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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

元禄文化

2023-05-25 06:17:22 | 日記

元禄時代は265年間続いた江戸時代のなかで、良い意味でも、悪い意味でも、非常に特異な時代でした。上方を中心とした「元禄文化」が良い意味とすれば、「生類憐みの令」は悪い意味の最たるものです。

江戸幕府開設時の運営体制は徳川家の家政を踏襲したものでしたが、1633年(寛永10年)頃「老中」「若年寄」などの制度を確立し、豊臣政権時代に家康の同僚であった大名たちは、外様大名として関東や近畿の要地からは遠ざけられ、幕政に関与することはなくなりました。

徳川氏一門の親藩大名にも幕政には関与させず、譜代大名や旗本によって運営されます。大名たちは武家諸法度によって厳しく統制され、朝廷も禁中並公家諸法度に縛られて京都所司代に厳しく監視されました。

戦国時代が終わり我が国に平和が訪れて新田開発が各地で行われ、経済が爆発的に発展して高度成長時代が始まりました。鎖国によって長崎で中国、オランダと対馬藩を介して李氏朝鮮と交流した以外は、国内での自給自足経済が形成され、全国と各藩の経済の複合的システムが出来上がり、各地の特産品が大坂に集中し全国に拡がりました。

元禄時代より前の日本の文化は、公家や大名、豪商などの上流社会の文化でした。町人が経済力をつけ、文学や絵画、演芸など多くの分野で活躍したのが元禄文化です。元禄文化の栄えた大阪は全国の商業の中心都市で、大阪商人の気風が強く影響を与えました。

町人の生活を描いた浮世草子が好まれ、井原西鶴が「日本永代蔵」や「世間胸算用」を表し「好色一代男」で色恋に明け暮れる男をテーマにしました。五七五で季節を句にする俳諧は、連歌を元に松尾芭蕉によって生み出され、芭蕉は「古池や 蛙飛びこむ 水の音」などの多くの句を作り、諸国を旅して、その様子を「奥の細道」にまとめました。

尾形光琳は王朝時代の古典を学んで明快で装飾的な絵画を残し、その非凡な意匠感覚は「光琳模様」という語を生み、現代に至るまで絵画、工芸、意匠に大きな影響を与えています。

燕子花図(かきつばたず)屏風 尾形光琳

江戸時代初期から流行った「浮世絵」は安土桃山時代の大和絵を源流にもちますが、庶民的な風俗画として町人の間で安価に広く受け入れられ、一筆書きに始まった浮世絵は版画として印刷され、菱川師宣らによって広められました。

三味線の伴奏であやつり人形を動かし、節をつけて語る「人形浄瑠璃」が大阪や京都ではやり、人形浄瑠璃の脚本家では近松門左衛門が有名で、近松の名作には「曽根崎心中」や「国性爺合戦」などがあります。

歌舞伎の元祖は出雲阿国(いずものおくに)の「かぶき踊」とされていますが、江戸時代には男性の演じる演劇に変わって、元禄年間を中心に歌舞伎が飛躍的な発展を遂げました。

この時期の特筆すべき役者に、荒事芸を演じて評判を得た江戸の初代市川團十郎や「やつし事」を得意として評判を得た京の初代坂田藤十郎がいます。「暫」(しばらく)は團十郎が演じた荒事の代表的演目で、後に市川家のお家芸「歌舞伎十八番」の一つに選ばれました。

主役が「しばらく、しばらく」と言いながら登場し、悪役が善良な人々を殺そうとする場面で人々を救う、単純明快な筋書きです。特徴的な「隈取」(くまどり)や、悪役を追い払った後に見せる豪快な「元禄見得」(みえ)が、この作品の見どころです。

「暫」(しばらく)の主人公、鎌倉権五郎(かまくらごんごろう)

医学や天文学などの実用的な学問もこの時代に発展し、科学技術が大きく進歩しました。印刷、出版技術が向上して書物や版画の大量生産が可能になり、誰もが安価に本や絵に親しめるようになったのも元禄文化の要因でした。

元禄時代は徳川綱吉が5代将軍であった時期に重なります。綱吉は「生類憐みの令」(1687年)で悪名高いのですが、戦のない社会で武士が秩序を維持するためには学問が大切と考え、儒学を奨励しました。暮らしが安定した町人の間にも学問が広まり、寺子屋教育で庶民が読み書きのできる世の中になります。

