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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

ハル・ノート

2022-09-29 06:19:17 | 日記

第二次世界大戦に敗れた我が国は、GHQにより戦前、戦中、戦後の歴史をすべて封印され、学校の教科から歴史が排除されましたが、復活後の高等学校用教科書には「ハル・ノート」について以下のように記載されました。

「1941年(昭和16年)9月6日の御前会議は、日米交渉の期限を10月上旬と区切り、交渉が成功しなければ対米(およびイギリス・オランダ)開戦にふみ切るという帝国国策遂行要領を決定した。木戸幸一内大臣は9月6日の御前会議決定の白紙還元を条件として東條陸相を後継首相に推挙し、首相が陸相・内相を兼任する形で東條英機内閣が成立した。

新内閣は9月6日の決定を再検討して当面日米交渉を継続させた。しかし11月26日のアメリカ側の提案(ハル=ノート)は、中国・仏印からの全面的無条件撤退、満州国・汪兆銘政権の否認、日独伊三国同盟の実質的廃棄など、満州事変以前の状態への復帰を要求する最後通告に等しいものだったので、交渉成立は絶望的になった。

12月1日の御前会議は対米交渉を不成功と判断し、米英に対する開戦を最終的に決定した。12月8日日本陸軍が英領マレー半島に奇襲上陸し、日本海軍がハワイ真珠湾を奇襲攻撃した。日本はアメリカ・イギリスに宣戦を布告し、第二次世界大戦の重要な一環をなす太平洋戦争が開始された。」

ハル・ノートは太平洋戦争開戦直前の1941年(昭和16年)11月26日(米時間)にアメリカから日本に提示された外交文書です。国務長官ハルと駐米日本大使野村吉三郎・来栖三郎との会談で、ハルは日本側の最終打開案に対する米国案を手交しました。

正式名称はOutline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan(合衆国及日本国間協定の基礎概略)で、冒頭にStrictly Confidential, Tentative and Without Commitment(厳秘 一時的且拘束力なし)という但し書きがあります。

外務省本省の「日本外交文書デジタルコレクション」の「日米交渉 1941年 下巻」に掲載されている 昭和16年11月26日 在米国野村大使より東郷外務大臣宛(電報)「米国国務長官との会談の際提示された米国案要旨報告」ワシントン11月26日後発 本省11月27日後着 第1189号(極秘、館長符号)には、

26日午後4時45分より約2時間本使及来栖大使「ハル」長官と会談す。「ハル」より茲数日間本月26日日本側提出の暫定協定案(当方乙案)に付米国政府に於いて各方面より検討すると共に関係諸国と慎重協議せるも遺憾ながらこれに同意できず結局米側6月21日案と日本国9月25日案の懸隔を調整せる左記要領の新案を一案(a plan)として(tentative and without commitment と肩書す)提出するの已むを得ざるに至れりとして左の2案を提出せり

と記載されています。

第一項「政策に関する相互宣言案」には、

一切の国家の領土保全及主権の不可侵原則(2)通商上の機会及待遇の平等を含む平等原則(3)他の諸国の国内問題に対する不関与の原則(4)紛争の防止及平和的解決並に平和的方法及手続に依る国際情勢改善の為め国際協力及国際調停尊據の原則

とあり、まったく問題になる箇所はありません。

第二項「合衆国政府及日本国政府の採るべき措置」では、

(1)イギリス・中国・日本・オランダ・ソ連・タイ・アメリカ間の多辺的不可侵条約の提案 (2)仏印の領土主権尊重、仏印との貿易及び通商における平等待遇の確保 (3)日本の支那及び仏印からの全面撤兵 (4)日米がアメリカの支援する蔣介石政権以外のいかなる政府も認めない (5)英国または諸国の1901年北京議定書に関する治外法権の放棄について諸国の合意を得るための両国の努力 (6)最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始 (7)アメリカによる日本資産の凍結の解除、日本によるアメリカ資産の凍結の解除 (8)円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立 (9)日米が第三国との間に締結した如何なる協定も、太平洋地域における平和維持に反するものと解釈しないことへの同意 (10)本協定内容の両国による推進

とあります。

ハル・ノートは「太平洋全地域に亙る広汎乍ら簡単なる解決の一案」で「六月二十一日附米国案と九月二十五日附日本案の懸隔を調整」したものと説明されました。野村・来栖両大使は、日本側の要望をすべて無視したものとしてハル国務長官と応酬しますが、ハルは取り合いません。野村はハルに大統領との会談を要請しました。

翌11月27日(米時間)野村・来栖両大使と会見したルーズベルト大統領は、「自分は大いに平和を望み、希望を有している」「日本の南部仏印進駐で冷水を浴びせられ、ハルと貴大使等の会談中、日本の指導者より何ら平和的な言葉を聞かなかった」「暫定協定も日米両国の根本的主義方針が一致しない限り、一時的解決も結局無効に帰する」と述べています。

同席したハルも「日本が仏印に増兵し、日独伊三国同盟を振りかざしつつ、米国に対して石油の供給を求めるが、それは米国世論の承服せざる所である」と遺憾の意を表しました。

