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氷川丸 

2024-02-29 06:28:57 | 日記

「氷川丸」(ひかわまる)は日本郵船が1930年(昭和5年)に竣工させた12,000トン級貨客船で、船内各部の装飾は国内外の建築家やインテリア・デザイナーを集めてコンペティションを行い、フランスのマーク・シモン社が担当しました。

氷川丸 重要文化財

氷川丸は北太平洋のシアトル航路で運航されていましたが、1941年(昭和16年)11月21日海軍に徴用され、横須賀海軍工廠で海軍特設病院船に改装されます。

客室が病室となった他、二等食堂が第二病室として畳敷きになり、第五番艙中甲板が第三病室、第六番艙中甲板が第五病室に、三等食堂が手術室に転用されました。一等、二等ラウンジなどのアール・デコの装飾はそのまま残され、3回浮遊機雷に触れましたが小幅の修理に留まり、第二次世界大戦で生き残った唯一の大型客船です。

戦後は満州、台湾、中国、南洋諸島からの、750万人の日本人の内地引き揚げが必要になり、1年間南方の島々から2万の復員兵士を輸送し、満州の一般邦人の引揚げのためにコロ島と福岡の間を3往復しました。

2016年(平成28年)8月国の重要文化財に指定され、横浜港で博物館船として公開されます。

氷川丸の船名は大宮氷川神社由来で、船内の神棚には氷川神社の御祭神が祀られ、船内装飾に神社の神紋である「八雲」が用いられています。姉妹船の「日枝丸」は東京の日枝神社を「平安丸」は平安神宮を祀っています。

氷川神社神紋 1等客室階段手摺

日本郵船は、昭和初期に北太平洋で展開されていたアメリカとカナダの貨客船就航路線の競争に参加するため、明治末期から大正初期に造られた老朽船に代えうる新型船を必要としていました。

日本海軍は、ワシントン海軍軍縮条約で航空母艦の保有を制限されたため、平時は商船として運用し有事には軽空母に改造可能な大型貨客船を求め、日本郵船が既に発注済だったサンフランシスコ航路のための「浅間丸」型貨客船3隻は、有事での軽空母への改造が予定されていました。

日本郵船は浅間丸型に続いて1927年(昭和2年)欧州航路用2隻、南米航路用1隻、北米シアトル航路用3隻を建造することになり、横浜船渠がシアトル航路用2隻の建造を受注したのが氷川丸と日枝丸です。日本海軍はこの2隻も有事には軽空母にする予定でした。

氷川丸に詳しい元日本郵船専務嶋田武夫氏に依れば、氷川丸は総トン数11,622t、全長163.3m、船幅 20.12m、満載喫水 9.23m、B&W複動4サイクルディーゼル機関2基2軸、 出力11,000馬力を備え、試運転速力18.38ノットで、旅客定員は 1等79名、2等70名、3等140名、計289名、乗組員定員168名でした。

「海上人命安全のための国際条約」(SOLAS)を先取りした北太平洋の荒天に耐え得る安全設計で、優れた載貨能力と荷役装置、大型ディーゼル・エンジン、当時最先端の救命、防災設備や、振動、騒音の少ない電動甲板補機を特徴としました。

氷川丸は船首から船尾まで全通の二重底で、高さが2.4mないし2.7mの9層のデッキを持ち、中央に32mの長さの機関室があり、エンジンに直結する2本のシャフトが直径5mの2個の4翼プロペラを駆動、 16ノットの航海速力で横浜シアトル間を12日間で航走しました。

船体は6つの水密隔壁で7つの区画に仕切られ、機関室の前後に夫々3つの貨物倉があり、3番デッキは貨物倉、4番デッキは3等客室、5番デッキにはダイニングサロンと1等客室があり、5番デッキが水密の基準甲板を構成していて、それより上が上部構造で6番デッキがブリッジ、7番デッキは救命ボートと士官の居住区、8番デッキに船長室、9番デッキが操舵室になっていました。

当時の日本は造船関連産業がまだ未塾で、外板用の鋼材もイギリスからの輸入に頼っていて、氷川丸は通常よりも厚い18.3mm以上の外板を使用し、船首部分の内部構造には荒天時の波浪の強い衝撃を想定して、特別の水平桁による補強が施されました。 当時はまだ溶接技術はなく外板はすべてリベット締めです。

緊急時に電源が無くても、自重で降下させられる最新式の救命艇揚げ降ろし装置や、当時としては斬新なエンジン付きの救命ボートも装備し、食料、飲料水、信号用具、釣り道具などが積みこまれました。

11,622総トン、旅客定員289名の貨客船としては、貨物容積8,675t、載貨重量10,274tと抜群に大容量の貨物倉を有し、基準甲板全体に対するハッチの相対面積も浅間丸の2倍以上で、 荷役装置も戦後の日本郵船A型貨物船と同じく9ギャングの同時荷役が可能でした。

