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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

アフリカ大陸の植民地化

2023-03-30 06:26:02 | 日記

欧州列強の「帝国主義」による植民地獲得競争が強まったのは1870年代以降です。主役であったイギリスとフランスに対して出遅れたドイツやイタリアなどは未開のアフリカ大陸へ進出して、1900年には広大なアフリカ大陸のすべてが欧州列強によって完全に分割され尽くしました。

植民地によるアフリカの分割図

欧州勢のアフリカ大陸への進出は15世紀のポルトガル、スペインの進出に始まり、ムスリムや現地の王国との対立抗争を孕んで行われてきましたが、いずれも大陸沿岸部に限られていました。当時、欧州勢がアフリカに求めた奴隷や若干の産物などは、沿岸の拠点を通じて内陸から購入すれば事足りたのです。

1870年代初期に列強が注目していたのは中央アジアでした。南下を目指すロシアとインドに権益を持つイギリスが、トルキスタン、アフガニスタン、ペルシア、チベットを巡って奪い合いを演じました。

オスマン帝国や大清帝国などアジアの旧帝国の多くも関税自主権の放棄や治外法権、領事裁判権などを列強に認めさせられ、国内各地域の経済利権も握られて半植民地状況に陥っていきました。

1878年ベルギー国王レオポルド2世がコンゴの植民地化を目論み、探検家スタンレーが派遣されて現地勢力の長たちと様々な取り決めを結びました。その以前からコンゴ沿岸部の権益拡大を進めていてポルトガルは、ベルギーの急速なコンゴ進出に反発して1882年コンゴ川河口地域の主権を宣言します。

イギリスがポルトガルを支持し、フランスはベルギーを支持しピエール・ド・ブラザをアフリカ内陸部探検に派遣し、ドイツもポルトガルを支持せず各国の思惑が交錯する中で、アフリカを巡る一連の問題解決のための国際会議が開催されました。

ドイツ帝国のビスマルク首相が提唱した「ベルリン会議」が1884年11月から1885年2月まで開かれ、イギリス、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ベルギー、デンマーク、スペイン、アメリカ合衆国、フランス、イタリア、オランダ、ポルトガル、ロシア、スウェーデン、オスマン帝国の14か国が参加しました。

全7章、38条からなる「ベルリン協定」はコンゴ盆地に関する協定、奴隷貿易の禁止の申し合わせ、植民地分割に関する原則の取り決めに及び、レオポルド2世のコンゴ支配も会議の主要案件となりました。

コンゴ盆地に関しては地域の自由貿易と中立化、コンゴ川航行の自由が確認され、レオポルド2世の下にあるコンゴ国際協会のコンゴ盆地の統治権が認められて、コンゴ自由国が成立しました。

植民地分割に関しては沿岸部の植民地化の原則が確認され、最初に占領した国がその地域の領有権をもつこと、沿岸部を占領した国にはそれに続く内陸部の領有も認められることが決りました。

この会議を契機として列強のアフリカ分割が本格化し、列強間の植民地分割は地図の上での調整を交えて行われていきます。アフリカ南部にはオランダ系移民によるトランスヴァール共和国、オレンジ自由国の2国がありましたが、ゴールドラッシュに沸くトランスヴァールを狙ったイギリスが、1899年両国にボーア戦争を仕掛けて1902年両国を併合しました。

アフリカ北端のモロッコは列強の牽制の対象で辛うじて独立を保っていましたが、1912年フランスが保護国化し、アフリカ大陸の独立国は「エチオピア」と「リベリア」の2か国だけになります。

列強はアフリカの植民地分割の建前として、現地にキリスト教を布教し、ヨーロッパ文明を伝え、遅れた人々を教化する「ヨーロッパ的人道主義」を標榜しました。プロテスタントだけでなく、布教を一時やめていたカトリックも再び積極的に布教を開始し、宣教師の一部には頑迷な現地政府を打倒して教化しやすい環境を作り出すのを歓迎する風潮も見受けられました。

欧州列強の経済体制は18世紀半ばからの産業革命で大きく変り、各国は原料供給地の必要に迫られて対外進出し、各地に鉱山やプランテーションを開きましたが、植民地化が最高潮に達してもアフリカは貿易の対象ではなく、1913年のアメリカの貿易額の72.4%に比べて、アフリカは3.5%に過ぎませんでした。

しかし19世紀に入ると、列強はアフリカを単なる奴隷や象牙の供給地としてではなく、工業原料の供給地や工業製品の市場として植民地支配の対象とする政策へ大きく転換します。

