第二次世界大戦に敗れた我が国は、GHQにより戦前、戦中、戦後の歴史をすべて封印され、学校の教科から歴史が排除されましたが、復活後の高等学校用教科書には「ハル・ノート」について以下のように記載されました。
「1941年(昭和16年)9月6日の御前会議は、日米交渉の期限を10月上旬と区切り、交渉が成功しなければ対米(およびイギリス・オランダ)開戦にふみ切るという帝国国策遂行要領を決定した。木戸幸一内大臣は9月6日の御前会議決定の白紙還元を条件として東條陸相を後継首相に推挙し、首相が陸相・内相を兼任する形で東條英機内閣が成立した。
新内閣は9月6日の決定を再検討して当面日米交渉を継続させた。しかし11月26日のアメリカ側の提案(ハル=ノート)は、中国・仏印からの全面的無条件撤退、満州国・汪兆銘政権の否認、日独伊三国同盟の実質的廃棄など、満州事変以前の状態への復帰を要求する最後通告に等しいものだったので、交渉成立は絶望的になった。
12月1日の御前会議は対米交渉を不成功と判断し、米英に対する開戦を最終的に決定した。12月8日日本陸軍が英領マレー半島に奇襲上陸し、日本海軍がハワイ真珠湾を奇襲攻撃した。日本はアメリカ・イギリスに宣戦を布告し、第二次世界大戦の重要な一環をなす太平洋戦争が開始された。」
ハル・ノートは太平洋戦争開戦直前の1941年(昭和16年)11月26日(米時間)にアメリカから日本に提示された外交文書です。国務長官ハルと駐米日本大使野村吉三郎・来栖三郎との会談で、ハルは日本側の最終打開案に対する米国案を手交しました。
正式名称はOutline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan(合衆国及日本国間協定の基礎概略)で、冒頭にStrictly Confidential, Tentative and Without Commitment(厳秘 一時的且拘束力なし)という但し書きがあります。
外務省本省の「日本外交文書デジタルコレクション」の「日米交渉 1941年 下巻」に掲載されている 昭和16年11月26日 在米国野村大使より東郷外務大臣宛(電報)「米国国務長官との会談の際提示された米国案要旨報告」ワシントン11月26日後発 本省11月27日後着 第1189号(極秘、館長符号)には、
26日午後4時45分より約2時間本使及来栖大使「ハル」長官と会談す。「ハル」より茲数日間本月26日日本側提出の暫定協定案(当方乙案)に付米国政府に於いて各方面より検討すると共に関係諸国と慎重協議せるも遺憾ながらこれに同意できず結局米側6月21日案と日本国9月25日案の懸隔を調整せる左記要領の新案を一案(a plan)として(tentative and without commitment と肩書す)提出するの已むを得ざるに至れりとして左の2案を提出せり
と記載されています。
第一項「政策に関する相互宣言案」には、
一切の国家の領土保全及主権の不可侵原則(2)通商上の機会及待遇の平等を含む平等原則(3)他の諸国の国内問題に対する不関与の原則(4)紛争の防止及平和的解決並に平和的方法及手続に依る国際情勢改善の為め国際協力及国際調停尊據の原則
とあり、まったく問題になる箇所はありません。
第二項「合衆国政府及日本国政府の採るべき措置」では、
(1)イギリス・中国・日本・オランダ・ソ連・タイ・アメリカ間の多辺的不可侵条約の提案 (2)仏印の領土主権尊重、仏印との貿易及び通商における平等待遇の確保 (3)日本の支那及び仏印からの全面撤兵 (4)日米がアメリカの支援する蔣介石政権以外のいかなる政府も認めない (5)英国または諸国の1901年北京議定書に関する治外法権の放棄について諸国の合意を得るための両国の努力 (6)最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始 (7)アメリカによる日本資産の凍結の解除、日本によるアメリカ資産の凍結の解除 (8)円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立 (9)日米が第三国との間に締結した如何なる協定も、太平洋地域における平和維持に反するものと解釈しないことへの同意 (10)本協定内容の両国による推進
