元禄時代は265年間続いた江戸時代のなかで、良い意味でも、悪い意味でも、非常に特異な時代でした。上方を中心とした「元禄文化」が良い意味とすれば、「生類憐みの令」は悪い意味の最たるものです。
江戸幕府開設時の運営体制は徳川家の家政を踏襲したものでしたが、1633年(寛永10年)頃「老中」「若年寄」などの制度を確立し、豊臣政権時代に家康の同僚であった大名たちは、外様大名として関東や近畿の要地からは遠ざけられ、幕政に関与することはなくなりました。
徳川氏一門の親藩大名にも幕政には関与させず、譜代大名や旗本によって運営されます。大名たちは武家諸法度によって厳しく統制され、朝廷も禁中並公家諸法度に縛られて京都所司代に厳しく監視されました。
戦国時代が終わり我が国に平和が訪れて新田開発が各地で行われ、経済が爆発的に発展して高度成長時代が始まりました。鎖国によって長崎で中国、オランダと対馬藩を介して李氏朝鮮と交流した以外は、国内での自給自足経済が形成され、全国と各藩の経済の複合的システムが出来上がり、各地の特産品が大坂に集中し全国に拡がりました。
元禄時代より前の日本の文化は、公家や大名、豪商などの上流社会の文化でした。町人が経済力をつけ、文学や絵画、演芸など多くの分野で活躍したのが元禄文化です。元禄文化の栄えた大阪は全国の商業の中心都市で、大阪商人の気風が強く影響を与えました。
町人の生活を描いた浮世草子が好まれ、井原西鶴が「日本永代蔵」や「世間胸算用」を表し「好色一代男」で色恋に明け暮れる男をテーマにしました。五七五で季節を句にする俳諧は、連歌を元に松尾芭蕉によって生み出され、芭蕉は「古池や 蛙飛びこむ 水の音」などの多くの句を作り、諸国を旅して、その様子を「奥の細道」にまとめました。
尾形光琳は王朝時代の古典を学んで明快で装飾的な絵画を残し、その非凡な意匠感覚は「光琳模様」という語を生み、現代に至るまで絵画、工芸、意匠に大きな影響を与えています。
燕子花図(かきつばたず)屏風 尾形光琳
江戸時代初期から流行った「浮世絵」は安土桃山時代の大和絵を源流にもちますが、庶民的な風俗画として町人の間で安価に広く受け入れられ、一筆書きに始まった浮世絵は版画として印刷され、菱川師宣らによって広められました。
三味線の伴奏であやつり人形を動かし、節をつけて語る「人形浄瑠璃」が大阪や京都ではやり、人形浄瑠璃の脚本家では近松門左衛門が有名で、近松の名作には「曽根崎心中」や「国性爺合戦」などがあります。
歌舞伎の元祖は出雲阿国(いずものおくに)の「かぶき踊」とされていますが、江戸時代には男性の演じる演劇に変わって、元禄年間を中心に歌舞伎が飛躍的な発展を遂げました。
この時期の特筆すべき役者に、荒事芸を演じて評判を得た江戸の初代市川團十郎や「やつし事」を得意として評判を得た京の初代坂田藤十郎がいます。「暫」(しばらく)は團十郎が演じた荒事の代表的演目で、後に市川家のお家芸「歌舞伎十八番」の一つに選ばれました。
主役が「しばらく、しばらく」と言いながら登場し、悪役が善良な人々を殺そうとする場面で人々を救う、単純明快な筋書きです。特徴的な「隈取」(くまどり)や、悪役を追い払った後に見せる豪快な「元禄見得」(みえ)が、この作品の見どころです。
「暫」(しばらく)の主人公、鎌倉権五郎(かまくらごんごろう)
医学や天文学などの実用的な学問もこの時代に発展し、科学技術が大きく進歩しました。印刷、出版技術が向上して書物や版画の大量生産が可能になり、誰もが安価に本や絵に親しめるようになったのも元禄文化の要因でした。
元禄時代は徳川綱吉が5代将軍であった時期に重なります。綱吉は「生類憐みの令」(1687年)で悪名高いのですが、戦のない社会で武士が秩序を維持するためには学問が大切と考え、儒学を奨励しました。暮らしが安定した町人の間にも学問が広まり、寺子屋教育で庶民が読み書きのできる世の中になります。