アフリカの植民地化に先行したのはイギリスとフランスの確執です。1798年イギリスが握っていたインド貿易の権益に対抗して、ナポレオンの遠征軍がエジプトに上陸し現地軍に勝ちカイロに入城しましたが、「ナイルの海戦」でフランス艦隊がイギリス艦隊に大敗しナポレオンがエジプトで孤立するなど、エジプトの支配権を巡ってイギリスとフランスが対立していました。

19世紀には宗主国であるオスマン帝国の影響力が衰えて、北アフリカのイスラム諸国がヨーロッパ列強の経済力、軍事力に為す術がないほど弱体化してしまいます。1869年フランスはエジプトに協力してスエズ運河を完成させましたが、この建設は過大な経済の負担をエジプトにもたらし、1875年エジプト政府はスエズ運河会社の株を手放さざるを得なくなりました。

その情報を密かに入手したイギリスは、先回りしてスエズ運河会社の株を取得して44%の筆頭株主となり、1882年にエジプトで起きたウラービー革命の暴動を口実に軍事介入を続け、1888年「スエズ運河の自由航行に関する条約」でスエズ運河をイギリスの管轄下に置き、1914年に始まった第一次世界大戦中もイギリス軍は駐留を続けました。

1815年の「ウィーン議定書」によってイギリスは、アフリカ南端のケープ植民地をオランダから取得して内陸部に植民地を拡大しつつありましたが、エジプトの保護領化に伴い南アフリカとエジプト、南北2つの拠点からアフリカ大陸を植民地で貫く「アフリカ縦断政策」を打ち出します。

カイロからケープタウンまでの鉄道用電線を敷設する

セシル・ローズの風刺画

一方フランスはモロッコを影響下におき1830年にアルジェリア、1881年にチュニジアを保護国とし、北アフリカ西部のマグリブからサハラ砂漠を越えて、アフリカ大陸中央部を大西洋岸からインド洋岸に至る「東西横断政策」を推進し、1881年には東アフリカにジブチ植民地を建設して東の終点としました。

14か国が参加した1884年のベルリン会議で、沿岸部を新規に領有した国に後背地の領有を認める植民地化の原則が合意されましたが、これらの協定はアフリカの現地の人々の存在をまったく無視したもので、様々な抵抗運動を引き起こします。

スーダンのマフディー運動、西アフリカのトゥクロール帝国(1848年~1890年)および後継国家のサモリ帝国(1878年~1898年)のジハード政権、タンザニアのマジ・マジ反乱などですが、いずれも圧倒的に優勢なヨーロッパ列強の軍事力の前に敗れ去りました。

20世紀の初頭までにアフリカ大陸に存在していた土着の王国はすべて武力で制圧され、消滅するか植民地に内包された保護領になりました。例外は1896年にイタリア軍を撃退し独立を保った「エチオピア帝国」です。

もう1つの例外は「リベリア」ですが、リベリアは1847年にアメリカが送り込んだ解放奴隷が建てた国で、英語を話しキリスト教を信仰するアメリカ帰りの黒人が土着の黒人を支配する実態は、周辺諸国の植民地と変わりはありませんでした。

1885年ベルリン会議を成功させたドイツのビスマルクは、タンガニーカ(現タンザニア)にドイツ領東アフリカ植民地を建設し、カメルーン、トーゴランド、西南アフリカ(ナミビア)を次々に獲得しました。

ドイツはしかしながら南北縦断政策を掲げるイギリスとは「東アフリカ分割協定」を結び、ケニアおよびウガンダをイギリスに譲って衝突を避け、自国の植民地でアフリカ大陸を南北に縦断するイギリスの計画が実現しました。

このイギリスの南北縦断政策とフランスの東西横断政策は、当然、交錯して両者の角逐はやまず、1898年にはマフディー運動でイギリスが後退したスーダンにフランスが進撃して、イギリスとの間で武力衝突の危機を招いた「ファショダ事件」が起こり、フランスがイギリスに譲歩して軋轢は回避されました。

1904年イギリスとフランスは最終的に妥協して「英仏協商」を結びましたが、この時までに西アフリカには広大な仏領西アフリカ植民地が形成されていて、アルジェリア、チュニジアと仏領コンゴ、ジブチ、マダガスカルがフランス植民地として確定しました。

1912年「イタリア・トルコ戦争」に勝利したイタリアはオスマン帝国から北アフリカのトリポリ、キレナイカを獲得し、イタリア領リビアとします。これによってリベリアとエチオピアの2国を除くアフリカの全土が、ヨーロッパの7か国によってことごとく分割され尽くし、植民地と成り果てました。

