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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

干物(ひもの)

2017-01-25 06:17:43 | 日記

 「干物(ひもの)」は魚介類乾物ですが、干すことで水分が減り表面に膜ができて保存性が高まり、独特の食感と旨味が形成されます。昔から魚が豊富にとれる地域でつくられてきました。

干物の天日乾燥には風が重要で、海風のような適度の湿度や温度が必要です。天日干しは1時間程度、あとは日陰で短時間干すことが多く、干したのち直ぐに販売されます。大量生産する工場では人工乾燥機が使われます。

干物は素干し、塩干し、煮干し、焼干し、凍乾品、燻乾品、節類などに分類されます。丸干しは内臓を取らずに生干しにしたもので、めざしが代表です。開き干しは内臓を取り去って開いて干したもので、アジサンマサバホッケカマスなど、魚種や地域によって背開きと腹開きがあります。

干物は干すことで、旨味成分のイノシン酸などが増えて旨味が増します。カマスには2種類あって、ヤマトカマスは「ミズカマス」と呼ばれ不味くて食べられませんが、充分に干し上げた干物はあきらかに風味が増して美味しくなります。

「アジの干物」は静岡県の沼津が全国の生産量の半分近くを誇り、土地の人は「あじのひもの」とは云わず、単に「ひらき」と云います。ひらきの味を決めるのは魚を漬け込む塩汁で、数十年続く秘伝の塩汁もあるそうです。

かつての干物は保存食として塩分も乾燥度も強かったのですが、1980年頃から生干しの塩味の薄いものに代わってきました。旅館で出される朝食のアジの干物も、生と変わらない身の柔らかいものになりましたが、私は昔ながらの身の締まった、塩味もあり風味の増した干物らしいものを好みます。

 「ちりめんじゃこ」はイワシ類の仔稚魚を食塩水で煮たのち、天日で干したものです。平らに広げて干した様子が、絹織物の縮緬のように見えるのでこの名があります。「ちりめんじゃこ」は関西の呼び名で、茹で上げた状態のものと乾燥させたものが売られています。関東では「シラス」と呼びます。

漁船が目の細かい網を引いて水揚げされた仔稚魚は、混っている異種の稚魚を取り除き、食塩水の大釜で短時間煮られます。釜から取り出したばかりの品を「釜揚げシラス」と呼び、冷凍して出荷されます。沼津に住んでいた時は「生シラス」にもありつけましたが、私は土地の人ほど生シラスには馴染めず、茹で上げた直後の釜揚げシラスが一番おいしいと思います。

「桜エビ」は100%駿河湾産です。桜エビ漁だけは歴史が浅く、1894年(明治27年)に由比で深く潜ってしまったアジ網で、偶然にも大量の桜エビが捕れたのが始まりです。桜エビのかき揚げは絶品ですが、生の桜エビは貴重品であっても生シラス同様、格別な珍味とまでは思えません。干した桜エビは保存性がよく、乾煎りすると香ばしさが引き立って、いろいろな料理でなかなかの味を出します。

「くさや」は伊豆諸島特産で、ムロアジを「くさや液」に浸けて天日干しにしたものです。強烈な匂いがします。くさや液は古いものほど旨味が出るとされ、200年も300年も続くものは製造業者の家宝です。私はくさやの独特の歯ごたえと特有の味を好んでいましたが、焼くと強烈な臭気が近所迷惑になるので、お茶漬け屋で食べるくらいでした。

くさやを焼いてほぐした瓶詰めが売られています。一度は試してみましたが焼き立ての風味はまったくなく、くさや好きの私にとってもくさいだけのしろもので食べる気にならず、以後、くさやは諦めました。

「からすみ」は日本には安土桃山時代から伝来したと云われ、ボラ卵巣を塩漬けし、塩抜きした後に天日干しで乾燥させたものです。江戸時代より肥前の「からすみ」、越前の「ウニ」、三河の「コノワタ」が日本の三大珍味とされています。薄く切り分けて炙った塩辛くねっとりとした味わいは、高級な酒の肴として珍重されます。

「棒鱈(ぼうだら)」はマダラ干物で、干鱈(ひだら)とも呼びます。塩を振らずに1~2ヶ月天日干しし、完全に乾燥したものは身が硬く棒状になります。江戸時代以前から東北北海道の保存食の代表格でした。北前船関西方面に運ばれ、正月料理やお盆料理の一品となりました。

水に浸してあく抜きをし、柔らかくなってから芋などと一緒に煮たり、うま煮甘露煮煮魚にします。海老芋と炊き合わせた「芋棒」は伝統的な京料理です。「芋棒」は丸山公園ではじめて食べましたが、その時はまだ「芋棒」の棒の意味は何だろうと思っていました。

「数の子」はニシンの卵を天日干しか、塩漬けにしたものです。干し数の子の方が高級とされます。水戻しや塩抜きをして食しますが、プチプチとした歯ごたえが楽しめます。今では大きな数の子が食べられていますが、子供の頃は一旦塩抜きして食べる前に酒と醤油に漬けなおした小指の先ほどの、茶色の数の子を大事に食べていました。