綱吉は3代将軍家光の四男として1646年(正保3年)1月8日に江戸城で生まれました。幼名は徳松で、1651年(慶安4年)4月三兄の長松とともに15万石を領し、上野館林藩初代藩主となります。
1653年(承応2年)8月2人が元服して長松は「綱重」徳松は「綱吉」と名乗ります。綱吉は1661年(寛文元年)8月所領25万石の上野館林藩主となりますが江戸在住で、家臣の8割も神田の御殿に詰めており、生涯で館林に立ち寄ったのは寛文3年の将軍家綱に従った日光詣での帰路のみでした。
1680年(延宝8年)5月4代将軍家綱に跡継ぎの男子がなく、綱吉が家綱の養嗣子となり、同月家綱が40歳で死去して綱吉が5代将軍の宣下を受けます。綱吉は家綱時代の大老酒井忠清を廃し、綱吉の将軍職就任に功労のあった堀田正俊を大老にしました。
綱吉は堀田正俊を片腕として処分が確定していた越後高田藩の継承問題を裁定し直したり、諸藩の政治を監査するなど、積極的に政治に乗り出して「左様せい様」と陰口された家綱時代に下落した、将軍の権威の向上に努めました。
幕府の会計監査に勘定吟味役を設置して有能な小身旗本の登用をねらい、荻原重秀もここから登用され、外様大名の一部にも幕閣への登用がみられました。
綱吉は戦国時代の殺伐とした気風を排除し、徳を重んずる文治政治を推進しましたが、これには父家光が叩き込んだ儒学が影響しています。綱吉は四書や易経を幕臣に講義したほか、湯島聖堂を建立するなど大変学問好きな将軍でした。
綱吉の儒学を重んじる姿勢は新井白石・室鳩巣・荻生徂徠・雨森芳洲・山鹿素行らの学者を輩出するきっかけになり、この時代に儒学が隆盛を極めました。
歴代将軍の中で尊皇心が厚く、御料(皇室領)を1万石から3万石に増額し、大和国と河内国一帯の66陵の御陵を巨額な資金で修復、公家たちの所領もおおむね綱吉時代に倍増しています。
綱吉の治世の前半は「天和の治」として評価されていますが、1684年(貞享元年)堀田正俊が若年寄稲葉正休に刺殺され、以後大老を置かずに側用人の牧野成貞、柳沢吉保らを重用して老中を遠ざけるようになります。
綱吉はその治世を通して46家の大名を改易もしくは減封し、1,297名の旗本、御家人を処罰します。旗本の5人に1人が何らかの処罰を受けたことになりますが、処罰の理由として際だって多いのが「勤務不良」(408名)と「故ありて」(315名)で、旗本の大量処罰は「封建官僚機構の整備」との評価もあります。
綱吉は儒学の孝に影響され、母の桂昌院に従一位という前例のない高位を朝廷より賜るよう計らいました。寵僧である護持院隆光を通じて母の桂昌院と共に奈良の唐招提寺に帰依し、南北朝時代と戦国時代の戦乱で荒廃した唐招提寺の復興に尽力し、元禄11年(1698年)には戒壇院を再興しました。
綱吉の治世は幕府の財政を悪化させ、勘定吟味役荻原重秀の献策により貨幣の改鋳を行いましたが、元禄金と元禄銀の品位を低下させたことが良質の旧貨を富裕層に退蔵させて、経済の混乱を招きました。
嫡男の徳松が死去し将軍後継問題が生じて、綱吉の娘婿である徳川綱教(紀州徳川家)が候補に上がりましたが、兄綱重の子で甲府徳川家の綱豊(のちの家宣)に決ります。綱吉は1709年(宝永6年)1月10日64歳で死去しました。
綱吉の治世の評価の低さには晩年に頻発した不幸も重なっています。1695年(元禄8年)頃から始まった奥州の飢饉、1698年(元禄11年)の勅額大火、1703年(元禄16年)の元禄地震、1704年(宝永元年)前後の浅間山噴火、諸国の洪水、1707年(宝永4年)の宝永地震と富士山噴火、1708年(宝永5年)の京都大火などです。当時はこうした天変地異は、君主に徳が無いために起こると捉える風潮がありました。