1913年のアフリカ大陸の植民地分割図は、広大なアフリカ大陸が2国を除いてすべて植民地と云う、俄かには信じ難い歴史の現実を見る者に突きつけますが、リベリアは事実上アメリカの植民地であり、エチオピアも1936年にイタリア領東アフリカとして植民地となったことから、広大なアフリカ大陸のすべてが植民地化されたことになります。

1880年と1913年の植民地分割図

スペインによって植民地化された中米や、スペインとポルトガルによって植民地化された南米大陸の征服も残忍きわまるものでしたが、アフリカ大陸も同様で、いずれも先住民族の存在をまったく無視したものです。

欧州から見て未開の土地のすべてが切り取り勝手とは、欧州人の信仰するキリスト教の「人を愛する精神」とどう結びつくのでしょう。現代に至っても表向きは別として、人種差別は厳然として存在しています。

 


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スペインの南米大陸征服

2023-03-16 06:20:40 | 日記

コロンブスがアメリカ大陸を発見した2年後の1494年、ローマ教皇アレクサンデル6世によってスペインとポルトガルの間に「トルデシリャス条約」が結ばれ、西経46度37分を分界線としてそこから東で新たに発見された土地はポルトガルに、西で発見された土地はスペインに権利が与えられることが決まりました。

新たに発見された中米や南米の東部を除くすべての土地は、分界線の西側であったため、征服した土地と住民のすべてがスペイン国王に属することになりました。現在のブラジルの東部にあたる区域は分界線の東側にあり、1500年にペドロ・アルヴァレス・カブラルがスペイン人より先に到達したため、ポルトガルに属することになりました。

スペインのパシフィカドール(鎮定者)による中米、南米の征服は残忍きわまるものになります。

南米大陸の国別の現状

ヨーロッパ人が初めて南米と接触したのは1498年のコロンブスの第3回航海で、現ベネズエラでした。翌1499年スペイン人のアロンソ・デ・オヘダとイタリア人のアメリゴ・ヴェスプッチが内陸部を探検し1526年にクマナが建設されましたが、ベネズエラの征服は遅れて、1567年ディエゴ・デ・ロサーダが先住民の首長グアイカイプーロとの戦いの最中にサンティアゴ・デ・レオン・デ・カラカスを建設し、1568年グアイカイプーロが敗死して植民地化されました。

南米では15世紀半ばからインカが中央アンデスに大帝国を築いていましたが、現コロンビアの地ではチブチャ系の諸部族が首長制国家を築き、南緯40度以南のパタゴニアではマプチェ族の首長国が相互に競い合いながらも、インカ帝国と激しい戦いを繰り広げていました。

1510年現コロンビアに南アメリカ初のヨーロッパ人による恒久的な植民都市サンタ・マリア・ラ・アンティグア・デル・ダリエンが建設されました。ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダは、エル・ドラードの黄金郷伝説を聞き伝えてオリノコ川流域の探検を続け、現コロンビアに存在したムイスカ人王国を征服して1538年に首都バカタの跡にサンタフェ・デ・ボゴタを建設し、1539年にスペイン国王からヌエバ・グラナダ王国元帥の称号を授けられます。

ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダ

1533年セバスティアン・デ・ベナルカサールは、現エクアドルのカニャーリ人と同盟してインカ帝国の将軍ルミニャウイと戦い、翌1534年に現エクアドルを征服しサン・フランシスコ・デ・キトを建設しました。

セバスティアン・デ・ベナルカサール

1526年フランシスコ・ピサロとディエゴ・デ・アルマグロは現ペルーの探検中にインカ帝国の存在を知り、大いなる財宝に満ちた土地に到達したと確信したピサロは1529年の遠征の後に一旦スペインに帰国し、スペイン王カルロス1世から「ペルー王国」征服の許可を得ます。

フランシスコ・ピサロ

1527年インカ帝国では皇帝ワイナ・カパックが死去、1529年から1532年にかけて二人の息子のワスカルとアタワルパとの間で内戦が続き、ピサロがペルーに戻った1532年にはコロンビアを通じて伝染した天然痘のため、インカ帝国は僅か数年で人口の半数以上を失い弱体化していました。

168名の兵士と大砲1門、馬27頭の兵力にしか過ぎなかったピサロ隊は、実戦経験を積み、戦術的にもインカ軍より優勢でしたが、インカ帝国の統治を断ち切りたい反インカ勢力の応援を味方につけました。

1532年7月にペルー最初の植民都市ピウラが建設され、ピサロはエルナンド・デ・ソトを内陸部の探検に送り出します。ソトはワスカルとの内戦に勝利し、8万人の兵とともにカハマルカで休息中の皇帝アタワルパと知り合い、アタワルパの招きを土産に帰還しました。