室町幕府13代将軍足利義輝に献上された記録があり、正月のおせち料理結納の際の縁起物として用いられてきましたが、昔は干し数の子だけで、塩数の子は1900年代(明治中期)に入ってからのものと云われます。

昭和の初期までは北海道のニシン漁が盛んで、漁師の網元は鰊御殿と呼ばれる大邸宅を構えていました。しかし1955年昭和30年)ごろから水揚げが激減し、日本産の数の子は貴重品となり輸入品が台頭します。

カナダアラスカスコットランドロシアで、地元では食べられずに廃棄されていた数の子が日本への輸出品になりました。1996年平成8年)以降、日本のニシンの水揚げも回復の兆しがみられています。

「身欠きニシン(みがきニシン)」はニシン干物です。冷蔵技術のない時代は内臓や頭を取って乾かすのが一番の保存法でした。1717年享保2年)の「松前蝦夷記」にニシンの加工品として「数の子」、「鯡身欠」が記述されています。

かつて北海道日本海側では春になるとニシンが押し寄せ、浜に積み上げられたニシンは数尺の高さになり、その上を人が往来するほどでした。ニシンは干物や鰊粕に加工され、身欠きニシンは保存に便利なタンパク源として各地に流通し、蝦夷地開拓の資金源になりました。

当時は安価で貧困層の食物でしたが、漁獲高の減少で現在は高級食材になっています。京都では身欠き鰊の煮物がおばんざいの定番であるほか、各地で身欠き鰊の煮物や鰊漬けが伝統料理となっています。京都の名物の「にしんそば」をはじめて食べた時の私の感想は、身欠き鰊が柔らかく煮含めてあって、歯ごたえがまったくなくされているのに、がっかりしたものでした。

「鰹節」の起源は、飛鳥時代701年大宝律令・賦役令で干しカツオの「堅魚」が献納品として指定され、太平洋岸の各地から献納された記録があります。1489年の「四条流包丁書」の中に「花鰹」の文字があり、カツオ産品を削ったものと考えられるので、現在の鰹節に近いものが出現したのは室町時代のようです。

江戸時代紀州印南浦の甚太郎と云う人が、煙でして魚の水分を除く燻乾法を考案し、現在の荒節に近いものが作られました。熊野節(くまのぶし)として人気を呼び、土佐藩は藩を挙げて熊野節の製法を導入したと云います。

土佐ではカビの発生に悩まされましたが、逆にカビを利用して乾燥させる方法が考案され、この改良土佐節(とさぶし)は、大坂や江戸までの輸送はもちろん長期保存に耐えて味もよいと評判を呼び、土佐節の全盛期を迎えます。

改良土佐節の製法は甚太郎の故郷に教えたほかは土佐藩の秘伝とされましたが、印南浦の土佐与一が1781年(安永10年)に安房へ、1801年享和元年)に伊豆へ広めてしまい、別の人が薩摩にも伝えて土佐節・薩摩節・伊豆節が三大名産品と呼ばれました。

鰹節は水分を失って硬い銘木のようになりカビも付かず、枯節・本枯節の完成となります。良質の鰹節どうしをぶつけると「キンキン」と乾いた音がします。完成までの期間は荒節が1か月程度、枯節が数か月以上で、本枯節では2年以上の長期熟成のものもあります。

食べる際にはかんなに似た削り器で「削り節」にしますが、子供の頃鰹節削りだけは母親の手伝をさせられた覚えがあります。和食のだしは鰹節と昆布が基本ですが、現在は削り節が販売されており、出し汁の素も種類が豊富なので、どの家庭でも削り器はもはや活躍してはいないでしょう。

「煮干し」は小魚を煮て干したもので、出し汁をとるのに使われるほか、乾煎りにしても食べられます。「イリコ」、「じゃこ」とも呼ばれます。子供の頃は味噌汁に出しのイリコがそのまま入っていて、体にいいと食べさせられていたものの、あまり嬉しくありませんでした。

「スルメ」はイカの内臓を除いて乾燥させた日本朝鮮半島中国南部および東南アジアで古くから用いられた長期保存食品です。日本では縁起物とされ、結納品にも用いられ寿留女と表記されます。古くからの素朴な酒の肴ですが、火で焙ってそのまま食べると非常に噛みづらいのはご承知の通りです。

「コンブ(昆布)」は親潮海域の海藻で、北海道沿岸を中心に大きな藻場を形成して海中の生態系を保つ働きもあります。生産量全体に占める養殖物の割合は35%(2005年度)で、天然物の95%以上を北海道が占めます。コンブの収穫は小舟から箱メガネで海中を見ながら、昆布の根元に竿を差し入れ巻き付けてねじり取ります。

昆布は出しをとるために日本料理では幅広く使われます。昆布の表面を薄く削ったとろろ昆布やおぼろ昆布が作られ、佃煮にもされます。昆布締め富山県、昆布巻きは山形県、松前漬けは北海道の郷土料理です。青森市盛岡市富山市が全国平均の1.4〜1.8倍を消費しています。昆布の佃煮の消費量の多いのは福井市大津市、富山市です。