とあります。
ハル・ノートは「太平洋全地域に亙る広汎乍ら簡単なる解決の一案」で「六月二十一日附米国案と九月二十五日附日本案の懸隔を調整」したものと説明されました。野村・来栖両大使は、日本側の要望をすべて無視したものとしてハル国務長官と応酬しますが、ハルは取り合いません。野村はハルに大統領との会談を要請しました。
翌11月27日(米時間)野村・来栖両大使と会見したルーズベルト大統領は、「自分は大いに平和を望み、希望を有している」「日本の南部仏印進駐で冷水を浴びせられ、ハルと貴大使等の会談中、日本の指導者より何ら平和的な言葉を聞かなかった」「暫定協定も日米両国の根本的主義方針が一致しない限り、一時的解決も結局無効に帰する」と述べています。
同席したハルも「日本が仏印に増兵し、日独伊三国同盟を振りかざしつつ、米国に対して石油の供給を求めるが、それは米国世論の承服せざる所である」と遺憾の意を表しました。
六月二十一日附米国案は、
(一)兩國政府の國策は永續的平和の樹立竝に兩國民間の相互信賴及協力の新時代の創始を目的とすることを確認する。(二)歐洲戰爭に對しては、日本政府は三國條約の目的が歐洲戰爭の擴大防止に寄與せんとするものなることを明らかにし、合衆國政府は自國の安全と防衛の考慮に依ってのみ決せらるべきなることを明かにする。(三)日支間の和平解決に對して、日本國政府は善隣友好、主權及領土の相互尊重に關する近衛原則を通報したるを以て、合衆國大統領は支那國政府及日本國政府が戰鬪行爲の終結及平和關係の恢復のため交涉に入る樣支那國政府に慫慂する。(四)兩國間の通商につては兩國の一方が供給し得て他方が必要とする物資を相互に供給すべきことを保障する。(五)太平洋地域の兩國の經濟的活動は兩國が夫々自國經濟の保全及發達のため必要とする天然資源(例へば石油、護謨、錫、ニツケル)の商業的供給の無差別的均霑を受け得る樣相互に協力する。(六)太平洋地域に於いて両国の何れも領土的企図を有しないことを声明する。(七)合衆国政府は比律賓の獨立が完成せらるべき際に於ける比律賓群島の中立化のための条約の交渉に入る用意がある。
なお附屬追加文書で、兩國間の通商に関し現下の國際的非常時態の繼續中両國は相互に通常の又は戰前の數量に達する迄物資の輸出を許可すべし、何れの國の場合に於ても自國の安全及自衛目的のため必要とする物資に付ては例外とするが、相手國政府に對する制限を目的とするものでなく、兩國政府は友好國との關係を支配しつつある精神に依り斯かる規則を適用するものとすと述べています。
日支間の和平解決に對する措置の基本條件として善隣友好、有害なる共産運動に對する共同防衛(支那領土內に於ける日本軍隊の駐屯を含む)、世界平和に貢献すべき東亞の中核を形成すべき各國民固有の特質に對する相互尊重、出来得る限り速かに且日支間に締結せらるべき協定に遵ひ支那領土より日本の武力を撤退すべきことを挙げていて、過激なものではありませんでした。
これに対する日本国案は九月二十五日附日本案ではなく、11月14日に東郷大臣から野村大使へ通報された最終版を提示しますが、
一、日米両国政府は孰れも仏印以外の南東亜細亜及南太平洋地域に武力的進出を行はざることを確約す 二、日米両国政府は蘭領印度に於て其必要とする物資の獲得が保障せらるる様相互に協力するものとする 三、日米両国政府は相互に通商関係を資産凍結前の状態に復帰すべし 米国政府は所要の石油対日供給を約す 四、米国政府は日支両国の和平に関する努力に支障を与ふるか如き行動に出さるべし 五、日本国政府は日支間和平成立するか又は太平洋地域に於ける公正なる平和確立する上は現に仏領印度支那に派遣せられ居る日本軍隊を撤退すべき旨約束す 日本国政府は本了解成立せば現に南部仏領印度支那に駐屯中の日本軍は之を北部仏領印度支那に移駐するの用意あることを闡明す 六、日本国政府は無差別原則が全世界に適用せらるるものなるに於ては太平洋全地域即支那に於ても本原則のおこなわれることを承認す 七、世界平和克復前に於ける事態に諸発展に対しては日米両国政府は防護と自衛との見地より行動すべく、又米国の欧州戦参入の場合に於ける日本国独逸国及伊太利国間三国条約に対する日本国の解釈及之に伴ふ義務履行は専ら自主的に行はるべし