兵168人と共にカハマルカに向かったピサロは、ソトとドミニコ会修道士バルベルデ神父、現地人通訳をアタワルパの元へ送ります。バルベルデ神父はアタワルパに皇帝と臣民のキリスト教への改宗を要求し、拒否すればキリスト教会とスペインの敵になると伝えますが、アタワルパは「誰の属国にもならない」とスペイン人の駐留を拒否します。

1532年11月16日アタワルパがどんな権威で改宗を迫るのか神父に尋ねたところ、神父は聖書を皇帝に示して、この中の言葉に由来する権威だと答えました。文字を知らない皇帝は聖書を手に取って改め「これはなにも喋らない」と地面に放り投げます。

このことがスペイン人に絶好の口実を与え「神に対する冒涜だ」と神父が叫ぶと、アタワルパ軍に対する奇襲をあらかじめ準備していたスペイン人が射撃を開始し、少数の供しか連れていなかったアタワルパは輿から引き摺り下ろされて人質となります。

アタワルパは身代金として彼が幽閉されていた大部屋1杯分の金と2杯分の銀を差出しましたが、ピサロはアタワルパを解放せず翌1533年に処刑し、1534年にマンコ・インカ・ユパンキをマンコ2世として傀儡皇帝に据え、3月にインカ帝国の首都クスコに入ったピサロは、スペインの伝統に則って新たなクスコ市街を建設しました。

ピサロは1535年には太平洋岸にリマを建設しましたが、1536年マンコ2世が数万人を動員して反乱を起こしクスコを取り返しますが再びスペイン人に奪還されて、ビルカバンバに逃れたマンコ2世は1537年ウルバンバ川流域にインカ政権を建てます。

1535年アルマグロはインカ人数千人を連れてチリにたどり着きましたが、黄金を発見できないまま1537年クスコに帰還し、ピサロと対立して内戦に発展、ピサロが勝って1538年アルマグロは処刑されます。

同年ピサロは弟のゴンサーロ・ピサロをティティカカ湖の東へ遠征させ、インディオの首長アヤビリを破って現ボリビア地域を征服しました。この地はアルト・ペルーと呼ばれ、1540年にはチュキサカが建設され、1548年にはアロンソ・デ・メンドーサによってヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・パスが建設されました。

フランシスコ・ピサロのペルー支配は確立したように見えましたが、1541年ピサロがアルマグロ派の残党に暗殺され、1542年スペインのカルロス1世はペルー副王領を設定して副王バカ・デ・カストロを派遣し、ゴンサーロ・ピサロも処刑されました。

1549年エンコミエンダ(植民地住民支配制度)の再配分が行なわれ、リマがペルー副王領の首都に選ばれ、リマはラテンアメリカ諸国の独立までスペインによる南アメリカ支配の中心地となります。

ビルカバンバに撤退したマンコ2世は1545年に死去し、その後インカとスペイン人との間では宥和政策が続きましたが、1571年に即位したトゥパク・アマルーは1572年ペルー副王フランシスコ・デ・トレドに捕らえられて処刑され、インカ帝国は歴史の幕を閉じました。

最後のインカ皇帝トゥパク・アマルー

1540年ペドロ・デ・バルディビアがチリに遠征を開始し、ペルーから南下してスペインのような地中海性気候の地域に入り、翌1541年2月にピクンチェ人の協力によってサンティアゴ・デ・チレを建設しました。

ペドロ・デ・バルディビア

1549年にチリに戻ったバルディビアはラ・セレナ、1550年にコンセプシオンを建設しましたが、1552年コンセプシオン周辺で金が発見され、スペイン人が採掘に動き出すとマプーチェ人が激しく抵抗します。

かつて捕虜としてバルディビアの馬丁をしていたマプーチェ人のラウタロが脱走し、マプーチェ人をまとめて戦いを挑み、乗馬を覚え、スペインの戦術を取り入れたラウタロは、1553年にバルディビアを捕えて処刑しました。この後300年に渡って、マプーチェ人は独立を維持し続けます。

マプーチェ人の指導者ラウタロ

ラ・プラタ地方(現アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ)では、1516年にフアン・ディアス・デ・ソリスが現ウルグアイの地に上陸しましたが、この地方の大西洋側にはチャルーア人やグアラニー人が居住していて、ソリスはチャルーア人に殺害されてしまいます。

1536年にペドロ・デ・メンドーサがラ・プラタ川の西岸にヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリア・デル・ブエン・アイレを建設し、1537年にはパラナ川の上流にヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリア・デ・ラ・アスンシオンが建設されました。

