人ほどいました。

開戦時には海軍根拠地隊1,200名、陸軍兵力3,800名が父島に配備され、硫黄島を管轄下に置いていましたが、開戦後は南方と日本本土を結ぶ航空機の中継地点として海軍が飛行場を建設、航空兵力1,500名、航空機20機を配備しました。

1944年2月米軍がマーシャル諸島を占領し、大本営はカロリン諸島、マリアナ諸島、小笠原諸島を結ぶ地域を絶対国防圏として死守することを決めます。

飛行場のある硫黄島が米軍の攻撃目標となることは明らかで、陸軍は本島を重要防衛地域とし守備兵力に第31軍を編成、配下の小笠原地区集団司令官に香港攻略戦の第23軍参謀長でその後は留守近衛第2師団長として内地にいた栗林忠道陸軍中将を任命しました。

硫黄島の衛星写真 2000年

左下が摺鉢山、中央の飛行場は自衛隊の航空基地

1944年夏米軍はマリアナ諸島を攻略し、中国大陸から行っていたB-29による日本本土空襲を11月以降マリアナ諸島からに変えました。小笠原諸島は本土へ向かうB-29の防空監視拠点となり、硫黄島からの報告は最も重要な情報源でした。

B-29はマリアナ諸島からの出撃でも片道2,000kmを要するため護衛戦闘機を随伴できず、日本上空で損傷を受けたB-29が帰り着けないことも多く、日本の「飛龍」や「銀河」、一式陸攻がしばしば硫黄島を経由してマリアナ諸島の飛行場を襲い駐機中のB-29に損害を与えました。

米統合参謀本部はマリアナまで帰れないB-29の中間着陸場と護衛戦闘機の基地の確保、日本軍機の攻撃基地の撃滅と早期警報システムの破壊、日本本土まで硫黄島を避けて飛ぶ航法上のロスの解消を目指し、沖縄侵攻を見据えた硫黄島攻略が決定され「デタッチメント作戦」と命名されます。

1944年6月栗林忠道中将が父島へ赴任、22日に陸軍部隊は他の在小笠原方面部隊と併せて第109師団に改編され、要塞のある父島に司令部を置く予定を変えて師団司令部と主力が硫黄島に移動しました。

留守近衛第2師団長時代の栗林忠道陸軍中将

(硫黄島戦闘中に陸軍大将)

サイパン島奪回が不可能となり、奪回のために用意された歩兵第145連隊と戦車第26連隊が小笠原に回され、大本営直轄部隊として小笠原兵団が編成されました。小笠原兵団は第109師団以下の陸軍部隊を「隷下」に、第27航空戦隊以下の海軍部隊を「指揮下」とし、兵団長は第109師団長栗林中将です。

兵団の有力部隊として、秘密兵器であった四式二十糎噴進砲・四式四十糎噴進砲(ロケット砲)を装備する噴進砲中隊、九八式臼砲を装備する各独立臼砲大隊、九七式中迫撃砲を装備する各中迫撃大隊、一式機動四十七粍砲(対戦車砲)を装備する各独立速射砲大隊が配属されました。

サイパン島の戦いで制空権と制海権を持つ米軍を水際防御で上陸を阻止できず内陸での戦いになったこと、ペリリューで中川州男陸軍大佐が地下の洞窟陣地を活用して長期の抗戦に成功したことを承知していた栗林中将は、敵上陸部隊を内陸部に誘い込んで持久戦を行い、できるだけ大きな損害を与えて1日でも本土進攻を遅らせるのを基本方針とし、島の全面要塞化を図り住民すべてを疎開させました。

地上設備は艦砲射撃や爆撃に耐えないので、天然の洞窟と人工坑道からなる地下要塞を広範囲に構築することにし、水際陣地構築は貴重な資材や時間の無駄として構築の撤回を命じました。

これに対して水際陣地と飛行場確保に固執する海軍側(同島守備隊と大本営海軍部)からは強硬な批判が起こり、栗林中将が譲歩する形で一部の水際、飛行場陣地を構築することになりますが、後方地下陣地構築による持久戦方針は一切変えず、水際、飛行場陣地用の海軍提供資材の半分を後方地下陣地構築に転用します。