日本郵船の客船のインテリアは伝統的に英国王朝風でしたが、氷川丸は1925年のパリ万国博で発表された流行の最先端を行くアール・デコ様式を、1等船客用の公室、ダイニングサロン、スモーキングルーム、ラウンジ等に採用しました。

1等社交室

1等食堂

1等室の階段

氷川丸はSOLASの安全基準を先取りした水密区画構造、アール・デコ様式のインテリア、一流シェフによる料理の提供など、船体、サービスとも、当時の先端をいく良質なオーシャンライナーでした。

戦時中海軍病院船に徴用され、戦後も何度か改装された氷川丸ですが、特別室、社交室、喫煙室の家具や照明器具、階段の手すりにはアール・デコの意匠がそのまま残されています。

当時アール・デコをインテリアに採用したのは、大西洋でブルーリボンを競ったドイツの「ブレーメン」(1929年竣工)や「オイローパ」(1930年竣工)で、この新様式を全面的に取り入れた戦前の世界最大の豪華客船がフランスの「ノルマンディー」(1935年竣工)でした。

氷川丸は1928年(昭和3年)11月9日に起工、1929年9月30日に進水、1930年4月25日に竣工、5月8日に横浜から神戸へ向かい、13日に神戸を出帆、17日に横浜を出港しシアトルへ向かったのが処女航海です。

5月27日シアトル到着。当時アメリカではかなり反日感情が強くなっていましたが、シアトルでは3万人が見学に訪れました。氷川丸は6月17日にビクトリアを出港し、6月29日に横浜に到着、神戸を経由して7月6日に門司から上海を経て、7月12日香港に到着して処女航海を終えました。

1932年チャールズ・チャップリンが横浜からシアトルまで乗船しています。チャップリンは大西洋の豪華客船の雰囲気が嫌いで、欧州からアメリカへ帰る船旅は日本郵船の欧州航路の「諏訪丸」 と「照国丸」を乗り継ぎ、日本船の静かで家庭的なサービスが気に入って、太平洋も氷川丸で渡ることにしたのです。

1937年イギリス国王ジョージ6世の戴冠式に出席した秩父宮夫妻がビクトリアから横浜まで乗船、1939年アメリカ公演を行った宝塚少女歌劇団が帰国の際に乗っています。宝塚の一行はアメリカ本国の見分よりも、氷川丸の温かい心のこもった応接と静かな航海の日々の方がより印象的だったと、想い出話を残しています。

1941年(昭和16年)8月シアトル航路が休止され、9月から11月にかけて各地の海外在留邦人の引き揚げに客船が運航されました。10月20日氷川丸は北米へのユダヤ人216名を乗せて横浜からバンクーバー、シアトルへ向かい、復路で邦人364名を乗せて11月18日に横浜に戻りました。

1941年11月21日海軍に徴用され、12月1日から横須賀海軍工廠で改装されて海軍特設病院船となった氷川丸は、12月23日横須賀を出港、31日にルオット島に到着。ウェーク島攻略戦の負傷者を「海平丸」から収容し、1942年1月5日トラックに到着、その後マーシャル諸島各地を回って2月16日に横須賀に戻りました。

2月22日横須賀を出港してラバウルへ向かい、負傷者を収容後、トラック、グアム、サイパンを経て4月5日に横須賀に戻り、引き続きトラック、ブイン、フィンカロラ、ラバウルを訪れる航海が続きます。

病院船時代の氷川丸

1943年2月日本軍は餓島と云われたガダルカナル島から撤退しましたが、氷川丸は2月5日に横須賀を出港して17日にラバウルに着き患者662名を収容。トラックで病院船「朝日丸」から50名が移送され、ガダルカナル島から救出した370名はサイパンで降ろして、3月2日横須賀に戻ります。

9月9日横須賀出港の航海で10月3日にスラバヤ港外で船尾付近に触雷、10日の修理を要し、1944年7月1日横須賀出発の航海で7月15日メレヨン島ルオット水道で、磁器機雷2発が船首で爆発して一番船艙が浸水、ダバオで応急修理をしました。1945年1月17日横須賀出港の航海でも、2月22日にジョホール水道で船尾に3度目の触雷をし、これも磁器機雷で二重底の油槽、水槽に漏水が生じました。

病院船氷川丸は合計28回出動して3万名以上の傷病兵を運びましたが、終戦後、満州、台湾、中国、南洋諸島等から750万人の日本人を内地に引き揚げさせるため、1945年12月1日第二復員省横須賀地方復員局所管の特別輸送船になりました。

氷川丸は南方の島々からの2万人の兵士の復員輸送を1年間行ない、満州からの一般邦人の引揚げで4万5千人を日本へ運びました。1946年8月15日特別輸送船の任務を解かれて国内航路に復帰しました。