ペドロ・デ・メンドーサ

ブエノスアイレスは飢えとインディオの攻撃で1541年に放棄されましたが、生き残りがアスンシオンに避難し、アスンシオンがラ・プラタ地方の中心地となりました。アスンシオンの植民団のニュフロ・デ・チャベスが、アルト・ペルー東部にサンタクルス・デ・ラ・シエラを建設します。

その後もアスンシオンの植民団は1573年サンタフェ、1580年コリエンテスを建設し、1580年にはフアン・デ・ガライにより、ラ・トリニダーとしてブエノスアイレスを再建しました。

ラ・プラタ地方の開発は内陸部のペルー方面からも進められ、1553年に植民地時代の最古の都市で現存するアルゼンチンのサンティアゴ・デル・エステロが建設され、1573年には中部のパンパにコルドバが建設されます。アイマラ人の居住していた地にも1565年サン・ミゲル・デ・トゥクマン、1582年サルタが建設されました。

1560年にはチリからの植民団によってメンドーサが建設されましたが、メンドーサはチリ総督領に組み込まれたため現ウルグアイの征服が遅れ、1726年になってサン・フェリペ・イ・サンティアゴ・デ・モンテビデオが建設されました。

ラ・プラタ地方やチリでは、パタゴニアのチャルーア人やマプーチェ人が頑強に抵抗し、チリがマプーチェを征服したのは実に300年後の1881年になりました。

1610年パラグアイやアルゼンチン北東部、ウルグアイ東部、ブラジル南部、ボリビア東部では、イエズス会による布教村落が建設されてグアラニー人やチキート人への布教が進められ、スペイン王権を受け入れない独自の世界を築きました。

イエズス会の伝道所ではグアラニー語が保護され、奴隷労働が禁止されましたが、1530年から1815年にかけてはポルトガル領ブラジルのバンデイランテス(奴隷狩りの探検隊)が度々布教村落を襲撃し、その度にグアラニー人はブラジルに連行されて奴隷化されました。

植民地支配体制が確立した南米では、スペイン人たちが社会的、経済的に圧倒的な力をもち、それを背景に多くのインディオ女性を妾としてメスティーソの数が増加します。一方、多数の黒人奴隷がアフリカ大陸から連行されて、家内労働やプランテーションでの重労働に使役されました。

現在に続く白人優位の下のメスティーソ、インディオ、黒人の社会構造が定まり、スペイン人に征服された地はイスパノアメリカと呼ばれ、ポルトガルによる植民地と併せて、ラテンアメリカと呼ばれるようになります。

ヨーロッパから南米にもたらされたのは、宗教としてのキリスト教、コムギ・サトウキビ・コーヒーなどの農産品、馬・牛・羊などの家畜、車輪、鉄器と、天然痘・麻疹・インフルエンザなどの伝染病でした。

南米からヨーロッパへはメキシコ原産のトウモロコシやサツマイモ、東洋種のカボチャ、トウガラシ、アンデス高原原産のジャガイモや西洋種のカボチャ、トマト、熱帯アメリカ原産のカカオなどが伝えられてヨーロッパの食文化に大きな影響を与え、タバコや梅毒も伝えられました。

1569年から1581年までペルー副王であったフランシスコ・デ・トレドが植民地支配制度のエンコミエンダ制、コレヒドール制、ミタ制を制定しました。ミタ制によって集められた人々はポトシ鉱山の豊富な銀を採掘するために酷使され、先住民の死亡数は100万人とも云われます。

ポトシのセロ・リコ(富の山)

植民地時代には銀が、ボリビア独立後には錫が採掘された

イスパノアメリカのポトシやグアナファト、サカテカスの鉱山では銀が、ベネズエラではプランテーション農業でカカオなどが、インディオや黒人の奴隷労働によって生産され、蓄積された富はスペインで奢侈や戦費に使われました。

この重商主義的過程はイギリス領バルバドスやジャマイカ、フランス領サン=ドマングでの砂糖プランテーションによる収益や、ポルトガル領ブラジルから18世紀のゴールドラッシュでイギリスに大量に流出した金と共に、西欧諸国の資本の本源的蓄積を担い、オランダやイギリスにおける産業資本主義の成立と拡大を支えました。

ヨーロッパの繁栄とは対極的にラテンアメリカの現地では僅かに残された資本がスペイン同様奢侈に使われ、鉱山やプランテーションでの重労働による民衆の困窮が続きました。

イエズス会の布教村落が築かれたパラグアイなどでは、スペイン・ポルトガル王権からのインディオの保護が行われましたが、これらを除いてはインディオのキリスト教への改宗は、暴力を背景に進められたものです。