池田菊苗1908年昆布の旨味成分がグルタミン酸であることを発見し、これが旨味調味料の「味の素」になりました。昆布は人にとって必須元素のヨウ素も多量に含有しています。

日本では縄文時代の遺跡から海藻の植物遺存体が見つかっており、続日本紀の715年 (霊亀元年)十月丁丑条には、蝦夷の須賀古麻比留が朝廷に献上している昆布は蝦夷地で取れると述べた記録があります。

江戸中期には北前船で運ばれ、大坂で問屋が発展しました。昆布は多くが上方で消費され、江戸へ回ったのはその残りです。琉球王朝は北前船から昆布を手に入れて中国への朝貢品としていましたが、朝貢に適さないものを土地で消費してきたので、沖縄の伝統料理にはよく用いられています。

島国の日本では干物は古くからずっと食べられ続けてきたのですが、まったく食べられなかった時期もあるのです。敗戦後の1945年(昭和20年)9月2日GHQに許可のないすべての日本船の移動が禁止され、27日「マッカーサー・ライン」と呼ばれる漁獲水域が設定されて、日本漁船の操業が限られます。

当時の食糧事情は極度に悪く魚の蛋白源も枯渇していました。東京ではホッケや小笠原捕鯨の鯨肉の配給が1,2度だけありましたが、今のように冷蔵、冷凍で品質が保たれてはいないので、食べられる鮮度ではありませんでした。

この食糧事情では暴動も起きかねないと云う連合国の共通認識もあり、マッカーサー・ラインは徐々にその範囲が拡大されましたが、撤廃されたのは1952年(昭和27年)4月サンフランシスコ講和条約発効の3日前です。

敗戦から7年後にやっと、周りを海に囲まれ魚資源に恵まれた島国の日本で、自由な漁業が復活したのです。70年経った現在、鮮魚を調理する主婦は減りましたが、焼きさえすればすぐに食べられる干物が、庶民の食の重要な担い手であるのは間違いなく、今後も我が国の干物文化は護られていくでしょう。

 


プレミアム・アウトレット

2017-01-18 06:15:53 | 日記

御殿場プレミアム・アウトレットは、2000年7月に開業した国内最大規模のアウトレットモールです。三菱地所・サイモンが「小田急御殿場ファミリーランド」の跡地に造った、日本国内で展開する「プレミアム・アウトレット」の1号店です。

静岡県御殿場市は1889年明治22年)以来1934年(昭和9年)に丹奈トンネルが開通するまで、東海道線が通っていました。現在、陸上自衛隊の3つの駐屯地と本州最大の東富士演習場在日米軍海兵隊のキャンプ富士があり、市域の3分の1が防衛関連で占められています。

古くからの避暑地ですが別荘を利用する人は少なく、東名高速のインターチェンジができてからも箱根や富士五湖への通過地点で、雄大な富士山と箱根外輪山の自然に恵まれている以外何もない街でした。

当時私は御殿場に住んでいましたので、次第に出来上がってくるモールに注目していましたが、開業した途端、正に突然、田舎に華やかな都会が出現したのです。閑散としていた御殿場の街がアウトレットに向かって東名を降りてくる車で、土曜、日曜には道路が動きのとれない状態になりました。

アウトレットモールは、1980年代アメリカで誕生した新しい小売業の形態です。メーカーのブランド名を表示した「メーカー品」や、百貨店などの高額商品を低価格で販売する複数の店舗を集めて、モールを形成したショッピングセンターです。

もともとアメリカの流通業界では、流行遅れになったブランドメーカーの衣料品アクセサリー、実用上はまったく問題のない欠格品、通販のクーリングオフ品などを処分するために、工場や倉庫の一角に「アウトレットストア」と呼ばれる在庫処分店舗が存在していました。これが転じて複数メーカーの直販店舗を一堂に集めるモールになったのです。

アウトレット店舗には、メーカーが自社企画品や自社生産品の直接販売を行う「ファクトリー・アウトレット」と、小売店がメーカーから仕入れた在庫品を販売する「リテール・アウトレット」の2種類があります。「ファクトリー・ アウトレット」では、販売するブランド名を掲示しメーカー直販であることを明示します。

アウトレットモールの多くは、高速道路や幹線道路沿いの郊外や観光地に立地しています。都市部の正規品流通店舗との競合を避けて、通常店舗の分布の少ない地域にアウトレット店を置いて遠くから買い物客を集め、土地代の安さによる安値販売を成立させています。

御殿場プレミアム・アウトレットは国内最大の店舗面積を誇りますが、海外の高級ブランドや国内の著名ブランドが210店舗揃うアウトレットです。アウトレット品の出ないエルメスやシャネル、流行に左右されないルイビトンを除いては、海外の高級ブランドのすべてが御殿場に揃ったと云ってもいいでしょう。