六月二十一日附米国案は、

(一)兩國政府の國策は永續的平和の樹立竝に兩國民間の相互信賴及協力の新時代の創始を目的とすることを確認する。(二)歐洲戰爭に對しては、日本政府は三國條約の目的が歐洲戰爭の擴大防止に寄與せんとするものなることを明らかにし、合衆國政府は自國の安全と防衛の考慮に依ってのみ決せらるべきなることを明かにする。(三)日支間の和平解決に對して、日本國政府は善隣友好、主權及領土の相互尊重に關する近衛原則を通報したるを以て、合衆國大統領は支那國政府及日本國政府が戰鬪行爲の終結及平和關係の恢復のため交涉に入る樣支那國政府に慫慂する。(四)兩國間の通商につては兩國の一方が供給し得て他方が必要とする物資を相互に供給すべきことを保障する。(五)太平洋地域の兩國の經濟的活動は兩國が夫々自國經濟の保全及發達のため必要とする天然資源(例へば石油、護謨、錫、ニツケル)の商業的供給の無差別的均霑を受け得る樣相互に協力する。(六)太平洋地域に於いて両国の何れも領土的企図を有しないことを声明する。(七)合衆国政府は比律賓の獨立が完成せらるべき際に於ける比律賓群島の中立化のための条約の交渉に入る用意がある。

なお附屬追加文書で、兩國間の通商に関し現下の國際的非常時態の繼續中両國は相互に通常の又は戰前の數量に達する迄物資の輸出を許可すべし、何れの國の場合に於ても自國の安全及自衛目的のため必要とする物資に付ては例外とするが、相手國政府に對する制限を目的とするものでなく、兩國政府は友好國との關係を支配しつつある精神に依り斯かる規則を適用するものとすと述べています。

日支間の和平解決に對する措置の基本條件として善隣友好、有害なる共産運動に對する共同防衛(支那領土內に於ける日本軍隊の駐屯を含む)、世界平和に貢献すべき東亞の中核を形成すべき各國民固有の特質に對する相互尊重、出来得る限り速かに且日支間に締結せらるべき協定に遵ひ支那領土より日本の武力を撤退すべきことを挙げていて、過激なものではありませんでした。

これに対する日本国案は九月二十五日附日本案ではなく、11月14日に東郷大臣から野村大使へ通報された最終版を提示しますが、

一、日米両国政府は孰れも仏印以外の南東亜細亜及南太平洋地域に武力的進出を行はざることを確約す 二、日米両国政府は蘭領印度に於て其必要とする物資の獲得が保障せらるる様相互に協力するものとする 三、日米両国政府は相互に通商関係を資産凍結前の状態に復帰すべし 米国政府は所要の石油対日供給を約す 四、米国政府は日支両国の和平に関する努力に支障を与ふるか如き行動に出さるべし 五、日本国政府は日支間和平成立するか又は太平洋地域に於ける公正なる平和確立する上は現に仏領印度支那に派遣せられ居る日本軍隊を撤退すべき旨約束す 日本国政府は本了解成立せば現に南部仏領印度支那に駐屯中の日本軍は之を北部仏領印度支那に移駐するの用意あることを闡明す 六、日本国政府は無差別原則が全世界に適用せらるるものなるに於ては太平洋全地域即支那に於ても本原則のおこなわれることを承認す 七、世界平和克復前に於ける事態に諸発展に対しては日米両国政府は防護と自衛との見地より行動すべく、又米国の欧州戦参入の場合に於ける日本国独逸国及伊太利国間三国条約に対する日本国の解釈及之に伴ふ義務履行は専ら自主的に行はるべし

と云うものでした。

アメリカは我が国の南部仏印進駐を日独伊三国同盟によるヨーロッパのドイツと呼応した作戦と考えており、この疑問が氷解するまで日米間の交渉は無意義と判断していました。日本の南部仏印への進駐は日米双方にとって軍事的最重要地点への進出で、米国としては南部仏印進駐が実際に中止されない限り、口約束では見逃すことのできない重大な既成事実でした。

コーデル・ハル米国務長官

六月二十一日附米国案が提示された後の7月2日我が国では御前会議で南部仏印進駐が正式に裁可され、24日野村とサムナー・ウェルズ国務次官との会談で、ウェルズが南部仏印進駐で米国が対日石油禁輸に踏み切る可能性を警告しています。

7月25日ルーズベルト大統領と野村大使の会談が行われ、ルーズベルトは仏印を英・蘭・中・日・米によって中立化する案を提案しますが、日本政府はこれを無視して28日に南部仏印進駐を開始しました。

ハル・ノートは六月二十一日附米国案と九月二十五日附日本案の懸隔を調整したものとされますが、6月21日附米国案は我が国の南部仏印進駐以前の案で、9月25日附日本案は進駐以後の案です。

南部仏印はタイ、イギリス領植民地、蘭印に圧力をかけられる軍事戦略的最重要地で、当時の陸海軍は北部仏印進駐への反発が少なかったことから、南部仏印への進駐も米英の反発を招かない見通しでしたが、我が国の戦略的最重要地は、当然、米国にとっても戦略的最重要地で、南部仏印進駐が九月二十五日附日本案をアメリカにとって無意味なものにしました。

野村大使よりのハル・ノートの第一報が日本に届いたのは27日の午後で、午後2時の連絡会議で審議しました。東條首相は審議の結論を「11月26日の覚え書きは明らかに日本に対する最後通牒である」「この覚書は我国としては受諾することは出来ない。且米国は右条項を日本が受諾し得ざることを知ってこれを通知して来ている」「米国側においては既に対日戦争を決意しているものの如くである」とし、また東郷茂徳外相は出席者の様子を「各員総て米国の強硬態度に驚いた。軍の一部の主戦論者は之でほっとした気持ちがあったらしいが、一般には落胆の様子がありありと見えた」と回想しています。