綱吉は3代将軍家光の四男として1646年(正保3年)1月8日に江戸城で生まれました。幼名は徳松で、1651年(慶安4年)4月三兄の長松とともに15万石を領し、上野館林藩初代藩主となります。

1653年(承応2年)8月2人が元服して長松は「綱重」徳松は「綱吉」と名乗ります。綱吉は1661年(寛文元年)8月所領25万石の上野館林藩主となりますが江戸在住で、家臣の8割も神田の御殿に詰めており、生涯で館林に立ち寄ったのは寛文3年の将軍家綱に従った日光詣での帰路のみでした。

1680年(延宝8年)5月4代将軍家綱に跡継ぎの男子がなく、綱吉が家綱の養嗣子となり、同月家綱が40歳で死去して綱吉が5代将軍の宣下を受けます。綱吉は家綱時代の大老酒井忠清を廃し、綱吉の将軍職就任に功労のあった堀田正俊を大老にしました。

綱吉は堀田正俊を片腕として処分が確定していた越後高田藩の継承問題を裁定し直したり、諸藩の政治を監査するなど、積極的に政治に乗り出して「左様せい様」と陰口された家綱時代に下落した、将軍の権威の向上に努めました。

幕府の会計監査に勘定吟味役を設置して有能な小身旗本の登用をねらい、荻原重秀もここから登用され、外様大名の一部にも幕閣への登用がみられました。

綱吉は戦国時代の殺伐とした気風を排除し、徳を重んずる文治政治を推進しましたが、これには父家光が叩き込んだ儒学が影響しています。綱吉は四書や易経を幕臣に講義したほか、湯島聖堂を建立するなど大変学問好きな将軍でした。

綱吉の儒学を重んじる姿勢は新井白石・室鳩巣・荻生徂徠・雨森芳洲・山鹿素行らの学者を輩出するきっかけになり、この時代に儒学が隆盛を極めました。

歴代将軍の中で尊皇心が厚く、御料(皇室領)を1万石から3万石に増額し、大和国と河内国一帯の66陵の御陵を巨額な資金で修復、公家たちの所領もおおむね綱吉時代に倍増しています。

綱吉の治世の前半は「天和の治」として評価されていますが、1684年(貞享元年)堀田正俊が若年寄稲葉正休に刺殺され、以後大老を置かずに側用人の牧野成貞、柳沢吉保らを重用して老中を遠ざけるようになります。

綱吉はその治世を通して46家の大名を改易もしくは減封し、1,297名の旗本、御家人を処罰します。旗本の5人に1人が何らかの処罰を受けたことになりますが、処罰の理由として際だって多いのが「勤務不良」(408名)と「故ありて」(315名)で、旗本の大量処罰は「封建官僚機構の整備」との評価もあります。

綱吉は儒学の孝に影響され、母の桂昌院に従一位という前例のない高位を朝廷より賜るよう計らいました。寵僧である護持院隆光を通じて母の桂昌院と共に奈良の唐招提寺に帰依し、南北朝時代と戦国時代の戦乱で荒廃した唐招提寺の復興に尽力し、元禄11年(1698年)には戒壇院を再興しました。

綱吉の治世は幕府の財政を悪化させ、勘定吟味役荻原重秀の献策により貨幣の改鋳を行いましたが、元禄金と元禄銀の品位を低下させたことが良質の旧貨を富裕層に退蔵させて、経済の混乱を招きました。

嫡男の徳松が死去し将軍後継問題が生じて、綱吉の娘婿である徳川綱教(紀州徳川家)が候補に上がりましたが、兄綱重の子で甲府徳川家の綱豊(のちの家宣)に決ります。綱吉は1709年(宝永6年)1月10日64歳で死去しました。

綱吉の治世の評価の低さには晩年に頻発した不幸も重なっています。1695年(元禄8年)頃から始まった奥州の飢饉、1698年(元禄11年)の勅額大火、1703年(元禄16年)の元禄地震、1704年(宝永元年)前後の浅間山噴火、諸国の洪水、1707年(宝永4年)の宝永地震と富士山噴火、1708年(宝永5年)の京都大火などです。当時はこうした天変地異は、君主に徳が無いために起こると捉える風潮がありました。