広大な敷地には「ウエストゾーン」と「イーストゾーン」が深い谷川を挟んで、歩道橋で結ばれています。ウエストゾーンはアウトレット全体の正面口もあり、海外の有名ブランドの比較的小型の店舗が綺羅を競っています。

バス乗り場があるのもウエストゾーンで、新宿駅、池袋駅、東京駅など都心から直行バスが運行されています。駐車場は約5,000台で、土曜、日曜に遠くの臨時駐車場から送り迎えするシャトルバスもこちらに着きます。  

イーストゾーンは東の正門周辺の高級ブランド店を除くと、ギャップ、ナイキ、アディダスなどのどちらかと云えば一般向けの大型の店舗と、セルフサービスで食事のできるフードバザール、沼津の魚河岸寿司、中華料理店があります。

1日滞在型の施設としては食事のできる店が意外になく、晴れた日は露店が繁盛して、通りで食事をすます人も多いのです。御殿場市内にも市民向けの小規模の食べ物屋はあっても、アウトレットに押し掛ける巨大な人数を賄える食べる場所がないのは困った問題です。

晴れた日のウエストゾーン、イーストゾーンを結ぶ橋の上は北に富士山、南に箱根の外輪山が真近に見え、どちらを見回しても絶景です。アウトレット内は平らで子供連れでも心配なく、ペットも同伴可で、ペットを連れて一日中ショッピングを楽しんでいる人もいます。ペットを抱いている人が多いのは、敷地内が広すぎて小型犬がくたびれてしまうのです。

東名の出口からも降りられない車が、一体、どのくらいの時間でアウトレットまでたどり着けていたのかは知りませんが、御殿場の住人の私はいつも地の利を活かして、誰も住んでいない別荘地の間を抜けてアウトレットの箱根寄りを迂回し、イーストゾーン正面の駐車場に楽々駐車していました。

 

プレミアムを謳うだけあって海外ブランドでなくても、国内のどの店舗も一度は入ってみたくなるような眼を惹く商品が数多く展示してありました。特に最初の頃の海外の有名ブランドのファクトリー・アウトレットでは、素人目にはまったく欠陥が見つからない立派な商品が、デパートの何分の1かの信じられない値段で並んでいたのです。

デパートの特選コーナーにはちょっと寄り付きにくい雰囲気もありますが、アウトレットでは人で込み合う歩道を歩いていて、いつの間にか海外の特選ブランドのお店に入ってしまっているのです。

私が買ったのはバリーのカンガルー革の超軽量のゴルフシューズや、トッズのしなやかなドライビングシューズ、ナイキの長尺ドライバーくらいのものでしたが、家内は、結構、掘り出し物を見つけては喜んで買っていました。御殿場のアウトレットはそれこそプレミアムで都会の味を手軽に満喫できるため、目的とする買い物がなくても休みの日になると、散歩がてらに出かけたものです。

三菱地所・サイモンは2016年9月7日、御殿場プレミアム・アウトレットの第4期増設計画を決め、エリア内に小田急電鉄がホテルと温泉を開業すると発表しました。ホテル・日帰り温泉施設は2019年冬、第4期増設エリアは2020年春の開業を目指します。
第4期増設では店舗面積で約1.6万㎡、飲食・サービス業を中心に約100店舗が新たに入り、2020年春の全面開業を目指すそうです。食べるところがないと云う御殿場の最大の弱点はこれで解消されるでしょう。

2000年7月に開業して以来、2003年の第2期増設、2008年の第3期増設を経て、店舗面積約44,600㎡、210店舗となっていますが、16年間で約1 億4,000万人(2000年~2015年度レジ客数合計)が利用しています。2015年度のテナント売上高は891億円、利用者は1,065万人でした。

軽井沢のショッピングモールは、長野県軽井沢町にある西武プロパティーズが運営するショッピングモールで、正式名称は軽井沢プリンスショッピングプラザです。アウトレットとは名乗っていないものの御殿場を超える220のショップ数を誇り、通常は高価格の品をアウトレット価格で揃えているとして、お買い得感を売りにしています。

1995年7月の「ウエスト」に続いて、1997年7月「イースト」が開業しました。北陸新幹線軽井沢駅とともにゴルフ場だった場所に設けられたため広大な芝生の広場があり、それを囲むようにEast・New East・New East Garden Mall・味の街・West・New Westの6つの店舗群が配置されています。

軽井沢の住人向けの店舗群ではなく、軽井沢に避暑に来る行楽客目当てのショッピングモールですが、海外の高級ブランドの出店はほとんどないので御殿場アウトレットのもつプレミアム感はありません。しかし2011年の売上高は352億円ですから、売り上げとしては結構健闘しています。

酒々井プレミアム・アウトレットは、千葉県酒々井町2013年4月に開業した、三菱地所・サイモンが運営する「プレミアム・アウトレット」では日本で9番目の施設です。東関東自動車道酒々井インターチェンジから1kmで成田国際空港から約10分程度と近いため、第1・第2ターミナルから高速バスが運航しており、外国人観光客をターゲットにしたサービス展開を行っています。