南米征服の初期には「半人間」であるインディオをキリスト教へ改宗させることで征服が正当化され、1537年ローマ教皇パウルス3世が「新大陸の人間は真正の人間である」とインディオへの非人道的対応を改めるカトリック教会の立場を打ち出しますが、植民地支配体制を揺るがすことは出来ませんでした。

征服による収奪は啓蒙主義や自由主義によっても正当化され、フランシス・ベーコンやシャルル・ド・モンテスキューらは、インディオを「退化した人々」としてヨーロッパ人による収奪を正当化し、19世紀に近代ヨーロッパ最大の哲学者と云われたヘーゲルは、インディオや黒人の無能さについて語り続け、近代哲学の立場から征服を擁護しています。

スペインのコンキスタドーレスによる南米の征服は、インカ文明を破壊し金銀を奪って莫大な富をスペインにもたらし、多くのインディオを虐殺、キリスト教への暴力的改宗を進め、インディオ女性を強姦してメスティーソを増やし、ヨーロッパ由来の疫病が人口の激減をもたらして、1600万人存在していたインカ帝国の人口は108万人まで減少しました。

今となっては歴史上の出来事になりつつありますが、白人による南米大陸の征服は人として許される所業ではなく、現代に至っても建前は別として人種差別の伝統は姿を消していません。

 

 

 


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インカ帝国

2023-03-02 06:30:14 | 日記

インカ帝国は13世紀に成立したクスコ王国を前身として、現ペルー、ボリビア、エクアドルを中心に築かれた南米大陸の大帝国で、1533年にスペインのコンキスタドールに滅ぼされるまで、約200年間繁栄しました。

インカ帝国とは、巨大な石の建築と精密な石の加工技術、土器や織物などの遺物、生業、道路網を含めた優れた統治システムなどを評価した尊称です。被征服民族に比較的自由な自治を認めた連邦国家の体をなし、インカ帝国の正式名称ケチュア語の「タワンティンスウユ」は「四つの邦」を意味します。

四つの邦とは、クスコの北方のエクアドルを含む北海岸地方の「チンチャイ・スウユ」、クスコの南側からチチカカ湖周辺、ボリビア、チリ、アルゼンチンの一部を含む「コジャ・スウユ」、クスコの東側のアマゾン川へ向かって降るアンデス山脈東側斜面の「アンティ・スウユ」、クスコの西側へ広がる太平洋岸までの地域の「クンティ・スウユ」です。

アンデス文明は紀元前7,500年ころまでに始まったと云われ、インカの祖先はペルーの高原地方を根拠とする遊牧民族のケチュア族で、12世紀頃にクスコへ移住してインカとなりました。

最盛期には80の民族と1,600万人の人口を有し、現在のチリ北中部、アルゼンチン北西部、コロンビア南部にまで広がって、世界遺産となった首都クスコは標高3,400mの高地にありました。

クスコはインカが移住して来る以前、900年から1200年にかけてはキルケ人がこの地域を支配していて、クスコ郊外のサクサイワマン要塞の遺跡は放射性炭素年代測定で1100年頃の建設と判明しています。

サクサイワマンは巨石を惜しみなく用いた特有の堅固な石組みが階段状に3段ずつ、幅数百mの平地を挟んだ南北の丘に築かれていて、1200年代にインカがここを占拠、要塞の脇には古代の寺院、道路、導水設備の遺跡が発見されています。

サクサイワマン遺跡

クスコは1438年以降に第9代皇帝パチャクティによってインカ帝国の首都として建設が開始され、50年後の第11代皇帝ワイナ・カパックの在位中に完成し、1532年までインカ帝国の首都でした。

この首都はインカの宇宙観に基づいて設計され、北西のChinchasuyu、北東のAntisuyu、南西のQontisuyu、南東のCollasuyuの4つの街区に分かれ、4つの区分を象徴するようにそれぞれの街区から、対応する4つの帝国の州邦(suyu)に街道が通じていました。

インカの人々はこの高地に適応する頑健な体をもち、男性が1.57m、女性が1.45mと低身長ですが、肺活量が低地の人々に比べ30%ほど大きく、心拍数が少なく、血液の量も2リットルで、ヘモグロビン量も2倍以上あったと推測されています。

インカは7世紀から8世紀に栄えたペルー北海岸のワリ帝国の文化や、ボリビア北部のアンデス中央高地南部にあったティワナク文化から、建築様式、陶器、統治機構などを受け継ぎ、コロンビア南部からチリ中部に至るまで南北4,000㎞に及ぶ大帝国を築きました。