後方陣地と全島の施設を地下で結ぶ全長18kmの坑道構築を計画、その坑道設計のために本土から鉱山技師を呼びました。硫黄島の火山岩は非常に軟らかく十字鍬や円匙などの手工具で掘れるので全将兵に陣地構築を命じ、工事の遅れを無くすために上官巡視時の敬礼を止めるなど合理性を徹底しました。栗林中将は島内各地を巡視し21,000名の全将兵と顔を合わせ、歩兵第145連隊の連隊旗を工事現場に安置して将兵の士気を鼓舞し、軍紀の維持に努めました。

地下工事は至難の業で激しい肉体労働に加えて、防毒マスクを必要とする硫黄ガスや30℃から50℃の地熱にさらされ、作業は5分続けるのが限度でした。飲用の水は雨水に限られましたが、塩辛く硫黄臭のする井戸水にも頼らざるを得ず、激しい下痢に悩まされました。米軍の空襲や艦砲射撃で死傷者が出ても治療や補充は困難でした。

坑道の深さは12mから20mで長さは摺鉢山の北斜面だけでも数kmに上り、地下室は少人数用から400名収容の部屋を複数備えたものまで多種多様でした。近くで砲弾や爆弾が爆発した際の影響を最小限にするため出入口は精巧な構造とし、閉じ込められるのを防ぐために地下通路には複数の出入口と相互の連絡通路を備えました。地下室の大部分に硫黄ガスが発生したため換気には細心の注意が払われます。

島北部の北集落から500m北東の地点に兵団司令部が設置され、地下20mの司令部は坑道によって各種の施設と接続されていました。島で2番目に高い屏風山には無線所と気象観測所が置かれ、そこからすぐ南東の高台上に硫黄島の全火砲を指揮する混成第2旅団砲兵団の兵団本部が置かれました。

その他の各拠点にも地下陣地が構築され、地下陣地の中で最も完成度が高かったのが北集落の南に作られた主通信所です。長さ50m、幅20mの部屋を軸に壁と天井の構造は司令部と同じで、地下20mの坑道でつながっていました。摺鉢山の海岸近くのトーチカは鉄筋コンクリートで壁の厚さが1.2mありました。

第一防衛線は何重にも配備された相互に支援可能な陣地で構成され、北西の海岸から元山飛行場を通り南東方向へ延びていました。至る所にトーチカが設置され戦車第26連隊がこの地区を強化しました。

第二防衛線は硫黄島の最北端である北ノ鼻の南数百mから元山集落を通り東海岸へ至る線で、自然の洞穴や地形の特徴を最大限に利用しました。摺鉢山は海岸砲とトーチカからなる半ば独立した防衛区として構築されました。戦車が接近しうる経路にはすべて対戦車壕が掘られ、摺鉢山北側の地峡部の南半分は摺鉢山の、北半分は島北部の火砲群が照準に収めていました。

1944年末にはセメントに島の火山灰を混ぜると高品質のコンクリートになることが分かり、陣地構築は加速します。飛行場の付近の海軍陸戦隊陣地では放棄された一式陸攻を地中に埋めて、地下待避所としました。

米軍の潜水艦と航空機により輸送船が撃沈されて建設資材が思うように届かない上、到着した資材や構築する兵力を海軍側の強要で水際陣地、飛行場構築に割かざるを得ないので、坑道はその後に追加された全長28kmの計画のうち17km程度しか完成せず、司令部と摺鉢山を結ぶ坑道も残り僅かが未完成のまま米軍を迎撃することになりましたが、戦闘が始まると地下陣地は所期の役割を十二分に発揮します。

栗林中将は混成第2旅団5,000名を父島から硫黄島へ移動し、旅団長は12月に千田貞季陸軍少将になります。池田益雄大佐指揮の歩兵第145連隊2,700名も硫黄島へ着任し、海軍では第204建設大隊1,233名が到着、8月10日市丸利之助海軍少将が着任、続いて飛行部隊および地上勤務者2,216名が到着しました。