御殿場と同じ「プレミアム・アウトレット」系列でプレミアムを謳っていますが、御殿場を見慣れた私の目からは単なる若い人向けのショッピングセンターにしか見えず、都心から約50分の好立地で「旗艦店に育てたい」とのことですが、はたしてどんなものかと云う印象でした。

我が国には「プレミアム・アウトレット」( 三菱地所・サイモン)と、「三井アウトレットパーク」(三井不動産)の2大アウトレット系列がありますが、ただ安い商品を売るだけでは、国道沿いにどこにでもある巨大スーパーモールに差はつけられません。

2000年の御殿場のプレミアム・アウトレットの開業時は、我が国でのブランド志向の強い時代でした。海外ブランドのファクトリー・アウトレットのほとんどすべてを網羅し、なぜアウトレット品なのか、買い手には見当もつかない立派な商品を安く、時には正価の何分の1かの低価格で販売したのですから、多くの買い物客が訪れたのは当然でした。

正価の何分の1かの掘出し物は、さすがに1年後にはなくなっていたように思いますが、これだけ海外の有名ブランドの店舗を集約したところは他にはないのです。両手にいっぱいの紙袋を下げた幸せそうな人々と、その人々に連れられた子供たちやペットを眺めているだけでも、なかなか、楽しめる風景でした。

もう長いこと御殿場に行っていませんので、責任をもてるのは開業当時の御殿場プレミアム・アウトレットの盛況だけですが、プレミアム・アウトレットの誕生は、我が国の小売業に新たな一石を投じた輝かしいイベントだったと思います。

 

 

 


米国教育使節団報告書

2017-01-11 06:27:57 | 日記

1945年の日本は占領軍によって軍国主義的なもの、戦前・戦中の日本を肯定するもの、連合国軍の行為を批判するもの、原子爆弾や無差別空襲の被害に関するものなどは、ラジオ・新聞・雑誌・本に至るまで厳しく取り締まられました。これは戦前、戦中、戦後の歴史を封殺することに繋がり、特に戦後生まれの人々にとっては我が国の歴史に長い空白期間を生じました。

「米国教育使節団報告書」も歴史空白期間中の重要な文書ですが、教育使節団の勧告がどのような内容であったのか、占領下で日本側がいかに教育改革を模索したのかを知っておくことは大切です。

1946年1月マッカーサーは日本の教育の民主化を遂行するために、GHQと日本側関係者に積極的な助言を与える教育使節団を派遣するよう、アメリカ政府に要請しました。

同時に日本政府に「使節団ニ協力スベキ極メテ堪能ナル日本教育家ノ委員会ヲ任命スベキコト」を命じました。米国教育使節団と日本側教育家委員会との共同作業で、戦後の教育改革が始まることになったのです。

1945年10月に朝日新聞に5回にわたって「アメリカ民主主義」を連載した前田多門文相は、1946年1月公職追放で文部省を退きましたが、教育使節団の来日計画はGHQのダイクと文部省の前田との間で話し合われたものでした。

国務省の主導で、米国教育使節団候補者と国務省関係者がワシントンに集合して準備を開始しました。使節団派遣の最高責任者のベントン国務次官補は使節団に対し、「使節団の任務はポツダム宣言に表明された連合国軍の目的が最大限に実現されること」を強調しています。

教育使節団は1946年2月28日と3月1日にホノルルに到着し、日系米人や在日経験の豊かな知日家から、日本の教育の特色と改革すべき諸問題の講義を受けました。この講義は日本の教育の実際についての予備知識を得る上で、使節団にとって非常に重要な意味を持ちました。

教育使節団は3月3日にグアムに到着しました。ストッダード団長は団員に報告書作成の準備作業として、戦前、戦中の日本の教育の実態と問題点を明らかにすること、敗戦と占領の影響や連合軍最高司令官の指令を検討すること、日本人独特の性向の発見とその利用などを指示しています。

ワシントンから始まった事前準備は、ポツダム宣言の趣旨に基づくこと、日本側に主体性をもたせて教育改革を遂行することで一貫していました。1946年3月5日に米国教育使節18人が来日し、7日に9人が到着しました。

使節団は教育課程および教科書に関する委員会、教員養成委員会、教育行政と小中学校委員会、高等教育行政委員会の4つの分科会に分かれ、日本側教育家委員会の協力を得て、日本の教育制度の全般について研究を重ねました。

3月29日と30日にスタッダード団長とボウルズ団員の二人で総仕上げを行い、3月31日にマッカーサーに提出された米教育使節団報告書は、英文タイプで69ページ、日本語で9万字に及ぶものでした。

報告書は前書き、序論、第1章 日本の教育の目的および内容、第2章 国語の改革、第3章 初等および中等学校の教育行政、第4章 教授法と教師養成教育、第5章 成人教育、第6章 高等教育の構成です。