と云うものでした。
アメリカは我が国の南部仏印進駐を日独伊三国同盟によるヨーロッパのドイツと呼応した作戦と考えており、この疑問が氷解するまで日米間の交渉は無意義と判断していました。日本の南部仏印への進駐は日米双方にとって軍事的最重要地点への進出で、米国としては南部仏印進駐が実際に中止されない限り、口約束では見逃すことのできない重大な既成事実でした。
コーデル・ハル米国務長官
六月二十一日附米国案が提示された後の7月2日我が国では御前会議で南部仏印進駐が正式に裁可され、24日野村とサムナー・ウェルズ国務次官との会談で、ウェルズが南部仏印進駐で米国が対日石油禁輸に踏み切る可能性を警告しています。
7月25日ルーズベルト大統領と野村大使の会談が行われ、ルーズベルトは仏印を英・蘭・中・日・米によって中立化する案を提案しますが、日本政府はこれを無視して28日に南部仏印進駐を開始しました。
ハル・ノートは六月二十一日附米国案と九月二十五日附日本案の懸隔を調整したものとされますが、6月21日附米国案は我が国の南部仏印進駐以前の案で、9月25日附日本案は進駐以後の案です。
南部仏印はタイ、イギリス領植民地、蘭印に圧力をかけられる軍事戦略的最重要地で、当時の陸海軍は北部仏印進駐への反発が少なかったことから、南部仏印への進駐も米英の反発を招かない見通しでしたが、我が国の戦略的最重要地は、当然、米国にとっても戦略的最重要地で、南部仏印進駐が九月二十五日附日本案をアメリカにとって無意味なものにしました。
野村大使よりのハル・ノートの第一報が日本に届いたのは27日の午後で、午後2時の連絡会議で審議しました。東條首相は審議の結論を「11月26日の覚え書きは明らかに日本に対する最後通牒である」「この覚書は我国としては受諾することは出来ない。且米国は右条項を日本が受諾し得ざることを知ってこれを通知して来ている」「米国側においては既に対日戦争を決意しているものの如くである」とし、また東郷茂徳外相は出席者の様子を「各員総て米国の強硬態度に驚いた。軍の一部の主戦論者は之でほっとした気持ちがあったらしいが、一般には落胆の様子がありありと見えた」と回想しています。
27日午後東條首相が昭和天皇に日米交渉について上奏し、その後の連絡会議で「宣戦に関する事務手続順序」及び「戦争遂行に伴ふ国論指導要綱」が採択され、翌28日天皇は午前東郷外相からハル・ノートの説明を受け、12月1日の御前会議で戦争開始の国家意思が決定されました。
「機密戦争日誌」には「回答全く高圧的なり。対極東政策に何等変更を加ふるの誠意全くなし。米の交渉は勿論決裂なり。之にて帝国の開戦決意は踏み切り容易となれり、めでたしめでたし。之れ天佑とも云ふべし。之に依り国民の腹も堅まるべし、国論もー致し易かるべし」と書かれています。
11月27日の連絡会議はただ開戦を確認しただけのものでした。東郷外相は日本側が最終案として提示した乙案が拒否され「自分は眼もくらむばかりの失望に撃たれた」「この公文は日本に対して全面的屈服か戦争かを強要する以上の意義、即ち日本に対する挑戦状を突きつけたと見て差し支えない。少なくともタイムリミットのない最後通牒と云うべきは当然である」と回想しています。欧米勢力をアジアから排除する大東亜共栄圏構想を国是として掲げた我が国の南部仏印進駐を、東郷外相は外交上どう評価していたのでしょう。
東郷から相談を受けた外務省顧問佐藤尚武は、開戦論に転じた東郷の「日米交渉は成立せず、戦争は不可避にして又避くるを要せず、長期戦の必敗は予想するに及ばず」の態度に対し「戦争は国運顛覆の虞れあるものなれば飽く迄之を避けざるべからず、又避け得」と主張しましたが物別れに終わり、佐藤は職を辞します。
日本では多くの関係者がハル・ノートの提示で戦争突入が決まったと発言していますが、ハル・ノートは冒頭に「厳秘 一時的且拘束力なし」と但し書きがあり、当時のアメリカの意見をまとめた外交文書に過ぎません。宣戦布告はもちろん、最後通牒からも程遠いものでした。