次に増強されたのは砲兵で1944年末までに75mm以上の火砲約361門が稼動状態となりました。陸軍の新兵器のロケット砲二十糎噴進砲(弾体重量83.7kg・最大射程2,500m)、四式四十糎噴進砲(弾体重量509.6kg・最大射程4,000m)、緒戦から大威力を発揮続けていた九八式臼砲(弾体重量約300kg・最大射程1,200m)などは、大きな威力をもち、発射台が簡易構造で迅速に放列布置が可能で、発射後もすぐに地下陣地へ退避することができました。

四式二十糎噴進砲(I型)

硫黄島戦で第109師団噴進砲中隊第1小隊が使用した実物

靖国神社遊就館収蔵

四式四十糎噴進砲

硫黄島で鹵獲された九八式臼砲

機動九〇式野砲

一式機動四十七粍砲

これらの火力は通常の1個師団の砲兵火力の4倍で、隠匿性に優れた迫撃砲、ロケット砲が集中運用され、多数の戦車、装甲車を撃破し特段に活躍することになります。

しかし海岸砲を主体とする摺鉢山の海軍の火砲陣地は、栗林中将が事前に定めていた防衛戦術を無視して上陸偵察舟艇に発砲し、火砲位置を露呈して艦砲射撃を集中され米軍上陸前に全滅しました。

硫黄島へ配備された戦車第26連隊の連隊長は、騎兵出身でロサンゼルス・オリンピック馬術金メダリストの「バロン西」こと男爵西竹一陸軍中佐で、兵員600名と戦車23両でした。

西竹一陸軍大佐 陸軍騎兵中尉時代

26連隊の輸送船は7月18日潜水艦に撃沈され、戦死者は2名でしたが戦車はすべて沈みました。補充が12月に行われ11両の九七式中戦車と12両の九五式軽戦車が陸揚げされましたが、面積が極めて狭い孤島の硫黄島への戦車連隊の配備は異例です。

九七式中戦車

戦車第26連隊が使用した実物

米軍が無傷で鹵獲しアバディーン性能試験場内陸軍兵器博物館収蔵

九五式軽戦車

グアム移送時に撮影

西中佐は熟慮の結果、戦車を機動兵力として運用する計画から、移動トーチカならびに固定トーチカとして待伏攻撃に使う方針に変更しました。移動トーチカとしては事前に構築した複数の戦車壕に車体をダグインさせて運用し、固定トーチカとしては車体を地面に埋没させるか砲塔のみに分解して巧みに隠蔽しました。

多くの輸送船が米軍の潜水艦と航空機により沈められましたが1945年2月まで兵力の増強は続き、最終的に小笠原兵団は陸海軍兵力計21,000名になりました。しかし兵力の半数の海軍部隊は指揮官である市丸少将以下兵に至るまで、水際防御、飛行場確保、地上陣地構築に固執し、完全な隷下とすることができませんでした。

栗林中将は海軍の一連の不手際、無能無策を強く非難し、陸海軍統帥一元化に踏み込んだ総括電報「膽参電第三五一号」を1945年3月7日大本営陸軍部に打電しています。

栗林中将の作戦は「米軍に位置が露見しないよう、上陸準備砲爆撃の間は発砲をしない。艦艇に対する砲撃は行わない。上陸の際水際では抵抗しない。上陸部隊が500m内陸に進めば元山飛行場付近に配置した火器による集中攻撃を加え、海岸の北へは元山から、南へは摺鉢山から砲撃を加える。上陸部隊に可能な限りの損害を与えた後に、火砲は千鳥飛行場近くの高台から北方へ移動する」でした。

火砲は摺鉢山の斜面と元山飛行場北側の高台の海上からは死角となる位置に巧みに隠蔽されて配置され、食糧と弾薬は2.5か月分が備蓄されました。混成第2旅団長の大須賀應陸軍少将、第109師団参謀長の堀静一陸軍大佐、硫黄島警備隊および南方諸島海軍航空隊司令の井上左馬二海軍大佐らは水際作戦にこだわり栗林中将の戦術に強く反対したため、大須賀少将、堀大佐を賛成派の千田貞季少将、高石正大佐に代え司令部の意思統一を図りました。