日本の教育の目的および内容では、カリキュラム、教科書、歴史・地理などの教科のあり方について、教育再建の基本原則が勧告されています。日本の教育制度は少数の持権階級ための教育と、大衆に別な型の教育を用意した高度に中央集権化された制度で、過激な国家主義・軍国主義が注入されなかつたとしても、近代の教育理論に従って当然改正されるべきものであるとしています。

国語の改革はすべての教育改革にとって最重要であるとし、「音標式表現法は修得が容易で、全学習過程を簡便にする」として、学校教育における漢字の弊害とローマ字の便を指摘し、漢字の全廃、音標式表現法の採用、ローマ字の採用を提唱し、この国民的大事業を遂行するために国語委員会や国語研究所を設けることを勧告しました。

初等および中等学校の教育行政では、教育行政を中央集権から地方分権に改めること、都道府県と市町村に公選による教育委員会を新たに設け、文部省の権限を大幅に削減することを勧告しました。

学制に関しては初等学校六年・下級中等学校三年・上級中等学校三年と云う六・三・三制の単線型の学校系統にあらため、このうち九ゕ年を無償の義務教育とし男女共学とすることを提案します。

教育の基本原理として、国民の利益を国家の利益に従属させてはならず、教育を受ける機会は個人の能力に応じて、性、信条の如何にかかわらず、すべての人々に等しく与えられるべきものとしました。

教授法と教師養成教育では、教師が一方的に教え込む注入伝達を中心とした画一的な教授法を改め、生徒の個人差を認め、個性を伸ばし、民主的な社会性を育成する教育方法を説き、とくに社会への参加は民主主義的な行動の経験によって学ばなければならないとして、社会科の導入を示唆しています。

成人教育では夜間教室や公開講座の普及、図書館の増設、科学・美術・産業博物館の設置、そのほか講演会・討論会・懇談会の開催などを提案しています。戦後の日本で民主教育を促進する上での成人教育の果たす役割の重要性を考え、とくに成人教育を勧告したものです。

高等教育では、研究の自由と大学の自治を勧告しています。高等教育制度の基本原則を高等教育を受ける機会の拡大におき、高等教育は少数者の特権ではなく、多数者の機会とならなくてはならないとしました。

米国教育使節団の来日とその報告書は戦後の教育改革を方向付けるとともに、日本側の教育改革の努力をさらに奨励することになりました。日本側教育家委員会は占領下という厳しい状況の下で、日本側の自主的改革案を模索したのです。

「漢字は早晩全廃され、音標式表現法が採用されるべきものと信ずる」と使節団は主張し、小学校の教科書にローマ字の併用を義務付ける勧告草案を準備しました。しかしこの主張には日本側教育家委員会が応ぜず、最終報告書ではこの勧告は削除され、当用漢字と現代かなづかいが制定されました。言語改革は米教育使節団が日本側に「譲歩」したのです。

六・三・三制の学制改革は教育使節団がもたらした最大の変革でしたが、この問題を検討していた委員会の3月23日の草案では、我が国の従来の六・五制の学制をそのまま採用し、このうち九ヵ年を義務制とすべきとしていました。最終報告書が完成したのが3月30日ですから、使節団は一週間で六・五制から六・三・三制に変更したことになります。

1975年サンケイ新聞の「米極秘文書特別取材班」が、米国国立公文書館のGHQ資料の中で見出した「教育改革建議の要旨」と云う文書の中で、この辺の事情が明らかになりました。米委員会では男女共学で義務制の八年生小学校、その上に三年制の中学校と女子中学校を設ける八・三制が検討されていたのですが、草案では八・三制ではなく、戦前の六・五制をそのまま戦後の学制として導入することにしていたのです。

日本側は旧来の学校体系の中で、小学校の高等科と青年学校が正しく扱われておらず、小学校六ヵ年を終了した者すべてが中等教育を受けるためには、高等小学校と青年学校を中等学校と同等にした新しい中等教育機関を設けることが必要と考えていました。

3月21日日本側教育家委員長南原繁はスタッダード委員長と極秘に会談をもち、南原は日本の学校制度の再建にアメリカの単線型学校制度の導入を勧告するよう示唆しました。戦後の財政困難下にもかかわらず日本側がひそかに米委員会に対して六・三・三制の導入をうながした背景には、これまでの中等教育制度の不備を是正したい目論見があったのです。

1946年三月末、米国教育使節団報告書は六・三・三制の学校体系を決定しました。一週間の短期間で行われたこの改革方針の変更に南原委員長をはじめ日本側関係者の果たした役割は、極めて、大きいものがあったと云えます。

戦後の教育改革は、すべて占領軍からの「押しつけ」であったと云う観念を生みましたが、占領軍からは、当然、一方的に改革が押しつけられると云う先入観があったためです。一部の教育研究者には、戦後教育改革は日本側の自主的改革に基づくところが大きいとする立場の者がいましたが、これを立証することは困難でした。

米国教育使節団に協力した日本側教育家委員会の果たした役割が、これまで正当に評価されなかったのは、検証できる資料が制約された一方で、日本側教育家委員会も国民の批判を恐れて、すべて、アメリカ側の勧告であるかのように装ったことにも起因すると思われます。