綱吉の前半における幕政には、享保の改革を行った8代将軍吉宗が敬愛の念を抱き、綱吉の定めた天和令をそのまま「武家諸法度」として採用するなど、綱吉の前期の治世を範とした政策が多くみられます。

治世とはずれますが、歴代の将軍の中で綱吉は「能狂」と言われるほど能を愛好しました。自ら能を舞って人に見せることを好み、側近、諸大名に能を舞うことを強制し、能役者の追放、登用、また流派を超えての移籍などを繰り返し、能役者を士分に取り立て、稀曲・珍曲を見ることを好んで、廃曲となっていた多くの曲を復活させたことにも表われています。

将軍就任後間もない1681年(延宝9年)2月桂昌院のために催した能で、自ら「船弁慶」「猩々」を舞い、年を追うごとに自身が舞う頻度が増し、寵臣邸や寺社へ赴く際には儒学の講義に続いて能を舞うことが常で、1687年(元禄10年)には71番の能、150番以上の舞囃子を舞いました。諸大名や公家も、追従として将軍の能を所望したと云われます。

綱吉の時代に復活した曲は41番にも及びました。そのうち20番は現在まで各流派で演じられていて、中には「雨月」「大原御幸」「蝉丸」など現在高く評価されている曲が含まれ、これは「怪我の功名」と云われています。

生類憐れみの令は1本の成文法ではなく、綱吉によって生類を憐れむことを趣旨として制定された諸法令の総称です。保護の対象は、捨て子や病人、高齢者、動物で、対象とされた動物は、犬、猫、鳥、魚類、貝類、昆虫などに及びました。漁師は漁を許容されていますが、1685年(貞享2年)から江戸城では、鳥・貝・エビを料理に使うことを禁じています。

一連の生類憐れみ政策の始まりは、母の寵愛していた隆光僧正の言を採用したものでした。1682年(天和2年)10月犬を虐殺した者を極刑にした例が最初とされていますが、1679年(寛文10年)にも許可なく犬を殺すものは追放や流罪に処されており、各藩でも犬殺しは重罪でした。

いざ犬を収容してみると江戸では10万頭以上になり、犬を収容する施設は「御囲」(おかこい)と呼ばれ、中野、四谷、大久保などにありました。特に中野周辺にあった施設は16万坪、東京ドーム20個分の面積があり、毎日6,000人が働いていたといいます。
1683年(天和3年)綱吉の子の徳松が5歳で病死したことは、綱吉の生類憐れみの念を助長したとみられ、1709年(宝永6年)正月綱吉は死に臨んで世嗣の家宣に、自分の死後も生類憐みの政策を継続するよう言い残しましたが、家宣は綱吉の死去と同じ月の内に犬小屋廃止の方針を公布し、多くの規制も順次廃止されていきました。

新井白石は「折たく柴の記」などで生類憐れみ政策を批判し、戸田茂睡も「御当代記」で批判、これらの批判は生類憐れみの令の「天下の悪法」との評価を高めました。

現代における綱吉の評価は、テレビドラマの影響を受けているとされます。「忠臣蔵」では、吉良上野介の内匠頭へ悪態の結果で刃傷に及んだ浅野内匠頭に切腹を命じ、上野介の罪を問わなかった綱吉の否定的イメージが評価を下げています。

「水戸黄門」の中でも悪役を割り当てられていますが、徳川光圀には生類憐れみの令に抗議して、犬の毛皮を送った逸話を中心に綱吉に直言した記録がいくつかあります。

1980年代以降綱吉の治世の再検討が行われていて、生類憐れみの令は儒教に基づく文治政治の一環で、「捨て子禁止令」(1690年)が綱吉の死後も続いたことは、子どもを遺棄することが許されない社会への転換点となったとして評価されています。

江戸時代の2大文化は前期の元禄時代の上方文化と、後期の文化文政時代(1804年~1830年)に江戸中心に発展した化政文化です。元禄時代は文化の発展が高く評価される面と、生類憐れみの令で著しく評価が下がる両面を持ち併せていますが、上流階級のものであった我が国の文化が、一般大衆の文化に代わったことが元禄文化の一番の歴史的な意義でしょう。

 


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60年安保闘争(2)

2023-05-11 06:21:40 | 日記

 