27日午後東條首相が昭和天皇に日米交渉について上奏し、その後の連絡会議で「宣戦に関する事務手続順序」及び「戦争遂行に伴ふ国論指導要綱」が採択され、翌28日天皇は午前東郷外相からハル・ノートの説明を受け、12月1日の御前会議で戦争開始の国家意思が決定されました。

「機密戦争日誌」には「回答全く高圧的なり。対極東政策に何等変更を加ふるの誠意全くなし。米の交渉は勿論決裂なり。之にて帝国の開戦決意は踏み切り容易となれり、めでたしめでたし。之れ天佑とも云ふべし。之に依り国民の腹も堅まるべし、国論もー致し易かるべし」と書かれています。

11月27日の連絡会議はただ開戦を確認しただけのものでした。東郷外相は日本側が最終案として提示した乙案が拒否され「自分は眼もくらむばかりの失望に撃たれた」「この公文は日本に対して全面的屈服か戦争かを強要する以上の意義、即ち日本に対する挑戦状を突きつけたと見て差し支えない。少なくともタイムリミットのない最後通牒と云うべきは当然である」と回想しています。欧米勢力をアジアから排除する大東亜共栄圏構想を国是として掲げた我が国の南部仏印進駐を、東郷外相は外交上どう評価していたのでしょう。

東郷から相談を受けた外務省顧問佐藤尚武は、開戦論に転じた東郷の「日米交渉は成立せず、戦争は不可避にして又避くるを要せず、長期戦の必敗は予想するに及ばず」の態度に対し「戦争は国運顛覆の虞れあるものなれば飽く迄之を避けざるべからず、又避け得」と主張しましたが物別れに終わり、佐藤は職を辞します。

日本では多くの関係者がハル・ノートの提示で戦争突入が決まったと発言していますが、ハル・ノートは冒頭に「厳秘 一時的且拘束力なし」と但し書きがあり、当時のアメリカの意見をまとめた外交文書に過ぎません。宣戦布告はもちろん、最後通牒からも程遠いものでした。

我が国が戦争の開始を決定したのは9月6日の御前会議です。和平交渉の継続を主張する東郷外相を東條陸相が怒鳴りつけ、10月上旬までに日本の要求が受け入れられなければ米英蘭と戦争することが裁可され、11月5日東條が首相になった最初の御前会議で、12月1日零時までに日本の要求が通らなければ、12月上旬に真珠湾攻撃、英領マレー半島上陸による対米英戦争の開始が裁可されています。

日本政府がハル・ノートを受け取った11月27日の前日には、すでに日本海軍機動部隊は真珠湾に向けて出撃しており、マレー半島を目指した陸軍の大部隊を乗せた輸送船団も南方に向けて航行中でした。開戦は既に決定済みで、もしも我が国の無理が通れば開戦を中止する一縷の望みが、ハル・ノートで消えただけです。

日米開戦前年の1940年(昭和15年)は皇紀二千六百年に当たり、神武天皇の「八紘一宇」が我が国の肇国の大精神として「基本国策要領」に盛り込まれ、第二次近衛文麿内閣は欧米勢力をアジアから排除して、日本・満州国・中華民国を中軸とし、英領インドまでを含む広域の政治的、経済的共存共栄を図る「大東亜共栄圏」構想を掲げ、我が国の中国、東南アジア侵略を正当化しました。

当時の日本の国策は南方侵略で資源を得ることでしたが、戦略物資は支那事変開始後も変わりなくアメリカから十分に供給されていて、日本も中国も互いに宣戦布告をしなかったのは、戦争だと第三国からの戦略物質が供給されなくなるためだったと云われています。

1937年(昭和12年)に始まった支那事変がすでに泥沼化していた1940年(昭和15年)ですら、日本の石油需要量の86%をアメリカが供給していたのです。どこがアメリカによる経済圧迫でしょう。「侵略はやめない、口を出すな、しかし石油はよこせ」という日本の要求が通るわけがありません。

日独伊三国同盟の締結、海南島占領や北部仏印進駐で、日本とイギリス、アメリカの関係が急速に悪化した当時、近衛文麿首相が山本五十六連合艦隊司令長官に日米戦争の見込みを問い、山本は「それは是非やれと言われれば、初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国同盟が出来たのは致し方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様、極力御努力願ひたい」と答えています。

我が国の石油備蓄量は1年半分しかなかったのです。山本長官は近衞首相に長期戦では我が国が必ず敗れると、はっきり、告げるべきであったと私は思います。山本は真珠湾で米戦艦群を壊滅させる大戦果を挙げましたが、僅か7か月後のミドウェー海戦で主力空母4隻と全艦載機を失い、我が国の挙げた大戦果を契機に戦争終結を謀るきっかけを早くも失いました。

ハル国務長官は「私が1941年11月26日に野村、来栖両大使に手渡した提案は、この最後の段階になっても、日本の軍部が少しは常識をとりもどすこともあるかも知れないというはかない希望をつないで交渉を継続しようとした誠実な努力であった。

あとになって大きな敗北を蒙り出してから、日本はこの11月26日のわれわれの覚書をゆがめて最後通告だといいくるめようとした。これは全然うその口実をつかって国民をだまし、軍事的掠奪を支持させようとする日本一流のやり方だった」と回想しています。

孫氏の兵法は敗ける戦いは決してしない、勝てる戦いはしないで済ませると教えています。明治以降軍部は戦いの本質論をなおざりにして欧米の戦術論にのめり込み、陸軍を抑えるために首相に起用された東条が、真っ先に立って勝てない戦争に突き進んだ責任は、死をもってしても取り切れるものではありません。