日本占領は教育分野だけに限られたものではなく、政治、経済、社会などすべての分野におけるものでした。そこでの占領形態は戦前からの連続を認めたものもあれば、占領軍と日本側の協力で戦前からの連続と断絶との両面をもつもの、また占領軍による戦前からの完全な断絶の形態がありました。

日本の戦後教育は米国教育使節団報告書によって方向づけされましたが、六・三・三制の採用はその最大の方向づけでした。その六・三・三制が占領下の厳しい状況下で、実は、従来の中等教育制度のひずみを是正すべく、日本側が粘り強く働きかけたものであることは、日本国民が知っておくべき戦後史の大切な一章です。

教科書を横書きとしてローマ字を取り入れ、漸次ローマ字文を本文として漢字を全廃するとした米国教育使節団の強硬な意見に、日本側教育家委員会が強く反対し、最終的に報告書からこの勧告が削除されたのは、報告書からは読み取れない大きな問題でした。

現在ではすべての文書の作成が、手書きから電子機器への入力に変わり、文章作成は「かな」を用い、作成された文章には「漢字」が使われています。文意を早く正確に読みとれる表意文字としての漢字の価値は極めて高く、米国教育委員会が指摘した漢字の非効率性は、デジタル時代になってみると効率性でしかなくなりました。

漢民族の中国を除いては、漢字を使用している国は日本しかありません。もし日本側の強硬な反対がなければ我が国も漢字の全廃に追い込まれ、我が国の有史以来の漢字文化と現代文化との繋がりが断絶される恐れがあったのです。これを阻止した日本側教育家委員会の功績は、六・三・三制の学制改革以上に大きなものと評価すべきでしょう。


謹賀新年2017

2017-01-04 06:15:30 | 日記

明けましておめでとうございます。 

 昨年は11月に関東に真冬並みの強い寒気が流れ込み、24日には東京都心で「初雪」を観測し、1962年以来54年ぶりの早い雪になりました。大雪の到来が紅葉の季節を追い越し、各地で紅葉と雪の絶好の被写体が生まれました。 

12月下旬には15度を超える日もあり、ヨーロッパや北米大陸でも数日間の間に10度を超える、時には20度にも及ぶ激しい寒暖の差が、繰り返し起こっています。これは北極の氷が解けて北極圏の温度が上昇し、緯度の低い地域との気温差が減って、このことが偏西風の南北への著しい蛇行を招き、冷たい空気と暖かい空気が交互に訪れるようになった結果です。 

11月4日地球温暖化対策の新しい国際ルール、COP21の「パリ協定」が発効しました。日本はTPPの国会承認を優先したため「パリ協定」の批准が間に合わず、COP22での「パリ協定」発効後の国際的なルールづくりには、オブザーバーでの出席を余儀なくされました。 

国会審議が優先されたTPPは、米国の次期大統領に決まったトランプ氏が11月21日、選挙中の公約通り就任初日にTPPからの離脱を通告する考えを改めて明らかにし、成立の可能性がなくなりました。

TPPは原則非公開として交渉経過が公開されず、まったく内容が知らされないままで大筋合意の署名に至り、大筋合意の日本語の正文は作成されていません。日本語の正文がなければ合意の内容についての日本語の解釈は保証されないのです。

日本政府は農業問題だけを懸案として、農水省から第3章の仮訳を公開しただけで、米国内で一番の問題とされているISDS条項には言及せず、我が国がTPPの成立を先導するのだとして国会の採決を強行しました。成立の可能性が消えたことは我が国にとって幸いでした。

世界は今「グローバル化」が進んでいます。社会的、経済的な関連性が地球規模に拡大していますが、「グローバリゼーション」を世界史的に見れば、世界各地に植民地を作ったヨーロッパ諸国の帝国主義によって始まったと云っていいでしょう。

第二次世界大戦が終わるとアメリカを筆頭に多国籍企業が急成長し、現代の「グローバリゼーション」が始まりました。1991年ソ連が崩壊してアメリカ単独覇権が確立されると一層の強まりを見せた現代の「グローバリゼーション」は、実は、「アメリカナイゼーション」です。

世界中の男性が背広を着、男女とも夏はTシャツとジーンズ、冬はダウンが日常着となりました。ソーラ-発電で送電線のない土地でスマホが使え、世界と情報が共有でき、銀行がなくても決済ができる時代になりました。この意味でのユニバーサル化は歓迎なのですが、自然の成り行きのユニバーサル化だけがグローバリゼーションではないのです。

グローバル化が認められるものには、貿易の発展、資本の国際的流動性の増加、国際金融システムの発展、多国籍企業による世界経済の支配体制の高まり、世界的な物流ネットワークの発達、インターネット通信衛星による国境を越えた情報化、地球規模で適用される標準・基準の増加などがあります。