1960年(昭和35年)は、1951年に締結された日米安保条約が10年目の改定時期を迎え、条約の歪が次々と明るみに出て日本中で世論が沸騰し、永田町、国会周辺は「安保反対、改定を許すな」と、連日万余の民衆が取り囲み昼夜を分かたぬデモが続きました。

デモに加わっていた東大生樺美智子の死で闘争はさらに激化し、アメリカ大統領アイゼンハワーが来日予定を直前に中止せざるをえなくなる国際的事件に発展しました。

1960年1月19日に調印された新安保条約で、第6条に基づく「日米地位協定」が定めた運用実務者会議の「日米合同委員会」が発足すると、事実上、我が国の主権の上位に位置づけられる政策決定機関となりましたが、この日米合同委員会については鳩山由紀夫氏が首相当時に、会議の開催も会議の内容も、まったく、知らされなかったと語っている画像があります。

2023年3月23日山本太郎議員が参議院予算委員会で、戦後米国が日本全土を潜在的な基地と見なし、米国に提供を求められれば我が国が断れない関係にあることを指摘した上で、その主権放棄の決定権をもつ日米合同委員会について質しました。

同委員会が60年間で1,000回以上開催されながら、決定内容や議事録が原則非公表という「ブラックボックス」である実態が、国会で初めて指摘されたのです。

我が国が1960年安保闘争以降も、戦後の占領下と同じく米国の支配下にあることは、ようやく、多くの国民の知るところになって、60年安保闘争での樺美智子さんの死の真相も、50年の年月を経てようやく明らかになりました。

60年安保の国会前のデモ(朝日新聞社)

広島共立病院名誉院長の丸屋博さんは、1953年岡山大学医学部卒業後東京の代々木病院で9年間内科医として多忙な日々を送りましたが、1960年6月16日午後院長室に呼ばれ、中田友也副院長と坂本昭参議院議員から厳しい表情で、一冊の大学ノートを差し出されます。

「昨日15日夜国会構内で東大生の樺美智子さんが死んだ。今朝慶応大学法医学で司法解剖が行われたばかりで、中舘教授のプロトコール(口述筆記)がここにある。一語も漏らさずに記録してある。これを伝染病研究所の草野先生に読んでもらって、樺美智子さんの死因をまとめてもらいたい」と告げられます。

坂本議員は自由法曹団日本国民救援会の会長で、15日夜社会党議員として真っ先にこの事件を知り、16日の樺美智子さんの司法解剖に一高、東大医学部同期の代々木病院佐藤院長と2人で立ち会う積りで誘いに来られたのでした。

佐藤院長は中国に行っていてお留守、急遽、中田副院長が同行され、慶応大学法医学解剖室で中舘教授の了解を得て、樺美智子さんの解剖所見を一言も漏らさず二人で記録されたノートでした。

解剖は身長・体重の計測からはじまり、所定の手続きに従って慎重に進められ、中舘教授の一言、一言が記録され、後の写真撮影、顕微鏡所見などと併せて鑑定書がまとめられる手筈で、大学の記録係とは別に坂本、中田両先生が中館教授の口述を記録したのが丸屋さんに託されたノートでした。

当時丸屋さんは半日づつ週2回、東大伝染病研究所草野信夫教授の教室に通っていました。草野先生は坂本議員、佐藤院長と東大医学部の同期で、原爆投下直後に東大救援班の一員として広島入りし、原爆症の解明に多大な力量を発揮された病理学者です。

1953年6月ウイ―ンでの国際医師会議で草野先生が初めて報告された原爆症は、参加者全員に強い衝撃を与え、今日なお草野信夫著の「原爆症」が原爆に関わる医書の原点とされています。
丸屋さんは坂本、中田両先生の記録ノートの他に、自分が聞いた範囲での解剖現場での意見交換なども伝え、解剖学者としての草野先生の見解を伺いました。草野先生はしばらくじっと丸屋さんを見据えてからゆっくり意見を述べられ、そのメモに基づいて丸屋さんは樺さんの死因をまとめました。

草野先生は「死体の血液が暗赤色流動性であり、肺臓、脾臓、腎臓などの実質臓器にうっ血があり、皮膚、漿膜下、粘膜下、などに多数の溢血点がみとめられ、これらが窒息死によって起こったもの(窒息死の三徴候)であることは疑いのないところである。」

