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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

水戸学

2022-05-26 05:59:34 | 日記

「水戸学」は江戸時代の水戸藩の学風で、第2代藩主徳川光圀によって始められた「大日本史」の編纂過程で形成されました。第9代藩主斉昭のもとで尊王攘夷思想に発展し、明治維新の思想的原動力となります。光圀を中心とした時期を前期水戸学、斉昭を中心とした時期を後期水戸学としますが、儒学思想を中心に国学・史学・神道を折衷した点に特徴があります。

前期水戸学は1657年(明暦3年)水戸藩世子の光圀が江戸駒込別邸内に史局を開設、紀伝体の日本通史の編纂事業を開始し、藩主就任後の1663年(寛文3年)史局を小石川邸に移し「彰考館」としたことに始まります。

当初は林羅山の一門の編集者が多く、1665年(寛文5年)亡命中の明の遺臣朱舜水を招聘します。光圀は舜水に歴史の正統性の意味を説かれ、特に、南北朝時代の南朝の楠木正成の忠誠心を示唆され、北畠親房の「神皇正統記」の影響を受けました。日本の正史にとって北朝と南朝のどちらを正統とするのかは最大の課題でした。

舜水は陽明学も取り入れた実学派で、光圀の優遇もあって編集者も1672年(寛文12年)24人、1684年(貞享元年)37人、1696年(元禄9年)53人となり、40人から50人で推移しました。前期の編集者は他藩からの招聘者が多く、特に近畿地方出身が多くを占めました。

編纂過程では大日本史の編纂のほかに、和文や和歌などの国文学、天文・暦学・算数・地理・神道・古文書・考古学・兵学・書誌などの多くの著書・編纂物を残し、編集者を各地に派遣して考証・出典の明記・史料・遺物の保存に手を尽くしています。

大日本史は南朝正統論を唱えて後世に大きな影響を与え、光圀が亡くなった後も編纂事業は継続されましたが、1737年(元文2年)から50年ほど修史事業は中断されています。

第二代水戸藩主水戸光圀

第6代藩主治保の代に彰考館総裁立原翠軒を中心に大日本史の編纂事業が再開されました。この頃は藩内の農村の荒廃や蝦夷地でのロシア船出没などがあり、水戸藩は深刻な財政難に陥っていて館員らは編纂作業に留まらず、農政改革や対ロシア外交などの諸問題に取り組みました。

1797年(寛政9年)翠軒の弟子の藤田幽谷が藩主治保に上呈した意見書が、藩政を批判する過激な内容であるとして職を免ぜられます。この頃から大日本史編纂の方針を巡り翠軒と幽谷は対立を深め翠軒は幽谷を破門しますが、1803年(享和3年)幽谷は逆に翠軒一派を退かせて1807年(文化4年)総裁になり、幽谷門下の会沢正志斎、藤田東湖、豊田天功らがその後の水戸学の中心となります。

18世紀後半の日本近海では外国船が目立ち、幕府は1806年(文化3年)1月ロシアの漂着船には食糧等を支給し速やかに帰帆させる「ロシア船撫恤令」を出しましたが、「文化露寇」の被害を受けて1807年12月「ロシア船打払令」に代えます。

1824年5月28日英国船数隻が水戸藩領常陸大津浜沖に現れ、捕鯨船員が上陸して捕らえられました。藩は求めに応じ新鮮な野菜や水を補給して釈放しましたが、幽谷派はこの対応を弱腰と捉え水戸藩に攘夷思想が広まります。翌年会沢正志斎が尊王攘夷の思想を体系化した「新論」を著し、1825年「異国船打払令」の一因となって幕末の志士に多大な影響を与えました。

1829年(文政12年)10月斉昭が第9代藩主になります。財政の危機を含めた藩政全般の沈滞に強い改革の念をもっていた斉昭は、すぐさま、藤田東湖、会沢正志斎ら改革派の藩士を要職に抜擢します。1830年1月「藩士は文武に励み、藩士はその地位にかかわらず遠慮なく意見書を出すこと」と藩主として初めての布達を出し、社会、経済、政治問題を解決する名目で水戸の士民を改革運動に動員していきます。

第九代藩主水戸斉昭

水戸藩は江戸定府で参勤交代がなかったため、斉昭は1833年(天保4年)藩主として初めて領国入りし、飢饉に苦しむ農村を回りました。役人に改革を督励し、改革派を積極的に登用して人事の刷新を図り、藩士の教育を喫緊の課題とします。

