欧州列強の「帝国主義」による植民地獲得競争が強まったのは1870年代以降です。主役であったイギリスとフランスに対して出遅れたドイツやイタリアなどは未開のアフリカ大陸へ進出して、1900年には広大なアフリカ大陸のすべてが欧州列強によって完全に分割され尽くしました。
植民地によるアフリカの分割図
欧州勢のアフリカ大陸への進出は15世紀のポルトガル、スペインの進出に始まり、ムスリムや現地の王国との対立抗争を孕んで行われてきましたが、いずれも大陸沿岸部に限られていました。当時、欧州勢がアフリカに求めた奴隷や若干の産物などは、沿岸の拠点を通じて内陸から購入すれば事足りたのです。
1870年代初期に列強が注目していたのは中央アジアでした。南下を目指すロシアとインドに権益を持つイギリスが、トルキスタン、アフガニスタン、ペルシア、チベットを巡って奪い合いを演じました。
オスマン帝国や大清帝国などアジアの旧帝国の多くも関税自主権の放棄や治外法権、領事裁判権などを列強に認めさせられ、国内各地域の経済利権も握られて半植民地状況に陥っていきました。
1878年ベルギー国王レオポルド2世がコンゴの植民地化を目論み、探検家スタンレーが派遣されて現地勢力の長たちと様々な取り決めを結びました。その以前からコンゴ沿岸部の権益拡大を進めていてポルトガルは、ベルギーの急速なコンゴ進出に反発して1882年コンゴ川河口地域の主権を宣言します。
イギリスがポルトガルを支持し、フランスはベルギーを支持しピエール・ド・ブラザをアフリカ内陸部探検に派遣し、ドイツもポルトガルを支持せず各国の思惑が交錯する中で、アフリカを巡る一連の問題解決のための国際会議が開催されました。
ドイツ帝国のビスマルク首相が提唱した「ベルリン会議」が1884年11月から1885年2月まで開かれ、イギリス、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ベルギー、デンマーク、スペイン、アメリカ合衆国、フランス、イタリア、オランダ、ポルトガル、ロシア、スウェーデン、オスマン帝国の14か国が参加しました。
全7章、38条からなる「ベルリン協定」はコンゴ盆地に関する協定、奴隷貿易の禁止の申し合わせ、植民地分割に関する原則の取り決めに及び、レオポルド2世のコンゴ支配も会議の主要案件となりました。
コンゴ盆地に関しては地域の自由貿易と中立化、コンゴ川航行の自由が確認され、レオポルド2世の下にあるコンゴ国際協会のコンゴ盆地の統治権が認められて、コンゴ自由国が成立しました。
植民地分割に関しては沿岸部の植民地化の原則が確認され、最初に占領した国がその地域の領有権をもつこと、沿岸部を占領した国にはそれに続く内陸部の領有も認められることが決りました。
この会議を契機として列強のアフリカ分割が本格化し、列強間の植民地分割は地図の上での調整を交えて行われていきます。アフリカ南部にはオランダ系移民によるトランスヴァール共和国、オレンジ自由国の2国がありましたが、ゴールドラッシュに沸くトランスヴァールを狙ったイギリスが、1899年両国にボーア戦争を仕掛けて1902年両国を併合しました。
アフリカ北端のモロッコは列強の牽制の対象で辛うじて独立を保っていましたが、1912年フランスが保護国化し、アフリカ大陸の独立国は「エチオピア」と「リベリア」の2か国だけになります。
列強はアフリカの植民地分割の建前として、現地にキリスト教を布教し、ヨーロッパ文明を伝え、遅れた人々を教化する「ヨーロッパ的人道主義」を標榜しました。プロテスタントだけでなく、布教を一時やめていたカトリックも再び積極的に布教を開始し、宣教師の一部には頑迷な現地政府を打倒して教化しやすい環境を作り出すのを歓迎する風潮も見受けられました。
欧州列強の経済体制は18世紀半ばからの産業革命で大きく変り、各国は原料供給地の必要に迫られて対外進出し、各地に鉱山やプランテーションを開きましたが、植民地化が最高潮に達してもアフリカは貿易の対象ではなく、1913年のアメリカの貿易額の72.4%に比べて、アフリカは3.5%に過ぎませんでした。
しかし19世紀に入ると、列強はアフリカを単なる奴隷や象牙の供給地としてではなく、工業原料の供給地や工業製品の市場として植民地支配の対象とする政策へ大きく転換します。
アフリカの植民地化に先行したのはイギリスとフランスの確執です。1798年イギリスが握っていたインド貿易の権益に対抗して、ナポレオンの遠征軍がエジプトに上陸し現地軍に勝ちカイロに入城しましたが、「ナイルの海戦」でフランス艦隊がイギリス艦隊に大敗しナポレオンがエジプトで孤立するなど、エジプトの支配権を巡ってイギリスとフランスが対立していました。