「窒息死の所見以外には、膵臓頭部の激しい出血、および前頸部筋肉内の出血性扼痕があった。」

「頸部筋肉内に扼痕が見つかり、通常この程度の扼痕で窒息を起こすなどは考えられないが、樺さんは膵臓の挫滅出血ですでに重篤の状態で、さらに追い討ちをかけるようなノド仏の両側の扼痕が示す、手で頚を絞められたことが直接の死因となった」と丸屋さんに諄々と説明されました。

中舘教授や助刀の中山助手を驚かせた膵臓頭部の激しい出血は、固い鈍器で樺さんの腹部へ加えられた強い衝撃が、鈍器と脊柱の間に挟まれた膵臓頭部に与えた外傷性出血で、途中で見学に来られた東大法医学の上野教授もこの出血を見て、仲舘教授に無言でうなずきながら腹を強く突く所作をし、しばらくして退室して行かれたと云う中田、坂本両先生の話がありました。

丸屋さんは翌日慶応大学法医学教室を訪ねて樺さんの臓器を見せてもらい、改めて冥福を祈って「樺さんは腹部に(警棒様の)鈍器で強い衝撃を受け、外傷性膵臓頭部出血と、さらに、扼頚による窒息で死亡した」と結論をまとめました。

丸屋さんが坂本議員に報告した樺さんの死因については、国民救援会が公式に発表した記事が朝日新聞に載っています。「樺美智子さんの司法解剖に立ち会った参議院議員坂本昭氏、代々木病院副院長中田友也氏は二十一日夕、樺さんの死因は窒息であり、ヤク死の疑いが強いと参議院会館で記者団に中間発表した。」

「両医博の発表は樺さんが死ぬまでの状況や、加害者については一言も触れていない。両医博は樺家の知人として、慶大教授中館久平医博の執刀する解剖に終始立会い、その所見をまとめたものである。」
「発表によると両医博は次の理由で結論を出したと云う。まぶたの裏の大きな出血ハンや、肺臓のうっ血など体内各所に窒息死の徴候がある。窒息の原因はノドボトケの両側に筋肉内出血があり、特に右側がひどいので右手による扼死の可能性がいちばん強い。胸を圧迫されたための窒息ということは立証する所見がない。」

「すい臓出血がある。きわめて珍しい症例で、比較的面積がせまく、かつ固い鈍体が強く作用した結果と認められるが、出血量が5.60立方センチという少量で、かつ、すい蔵の外へあふれ出ていないので、これが死因とは考えられない。」(1960.6.22 朝日新聞)

6月24日の朝日新聞には「職権乱用で日本社会党不当弾圧対策特別委員会は23日、小倉謙警視総監、伊林長松警視庁第四機動隊長、岡村端同第七方面隊長と、六・一五統一行動の当時、衆院南通用門付近にいた機動隊全員を殺人、職権乱用、傷害罪で東京地検に起訴した。」

「告発状によると、六月十五日午後五時頃、南通用門付近にいた請願中の学生数百人に警棒をふるって暴行、東大生樺美智子(22)さんをなぐったりけったりして倒したうえ、首を押さえつけ腹を強圧、結果として窒息死させた。また学生、学者、一般市民数百人に暴行、障害を加えた」と掲載されています。

同じ朝日新聞の紙面に「根拠のない虐殺であるとのパンフレットが、検察庁から配られている」と云う記事も載せられていました。

幾日か遅れて司法解剖をした慶応大学の中舘教授の鑑定書が提出されましたが「鈍器で腹部を突かれ膵臓挫滅出血、首を絞められた(頚部扼こん反応)」と書かれた第一次鑑定書は、検察の受け取るところとならず書き直しを迫られ、慶大法医の解剖の助刀を勤めた中山浄先生から丸屋さんに逐一連絡があって、訂正鑑定書では上記の死因に「人なだれによる胸腹部圧迫」が加えられたと知らされました。

「人なだれによる胸腹部の圧迫が窒息の原因」とは、6月15日に樺さんの死体を検察局で検視した監察医務院渡辺富雄医師が検察当局に提出した「監察医意見書」で述べていた死因です。渡辺監察医は16日の慶応大学の司法解剖には立ち会っていません。

第二次中館鑑定書は検察局の受け取るところとなりましたが、当局は東大法医学教室に再鑑定を依頼しました。上野教授は「人なだれによる圧迫死でも、窒息により内臓出血がおこる例がある」としたようで、この上野再鑑定書によって社会党の告訴は取り下げられ、樺美智子さんの死の真相は闇に葬られました。