当時の水戸藩は士風が頽廃していて多くの藩士は何世代も奢侈の禁令を黙殺してきました。斉昭は家臣のあるべき姿について平服・素食・忠義・奉公・学問・公益を重視し、この理念の実現のために「告志篇」を著して水戸学の思想を示します。武士社会の秩序と価値を示して道徳教養を督励したもので、神国思想に基づく国家中興、忠孝一致、文武一致、職務に関わる上下一致、奢侈の戒め、武士の心構えなど10項目が提示されました。

藩士の強い絆を通じて正直と忠義が培われ、武士が統治階級として立ち上がるようにしたい、そのためには武士にふさわしい教育を受けさせなければならない。斉昭は藩政改革を担う人材を育てる学校の建設を藤田東湖に命じ1837年(天保8年)藩校「弘道館」を設立、彰考館総裁の会沢正志斎を教授頭取としました。この教育理念は「弘道館記」に示され、著者名は斉昭ですが実際の起草者は東湖で「尊皇攘夷」の語がはじめて用いられます。

斉昭は武士の鍛錬に「追鳥狩」を行いました。これは狩りと称した大規模な軍事演習で、1840年(天保11年)に行なわれた最初の追鳥狩には3千人の武士と2万人の雑兵が参加し、1858年(安政5年)までに斉昭は9回の追鳥狩を指揮し、攘夷を考える大名として高い評価を得ました。またオランダ語の教本と長崎から雇い入れた人材によって西洋式の近代火器を製造、領内の海岸に藩士を移住させて海防を担わせ、これらも水戸藩の声価を高めました。

尊敬してやまない第2代藩主光圀の政治に対する姿勢、施策に範を取り、東湖の主導で行なわれた検地、税制の改革、行政改革だけでなく、仁政を目的とした愛民専一の農村改革を進めて家臣団の態度を改めさせようとし、武士の生活を支えている農民の苦労に思いを寄せ、農民に感謝する気持ちをもつよう教え諭します。

斉昭は水戸に壮大な庭園「偕楽園」を造り、梅と桜に加えて千波湖を見下ろす台地に詩歌を詠み茶会を催す「好文亭」を設けました。斉昭は弘道館で学んで「張り詰めた」心身を「弛める」場所が偕楽園であるとして、弘道館と偕楽園を一対の施設とし、江戸時代の大名の庭園はいずれも民に開放されていませんが、偕楽園は水戸士民すべてに開放され、この発想は斉昭が民を藩の重要な担い手と認識していたことを示します。

天保の飢饉(1833~1837年)が東日本を襲ったのは斉昭の治世の初期でした。斉昭の改革は生活改善どころかかえって混乱を招きます。豪農・神官・猟師などは水戸学を背景とした改革派学者たちの思想を理解し斉昭の改革を支持しましたが、大多数を占める農民は改革から得られる恩恵が少なく、かえって富農と一般農民の間の緊張が高まり、村人たちは徒党を組んで藩に訴えを起こしました。

天保期は江戸時代で百姓一揆が最も多く発生した時期です。1836年(天保7年)の甲斐一国を巻き込んだ大規模な「甲斐郡内一揆」を斉昭は重視し、飢餓が迫った水戸藩内の百姓に備蓄米を分け与えて、餓死者を出さず、百姓一揆を起こさずに天保飢饉を乗り切り、政治基盤を固めました。

1844年(弘化元年)斉昭が、突如、幕府から改革の行き過ぎを咎められ、藩主辞任と謹慎の罪を得て改革が挫折します。斉昭の側近の改革派の家臣たちにも謹慎が言い渡されました。この謹慎中に東湖が執筆したのが弘道館記の解説書である「弘道館記述義」です。

この中で東湖は本居宣長の国学を大幅に採用し儒学の会沢らの批判を招きつつも、尊王の絶対化と広範な民衆動員を図る思想が、弘道館の教育方針に留まらず藩政に大きな影響を与えました。同時期に東湖の著した「回天詩史」「和文天祥正気歌」は佐幕派にも、倒幕の志士たちにも愛読されます。