A級戦犯の裁判が行われた極東国際軍事裁判の進行につれて伝えられた戦後の当事者の回想や第三者の意見も、日本がハル・ノートより2か月も前の御前会議で開戦を決定し、前日には真珠湾に向けて海軍、マレー半島に向けて陸軍が進撃開始していた事実を無視して、開戦の全責任をハル・ノートの手交に転嫁しています。戦争回避への努力がまったく報われなかったのはハル長官だったのではないでしょうか。

 

 

 


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仏印進駐

2022-09-15 06:47:01 | 日記

仏印進駐は、日本軍のフランス領インドシナ(仏印)への1940年北部進駐と、1941年南部進駐を指します。1907年に結んだ日仏協約でフランスは広東・広西・雲南を、日本は満州と蒙古・福建を自国の勢力圏として相互に承認していました。南部仏印進駐はアメリカに、日本に対する決定的な不信感をもたらし、太平洋戦争突入を不可避にしました。

1937年(昭和12年)7月日中戦争が勃発し、米英の蔣介石政権への軍事援助は仏印ルートでした。10月仏印政府は中国への輸出を禁止しましたが軍事援助は継続され、1938年10月日本は仏印政府に国境線の封鎖と、視察機関の派遣を要求し拒否されます。

1939年11月仏政府と再度交渉しましたが拒否され、11月24日日本軍は仏印国境に近い南寧を攻略しました。第21軍参謀長土橋勇逸少将がハノイで仏印総督ジョルジュ・カトルーと会談し、中印国境封鎖と南寧の日本軍への補給を求めましたが応じません。

1940年5月ドイツがフランスに侵攻しフランスが劣勢になると、6月17日仏印政府は武器弾薬・燃料・トラックの輸出を禁止する措置を取ると通告してきて、19日日本側は仏印ルートの閉鎖について24時間以内に回答するよう要求しました。カトルー総督はシャルル・アルセーヌ=アンリ駐日フランス大使の助言で、本国政府に請訓せず仏印ルートを閉鎖し、日本の軍事顧問団を受け入れます。

6月22日ヴィシー政権はカトルーを解任し、フランス極東海軍司令官ジャン・デクー提督を後任としました。8月「松岡・アンリ協定」が締結され、極東での日本とフランスの利益の相互尊重、仏印への日本軍の進駐と経済関係強化が合意されました。

大本営は平和裏に仏印進駐を行う前提で、西原一策少将に折衝を一任します。参謀本部第1部長富永恭次少将も現地入りし、8月30日デクー総督と会談しましたが、デクーは「フランス政府が協定に署名したとは聞いてない」と交渉を拒否します。

富永はフランス側に脅しをかけるため、第22軍に仏印への武力進駐の準備をさせ、東條陸相も許可しました。9月3日富永はデクーに最後通告を突きつけ、フランス側が折れて同日現地協定案を示します。

富永恭次少将(右)デクー総督(中央)西原一策少将(左)

フランス案は日本軍の行動領域や使用可能な飛行場などで日本側の希望とは異なりましたが、富永と西原はフランス案を受け入れ、9月4日現地司令官アンリ・マルタン将軍と西原の間で「西原・マルタン協定」が調印されます。

交渉妥結後の9月6日日本軍が道に迷って偶発的に仏印に越境する事件がおこり、マルタンが西原に「本国政府の回答あるまで現地交渉を中止したい」と通告してきました。フランス側にも米英に武器供与を要請したり、フランス砲艦が日本船に発砲する挑発行為があり、デクーと会見した富永は不信感を露わにして東京に帰り、陸軍の態度も武力進駐へ傾いていきます。

9月14日「佛印進駐に伴う陸海軍中央協定」の大命が下り、平和進駐を原則としつつもフランス軍が抵抗すれば、政府の指示を待たずに武力進駐に切り替えてよいことに決り、西原は平和進駐実現に向けてマルタンと交渉を続けました。

ここで富永が再度現地入りします。富永の権限は陸軍の指揮で、陸海軍代表の西原に及ばないはずでしたが、富永は参謀総長の職印を押した辞令を西原に示し「今次交渉期間は富永の命に従って行動し海軍には内密」と命じます。

富永は同じ東條派の南支那方面軍参謀副長佐藤賢了少将と謀議し、軍司令官の安藤利吉中将や第5師団長中村明人中将を集め、松岡・アンリ協定で定められた9月22日0時より前の9月21日12時までに交渉が妥結しない場合、拒絶と見なして出撃する準備を行うよう独断で指示しました。

9月17日富永と西原はマルタンと会談しますが、富永は独断で仏印進駐兵力を西原・マルタン協定の5,000人から25,000人に増やし、進駐する飛行場も3か所から5か所に増やして提示しました。

マルタンは富永の条件に難色を示して回答は18日となり、飛行場の5か所は受諾したものの25,000人の進駐は拒否しました。マルタンの回答は富永の要求と距離がありましたが、西原は直接陸軍中央にこの協定内容で打診、参謀本部が承諾して9月22日「西原・マルタン協定」が再締結されます。

富永は西原と参謀本部を非難し、第5師団への進撃中止の指示を出さずに現地を去りました。南支那方面軍も既に準備が進んでいる第5師団の進撃を止める意志はなく、参謀本部から「陸路進駐中止」との電文が入っても、中村第5師団長は西原からの「協定成立」の通報を無視して、9月23日未明に進撃を開始しました。