1945年1月に発令された最終作戦は陣地死守と強力な相互支援を求めたもので、兵力の大幅な損耗に繋がる強固な敵陣地への突撃は厳禁されました。

栗林中将は「敢闘ノ誓」を硫黄島守備隊全員に配布し、戦闘方針を徹底するとともに士気の維持に努めています。特に「我等ハ敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ」「我等ハ最後ノ一人トナルモゲリラニ依ツテ敵ヲ悩マサン」と長期持久戦を将兵に徹底させ、この誓いは実際の戦闘で生かされることになります。

栗林中将が起草し全軍に配布した「敢闘ノ誓」のビラ

戦後の遺骨収集団が地下陣地跡で回収したもの

栗林中将は防御準備の最後の数か月間兵員の建設作業と訓練との時間配分に腐心し、訓練により多くの時間を割くため北飛行場での作業を停止しました。12月前半の作戦命令により1945年2月11日が防御準備の完成目標日とされます。

米航空部隊は12月8日までに硫黄島に800tを超える爆弾を投下しましたが日本軍陣地に損害を与えられず、その後もB-24爆撃機がほぼ毎晩現れ、空母も頻繁に出撃し頻繁な空襲で妨害されましたが、作業が遅れることはありませんでした。

1845年1月2日十数機のB-24爆撃機が飛行場を空襲して損害を与えた際、栗林中将はわずか12時間で飛行場を再び使用可能としましたが、飛行機がないのに飛行場確保に固執する海軍の要請を栗林中将は戦訓電報で批判しています。

2月13日海軍の偵察機がサイパンから北西へ移動する170隻の米軍艦隊と船団を発見します。小笠原諸島の全部隊に警報が出され、硫黄島も迎撃準備を整えました。

 

硫黄島の戦い(2)地上と地下の戦闘 に続く。

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メソポタミア文明

2021-11-11 06:13:55 | 日記

古代文明発祥の地とされるメソポタミアは西のユーフラテス川と東のティグリス川の沖積平野で、下流域には堆積した肥沃な土壌が広がっていますが、乾燥した気候のため森林が存在せず、岩石もなく、鉱物資源はありません。

メソポタミア地域

初期のメソポタミア文明を担ったのはシュメール人で、その後はアッカド、バビロニア、アッシリアなどに代表される国々が興亡を繰り返しましたが、紀元前4世紀ギリシャのアレクサンドロス3世に征服されてヘレニズム文化の一部となりました。

メソポタミアの北部は年間200mmの降水量があって天水で農業ができたため、最初に人が住み着いたのは北部で、後に南部で灌漑農業が始まると豊富な収穫が得られる南メソポタミアが文明揺籃の地となりました。

ティグリス川は山地の源流からの勾配が急で洪水を起こしやすく、ユーフラテス川はやや勾配が緩やかでティグリス川よりも高いところを流れているため、シュメールの都市の多くはユーフラテス河畔にありましたが、どちらの川も頻繁に氾濫してすべてを押し流すことは稀でなく、旧約聖書のノアの方舟の伝説に影響を与えたと云われます。

メソポタミアは平坦なので四方からの交通の要衝となり、さまざまな民族が流入して活発な交易が行われました。古代文明時代には北部がアッシリア、南部がバビロニア、バビロニアの北部がアッカド、南部がシュメールで、文明は最南部のシュメールから川の上流に向かって広がっていきました。

前5500年頃から前3500年頃のウバイド期の中頃にはシュメールの灌漑農業が本格化し、前3500年頃から前3100年頃のウルク期に都市文明が発達しました。この都市文明を担ったシュメール人が楔形文字を発明し、アッカド人と共にメソポタミア文明の基礎を作り上げます。

紀元前8000年紀から西アジア一帯で簿記のためのしるしとして使われていたトークンが印章になり、さらにその印を手で書いて絵文字化することで、紀元前3200年頃にウルク市で最古の文字とされるウルク古拙文字が誕生しました。

この文字は象形文字・表語文字でしたが、紀元前2500年頃にはこれを発展させた楔形文字が誕生します。楔形文字は周辺諸民族に表音文字として使われ、紀元1世紀頃まで西アジア諸国のさまざまな言語を書き表すのに利用されました。

現在用いられている時間の単位は60秒が1分、60分が1時間ですが、この六十進法の紀元はシュメール文明で、紀元前2000年頃に「1」から「59」を表す記号によって六十進法が整理され、分数や小数の概念も存在し、徴税や配分の管理、農地面積の計算、建築などにも応用されました。