1853年(嘉永6年)ペリーの来航が水戸藩改革派に復権をもたらします。斉昭は幕政参与に就任し、東湖らも斉昭側近に登用されて農兵の編成など軍事改革が進められました。しかし1855年(安政2年)「安政の大地震」で東湖が亡くなり、1859年(安政5年)の「安政の大獄」で斉昭が再び処罰されて、水戸藩は政治的、思想的に混迷を深めていきます。

1858年(安政5年)水戸藩に「戊午の密勅」(ぼごのみっちょく)返納問題が起こりました。戊午の密勅は孝明天皇が幕政改革を指示する勅書を水戸藩に直接下賜した事件で、この勅諚は幕府による「日米修好通商条約」締結後の朝廷への度重なる非礼を咎め、謹慎中の斉昭を中心とする幕政改革を求めたものでした。

「安政の大獄」による斉昭の永蟄居、1864年(元治元年)の「天狗党」挙兵、これに対する「諸生党」による弾圧、明治維新後の天狗党の報復など、水戸藩は激しい内部抗争で疲弊します。

「大日本史」は質の高い漢文体で書かれ、記事の出典を明らかにし、考証に気を配ったものです。大日本史の命名は光圀ではなく1715年(正徳5年)第3代藩主綱條によります。日本では史書は編年体で編纂されるのが常でしたが、大日本史は個人の伝記を連ねて歴史を記述する紀伝体で書かれ、中国の司馬遷が「史記」で始めた帝王の伝記「本紀」と重臣の伝記「列伝」を中心とする形式でした。

神武天皇から後小松天皇まで、厳密には南北朝が統一された1392年(元中9年/明徳3年)までを区切りに百代の帝王の治世を扱い、「本紀」(帝王)73巻、「列伝」(后妃・皇子・皇女、群臣)170巻、「志」・「表」154巻、全397巻226冊(目録5巻)からなります。

本紀・列伝は光圀存命中にほぼ完成していて、明治になって水戸徳川家に残された事業として栗田寛を中心に志・表の編纂が進められました。1657年(明暦3年)光圀が大日本史編集事業を開始してから、1906年(明治39年)10代藩主慶篤の孫の徳川圀順が完成させるまで、249年の歳月を要しています。

大日本史では神功皇后を皇后伝に列したこと、大友皇子を帝紀に列したこと、南朝正統論を唱えたことが三大特色とされますが、全体が尊皇論で貫かれ幕末の思想に大きな影響を与えました。

弘道館所蔵の大日本史

明治天皇は光圀、斉昭に正一位を贈り、光圀、斉昭を祀る神社を別格官幣社に列しました。1906年(明治39年)大日本史全402巻が明治天皇に献上されると、編纂に用いた史書保存のための費用が下賜されて「彰考館文庫」が設けられ、大日本史編纂の功績で水戸徳川家は徳川家宗家と並んで公爵に陞爵されます。

水戸学は第二次世界大戦後、天皇制や軍国主義の思想として否定的に捉えられるようになりましたが、「尊王攘夷」という言葉を最初に使ったのは倒幕の主体となった薩摩藩、長州藩ではなく、徳川御三家であった水戸藩です。徳川幕府が倒れ、明治新政府が近代国家になる大きな時代の変化をもたらしたきっかけが水戸学であった事実は、歴史上、忘れ去るわけにはいかないでしょう。

 

 


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北 一輝

2022-05-12 06:29:12 | 日記

「北 一輝」(きた いっき)は100年前の思想家、社会運動家、国家社会主義者で、二・二六事件の皇道派青年将校の理論的指導者として逮捕され、軍法会議で死刑判決を受けた唯一の民間人です。

北一輝

1883年(明治16年)佐渡の両津湊町の裕福な酒造業北慶太郎の長男として生まれ本名は輝次郎、父慶太郎は初代両津町長を務めました。小学校の半ばで右の眼が悪くなり1年間休学し、1897年(明治30年)に佐渡中学校に一期生として入学、翌年とび級試験を受け3年生に進級します。1899年(明治32年)東京へ出て眼科の権威による手術を受けましたがよくならず、1900年(明治33年)に眼病による学業不振で5年生へ進級できず、父の家業が傾いたことも重なり退学しました。

1901年(明治34年)上京した際、幸徳秋水や堺利彦らの平民社の運動に関心を持ち社会主義思想に接近しました。帰郷後に右目を失明、佐渡新聞に「日露開戦論」「国体論批判」などの論文を発表し、国家や帝国主義に否定的だった幸徳たちとは一線を画し、国家を前提とした社会主義を構想して「国民対皇室の歴史的観察」では天皇は国民に近い家族のような存在だとしましたが、たった2日で連載は中止になりました。