第5師団の無断越境の報告を受けた参謀本部は、深夜3時に進撃停止の大陸命を出しましたが、師団はドンダン要塞に進撃して既に戦闘が始まっており、現地軍の局地的交戦権は付与せざるを得ず、第5師団はこの「局地」を拡大解釈してさらに進撃、9月23日の11時にドンダン要塞を攻略し、明らかな武力進駐になりました。

南支那方面軍は第5師団を称賛し、第5師団は要衝ランソンも占領しましたが、デクーは「日本軍と戦ってはならぬ。それではインドシナを根こそぎ取られてしまう」と指令し、9月25日に停戦させました。

ハノイなど重要拠点に進駐した日本軍は、仏印内の飛行場や港湾を利用して援蔣ルートや中国本土攻撃を行いました。9月25日富永は報告のため参謀次長室を訪れましたが、沢田次長に更迭を言い渡され、富永は参謀飾緒を引きちぎって怒りを露わにしたといいます。

折角平和裏に進めていた仏印進駐を、富永らによって武力進駐にされてしまった西原は、大本営の沢田次長と陸軍省の阿南次官宛てに「統帥乱レテ信ヲ中外ニ失ウ」との電文を発しています。

1940年(昭和15年)9月27日我が国はドイツ、イタリアと「日独伊三国条約」を締結しました。アメリカは10月12日に三国条約に対する対抗措置を執ると表明、16日に屑鉄の対日禁輸を決定し、英領ビルマを利用した蔣介石への援助を続けます。

1941年に入ると、主要な資源供給先の米英の輸出規制で銅などの禁輸品目を増やされた日本は、資源の供給先をオランダ領東インド(蘭印)に向けました。蘭印政府に圧力をかけて資源の提供を求めましたが、オランダをかえって英米に接近させる結果となります。

陸海軍首脳は資源獲得のための南部仏印進駐を主張するようになり、南部仏印はタイ、イギリス領植民地、蘭印に圧力をかけられる軍事戦略的要地で、陸海軍は北部仏印進駐への反発が少なかったことから、南部仏印への進駐も米英の反発を招かない見通しでした。

仏印の軍事戦略的位置関係

南部仏印進駐に反対の松岡外相は6月22日に勃発した独ソ戦の戦況が伝えられると、ソ連への攻撃を主張して南部仏印進駐延期を唱えますが、25日大本営政府連絡懇談会で南部仏印進駐が決り、1941年7月2日の御前会議で裁可されました。

7月5日駐日イギリス大使ロバート・クレイギーが日本の南進について外務省に懸念を申し入れ、日本は情報漏洩に驚き進駐準備を延期しましたが、イギリスはこれ以上の警告は行いませんでした。

7月14日加藤外松駐仏日本大使がヴィシー政権副首相フランソワ・ダルランと会談して南部仏印への進駐許可を求め、ヴィシー政権は19日日本の要求を受け入れます。フランスの極めて早い受諾は、仏印軍が日本軍に対し明かに劣勢で、植民地の継続には日本軍にすがるしかないことが背景でした。

7月24日野村大使と米国サムナー・ウェルズ国務次官の会談が行われ、当時我が国は8割の石油を米国から輸入していましたが、ウェルズは対日石油禁輸に踏み切る可能性を警告します。翌25日ルーズベルト大統領と野村の会談が行われ、大統領は仏印を英・蘭・中・日・米によって中立化させる案を提案しました。

米閣僚は日本の南部仏印進駐を、日独伊三国同盟によるヨーロッパでのドイツと呼応した作戦と考えており、この疑問が氷解するまで日米間の交渉は無意義と判断していました。野村は「手ノ施シ様ナキニ至リタル」として、対日石油禁輸と日本資産凍結も不可避と報告します。

日本政府は南部仏印進駐の方針を変えず、7月28日に進駐を開始します。南部仏印進駐後の米国の態度は極めて強硬になり、8月1日米国は「全侵略国に対する石油禁輸」を発表し、その対象に日本を含みました。

米国の対日制裁のうち、特に航空機燃料、潤滑油、屑鉄、工作機械等の主要戦略資機材の禁輸の影響が大きく、この時期の日本における重要物資の海外依存度は石油92%(うち米国81%)、鉄鋼87%、ゴム100%、ニッケル100%でした。これらの制裁は日本陸海軍にとって予想外で、当時の石油備蓄は一年半分しかなく、海軍は石油がある内の早期開戦論に傾きはじめます。

8月2日野村が米閣僚と会談しました。米側は仏印中立化案についての回答を求めていましたが、日本は南部仏印進駐が平和的自衛的措置で支那事変終了後に撤退するという回答をし、米国の申し入れに対する回答になっておらず、ハル国務長官は日本が武力行使をやめることによって初めて、日米交渉が継続できると伝えました。

我が国は9月6日の御前会議で、10月上旬までに日本の要求が受け入れられなければ米英蘭と開戦することが裁可されました。10月2日ハル国務長官が「ハル四原則」の確認と中国大陸および仏印からの撤退を求める覚書を手交し、日本側はハル四原則に「主義上」は同意するが、「実際ノ運用」については留保する、中国大陸からは日中の和平が成立した後に撤退する、仏印からの撤退は日中の共同防衛が実現した後に行うと回答します。

11月5日東條英機が首相になった最初の御前会議で、12月1日零時までに日本の要求が通らなければ、12月上旬に真珠湾攻撃、英領マレー半島上陸により対米英戦争を開始することが裁可されました。日本側は日米の諒解案の最終「乙案」を11月14日アメリカに提示しましたが、この提案に米国は不満で11月27日に「ハル・ノート」がアメリカから手交されます。