19世紀には宗主国であるオスマン帝国の影響力が衰えて、北アフリカのイスラム諸国がヨーロッパ列強の経済力、軍事力に為す術がないほど弱体化してしまいます。1869年フランスはエジプトに協力してスエズ運河を完成させましたが、この建設は過大な経済の負担をエジプトにもたらし、1875年エジプト政府はスエズ運河会社の株を手放さざるを得なくなりました。
その情報を密かに入手したイギリスは、先回りしてスエズ運河会社の株を取得して44%の筆頭株主となり、1882年にエジプトで起きたウラービー革命の暴動を口実に軍事介入を続け、1888年「スエズ運河の自由航行に関する条約」でスエズ運河をイギリスの管轄下に置き、1914年に始まった第一次世界大戦中もイギリス軍は駐留を続けました。
1815年の「ウィーン議定書」によってイギリスは、アフリカ南端のケープ植民地をオランダから取得して内陸部に植民地を拡大しつつありましたが、エジプトの保護領化に伴い南アフリカとエジプト、南北2つの拠点からアフリカ大陸を植民地で貫く「アフリカ縦断政策」を打ち出します。
カイロからケープタウンまでの鉄道用電線を敷設する
セシル・ローズの風刺画
一方フランスはモロッコを影響下におき1830年にアルジェリア、1881年にチュニジアを保護国とし、北アフリカ西部のマグリブからサハラ砂漠を越えて、アフリカ大陸中央部を大西洋岸からインド洋岸に至る「東西横断政策」を推進し、1881年には東アフリカにジブチ植民地を建設して東の終点としました。
14か国が参加した1884年のベルリン会議で、沿岸部を新規に領有した国に後背地の領有を認める植民地化の原則が合意されましたが、これらの協定はアフリカの現地の人々の存在をまったく無視したもので、様々な抵抗運動を引き起こします。
スーダンのマフディー運動、西アフリカのトゥクロール帝国(1848年~1890年)および後継国家のサモリ帝国(1878年~1898年)のジハード政権、タンザニアのマジ・マジ反乱などですが、いずれも圧倒的に優勢なヨーロッパ列強の軍事力の前に敗れ去りました。
20世紀の初頭までにアフリカ大陸に存在していた土着の王国はすべて武力で制圧され、消滅するか植民地に内包された保護領になりました。例外は1896年にイタリア軍を撃退し独立を保った「エチオピア帝国」です。
もう1つの例外は「リベリア」ですが、リベリアは1847年にアメリカが送り込んだ解放奴隷が建てた国で、英語を話しキリスト教を信仰するアメリカ帰りの黒人が土着の黒人を支配する実態は、周辺諸国の植民地と変わりはありませんでした。
1885年ベルリン会議を成功させたドイツのビスマルクは、タンガニーカ(現タンザニア)にドイツ領東アフリカ植民地を建設し、カメルーン、トーゴランド、西南アフリカ(ナミビア)を次々に獲得しました。
ドイツはしかしながら南北縦断政策を掲げるイギリスとは「東アフリカ分割協定」を結び、ケニアおよびウガンダをイギリスに譲って衝突を避け、自国の植民地でアフリカ大陸を南北に縦断するイギリスの計画が実現しました。
このイギリスの南北縦断政策とフランスの東西横断政策は、当然、交錯して両者の角逐はやまず、1898年にはマフディー運動でイギリスが後退したスーダンにフランスが進撃して、イギリスとの間で武力衝突の危機を招いた「ファショダ事件」が起こり、フランスがイギリスに譲歩して軋轢は回避されました。
1904年イギリスとフランスは最終的に妥協して「英仏協商」を結びましたが、この時までに西アフリカには広大な仏領西アフリカ植民地が形成されていて、アルジェリア、チュニジアと仏領コンゴ、ジブチ、マダガスカルがフランス植民地として確定しました。
1912年「イタリア・トルコ戦争」に勝利したイタリアはオスマン帝国から北アフリカのトリポリ、キレナイカを獲得し、イタリア領リビアとします。これによってリベリアとエチオピアの2国を除くアフリカの全土が、ヨーロッパの7か国によってことごとく分割され尽くし、植民地と成り果てました。
1913年のアフリカ大陸の植民地分割図は、広大なアフリカ大陸が2国を除いてすべて植民地と云う、俄かには信じ難い歴史の現実を見る者に突きつけますが、リベリアは事実上アメリカの植民地であり、エチオピアも1936年にイタリア領東アフリカとして植民地となったことから、広大なアフリカ大陸のすべてが植民地化されたことになります。
1880年と1913年の植民地分割図
スペインによって植民地化された中米や、スペインとポルトガルによって植民地化された南米大陸の征服も残忍きわまるものでしたが、アフリカ大陸も同様で、いずれも先住民族の存在をまったく無視したものです。
欧州から見て未開の土地のすべてが切り取り勝手とは、欧州人の信仰するキリスト教の「人を愛する精神」とどう結びつくのでしょう。現代に至っても表向きは別として、人種差別は厳然として存在しています。