早稲田大学政治経済学部に入り有賀長雄や穂積八束の講義を聴き、独自に研究を進めて1906年(明治39年)「国体論及び純正社会主義」を刊行、内容は法学・哲学・政治学・経済学・生物学など多岐に渡り、それらを統一的に論じ、学問の体系化を試みた特徴があります。発売から5日で発禁処分となり要注意人物として警察の監視対象になりました。

宮崎滔天らの革命評論社同人と知り合い中国革命同盟会に入党、革命運動に身を投じます。1911年(明治44年)10月黒龍会「時事月函」特派員記者として上海に行き、宋教仁のもとに身を寄せました。日本の対中外交の転換を促し、日本が「対華21カ条要求」を中国に認めさせたことを批判しています。

1916年(大正5年)頃から「一輝」と名乗ります。1920年(大正9年)「国家改造案原理大綱」(ガリ版47部、後の日本改造法案大綱)を書き上げ、上海を訪問した大川周明に帰国を促されて12月31日帰国しました。1921年(大正10年)1月4日から猶存社の中核的存在として国家改造運動に関わるようになりますが、1923年(大正12年)猶存社は解散しました。

1923年(大正12年)「日本改造法案大綱」が改造社から一部伏字で発刊されます。北は議会による日本改造に限界を感じて軍事革命による改造を唱え、二・二六事件の首謀者の青年将校、村中孝次、磯部浅一、栗原安秀、中橋基明らに影響を与えました。また私有財産や土地に一定の制限を設けて資本の集中を防ぎ、華族制度に触れて特権階級が天皇と国民を隔てる藩屏を指摘し、その撤去を主張します。

1936年(昭和11年)二・二六事件で逮捕。1937年(昭和12年)8月14日民間人であるにもかかわらず、特設軍法会議で二・二六事件の理論的指導者の一人として死刑判決を受け、事件の首謀者の一人とされた退役陸軍軍人西田税とともに8月19日銃殺刑に処されました。満54歳でした。

裁判では青年将校たちの決起に自分は関係がないと主張しながらも、青年将校たちに与えた思想的影響についてはまったく否定せず、死刑判決を受け入れています。墓は佐渡市吾潟の勝広寺青山墓地と東京都目黒区の天台宗瀧泉寺(目黒不動尊)にあり、目黒不動尊の境内には1958年(昭和33年)に建立された「北一輝先生碑」があります。碑文は大川周明です。

北一輝先生碑

「日本改造法案大綱」の緒言は、大日本帝国が未曾有の国難に臨んでいる指摘から始まります。天祐は六千万同胞の上にあり、英米独露すべて信ずるに足らず、我が国は50年で人口が2倍となって、100年後には2億5千万人を養う大領土を余儀なくされると述べ、日本国民は国家存立の大義と国民平等の人権とを理解し、大日本帝国をいかに改造するかの国論を定め、全国民の大同団結を以って天皇大権の発動を奏請し、速やかに国家改造の根基を全うせざるべからずと唱えました。

天皇は国民の総代表たりとし、日本の国体の第一期は藤原氏から平氏に至る専制君主国時代で、理論上天皇はすべての土地と人民を所有し生殺与奪の権を有した。第二期は源氏より徳川氏に至る貴族国時代で、各地の諸侯が土地と人民を私有した。この間天皇は小君主の盟主たる幕府に栄光をもたらす役割であった。第三期は維新による民生国時代で、天皇は純然たる政治の中心の意義を有し現代民主国の総代表となったと分析します。

諸外国の唱えるデモクラシーはすべて科学的根拠がなく、国家元首が下級俳優のごとく当選を争うのは奇異なる風俗とし、華族制度を廃止して天皇と国民とを疎隔してきた藩屏を除き、貴族院を排し審議院を置いて衆議院の決議を審議させ、審議院は勲功者間の互選及び勅撰によることを提唱しました。

25歳以上の男子は普通選挙で衆議院選挙の被選挙権・選挙権を有するが、女子は選挙権を有しない。これは我が国の女子が覚醒していないという意味ではなく、我が国では武士が婦人の人格を同一程度に尊重し、夫人の側より男子の眷顧を全うするのを婦道としたためで、国民の母、国民の妻たる権利を擁護しうる制度に改造すれば、日本の婦人問題のすべては解決され、婦人を口舌の徒とするのは戦場で用いるより良くないとしました。