検察局は中館、上野、いずれの鑑定書も公表せずに幕引きを図り、坂本、中田両先生は朝日ジャーナル1960.8.21号の「樺美智子さんの死因をめぐって」で、上野鑑定書の公表を求めましたが公表されていません。

6月15日の当夜、第四機動隊と「安保反対」をシュプレヒコールする素手の学生たちとの衝突があった際に、デモの後方で「人なだれ」が起きたとされていますが「人なだれによる死」は樺さんただ一人で、ほかに人なだれで怪我をしたりした学生がいたとは話題になっていません。

一人の学生が死に至るような激しい人なだれが、果たしてあったのでしょうか。坂本議員も樺さんの当夜の居場所が何処であったのかを何とか確認したいと、しきりに云って居られたようです。
当時、東大文学部学友会委員長として、全学連の幾百人かと一緒に国会で請願デモの指揮をとった金田晋氏が、広島大学で教鞭をとられた後、東亜大学総合人間・文化学部長になっておられることを、40年後に知った丸屋さんが、樺美智子さんの死に至る状況を少しでも明らかにしたいと金田先生に連絡し、折り返して返事が得られました。

「拝復、お便りと同封されていた現代詩手帖連載の御文を拝読しました。何度も読ませていただきました。樺美智子は今でも私の友人です。今でもあのときの顔が浮かんできます。」

「6月15日国会議事堂南通用門から追い出された直後に、死者は文学部の学生らしい、樺さんらしい、警察病院に行くようにというレポが入りました。私は当時東大文学部学友会委員長でした。彼女と同じ学部学生を連れて警察が用意した車で警察病院に駆けつけ、遺体のある部屋に通されて、私は樺さんであることを確認しました。」

「6月15日朝出発時には樺さんは、スラックス姿で文学部のアーケード下の集合場所に来てくれていました。桂寿一文学部長が私を学部長室に呼ばれ、君たちの気持ちはわかるが身体に気をつけるように、国会突入の方針と聞くが無茶をせぬようにという訓辞を受けました。」

「文学部には女子学生がずいぶんいましたが、国会近くにきた時には3名だけがデモの隊列に加わっていて、外側は男子学生が、中に女子学生が入りました。しかしそのような配慮も、南通用門を突破して内部で集会を開き、機動隊に押し返される中で何の意味があったでしょうか」

2000年12月22日丸屋さんは金田先生と直接会って、1960年6月15日の夜実際にどのようなことが起こったのか率直に尋ねることが出来、後日、その状況をしたためた手紙を受け取っています。

「60年6月15日は寒くて震えていたことを記憶しています。雨模様でした。服が濡れていました。お昼に東大文学部の部隊は法文2号館のアーケード下に集まり大学全体で気勢を上げて、国会議事堂に向かいました。国会議事堂南通用門までは近づくことが出来ましたが、門はしっかり閉ざされ、門の内側には装甲車が後ろ向けに置かれていました。」

「明治、中央と東大の部隊が南通用門を倒し、装甲車を引きずり出し、隊伍を整えて中に入っていきました。その時文学部は東大部隊の先頭で、3人の女子学生がこの隊伍に加わっていました。私は委員長で隊列を確認し、女子学生3人を機動隊からの攻撃から守るため、スクラムは8人か10人の隊列だったと思いますが、その中央に入ってもらいました。」

「3人は樺美智子さん、榎本暢子さん(のちに長崎姓、東大名誉教授)、福田瑞枝さんです。榎本、福田両名も頭部を負傷、一時病院に入院しました。私もまた先生との出会いによって、四十年前を今に呼び戻そうとしています。」

丸屋さんは40年抱き続けていた疑問が、やっと、やや明るみに出たことを感じ、樺さんと一緒に国会構内に入り、その夜の乱闘に巻き込まれたと思われる、榎本暢子さん、福田瑞枝さんにもいつか会って、その夜の状況を直接聞きたいものだと思っていました。

ご両親が代々木病院に訪ねて来られて、美智子の死の真相を明らかにしてほしいと頼まれましたが、当夜の学生と機動隊の激しく接触する中での樺さんの死が、人ナダレによるものとの風説の中で、国会構内の何処で起こったことなのか、事実は一つしかないでしょう。