11月28日野村大使、来栖三郎特命大使とルーズベルト大統領の会談が行われましたが、この席でハル・ノートが日本政府をいたく失望させたという日本側に対し、ルーズベルト大統領は「日本の南部仏印進駐により冷水を浴びせられた」とし、ハル国務長官も暫定協定が失敗に終わったのは「日本が仏印に増兵したことである」と日本側の対応を非難しました。

12月2日ハル国務長官が北部仏印でも日本軍の増派が行われていると非難し、日本側はこの増派は協定による合意内であると反論しましたが、日本海軍機動部隊はその前日に真珠湾に向けて出撃しており、マレー半島を目指した陸軍の大部隊を乗せた輸送船団も南方に向けて航行中でした。12月8日日本は米英に宣戦布告し、ここに太平洋戦争が勃発します。

皮肉なことに1940年の日本軍の北部仏印進駐は武力侵攻で、1941年の南部仏印進駐は仏印を植民地として残したいフランス側の理由で平和進駐に留まりました。仏印は終戦まで日本との貿易で経済危機を脱しましたが、我が国の南部仏印進駐は軍事戦略的意義が極めて大で、アメリカが見逃せるものではなく、我が国が対米戦争に突入する直接の原因となり、太平洋戦争の敗戦をもたらしました。

 

 


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石原莞爾

2022-09-01 06:17:48 | 日記

石原莞爾(いしわらかんじ)は昭和6年(1931年)関東軍で板垣征四郎とともに満州事変を起こした陸軍軍人です。昭和15年(1940年)に「世界最終戦論」を著し、30年後に日本を盟主とする東亜諸国とアメリカが世界最終戦争を行うことを想定して、アメリカに対抗できる資源と産業力を備えるために東亜諸国の独立と発展を援助し、東亜諸国が一体化する必要性を唱えました。

石原は帝国陸軍随一の異端児で上司に対しても自分の意見を大声で直言し、陸軍大学校教官、関東軍作戦主任参謀、同作戦課長、歩兵第4連隊長、参謀本部作戦課長、同第一部長、関東軍参謀副長、舞鶴要塞司令官、第16師団長を歴任、ドイツ駐在を経験、アジア主義や日蓮主義を標榜しました。最終階級は陸軍中将です。

明治22年(1889年)山形県の鶴岡で誕生。幼年期は乱暴でしたが利発で、明治28年(1895年)姉二人が石原を小学校に連れて行ったところ教室で大暴れし、校長が試しに1年生と一緒に試験を受けさせてみたところ1番の成績であったことから、1年間自宅で学習していたと云う名目で2年に編入されたそうです。

石原莞爾陸軍中佐(1934年)

明治35年(1902年)仙台陸軍地方幼年学校(予科)に合格して首席、明治38年(1905年)陸軍中央幼年学校(本科)に入り、明治40年(1907年)陸軍士官学校に入学、明治43年(1910年)卒業しました。士官学校では区隊長への反抗など態度が悪く、卒業成績は418名中13番でした。

配属された歩兵第65連隊では箕作元八の「西洋史講話」や筧克彦の「古神道大義」など軍事以外の哲学や歴史の勉学にも励み、盛岡藩家老で明治政府の外交官であった南部次郎から「アジア主義」の薫陶を受けました。大正4年(1915年)陸軍大学校に入り、大正7年(1918年)次席で卒業します。

陸大30期卒業生(石原は前列中央)

大正11年(1922年)ドイツへ留学し南部氏のドイツ別邸に宿泊、昭和2年(1927年)「現在及び将来に於ける日本の国防」を表し、満蒙領有論を展開しました。日露戦争に勝利した後のアジア主義は、欧州諸国の植民地と化したアジア諸国の革命勢力を日本が支援する思想に発展し、日中戦争初期には「東亜協同体論」から日本を盟主とする「大東亜共栄圏」構想へと繋がっていきます。

昭和3年(1928年)6月4日東三省(満州)軍閥の張作霖が乗った満鉄の専用列車が奉天郊外の柳条湖で爆破され、2日後に張作霖が死亡しました。この爆発は関東軍高級参謀河本大作大佐が我が国の満州支配の障害になる張作霖を除くために企画したものですが、日本国内では関東軍の関与が長く秘匿されました。

石原は同年10月に作戦主任参謀として関東軍に赴任、関東軍による満蒙領有計画を立案します。昭和6年(1931年)9月18日張作霖の息子の張学良が北京に滞在し、張学良の東北軍の主力が中国本土にいる隙を狙って、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と石原が懸案の満洲占領作戦を実行に移します。

3年前の張作霖爆殺事件の現場から数キロの柳条湖付近の満鉄線路上で爆発が起き、爆発自体は小規模で直後に急行列車が何事もなく通過していますが、関東軍はこれを東北軍による破壊工作として直ちに軍事行動に移りました。

関東軍は奉天の東北軍を一撃で破りますが、満洲土着の匪賊の跳梁を促して東北軍の敗残兵が加わって満鉄沿線の治安が悪化し、関東軍は沿線の治安維持にかかりきりになりました。若槻禮次郎内閣は陸軍の増派を認めません。

手詰まり状態の石原は10月8日独断で張学良が反攻拠点としていた錦州を空爆し、國際社会の注目を惹きました。若槻内閣と参謀本部は関東軍を抑え込み、12月初旬の関東軍の軍事行動は行き詰まります。