一家の所有する財産の限度を壱百万円とする。限度を設けて私有財産を認めるのは私有財産を認めない社会革命説とは異なり、自由の物質的基本を保証することによる。民主的個人の人格的基礎は私有財産であり、私有財産を尊重しないのは原始共産主義のみである。

私有財産限度超過額はすべて無償で国家に納付させる。現時の大資本家、大地主等の富は悪い社会制度により少数者に蓄積されたもので、この限度超過額の納付は無産階級の復讐的なものではなく、国家は納付金を国家に対する功労として表彰すべきである。私人が壱百万円を有すれば物質的享楽、活動に不足はない。

一家の所有すべき私有地限度は時価十万円とする。時価十万円として小地主と小作人の存立を認めるのは一切の地主を廃止する社会主義と異なり、私有地限度を超える土地は国家に納付させるもので、日本の現時点での大地主はまったく近代の所産に過ぎず、この私有地限度の徴収は所有権思想の変更ではなく、単に国家の統一と国民大多数の自由のために少数者の所有権を制限するに過ぎない。

私人生産業の限度を資本壱千万円とするが、私有財産の制限とはまったく異なる。私人生産業限度を超える生産業はすべて国有とし、国家の統一的経営とする。鉄道、電信のごとき明白な社会的機関を私人の私有にさせてはならない。

国家の生産的組織は銀行省・航海省・鉱業省・農業省・工業省・商業省・鉄道省で、私人生産されることはない。塩、煙草の専売制は廃止する。遺産相続税は親子の権利を侵す。

労働賃金は自由契約を原則とし労働争議は労働省が裁決する。労働者は生産に従事する者で軍人、官吏、教師は労働者ではない。労働時間は一律に八時間制とし、日曜祭日を休業にして賃金を支払う。農業労働者は農繁期の時間の延長に応じて賃金を加算する。労働者の利益配当は私人生産に従事する者はその二分の一を配当する。国家的生産に従事する労働者はこの利益配当に代わるべき半期ごとの給付を得る。借地農業者の擁護のため国民人権の基本に建てる法律を制定する。

満十六歳以下の幼年労働を禁止する。尊属庇護のもとの家庭内労働はこの限りでない。婦人労働は男子とともに自由にして平等であるが、改造後の大方針として国家は婦人に労働を負荷せしめざる国是を決定する。

現時の農業、工業で婦人を駆使するのはやむを得ないが、大多数の婦人の使命は国民の母たることであり、妻として男子を助ける家政労働の他に、母として小学教師に劣らざる教育的労働をしている。この改造で男子労働者の利得が優に妻子の生活を保障するに至れば、良妻賢母として婦人労働者は労働界を去るべきである。

婦人は家庭の光にして人生の花である。婦人が妻たり母たる労働のみになれば、夫たる労働者の品性を向上せしめ、次代の国民たる子女を益々優秀ならしめ、国家は百花爛漫春風駘蕩となる。特に社会的婦人の天地として、音楽美術文芸教育学術等の分野に荒漠たる未墾地がある。

国民の生活権利としては、十六歳未満の父母または父なき児童は国家の児童として国家の養育、教育を受けるべく、国家はその費用を児童の保護者を経て給付する。貧困にして実男子または養男子のいない六十歳以上の男女、父または男子なくして貧困かつ労働に耐えない不具廃疾は、国家が扶養の義務を有する。

国民の教育の権利として期間を満六歳から十六歳までとし、男女を同一に教育する。英語を廃してエスペラントを第二国語とする。女子を男子と同一に教育するのは、十六歳までの女子は男子と区別する必要がないからである。女学校特有の茶湯、生花、裁縫、育児は各家庭で父母の助手として自ら習得すれば足りる。

英語は国民教育として必要ではない。日本は英語を強制される英領インドではない。英語による浅薄なる基督教、デモクラシー、平和主義、非軍国主義の文化運動は千百害がある。日本が将来極東シベリア、豪州等を主権下に置くとき、日本語を彼らが日本人と語るときの公語たらしめると、百年を出でずして日本領土内の各国語は国際語のために滅ぶ。言語の統一なくして大領土を有することはできない。