何とかその事実を知りたいと手探りをしていた頃、坂本議員が「元警部補が入水自殺」「デモ隊警備でノイローゼ」と云う朝日新聞の記事を持って来られました。
安保改定反対闘争の警備に出動、激しいデモ隊とのやりとりにノイローゼ気味で辞表を出した警視庁の警官が、7月9日朝水死体(自殺)で見つかるという事件が起こったのです。

「東京・小松川署警ら第二係長の岡田理警部補(33)は6月13日部下の指導監督の能力を失ったとの理由で辞表を出し、去る5日辞職が認められたが6日に家出、9日朝戸田橋上流の荒川で水死体となって発見された。」

「警視庁と同署では現職者でないとして、詳しく云わないが、六月中はほとんど連日行われた全学連などの安保改定反対闘争の警備に出動しているうち疲労と精神的な悩みから、ノイローゼになっていたと云う。自殺の原因もそこにあるのではないかと云っている。」
「なお岡田警部補は去る十月警視庁交通二課から小松川署に転出、安保改定闘争中に第七方面本部構成の警備隊小隊長として第四機動隊に編入され警備に当たっていた。」(1960年7月9日 朝日新聞夕刊)

第四機動隊は当夜、国会突入の学生たちと正面衝突をした警備隊でした。坂本議員は「岡田警部補は小隊長として事件の目撃者であったのではないか。彼の日常を調べてもらったが、近所の人たちとの付き合いもよく、誠実な人で柔道の高段者であった。」

「七月はじめに辞職が決まり、翌日家出、三日後には水死というが、水死はおかしい。荒川の船頭組合に問い合わせても、その日、水死者があったことはないという。口封じに消されたのではないか。」と話していました。今となってはこれも闇の中と云わざるを得ません。

「いつのまにか歳月が過ぎましたが、その10年後の今年、思いがけず長崎暢子(榎本暢子)さんに会えるということで、僕の思いは一挙に五十年を溯ったと云っていいでしょう。金田先生が同道して直接広島共立病院へ来られると云われます。僕は虚心にお迎えしたいと思いました。」

2010年4月8日金田先生と長崎先生が広島共立病院へ丸屋さんを訪ねられ、長崎先生は「当日、樺さん、福田さんと女性3人、学友会のメンバーに囲まれて国会構内に入った。その後がどのように混乱したか、確かなことは警棒で腹を、胸を突かれ、頭を殴られてほとんど朦朧状態になったこと、救急車で運ばれる途中で気がついて、そのまま病院に搬入されたこと、すぐ前にいた樺さんがどうなったのか全くわかりませんでした」。

「その後の取り調べで自分の当夜の写真を見せられて確認をさせられたこと、当夜たくさんの写真が撮られていて、写真はそのうちの私だけを取り出して見せられたこと」などと話し「福田さんも警棒で突かれ、頭を殴られて入院し、樺さんもほとんど同じ状況であったろう。写真が機動隊側から撮影される位置は、すぐ前面が警備隊ということだ」と語りました。
金田先生は「最初は隊列の後方へとスクラムを組んでいましたが、国会突入後衝突してからは、僕らははがされ、はがされして、どのような状況になったのか、僕にも分かりません」と云います。いつのまにか樺さんたちは警備隊との衝突の前面に出されていたのでしょう。

検察側は国会構内の警備隊の目前で起こったことをデモ隊の後方で起こった「人ナダレによる」ものと断定し、司法解剖の行われた法医学鑑定書を、再鑑定などと学問解釈上の体裁をとりながら、あらゆる手段を用いて都合のよい結論を仕立て上げました。

「樺美智子さんの死はこうして隠蔽され不問に伏せられ、長崎暢子さんにお会いして、当夜の実情を聞き、僕は検察権力の巧みな隠蔽、捏造の事実を今更ながら、鳥肌の立つ思いで振り返っている。」

「安保改定時の核密約も、やっと白日の下に晒されました。歴史の流れが音を立てて足元から聞こえてくる。60年安保から50年、僕は樺俊雄先生ご夫妻の美智子の死の真相をと云うご依頼にやっと応えることができたと思う。」

これが60年安保闘争当時代々木病院の医師で、樺美智子さんの解剖結果をまとめることになった丸屋博先生の心からの叫びです。

 

 


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