インカ帝国はインカの最初の統治者であるマンコ・カパックがクスコに築いた都市国家から海岸部に向かって広がっていきましたが、標高5,300mに及ぶ高原の温帯にも恒久的な居住地の跡が発見されています。

1438年インカは国土の拡張を始め、サパ・インカのパチャクテク・クシ・ユパンキの下で壮大な遠征を試み、彼と彼の息子トゥパック・インカ・ユパンキはアンデス山脈のほぼすべて、現ペルーとエクアドルを制圧しました。

パチャクテクは選び抜いた家庭出身の指揮官を養成し、兵卒は木製の柄と石製または青銅製の斧頭を備えた戦斧、投石器、ランス、投げ槍、弓矢、皮革で覆った木製の盾、綿或いは竹製の兜、刺し子の鎧で武装し、皇子が統率していました。

インカ帝国はケチュア語を公用語とし太陽崇拝を国教としましたが、インカの社会制度は儀式と神の名による厳格な権威主義政体でした。パチャクテクは彼の帝国が欲した土地の支配者に宛ててインカに従属すれば土地の指導者として富裕になれることを約束し、パチャクテクの帝国に加わることの利を強調しました。

土地の支配者の多くはインカの統治を平和裡に受け入れ、従属した土地では従前の土地の官僚の上にインカの官僚が置かれ、地方官僚の子弟は人質としてクスコに集められてインカの統治制度を学び、その後故郷に戻って指導者となりました。

1463年にパチャクテクの皇子であったトゥパック・インカ・ユパンキが北征を始め、1471年パチャクテクが死亡してからはサパ・インカとして征服事業を継続、その中で最も重要であったのがペルー海岸を巡る唯一の敵であったチムー王国の征服でした。

トゥパック・インカ・ユパンキの帝国の北方は現エクアドル、現コロンビアにまで伸び、既存の文化、特にチムー文化の様式を発展させて取り入れました。帝国の南進はマプチェ族による大規模な抵抗で阻まれましたが、最盛期のインカ帝国の領域はペルー、ボリビア、エクアドルの大部分、マウレ川以北のチリの広大な部分を含み、アルゼンチン、コロンビアの一角にまで及んでいました。

インカ帝国の拡大(1438年-1527年)

1533年11月15日最初のスペイン人がクスコに現れ、征服者のフランシスコ・ピサロが公式に到着したのは1534年3月23日でした。スペイン人は数多くのインカ帝国の建造物、寺院、宮殿を破壊し、インカによって建てられた巨大な石の壁を新都市建設に利用して数多くの教会、大聖堂、女子修道院、大学、司教区を建設し、クスコをスペインの伝統に則った街に変えてしまいました。

現クスコの街並み

インカ時代の石積みは、石と石の間にカミソリの刃一枚通さないと云われる巧緻なものです。クスコはスペイン植民地政策とキリスト教布教の中心になり、農業、牧畜、鉱山、スペインとの貿易で大いに繁栄しました。

インカの石積み

マチュ・ピチュはアンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿った山の尾根にある15世紀のインカ帝国の遺跡で、首都クスコより1,000m低い標高2,430mの地にあります。

マチュ・ピチュ全景

マチュ・ピチュの遺跡が何のために作られたものかははっきりせず、インカの王パチャクティの1440年頃に建設に着手され、1533年にスペイン人によりインカが征服されるまでの80年間、人々の生活が続いていました。山裾からは存在が確認できないので、スペイン人には発見されずに済んだ遺跡です。

大きな宮殿や寺院があり、インカの王族や貴族のための離宮といったもので、そこでの生活を支える職員の住居もありますが、最大でも750名くらいしか住んでおらず、雨季や王族が不在の時の住民はほんの一握りであったと推定されます。

石積みの建物跡

マチュ・ピチュはケチュア語で老いた峰を意味し、遺跡の背後に見える尖った山がワイナ・ピチュ「若い峰」で、標高2,720mの山頂には神官の住居跡とみられる遺跡があり、山腹にマチュ・ピチュの「太陽の神殿」に対比される「月の神殿」があります。

マチュ・ピチュは熱帯山岳樹林帯の中央にあり植物は多様性に富んでいて、10月から翌年4月までの長い雨季と、5月から9月までの短い乾季に分かれます。マチュ・ピチュの段々畑は3層の構造で、大量の雨水の排水の役をしています。1983年にマチュ・ピチュはクスコとともにユネスコの世界遺産に登録されました。