我が国が戦争の開始を決定したのは9月6日の御前会議です。和平交渉の継続を主張する東郷外相を東條陸相が怒鳴りつけ、10月上旬までに日本の要求が受け入れられなければ米英蘭と戦争することが裁可され、11月5日東條が首相になった最初の御前会議で、12月1日零時までに日本の要求が通らなければ、12月上旬に真珠湾攻撃、英領マレー半島上陸による対米英戦争の開始が裁可されています。
日本政府がハル・ノートを受け取った11月27日の前日には、すでに日本海軍機動部隊は真珠湾に向けて出撃しており、マレー半島を目指した陸軍の大部隊を乗せた輸送船団も南方に向けて航行中でした。開戦は既に決定済みで、もしも我が国の無理が通れば開戦を中止する一縷の望みが、ハル・ノートで消えただけです。
日米開戦前年の1940年(昭和15年)は皇紀二千六百年に当たり、神武天皇の「八紘一宇」が我が国の肇国の大精神として「基本国策要領」に盛り込まれ、第二次近衛文麿内閣は欧米勢力をアジアから排除して、日本・満州国・中華民国を中軸とし、英領インドまでを含む広域の政治的、経済的共存共栄を図る「大東亜共栄圏」構想を掲げ、我が国の中国、東南アジア侵略を正当化しました。
当時の日本の国策は南方侵略で資源を得ることでしたが、戦略物資は支那事変開始後も変わりなくアメリカから十分に供給されていて、日本も中国も互いに宣戦布告をしなかったのは、戦争だと第三国からの戦略物質が供給されなくなるためだったと云われています。
1937年(昭和12年)に始まった支那事変がすでに泥沼化していた1940年(昭和15年)ですら、日本の石油需要量の86%をアメリカが供給していたのです。どこがアメリカによる経済圧迫でしょう。「侵略はやめない、口を出すな、しかし石油はよこせ」という日本の要求が通るわけがありません。
日独伊三国同盟の締結、海南島占領や北部仏印進駐で、日本とイギリス、アメリカの関係が急速に悪化した当時、近衛文麿首相が山本五十六連合艦隊司令長官に日米戦争の見込みを問い、山本は「それは是非やれと言われれば、初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国同盟が出来たのは致し方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様、極力御努力願ひたい」と答えています。
我が国の石油備蓄量は1年半分しかなかったのです。山本長官は近衞首相に長期戦では我が国が必ず敗れると、はっきり、告げるべきであったと私は思います。山本は真珠湾で米戦艦群を壊滅させる大戦果を挙げましたが、僅か7か月後のミドウェー海戦で主力空母4隻と全艦載機を失い、我が国の挙げた大戦果を契機に戦争終結を謀るきっかけを早くも失いました。
ハル国務長官は「私が1941年11月26日に野村、来栖両大使に手渡した提案は、この最後の段階になっても、日本の軍部が少しは常識をとりもどすこともあるかも知れないというはかない希望をつないで交渉を継続しようとした誠実な努力であった。
あとになって大きな敗北を蒙り出してから、日本はこの11月26日のわれわれの覚書をゆがめて最後通告だといいくるめようとした。これは全然うその口実をつかって国民をだまし、軍事的掠奪を支持させようとする日本一流のやり方だった」と回想しています。
孫氏の兵法は敗ける戦いは決してしない、勝てる戦いはしないで済ませると教えています。明治以降軍部は戦いの本質論をなおざりにして欧米の戦術論にのめり込み、陸軍を抑えるために首相に起用された東条が、真っ先に立って勝てない戦争に突き進んだ責任は、死をもってしても取り切れるものではありません。
A級戦犯の裁判が行われた極東国際軍事裁判の進行につれて伝えられた戦後の当事者の回想や第三者の意見も、日本がハル・ノートより2か月も前の御前会議で開戦を決定し、前日には真珠湾に向けて海軍、マレー半島に向けて陸軍が進撃開始していた事実を無視して、開戦の全責任をハル・ノートの手交に転嫁しています。戦争回避への努力がまったく報われなかったのはハル長官だったのではないでしょうか。