この時点で日本による東三省の委任統治構想が国際連盟で急浮上し、事態は若槻内閣によって収拾されるかにみえました。しかし幣原外相と会談したアメリカのスティムソン国務長官が、関東軍の錦州攻撃が今後は行われないと発表したため、幣原が外国の政権担当者と軍事の約束をしたとして国内世論の猛反発を招き、若槻内閣は12月に退陣しました。

死に体だった関東軍はこれで息を吹き返し、昭和7年(1932年)2月までに満州のほとんどを占領、3月には清朝の廃帝溥儀を執政として東三省を独立させて満洲国とし、満州の支配権を握りました。

満州国建国後石原は「王道楽土」「五族協和」をスローガンとした満蒙独立論を唱え、満州国の関東軍からの自立を主張しはじめます。石原は帝国主義戦争の最終戦で東亜諸国がアメリカと戦うことを予想し、アメリカに対抗できる資源と産業力を獲得するため、日本を盟主とする東洋諸国の独立と協和を目論んだのでした。

昭和11年(1936年)二・二六事件が起きます。石原は参謀本部作戦課長兼東京警備司令部参謀でしたが、陸軍中枢の将官は反乱軍に阻止されて登庁出来ず、統制派にも皇道派にも属さず、反乱軍から見て敵か味方か判らない石原だけが登庁し、反乱軍鎮圧の先頭に立ちます。

陸軍省の入口で部下に小銃を構えさせた安藤輝三大尉が石原の登庁を阻止しますが、石原は「何が維新だ。陛下の軍隊を私するな。この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ」と怒鳴りつけて参謀本部に入り、栗原安秀中尉にも拳銃を突きつけられ「昭和維新についてどんな考えをお持ちですか」と訊ねられ「俺にはよく分からん。自分の考えは軍備と国力を充実させればそれが維新だ」と答え、「こんなことはすぐやめろ。やめねば討伐するぞ」と罵倒し、事なきを得ています。陸軍部内で戒厳令発令を強力に主張し、二・二六事件の解決にあたったのは石原でした。

昭和12年(1937年)廣田内閣が総辞職し、宇垣一成大将に組閣の大命が降下しました。軍部主導の政治を目論んでいた石原を中心とする陸軍中堅層は、軍部ファシズムの流れに批判的で中国や英米にも穏健な姿勢の宇垣内閣が成立すれば、軍部の強力な抑止力となることが明らかなため、なんとしても組閣を阻止しようとしました。

石原は参謀本部を中心に陸軍首脳を突き上げて寺内寿一陸相を動かし、寺内は宇垣が大命を拝辞するように説得する役を中島今朝吾憲兵司令官に命じます。中島は参内途中の宇垣の車に乗り込み説得しますが、宇垣は応じませんでした。

石原は軍部大臣現役武官制に目をつけ、誰も宇垣内閣の陸相に就かないように工作し、宇垣は陸相を得ることが出来ず組閣を断念しました。しかし宇垣の組閣断念後の政治の流れは、石原の最も嫌う日本と中国の全面戦争、石原が時期尚早と考えていた対米戦争への突入と進み、石原は、後年、自分の行動を人生最大級の間違いだったとしています。

昭和10年以降、華北や内蒙古を中国国民政府から独立させ、日本の勢力圏とする工作が関東軍主導で活発化しました。対ソ戦に備えて満州での軍備拡張を目指していた石原は、中国戦線に大量の人員と物資が割かれることを避けようとします。

昭和11年(1936年)石原は内蒙古の分離独立工作をやめるよう関東軍説得に出かけますが、関東軍参謀の武藤章が「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と反論し、同席の若手参謀らが哄笑して石原は絶句したといいます。

昭和12年(1937年)支那事変のはじまった時期は参謀本部第一部長で、ここでも作戦課長の武藤らが強硬路線を主張し、参謀本部を不拡大方針でまとめることはできませんでした。

石原はこのままでは支那事変の早期和平を達成できないと判断し、最後の切札として近衛首相に「北支の日本軍は山海関の線まで撤退して不戦の意を示し、近衛首相自ら南京に飛び蒋介石と直接会見して、日支提携の大芝居を打つ。これには石原も随行する」と進言しましたが、近衛は応じませんでした。

当時陸軍の中枢を占めていたのは統制派です。昭和12年(1937年)9月参謀本部の機構改革で石原は関東軍参謀副長に飛ばされます。当時の関東軍参謀長は統制派の東條英機で、翌年春から満州国に関する戦略構想を巡って石原と東條の不仲は決定的なものになっていきます。

石原は満州国を満州人自らに運営させることを重視し、アジアの盟友として育てる気でしたが、これを理解しない東條を「東条上等兵」と馬鹿呼ばわりし、東条にとっても石原の言動は許すべからざるものになりました。

石原は昭和13年(1938年)6月病気を理由に関東軍参謀副長の辞任を申し出て、発令を待たずに内地に帰国し入院する暴挙に出ます。石原は板垣陸相の温情で、処分を受けずに同年12月に舞鶴要塞司令官に補され、昭和14年(1939年)8月には陸軍中将に進級して第16師団長に親補されましたが、昭和16年(1941年)3月東条陸相により待命となり、予備役へ編入されました。

舞鶴要塞司令官時代に立命館総長中川小十郎が日満高等工科学校設立の協力を石原に要請したのがきっかけで、立命館大学で東亜連盟に関する講演を行い、昭和15年(1940年)9月「世界最終戦論」初版が立命館出版部から刊行されました。