「貨幣」を創造したのも紀元前2000年頃のシュメール人で、財物の交換をする際の対価物として銀地金を受け取りました。一定の重さの銀を袋に入れて封印して用い、やがて銀の重量単位が価値の単位となり後に通貨として使われるようになります。

前2900年頃から前2350年頃までの初期王朝時代には、キシュ、ニップル、アダブ、シュルッパク、ウンマ、ラガシュ、ウルク、ウルと有力な都市国家が生まれました。

シュメール語は前2112年のウル第3王朝の頃から日常語としては使われなくなり、アッカド語などのセム系の言語に代わりましたが、学問・宗教・文学の言語としてはメソポタミア文化の終焉までシュメール語が継承されました。

忘れ去られていた楔形文字は近代になって発見され、古代ペルシア語、次いでアッカド語が解読されました。しかし楔形文字がセム系言語の音価特性を区別しないので、この文字はセム系以外の言語のために開発され、表音文字としてセム系言語で使われたものと考えられ、1869年フランスのジュール・オッペールが、この楔形文字を発明した未知の民族をシュメール人と名付けました。

このシュメール人がいつ頃、どのようにして南部メソポタミアに定着したのかは分かっていません。彼らは古代エジプト人と並んで歴史を文字で記録した最古の人々ですが、伝説でなく歴史として承認できる記録は前2500年頃以降です。

初期王朝時代の初めのウルクの王たち(ウルク第1王朝)を伝えるのは「シュメール王朝表」で、それらの中には実在の可能性が想定されている王もいます。ウルク王ギルガメシュを主人公とした「ギルガメシュ叙事詩」は古代オリエントにおける文学作品の最高傑作と云われます。

楔形文字で粘土板に刻まれたギルガメシュ叙事詩 

「ハムラビ法典」は高さ225㎝ 幅65㎝の玄武岩にシュメール語で刻まれた世界最古の成文法典です。バビロン王朝第6代のハムラビ王(前1792~前1750)が定めた法典で、婚姻、財産相続、賃貸、売買など282条からなります。

法典の冒頭に「強き者が弱き者を虐げることのないように」と裁判の主旨が示され、旧約聖書の「目には目を、歯には歯を」の文言はハムラビ法典の石碑の後面に書かれていますが、刑罰による過剰な報復を防ぐために限界を定めたのがこの条項の趣旨で、刑法学上で歴史的に重要な規定とされています。

石碑の前面の上部の像は左側のハムラビが右手を挙げて神を拝し、右側には正義の神の太陽神シャムシュが玉座に座って、支配と主権を表す輪と杖をハムラビに授けようとしています。前1150年頃エラムの王シュトルク・ナフンテⅠ世がメソポタミアに侵入した際この石碑が持ち去られましたが、1901年から1902年に行われたフランスのJ・ド・モルガンの発掘調査で発見され、ル-ヴル美術館で復元されています。

ハムラビ法典が記録された石棒 ルーブル美術館

北部メソポタミアでは新石器時代の遺跡が発見されていて、テル・ハラフ出土の彩文土器はこの地方の文明の古さを物語っていますが、新石器時代以降の文明の進展は南部メソポタミアが主導権を握りました。

テル・エル・ウバイド、ウルク、ジェムデト・ナスルなど各地の文明はメソポタミアの初期文明を代表しますが、都市国家にそれぞれ国王が誕生した前3000年から前2340年の初期王朝時代に隆盛をみました。

シュメールの都市国家は神の支配する社会で、地方の神が政治、経済、労働、生産などのいっさいの権力を掌握し、地方の神を束ねる役が国王で神殿が政治の中心でした。聖域には倉庫、作業場、書記の部屋がつくられ、その周囲に住宅が集まり、この聖域の中心の高台に神殿が築かれ、やがてエジプトのピラミッドに比肩される巨大な規模に発展します。

これがジッグラトで平原の遠くから望める偉容はピラミッドに匹敵しますが、ピラミッドがファラオの墳墓であるのと異なり、ジグラットは王が現世の政治を行う場でした。最大規模のジッグラトの遺跡はエラムのチョガ・ザンビールです。