婦人人権の擁護として、夫や子が自己の労動力を重視して夫人の分科的労働を侮蔑すれば、婦人人権の蹂躙と認める。有婦の男子の畜妾またはその他の婦人と姦したるものは、婦の訴えで婦人の姦通罪を課罰する。売淫婦の罰則を廃止、それを買う有婦の男子は拘留または罰金に処す。男子の姦通罪を罰するのは一夫一婦制の国民道徳の大本を明らかにするためである。この一夫一婦制は理想的自由恋愛論の徹底した境地である。

国民人権の擁護では被告人は罪人にあらず、国民は平等なるとともに自由なり、自由とは差別の議なりと説きます。この差別の意味は分かりにくいのですが、個々の人権は平等であり、個別化の自由は擁護さるべきと云う意味にとれます。

勲功に伴う年金が少額であることは不可で、すべての栄光は物質的条件を欠くべからずとし、限度以下の私有財産は国民の権利で、国家は国民の大多数に数万、数十万の私有財産を持たせることを国策の基本とする。社会主義、共産主義を誤解して、私有財産を分与するもののように理解するのは間違いである。

私有財産の限度額を超える超過額を国家に納入するのを欲せず、自身の欲望に従って酒色遊蕩に消費しても問う必要がない。遺産相続は長子相続制でなく、父の遺産はその子女に平等に相続させる。

ここまでが北が述べてきた我が国の国体改造論で、100年後の今日でもほとんど異議はないものと思われますが、これ以後の主張が問題です。「第七章 朝鮮その他現在および将来の領土の改造方針」に関しては私は同意できません。

後年の我が国の大東亜共栄圏構想並びに八紘一宇の思想そのもので、将来の新領土は異人種異民族の差別を撤廃して日本自ら欧米に範を示すものと論じ、豪州にインド人種、支那民族を迎え、極東シベリアに支那朝鮮民族を迎えて先住の白人種と統一し、もって東西文明の融合を支配し得るものは唯一大日本帝国あるのみと主張します。

「終章」では日本国民は速やかに日本改造法案大綱に基づき国家の政治的経済的組織を改造し、来たるべき史上未曾有の国難に面すべしと主張します。日本の人口が100年後に2億5千万人となり、これを養う大領土の必要性を余儀なくされるという北の予測からの発想で、全世界に植民地を有する英国に代わって、我が国が理想とする政治的経済的形態で世界を統一し、日本国の栄光のもとに旭日旗が全人類に天日の光を与えると云う北の主張には少なからざる違和感があります。

しかしながら日米開戦の前年1940年、第二次近衛文麿内閣は「基本国策要綱」に「大東亜共栄圏」構想を掲げました。欧米勢力をアジアから排除して日本・満州国・中華民国を中軸とし、英領インドまでを含む広域の政治的、経済的共存共栄を図る構想でした。

1940年(昭和15年)は皇紀二千六百年に当たるとして、日本書紀にある神武天皇の「八紘一宇」(あめのしたをおおいて いえとなす)を我が国の肇国の大精神として基本国策要領に盛り込み、中国、東南アジア侵略を正当化する理由としました。我が国は二・二六事件以後、正に、北の主張した方向に動いていくのです。

軍事革命を目指した二・二六事件は鎮圧され、北の思うようには戦前の日本国の改造は行われませんでしたが、戦後に実現した北の提言は数多くあり、当時の我が国の現状分析とその対策についての北の判断の確かさは余人の追従を許しません。

北の主張は天皇機関説が憲法解釈であった「大正デモクラシー」の自由な時代を背景に生まれたもので、国家を前提とした社会主義を構想して天皇は国民に近い家族のような存在だとしましたが、北の主張する国家改造案は国家反逆罪の人物の主張として多くの国民の知るところにはなりませんでした。

戦後GHQは我が国の戦前、戦中、戦後の歴史をすべて封鎖しましたが、その封鎖も解け、発禁になった北一輝の日本改造法案大綱の全文も読めるようになり、大正デモクラシーが昭和の軍国主義に代わって天皇が「現人神」として神聖視され、「八紘一宇」を唱えるに至った我が国の歴史の流れに正面から向き合い、中国侵攻から対米戦争へと第二次世界大戦に突入した経過を解析できる時代になったのは、大変意義が深いことだと思います。

 


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