グローバリゼーションはIT化によって急加速されましたが、ひとたび利潤が絡むと世界規模での熾烈な競争が起こり、強大な力を持つ多国籍企業による世界的支配、それに伴う国内産業の衰退と失業者の増大など世界中に様々な社会問題が起きて、一国では解決できないものになっています。

TPPによるグローバル化は、保護主義の対極にある開かれた自由市場を装っていますが、実は、一部の世界的大企業の利益にのみ奉仕する新たな帝国主義の台頭と云えるでしょう。

America Firstを唱えるトランプ新大統領が、今後、実際にどのような世界政策をとるのかは分かりませんが、世界の警察官気取りで世界各国に及ぼしてきた米国の様々な内政干渉が少しでも減れば、米政府が昔のモンロー主義にまで戻らなくても、帝国主義的グローバリゼーションは少しは阻止できるかもしれません。

英国はEU離脱を決断しました。我が国もロシアとの平和条約を一刻も早く締結して第二次世界大戦を終わらせ、真の独立国としてアメリカの占領下から離脱する決断をすべきです。

日ロ平和条約の締結の障害となっている我が国の4島返還の論拠は、北方4島が日本固有の領土であったと云うものです。しかしその論拠は成り立ちません。1855年の日露和親条約では確かに択捉島と、択捉島の先の得撫島(うるっぷとう)の間を国境線としましたが、1875年日本とロシアは樺太・千島交換条約を結び、千島列島全部を日本領、樺太をロシア領とします。

後の日露戦争で樺太の南半分が日本の領土となりましたが、第二次世界大戦当時の千島列島は1875年以来、すべて、日本領だったのです。日本は1945年8月14日ポツダム宣言を受諾し、9月2日連合国が作成した降伏文書に調印しました。ポツダム宣言の第8条には、日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国と、われらの決定した諸小島に限られなければならないと記されています。

瀬戸内海の島々は本州、四国、九州にあたらなくてもの日本の主権が及ぶ諸小島であるのに問題はないでしょう。一方千島は1951年のサンフランシスコ平和条約 第二章 第二条(c)で、日本国は千島列島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄しています。日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏したのです。

1965年10月鳩山一郎首相とブルガーニン首相が署名し12月12日に発効した「日ソ共同宣言」に、日ソ両国は引き続き平和条約締結交渉を行い、条約締結後にソ連は日本へ歯舞群島と色丹島を引き渡すと明記されたのは、鳩山首相の功績でしょう。

2001年に日ロ両国が発表した「イルクーツク声明」の中でも、日ソ共同宣言の法的有効性をロシアが引き継ぐと文書で確認されています。これは日本領の2島を返還するのではなく、ソ連領の2島を日本に好意的に譲渡することを意味します。日米安保条約の下で、譲渡した2島に米軍基地が建設される可能性があるとすればロシアの譲渡はありえませんが、日ロ平和条約の締結を先行させなければ何も始まりません。

英語のUnited Nationsを我が国では国際連合と訳していて、戦前の国際連盟のような各国横並びの国際組織と受け取られていますが、United Nations は連合国です。第二次世界大戦中にドイツが既に降伏し、日本が唯一の交戦相手国だった1945年の4月から6月に、大戦終了後に旧敵国が再び戦争を起こさないように、アメリカ、イギリスなどの連合国の50か国が憲章を作成して署名し、戦後の10月24日にもう1か国が加わって発効したのが連合国憲章です。

我が国のUnited Nationsへの加入は、日ソ共同宣言締結後の1956年12月18日に実現しました。加盟国が193か国に増えた1995年に敵国条項が事実上死文化した状況で、第53条・第77条・第107条を憲章から削除する決議案が採択されましたが、この規定が削除されるためには国連加盟国の3分の2以上の批准が必要で、現状では削除されていません。

敵国条項の特色は2点あります。第53条では旧敵国に対して国連加盟国や地域機構は、安保理の許可なしに武力制裁を行使できます。連合国に加わった国の判断で旧敵国はいつ武力制裁されても、国連憲章の上では救済されないのです。

もう1点は第107条で、旧敵国に対する第二次世界大戦終結の際の取り決めが国連憲章に優先すると云うものです。ロシアは昨年12月にも、千島列島をロシアの領土と認めるのでなければ平和条約締結交渉に移れないと警告しています。 

安保条約によるアメリカの傘が必要だと考える人がいることを私も否定はしませんが、第二次世界大戦のような何年も続く大国同士の大戦争は、今後、起こりえないでしょう。大国同士のアナログの戦争が激化する前に、サイバー攻撃で一瞬にして勝敗は決するでしょう。 

我が国は無条件降伏した現実を、もう一度、確認する必要があります。日ロ平和条約を締結しないと第二次世界大戦は終結しないのです。大戦を終結させないと、アメリカの占領下からも抜け出せないのです。戦後70年を超えて、戦争の終結をうやむやにしていることは許されないでしょう。 

我が国では、とにかく、うやむやに済ませることが多すぎます。2017年が国際的にも、国内的にも物事をうやむやにせず、きっちり決着をつけていく年になっていくことを願っています。 

みなさまのご多幸をお祈りいたします。