日本殉職船員顕彰会の記録では、第二次世界大戦で死亡した我が国の船員数は60,608名、戦没船数は7,240隻で、民間船には護衛がつかないことが多く、船員の死亡者6万人は当時の船員の43%に当たります。陸軍将兵の戦死率20%、海軍将兵の16%と比較して、船員の死亡率がいかに高いかが分かります。

戦後の1953年(昭和28年)氷川丸は11年ぶりにシアトル航路に復帰しました。最終航海は1960年(昭和35年)8月27日に横浜からシアトルへ向け出港し、10月1日に横浜に戻り、10月3日に神戸に到着したもので、太平洋横断238回で延べ25,000人の乗客を運んでいます。

氷川丸の保存を望む横浜市や横浜市民の声で、1960年12月に「宿泊施設を兼ねた観光船」となり、横浜船渠で大規模な補修が実施され「氷川丸マリンタワー株式会社」の所有となって、1961年(昭和36年)5月山下公園に係留され、ユースホステルや見学施設として運営されました。

船体はエメラルドグリーンに塗り替えられ、 船内で結婚式、ビアガーデン、ライブ、サロン・コンサート、パーティ、年越しカウントダウンなどの催事・イベントが行われましたが、1980年代後半日本郵船時代の黒い塗装に塗り直されています。

入場者数の減少が続き、氷川丸マリンタワーは2006年(平成18年)12月25日で運営を終了し、船体を日本郵船に譲渡、日本郵船は2007年8月より船体の修繕や内装の修復を行って、2008年4月25日竣工から78年目に「日本郵船氷川丸」の名称で一般公開を再開、毎日正午に汽笛を鳴らし、新年を迎える際にも汽笛を鳴らすのが慣例となりました。

氷川丸の船体の大規模修繕は1961年(昭和36年)以降実施されておらず老朽化が進行していますが、私企業が巨額の維持費を負担して遠洋航路の定期船を海上で保存しているのは、世界的にも珍しい重要文化財です。

1等特別室 リビングルーム

1等特別室 寝室

日本郵船の歴史上シアトル航路を開いたのは1896年(明治29年)で、その以前に北太平洋で定期航路を営んでいたのはアメリカの2社と英国の1社でした。  

1896年2月アメリカ北部を貫通するグレート・ノーザン鉄道から、同鉄道の太平洋岸の終点であるシアトルに向けて日本から定期航路を開き、旅客・貨物を相互に接続してはどうかと提案がありました。

当時人口35万のサンフランシスコに比し、シアトルは僅か6千の田舎町でしたが、同鉄道は大陸横断鉄道の中でシカゴへの最短距離を走っており、大圏コースのシアトル航路はサンフランシスコ航路より航海時間が1日短い利点があって、日本郵船はシアトル航路の開設に踏み切りました。シアトル市は本航路の開設を機に、米北西太平洋岸経由のアジア貿易で目覚ましい発展を遂げ、人口は現在100倍に増えています。

戦前のシアトル航路では、往航は外交官、軍人、留学生、貿易商等の業務渡航客が多数乗船しました。当初の主な貨物は、往航がニューヨーク向けの生糸、絹製品、緑茶等の雑貨で船倉の3分の1にも満たず、復航は日本、香港向けの綿花、綿製品、小麦粉、小麦等で満杯でした。

1953年(昭和28年)終戦後8年を経てシアトル航路に復帰することになった氷川丸は、三菱横浜造船所で大改装を行って12年振りに貨客船として就航します。

シアトル航路に復帰した氷川丸の出帆風景

日本の軽工業と対米貿易の発展で、往航は綿製品、陶器、玩具、クリスマス装飾品等の雑貨が増加した一方、復航では綿製品が減って木材、新聞紙、パルプ、ビールやウイスキー原料のモルト等が増加しましたが、貨物の大部分を占める小麦は不定期船のバラ積みに移行しました。

日本が高度経済成長を遂げた後は、往航では重化学工業製品の機械類、特に電気製品や自動車部品等が主な貨物となり、完成車は自動車専用船に、また復航の小麦、硫黄、石炭等はバルク・キャリヤーや大型の製鉄原料専用船により、それぞれ大量且つ効率的に運ばれるようになりました。

1960年(昭和35年)船令30才となった氷川丸は、シアトル航路での7年間に亘る46回の航海で15,800人の船客と輸出入物資を輸送し、惜しまれつつ引退しました。 

21世紀の現在、長距離の旅客の移動はすべてジェット機になってしまい、短距離移動のフェリーと超豪華クルーズ船を除いて客船の定期航路が世界中でなくなりました。一世紀前の最新鋭の客船として数々の創意工夫の凝らされた氷川丸は、重要文化財として、今なお特異な輝きを放っています。

 

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