昭和16年(1941年)4月立命館大学が国防の知識を得ることが国民の急務だとして新設した国防学講座に石原が迎えられ、国防論、戦争史、国防経済論などの科目と国防学研究所が設置され、研究所長に予備役編入後の石原が就任します。

この間東條による石原の監視活動が憲兵によって行われ、講義内容から石原宅の訪問客まで、逐一、憲兵隊本部に報告されます。大学への憲兵と特高警察の圧力が強まったため石原は大学を辞し、この年の講義をまとめた「国防政治論」を昭和17年(1942年)聖紀書房から出版しました。「予は東條個人に恩怨なし、但し彼が戦争中言論抑圧を極度にしたるを悪む。これが日本を亡ぼした」との言葉が残っています。

太平洋戦争に対しては「油が欲しいからと戦争を始める奴があるか」と絶対不可を唱えました。この時期の日本の石油の海外依存度は92%(うち米国81%)で備蓄は一年半分しかなく、海軍も手持ちの石油が枯渇する前に開戦せざるを得ないと考えるようになりました。石原の主張が受け入れられることはありませんでしたが、石原の太平洋戦争回避策は、奇しくも、アメリカの最後通牒といわれるハル・ノートとほぼ同様の内容でした。

石原は極東国際軍事裁判の戦犯の指名から外れます。開廷前の検事団によるA級被告選定で、戦犯指定された石原広一郎を石原莞爾と勘違いしたことが原因で、気づいた検事が慌てて入院中の石原莞爾に面接しますが重態のため調書が作れず、最終的に被告リストから外されました。

山形県酒田の出張法廷で尋問を受けた石原は、判事に歴史をどこまでさかのぼって戦争責任を問うかを尋ね「およそ日清・日露戦争までさかのぼる」との回答に「それなら、ペルリをあの世から連れてきて、この法廷で裁けばよい。もともと日本は鎖国していて朝鮮も満州も不要であった。日本に略奪的な帝国主義を教えたのはアメリカ等の国だ」と持論を展開しました。

ベルリン時代を共に過ごした里見岸雄は「ドイツ留学からの帰途に米国に立ち寄るか」と訊かれた石原が「俺が米国に行く時は日本の対米軍司令官としてだ」と答えたのを聞いています。石原は夫人への手紙で白人を悪鬼と述べ、この地球上から撲滅しなければならないと憎悪を顕わにしています。

中央幼年学校時代の親友飯沼守は、石原が当時から法華経に関心を持ち、国防論を学びに海軍大学校の佐藤鉄太郎を訪れていたと語り、佐藤は田中智学と並ぶ日蓮主義の顕本法華宗管長本多日生の門人で、幼年学校時代の影響が後の石原の田中智学の国柱会入信に繋がったものと思われます。

歩兵第4連隊長時代には貧しい東北出身の兵の除隊後の生活の一助となるよう、アンゴラウサギの飼育を教え、除隊する兵に持たせました。同じ出身地の兵を中隊ごとに集めて内務班での私的制裁をなくし、連隊長自身が兵食を食べて内容と味の向上を図りました。

石原の代表的著書「世界最終戦論」は昭和15年(1940年)9月10日の出版ですが、最終戦争論は戦争形態や武器等の進化で戦争自体がやがて絶滅するという考えで、その前提条件として一発で都市を壊滅させられる武器や、地球を無着陸で何回も周れる航空機の存在を想定し、最終戦争は航空機や大量破壊兵器による殲滅戦略で極めて短期間で終るとしました。

二・二六事件の理論的指導者となった北一輝は、全世界に植民地を有する英国に代わって、我が国が理想とする政治的経済的形態で世界を統一し、旭日旗が全人類に天日の光を与える「八紘一宇」を唱えましたが、石原も世界最終戦争は天皇が世界の天皇となられるか、西洋の大統領が世界の指導者となるか、東洋の王道と西洋の覇道のどちらが世界統一の原理となるのかを決める、人類の歴史上空前絶後の大事件になると想定しました。

石原はその世界最終戦を30年後と予想し、それまでにアメリカに対抗できる資源と産業力を獲得するため、日本を盟主とする東洋民族の繁栄と協和を目論んでいたのですが、対米戦争は、翌年、始まってしまいます。

「軍人勅諭」には「上官の命を承ること実は直ちに朕が命を承る義なりと心得よ」の一節があります。軍隊が命令通りに行動しなければならないのは自明の理ですが、上官の命令を直ちに大元帥陛下のご命令と置き換えたことは、戦場の現場を把握していない参謀本部に対する現地指揮官の苦悩や、実戦経験のない新人士官が歴戦の下士官や古参兵を指揮する戦闘場面など多くの問題を生じました。

上官の命令が大元帥陛下のご命令でなければ、もっと上下間で貴重な情報や意見の交換が行われていたことでしょうし、このことは戦後何十年も経った現在も、政府のやることがどんなにおかしくても、まったく、何の声を挙げない国民性に繋がってしまっているように思えます。

石原は自分の意見を例え上司にであっても大声で直言したと伝えられ、云われた側もその意見に従わざるを得ない不思議な気迫と雰囲気を持っていたと云われますが、石原の直言は軍人勅諭のもつ重大な欠陥に必要不可欠な対応だったのでしょう。東条陸相が石原を退役に追い込まなければ、日米開戦の絶対に非なることを、あくまでも、主張する強力な陸軍将官の一人がいた筈になります。

 

 

 

 


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