マチュ・ピチュの段々畑

インカ帝国は多言語、多文化、多民族によって成立していて、帝国の各構成要素は均一ではありません。政体は近親結婚の一族による世襲の君主制で、皇族の近親結婚は広く交雑すると血筋が汚されると考えられたためです。

「サパ・インカ」は太陽神インティの化身とされ、当時の官僚は神官でもありました。インカの公用語はケチュア語で、文字を持ちませんでしたが、キープと呼ばれる結び縄による数字表記が存在し、これで暦法や納税などを記録していました。

キープは10進法で位取りも行われており、帳簿に数字を記録するのと同様の機能を持ち、農産物・家畜・人口・納税などの記録はキープに保存され、キープカマヨックと呼ばれる専門の官僚が管理し、計算にはユパナと呼ばれる道具が使われ、ユパナで集計した結果をキープに保存しました。近年、このキープが言語情報を含んでいることが明らかになっています。

キープ

インカの領土の広漠たる平野は降雨量が少なく農耕には適さず、海から吹き上げる風で雲が形成されて湿潤な環境となる高原地帯では農耕が可能でした。このような気候条件からインカは驚異的な高山都市を形成します。

海に面した急勾配の土地に段々畑を作り、高度に応じた農作物の多品種生産を行い、ジャガイモやトウモロコシを主な作物とする農耕と、リャマやアルパカの牧畜が行われました。

土地・鉱山・家畜などのすべての生産手段は共同体に帰属し、貴族でも私有は認められず、この共同体をアイリュと呼び、アイリュの土地はインカ皇帝・太陽神・人民に3分され、皇帝と太陽神のアイリュでは人民を働かせて、その生産物を税の形で徴収しました。こうして集められた生産物は寡婦、老人、孤児などに潤沢に支給され、飢饉の非常時にも放出されました。

インカ帝国は労働力に対する課税と物々交換に基づく経済で、北部のペルーやエクアドルにあたる地域では、ビーズや、ボタン状の金、銅製の斧が貨幣として用いられましたが、インカの正式な通貨制度にはなりませんでした。

インカ帝国は西海岸の砂漠地帯を領土にした際にミイラ信仰を取り込みます。歴代皇帝は死後ミイラにされて権威が保たれ、皇帝の侍者たちは生前と同じようにミイラに仕えて領土や財産を保持しました。このため新しく即位した皇帝は前皇帝の遺産を相続できず、自分の財産を得るためには領土拡張の遠征を行わざるを得ませんでした。

代を重ねるにつれて死者皇帝の権威が現皇帝を凌ぐようになり、各々のミイラに仕える者達の権力が必然的に増大しました。12代皇帝がそれまでのすべての皇帝のミイラの埋葬と、ミイラに仕える者達の所領や財産の没収を企てて内乱に発展し、その混乱の最中にスペイン人の侵攻がありインカ帝国は滅亡します。

文化活動は貴族階級にだけ許されていて、一般庶民はそれぞれの役目に必要なことだけを教えられ、手工業なども貴族に独占されて、貴族が職人として労働に従事していました。

インカの上着

インカは峻厳な山岳地帯に広がった国土を維持するため、国中の谷に吊り橋を掛け、道路を作り、その道路は北部のキトからチリ中部のタルカに至るまで5,230kmに達しました。

インカ道路網

最大勢力時は北端がキト、南端がサンディエゴまで通じていた

黒線が山側の主要路線、 赤線が海側

1トポ(7km)毎に里程、19km毎にタンボ(宿駅)が設置され、8km毎のチャスキ(飛脚)が1日240kmの緊急連絡を果たしましたが、皮肉なことにこの道路網がスペイン人による征服を容易にしました。

道中のタンボの備蓄庫には税として収穫された農作物が集められ、備蓄食料は惜しげも無く民に放出されて人々の心を掴み、インカは僅か50年で広大な国土を得ることが出来ましたが、征服者のスペイン人が食料に困らずにインカ帝国を侵略することも可能にしました。

インカは金やトゥンバガ(金と銀・銅あるいは錫の合金)を精錬する技術を持っていましたが、インカの金製品はすべて合金製であったため、その大部分はヨーロッパ人によって溶かされて、純金の延べ板にされてしまい、ほとんど残っていません。

溶かされずに残ったトゥンバガ

インカ特有の彩色土器

今に伝わるインカの衣装

インカは文字を持たなかったため、インカの口伝えをスペイン人の宣教師が書き残した記録が僅かに残るのみで、16世紀まで存在した大帝国の全容が現代にいたっても詳しく把握されていませんが、多くの神秘性をそのまま残したこともインカの大きな魅力と云えるのかも知れません。

 


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