チョガ・ザンビールのジッグラト

メソポタミアでは戦乱が相次ぎましたが、前539年に新バビロニア王国がアケメネス朝ペルシアによって滅ぼされるまで、メソポタミア文明は3,000年間明瞭な特質を保って発展しました。美術についてはシュメール美術、バビロニア美術、アッシリア美術、新バビロニア美術に区分されます。

シュメールは石材を産出しない土地なので日干しれんがや木材で建物を建てたため、土台のほかはなにも残っておらず、ラガシュ、ウル、ウルク、ニップル、エリドゥ、キシュなどの都市の廃墟がそれです。シュメール美術で現存するものはあまり多くはありません。

ウルでは初期王朝時代の地下室のある墳墓群が発掘され、ウル第1、第2王朝の王墓群(前2000年代後期)出土の奉献像「灌木に後ろ足で立つ牡羊」(大英博物館)はその好例として名高く、ウルの王墓の出土品として黄金の兜や鉢、貝細工の飾板をもつ竪琴、「ウルのスタンダード」などが逸品として知られています。

ウル王墓から出土した牡山羊の像 前2600年~前2400年

「ウルのスタンダード」は1927年から1928年にかけて行われた前2600年ごろのシュメールの古代都市ウルの王墓の発掘調査の際、最大級の墓PG779号で発見されました。王墓には王や王妃だけでなく多数の殉葬者や副葬品が葬られています。

発見者のイギリス考古学者レオナード・ウーリーに従い「スタンダード」と呼ばれていますが、バラバラの状態で見つかり復元されたもので、高さ21.6cm、幅49.5cm、奥行4.5cmの箱です。前後左右それぞれの面にラピスラズリ、赤色石灰岩、貝殻などを瀝青で固着したモザイクが施されています。

ウルのスタンダードは王の果たすべき戦争に勝つ役目、都市国家に豊穣をもたらす役目の二つの大切な役目を表現したものです。大きな面の一方は「戦争の場面」もう一方は「平和の場面」で、大英博物館のシュメールの代表的美術工芸品です。

戦争の場面の下段には4頭立ての戦車が描かれていて、この戦車を牽いているのはオナガー(ロバ)とする説が有力です。中段左に冑をかぶりマントを身に着け手斧をもった8人のウル兵士、中央に敵を捕らえた兵士、そして右側には胸や頭を負傷した敵兵が描かれています。上段中央は王ですがモザイクの欠損でその表情や服装は分かりません。

「戦争の場面」

「平和の場面」の中段、下段は牡牛、山羊、羊、魚、穀物をいれた袋など、さまざまな地域の献上品を運ぶ行列です。上段左から3人目の人物はひときわ大きく、細かく描写されているのでウルの王でしょう。上段右から二人目の楽師が牡牛の竪琴を手にしていますが、同じ形の竪琴がウル王墓から出土しています。

「平和の場面」

石材の不足を反映して彫刻に大きなものはなく、神殿の礼拝像や奉献像、記念碑的な浮彫り、装飾彫刻などが各遺跡から出土していますが、ウルク出土の「女性頭部」(イラク博物館)は大理石像で感性的な表現に優れています。

女性頭部 メソポタミア初期王朝第三期 前2500年頃

バビロニアは古代メソポタミア南部のシュメール、アッカド地方に対する呼称ですが、シュメールの都市国家は前2350年ごろセム系アッカド人のサルゴン1世により統一され、文化の上からもシュメール人の国からセム人の国になりました。

アッカド王朝が滅亡し、前2060年ごろシュメール人が一時復興してウル第3王朝を建てますが、5人の王を経て前1950年ごろエラム人に滅ぼされます。

その後はイシン、ラルサ、マリ、バビロンなどの諸都市が覇を競いますが、この分立は同じくセム系のアムル人の建てたバビロン第1王朝(前1830頃~前1530頃)第6代の王ハムラビによって統一されました。

セム族は実利的な民族で創造の才には乏しく、美術ではシュメール美術を継承したにすぎませんが、都市国家に代わる統一王国の出現により、主権者を賛美する新たなモチーフが出現します。