綱吉の前半における幕政には、享保の改革を行った8代将軍吉宗が敬愛の念を抱き、綱吉の定めた天和令をそのまま「武家諸法度」として採用するなど、綱吉の前期の治世を範とした政策が多くみられます。
治世とはずれますが、歴代の将軍の中で綱吉は「能狂」と言われるほど能を愛好しました。自ら能を舞って人に見せることを好み、側近、諸大名に能を舞うことを強制し、能役者の追放、登用、また流派を超えての移籍などを繰り返し、能役者を士分に取り立て、稀曲・珍曲を見ることを好んで、廃曲となっていた多くの曲を復活させたことにも表われています。
将軍就任後間もない1681年(延宝9年)2月桂昌院のために催した能で、自ら「船弁慶」「猩々」を舞い、年を追うごとに自身が舞う頻度が増し、寵臣邸や寺社へ赴く際には儒学の講義に続いて能を舞うことが常で、1687年(元禄10年)には71番の能、150番以上の舞囃子を舞いました。諸大名や公家も、追従として将軍の能を所望したと云われます。
綱吉の時代に復活した曲は41番にも及びました。そのうち20番は現在まで各流派で演じられていて、中には「雨月」「大原御幸」「蝉丸」など現在高く評価されている曲が含まれ、これは「怪我の功名」と云われています。
生類憐れみの令は1本の成文法ではなく、綱吉によって生類を憐れむことを趣旨として制定された諸法令の総称です。保護の対象は、捨て子や病人、高齢者、動物で、対象とされた動物は、犬、猫、鳥、魚類、貝類、昆虫などに及びました。漁師は漁を許容されていますが、1685年(貞享2年)から江戸城では、鳥・貝・エビを料理に使うことを禁じています。
一連の生類憐れみ政策の始まりは、母の寵愛していた隆光僧正の言を採用したものでした。1682年(天和2年)10月犬を虐殺した者を極刑にした例が最初とされていますが、1679年(寛文10年)にも許可なく犬を殺すものは追放や流罪に処されており、各藩でも犬殺しは重罪でした。
いざ犬を収容してみると江戸では10万頭以上になり、犬を収容する施設は「御囲」(おかこい)と呼ばれ、中野、四谷、大久保などにありました。特に中野周辺にあった施設は16万坪、東京ドーム20個分の面積があり、毎日6,000人が働いていたといいます。
1683年(天和3年)綱吉の子の徳松が5歳で病死したことは、綱吉の生類憐れみの念を助長したとみられ、1709年(宝永6年)正月綱吉は死に臨んで世嗣の家宣に、自分の死後も生類憐みの政策を継続するよう言い残しましたが、家宣は綱吉の死去と同じ月の内に犬小屋廃止の方針を公布し、多くの規制も順次廃止されていきました。
新井白石は「折たく柴の記」などで生類憐れみ政策を批判し、戸田茂睡も「御当代記」で批判、これらの批判は生類憐れみの令の「天下の悪法」との評価を高めました。
現代における綱吉の評価は、テレビドラマの影響を受けているとされます。「忠臣蔵」では、吉良上野介の内匠頭へ悪態の結果で刃傷に及んだ浅野内匠頭に切腹を命じ、上野介の罪を問わなかった綱吉の否定的イメージが評価を下げています。
「水戸黄門」の中でも悪役を割り当てられていますが、徳川光圀には生類憐れみの令に抗議して、犬の毛皮を送った逸話を中心に綱吉に直言した記録がいくつかあります。
1980年代以降綱吉の治世の再検討が行われていて、生類憐れみの令は儒教に基づく文治政治の一環で、「捨て子禁止令」(1690年)が綱吉の死後も続いたことは、子どもを遺棄することが許されない社会への転換点となったとして評価されています。
江戸時代の2大文化は前期の元禄時代の上方文化と、後期の文化文政時代(1804年~1830年)に江戸中心に発展した化政文化です。元禄時代は文化の発展が高く評価される面と、生類憐れみの令で著しく評価が下がる両面を持ち併せていますが、上流階級のものであった我が国の文化が、一般大衆の文化に代わったことが元禄文化の一番の歴史的な意義でしょう。