アッカド王朝の遺品ではニネベ出土の「サルゴン王像」といわれる青銅の男性像頭部(イラク博物館)、スーサ出土の「ナラム・シンの石碑」(ルーブル美術館)などの有名な作例があげられます。ナラム・シン(在位前2254~前2218)はアッカド王朝第4代の王で、ルルビ人を攻略して勝利を収めた記念碑には彼の超人的な地位を称えた浮彫りが施されています。

アッカド人のサルゴン1世あるいはナラム・シン王とされている頭部像 イラク博物館

新シュメール時代の都市国家ラガシュの遺跡からは支配者グデアの多数の彫像や奉献品が出土し(ルーブル美術館)、シュメール美術の栄光を伝えています。灰緑岩を素材とした「グデアの頭部」や「建築平面図を持つグデア像」は、メソポタミア美術の傑作に数えられています。

閃緑岩製グデア頭像 ルーブル美術館

アッシリアはメソポタミア北部のセム人の建設した国ですが、その勢力がもっとも強大であったのは前900年ごろから前612年ごろまでの新アッシリア時代で、美術の最盛期もこれに伴っています。

様式的にはシュメール美術、バビロニア美術に負うところが大きく、宮殿建築が知られ石材や彩釉れんがを日干しれんがと併用しているので、コルサバードのサルゴン2世(在位前721~前705)の宮殿のように、復原可能なまでに遺構や遺品の残っているものがあります。

宮殿の門や城壁には、見る者を威圧する人頭有翼の霊獣類の丸彫りや浮彫りが施され、宮殿内部は王の戦勝、狩猟、饗宴の光景を記録する連続浮彫りが銘文とともに飾られています。この種の物語的浮彫りではアッシュール・ナシルパル2世(在位前884~前859)が造営したニムルードの浮彫り群が知られています。

ニムルードからはシャルマネセル3世の「黒いオベリスク」(大英博物館)をはじめ、「アッシリアのモナ・リザ」(イラク博物館)などの精巧な象牙細工が発掘されています。

シャルマネセル3世の黒いオベリスク 大英博物館

ニムルードの象牙製モナリザ イラク博物館

またアッシリア最後の首都ニネベは、アッシュール・バニパル王(在位前668~前627)の死後メディアと新バビロニアに攻略され、前612年に徹底的に破壊されて廃墟と化しましたが、19世紀から20世紀にかけての数次の発掘によって、アッシュール・バニパルの宮殿図書館から数万の楔形文字の粘土板をはじめ優れた美術品が発掘されました。

主なものに宮殿壁面の浮彫り「アッシュール・バニパルの獅子狩り」、象牙細工「黒人を食い殺す雌ライオン」のようなメソポタミア美術を代表する優品があります。

アッシュール・バニパルの獅子狩り 大英博物館

前625年バビロンでアッシリアから独立したナボポラサルは、前612年アッシリアを滅ぼして新バビロニア王国を建てました。この王国の支配者として有名なのがナボポラサルの子ネブカドネザル2世(在位前605~前562)で、国力の充実に努め宮殿や神殿を盛んに造営し首都バビロンはその治下でもっとも栄え、オリエント世界の政治、文化の一大中心地となりました。
新バビロニア美術の中心をなすのは建築とその装飾で、アッシリア人の発明による彩釉れんがを用いた壁面装飾がきわめて多彩です。1899年から1917年のドイツ考古学者コルデウァイによるバビロン発掘で、イシュタル門、行列道路、マルドゥク神殿跡、空中庭園や王座の間を含む宮殿跡、バベルの塔跡など、主としてネブカドネザル2世治下の遺品が発見されました。

そのうち有名なものがベルリンのペルガモン美術館に復原されたイシュタル門や行列道路の壁面で、獅子や竜などメソポタミア美術の終期の特色をなす動物描写が、色鮮やかな彩釉れんがで華麗・優美によみがえっています。

2004年に復元されたバビロンのイシュタル門

このようにメソポタミア美術はシュメール美術から発展して、セム族の趣味を加えて成長したバビロニア美術と、武の民アッシリアの気風によって継承されたアッシリア美術に移ります。

前539年に新バビロニア王国はアケメネス朝ペルシアに滅ぼされますが、その文化はアケメネス朝、ササン朝のペルシアへと伝わり、西アジア美術の中核として、その後の東西美術の発展にきわめて大きな功績を残しました。

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする