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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

度忘れ

2013-11-29 06:38:03 | 日記
とっさに人の名前が思い出せない、物の名前が思い出せないのは、歳をとるにしたがって顕著になります。時には家族の名前すら、とっさには出なくなったりします。物の名前を「あの時の、あれ、あれ」で代用するのはしょっちゅうです。

人の名前が出ない度忘れは、私の場合、30歳台後半に始めておきました。電話をかけて相手の交換台が出たのに、繋いでもらう人の名前が、どうしても出てこないのです。ぼうぜんとして電話を切った後の、自分の慌てよう,情けなさは、今でも鮮明に覚えています。幸い、その後、この症状が急速に進行することはありませんでした。

度忘れのひどい伯父がいました。50歳になる前から、「なにが、なにが」を連発していて、これ以上歳を取ったら、どうなるのだろうと思っていたものです。しかし何と100歳を越えても、毛筆で年賀状が来るのには脱帽でした。これから考えると、度忘れは老化の一症状には違いないのですが、すぐに全面的な痴呆に向かう症状ではありません。

ある専門家の説明によると、歳を取ると、同じ名前に出会うチャンスが、若い時とは比較にならないほど減る。繰り返して脳に、同じ名前を刻み付けるチャンスが少なくなるから、思い出せるチャンスも減るというのです。

確かに社会から退いて毎日が日曜日になると、同じ人の名前を繰り返して脳に刻みつける機会は、まったくと云っていいほどなくなります。物の名前も同じです。そういう指摘は、確かに当っていると思うのですが、そう思う反面、あまり納得のいかないところもあります。

若い時には瞬時に何でも記憶できたし、すぐに抜けてしまうことはなかったし、当分は、忘れないという自負もあったのです。つまり、繰り返して脳に刻み付けなくても、1回で間に合ったのです。

こういうことから考えると、度忘れだと思っていることの内容は、日常繰り返し使っている言葉が、突然、出てこない、本当の意味の度忘れと、日頃はまったく縁のない過去の人や物の名前が出てこない、本当の意味での物忘れの2つが、混じっているのではないかと思われます。

本当の意味での物忘れという云い方は変ですが、度忘れではないこちらの方の物忘れは、他人との会話で人や物の名前が繰り返されたり、何かのきっかけである出来事が頻繁に思い出されたりすると、容易に改善されます。しばらくは記憶として維持ができて、学習効果が確かにあるようです。

しかし度忘れは、そうはいかないのです。学習効果とはまったく無縁で、ほんの少し前まで出ていた、しょっちゅう馴染んでいる人や物の名前が、突然、出てこないのです。その代わり、突然、また出てくるようにもなるのです。

記銘力も歳とともに、衰えてくるのは明らかです。今、聞いた名前が、次の瞬間、もう思い出せません。ちらりと見た他人の車のナンバーなど、まったく記憶に残りません。

歳をとってとっさにおこる不都合に、もう1つ勘違いがあります。勘違いも記銘力の低下が、とっさの判断に影響しているのだと思いますが、若い時には絶対に起こりえなかったような勘違いが、結構おこります。これも防ぎようがないのですが、直ぐに反応しなくてもよい日常生活上の勘違いは、是正するチャンスがありますから実害を生じません。

しかし直ぐに反応して行動しなければならないような、例えば、車の運転中の勘違いは、取り返しのつかないことになりかねません。私は幸い、自分から事故を起こすことなく、50年も運転してきましたが、勘違いで無事故の記録が破れない内に、運転免許証は返上することにしました。

歳をとって度忘れや勘違いが頻発するからと云って、昔の記憶が消えてしまったわけではありません。何かのきっかけがあると、過去の出来事もかなり鮮明に思い出すことができます。ことに、その時の印象が強烈だったものについては、内容がよく再現できます。

脳が記憶する仕組みや、思い出す仕組みがどうなっているのかは知りませんが、一旦刻み付けられた記憶はそのまま脳に保存されていて、記憶が蘇るかどうかは、しまい込まれた記憶を手繰りだす経路の問題、もしくは経路が動き出すための、きっかけの問題であるように思えます。

60歳を超えるころから、若い時ほど明確に記憶を保持することができなくなり、仕事上、メモを活用するようにしました。メモさえあれば、記憶が蘇り、記憶の内容が再現できれば、仕事はできるのです。

公式に記録の残る案件は除いて、いつ、だれと、どんな話をしたか、簡単なメモを残すようにして、仕事の落ちがなくなりました。メモをきっかけに思考を加えて、仕事を発展させるのにも繋がりましたし、若い人たちに頼んだ仕事もチェックできるので、頼みっぱなしがなくなる効果もありました。

いまでは社会の第一線から退きましたから、身近にはメモをとる仕事はなくなりました。社会一般の出来事のメモは、もっぱらインターネットのお世話になっています。自分でメモをとらなくても、インターネットが代わりに充分な記録を残してくれています。

近頃のインターネットの情報量は、まったくすごいものです。社会とのじかの接触がなくなって、情報収集の機会の減った老人にとっては、本当に有難い世の中になったものです。テレビが見るに堪えないほど質が劣化した今日、インターネットでの情報収集量は増えるばかりです。

度忘れとか、物忘れとか、勘違いと云った問題ではないのですが、もう一つ、歳とともに不便になってきたことに、同時に複数の音の内容が、聞き分けられなくなったことがあります。聖徳太子は、厩戸豊聡八耳命(うまやとのとよやつみみのみこと)と呼ばれて、同時に多数の人の訴えを聞くことができたと云われます。私にしても、昔は複数の音を聞いていても、それぞれの音の内容を把握できたように思うのですが、最近はできないのです。

耳が遠くなったのかなとも思っているのですが、単一の音の聞こえが悪くなったわけでもないのです。話している相手の言葉と、テレビの音声などの内容が、同時には把握できなくなっているのです。

どちらか片方の音に集中してしまえば、そちらの音は把握できます。もう一つの音が、例えば、雷が鳴ったような単純な音なら、当然、雷とは理解できますが、雷も音が小さい時には、聞き逃してしまうことがあります。

このことは、いくつかの動作を、同時に進められなくなったことにも通じます。若い時は、音楽を聴きながら文章を書き、他人の話を小耳にはさんでいて口を出すことは、苦もなく出来ました。若い時に複数の事柄に、同時に気を配ることが出来たのは、自分の職業の上で、大変良いことだったと思っているのですが、今では、同時並行が成り立たないのです。

なにをするにも1つのことに絞らないと、エラーが多くて仕事にならないのです。1つのことをやっている時には、他のことには、まったく、注意が向かなくなりました。若い時には1つのことに集中するのは、簡単にできることではなかったのですが、歳をとってみたら、他のことには気を配れなくなっていたのです。老化現象には違いないのですが、見方を変えれば、理想的な集中力を獲得したのかなと思ってもみるのです。

上に述べた歳をとってからの現象を、私はまだら呆けと名付けました。まだらに当たった時は、正に、呆けなのですが、まだらでない部分の方が、まだ、幸いにも多いようで、このまだらでない方の部分で老後の社会生活を送り、ブログを書いているわけです。まだらでない部分の客観的な評価は、世間様にお任せです。

セカンドカー

2013-11-23 06:22:36 | 日記
最近は、若い人の車離れが伝えられていますが、東京では、ファーストカーすら持たない人が増えてきました。なにしろ通勤には使えないのですから、休みの日に乗るだけのマンション居住者にとっては、駐車場の料金だけでも馬鹿になりません。都内では混んだ道路を走るより、電車や地下鉄の方がずっと速く目的地に着けるのです。

この反対に、地方では公共交通機関がまったく利用できず、自家用車しか交通手段のないところばかりです。子供が成人すると、勤め先に通うのに車は必然となり、3台目、4台目が必要になる家庭もあります。地方では、駐車スペースに困らないのが救いです。

御殿場に住んでいた時期、毎日の買い出しに行くのにも車は必要でした。1台が通勤に使われれば、どうしても2台目が要るのです。セカンドカーは、長距離を走るのが目的ではなく、近場の用が足せればいいのですから、選ぶときには、当然、1台目とは違う選択になります。

最初に選択したのは、トヨタのヴィッツでした。当時、日産には2代目マーチがありましたが、スタイルが垢抜けず、対象にはしませんでした。沼津の平らな場所で試乗したヴィッツは、1000㏄でも活発な走りを見せてくれました。日常の用を足すのにはこれで充分と、この愛嬌のある車が、結構、気に入ったものです。

御殿場の市内を走っている限り、何の不自由もありませんでしたが、買い物には、しばしば、20キロ離れた沼津まで行くのです。往路は快適ですが、帰りはいささか、そうはいかないのです。沼津は海抜ゼロメートルですが、御殿場は450メートルの高いところにあるのです。

夏は涼しくて快適な避暑地ですが、御殿場に向かう帰路は、登りがきつくなります。1000㏄のヴィッツでは、トップのままで長い上り坂を走るのはかったるく、1段ギアを落とさなければならないのです。最初の車検を迎える前に、この非力さに我慢し切れなくなりました。

ヴィッツは1999年、2000年に日本カーオブザイヤーを受賞し、欧州カーオブザイヤーも受賞しています。それまで販売台数の多かった、カローラを上回る台数を販売しました。上り坂での非力さはあっても、トヨタの生んだ名車の1つであるのは間違いないと思います。

ヴィッツの次に目をつけたのは、プジョー206です。プジョー206は、それまでのピニンファリナデザインではなく、1998年のパリサロンで発表された社内デザインのお洒落な車です。その垢抜けたイメージと、輸入車としては手頃な価格が受けて、1999年5月の発売以後、2000年には日本での年間販売数が1万台を超えました。同車をベースとするWRC206は、世界ラリー選手権で2000年以降、3年連続優勝をおさめるなど、モータースポーツでも活躍しています。

実際に手に入れてみると、プジョー206は確かにお洒落な、ヨーロッパ育ちの洋装の令嬢なのです。それまでのヴィッツとは違って、外車に乗っている優越感をもって走れたのは、間違いありません。ヴィッツは頭に手拭いをかぶって、半纏で赤ん坊をおんぶした、ほっぺの赤い日本のお姐さんでした。

206に乗ってみて、プジョーがフランスで最も売れている車である理由は分かりました。206に買い替えたことに後悔はありませんでしたが、当時乗っていたファーストカーはメルセデスのSクラスでしたから、1.6Lのモデルが手に入らず、1.4Lで我慢した206では、やはり御殿場へ向かう上り坂での淑やかさは、いかんともし難いのです。

セカンドカーを探しはじめる前から、BMW3tiの走りが気になっていました。3シリーズの大型化と価格上昇に伴い、よりコンパクトでリーズナブルな価格で発売された車です。外観上、リアのCピラーまでがE36型のセダンそのままで、トランク部分だけを無理やりカットした、3ドアハッチバックです。リアの尻切れトンボは、いかにも不格好でしたが、この車を追いかけてみると、走りのよさは、なかなかのものでした。

BWM 3シリーズがE46型にモデルチェンジし、tiシリーズもE46コンパクトにモデルチェンジしました。E46コンパクトは3ドアハッチバックで、全長がセダンより20センチ短いモデルです。先代E36コンパクトは、その前のタイプのE30型のシャシーに、E36型の外装をかぶせたものでした。E46コンパクトは、E36とは逆にE46型の3シリーズとシャシー・サスペンションが共通で、フロントからリアに至るまでの外観を、セダンとまったく異なる独自のものにしました。

キドニーグリルは同じですが、他のE46型が左右1対のランプハウスに、2個づつの前照灯を埋め込んでいるのに対し、E46コンパクトでは独立した丸形のライトが、左右に2つづつ独立して並んでいます。他のBMWのシリーズと比べても、特異なデザインでした。何とも無様なE36コンパクトの尻切れトンボとは反対に、E46のハッチバックは特に真後ろから見ると、ほれぼれする美しさを持っていました。

BMWシリーズは、車格から云っても価格から云っても、日本ではファーストカーとして乗られていて、セカンドカーとは云い難い車です。外観がまったく違うE46コンパクトは、3ドアハッチバックでもあり、価格もBMW3シリーズの中では大勉強してあって、お洒落な2台目にはぴったりでした。

ネーミングは318tiですが、1995㏄143馬力のエンジンを積んでいて、足回りもスポーツタイプ並みに固められていました。このクラスの車は、大抵がフロントドライブFFですが、E46は数少ないリアドライブFRです。試乗してみてハンドリングの良さに吃驚しました。

それまでにも乗ってみて、BMWのハンドリングのよさは知っていた積りでしたが、前輪が滑るように左右に向きを変えるのです。その後デーラーから、BMW745の新車カタログが送られてきたときに、メルセデスのSクラスから、直ぐ、乗り換える決め手になったほど、E46コンパクトのハンドリングのよさには惚れ込んだものです。

真っ赤な318tiに家内は喜んで乗っていましたが、休みの日にどこかへ出かけるとなると、ファーストカーであるメルセデスのSクラスや、次に乗り替えたBMW745ではなく、私はどうしても318tiに乗りたくなるのです。自分の思うように走れる、運転していてほんとに楽しい車でした。

東名での東京までの往復ですと、悠然と走れる点では大きい車に軍配が上がりますが、318tiは適度な緊張感を伴って、走っている実感が100%味わえます。ヴィッツや206では、東名の追い越し車線では馬鹿にされますが、318ti は他車に負けないパフォーマンスを発揮できるのです。真っ赤な車は、覆面パトカーに目立ちやすいのが唯一の欠点でした。

蓼科などにも318tiで行きましたが、当時のことなので、まだ、カーナビの付いていなかったのが惜しまれる点でした。御殿場は住むのにはいいところなのですが、腰を痛めて、毎週やっていたゴルフができなくなると、することがなくなります。永住する気持ちが揺らいで、東京へ戻ることになりました。

御殿場の最後の1年間は、東京の棲家も手当したので、土曜から日曜にかけて東京へ通っていました。318tiは、ハッチバックを開けてリアシートをたたむと、荷物を載せるのには745のトランクよりも、はるかに大きいスペースが得られます。

自分で運びたい大切な荷物を、何度か東京まで運びました。日曜の帰りは、行楽客とは逆コースなので東名は空いています。松田から御殿場までの車線は、右ルート、左ルートに分かれますが、右ルートを選択するとトラックの通行が少なく、より快適に走れます。

御殿場までには、半径300台の表示のあるカーブが連続しますが、後続車のないことを確認しながら、2車線をフルに使って、カーブのRをなるべく大きく使うように狙って走り抜けるのは、結構、楽しいものでした。同じカーブは、セルシオでも、メルセデスのSクラスでも、BMW745でも走ったのですが、これについては、いずれ、書く機会があるでしょう。

東京では、車を2台持つ理由はまったくなく、大分悩みましたが、歳をとってからの最後の車になることでもあり、混んだ街中を走りやすい318tiではなく、最終的に、長距離旅行にも適した745を残す選択をしました。カーライフをより楽しませてくれた、セカンドカーよ、さらばです。

責任

2013-11-17 06:19:11 | 日記
最近の我が国の風潮で最も気に入らないのは、何か事件がおこった時の責任追及です。どうも日本人は組織の長に謝らせるのが好きなようで、テレビに出てくる責任者は、頭を長く下げていれば責任が軽くなるとでも考えているのか、時間の無駄と思う位頭を下げっぱなしです。

その挙句に、皆様に大変ご迷惑とご心配をおかけしましたと云います。誰が最初に始めた言い回しか知りませんが、判で押したように、誰もが同じ云い方を繰り返します。ご迷惑はその通りなのですが、誰がご心配などしているものかと思ってしまいます。

このところ食品の偽称問題で、いろいろな業種で謝りの会見が続いていますが、さすがに、お詫び申し上げますと云う表現で終始し、ご迷惑ご心配とは云わないようです。後から後から出てくるのは、この際便乗して謝っておけと云った感がありますが、偽称した食品について全額弁償しますとは、絶対全額にならないのを見越したはったりで、これも無責任な人気取りの気がします。

何か起こると世間受けを狙って、テレビではどのチャンネルでも、一斉に責任の所在探しに血道を上げます。最終的には誰かが辞めて責任を取ったことになりますが、辞めることによって何も解決しないことは、みんなが知っている通りです。

しかし誰かが辞めさえすればマスコミの追及は終わり、事件そのものがうやむやになるのが通例です。誰も辞めなくても、時間が経てば、一切の報道はなくなります。人の噂も七十五日までは、とてももたないご時世です。

汚職や不正事件では、責任の追及が事件の解決や再発防止に、まったく結び付かない実例は、国民は数限りなく見せつけられています。事がおこった時にだけ追及されるのが、責任の本質ではないはずです。いつから責任と云う語が、辞めると云う語に置き代わってしまったのでしょう。

責任を取ると云うことは、本来、与えられた任務の遂行に向かって、全力を挙げて取り組むことのはずです。なにもせずに、不都合が見つかった時にだけ、ただ謝って辞めればいいものではありません。ことが起こった時にだけ追及されるのであれば、何も起こらなければ責任は存在しないことになります。

むかしは責任を与えるとか、責任をもてとか云う場合、権限を委譲して任務を任せるものと理解されていましたし、今でもそう云う理解はあると思うのですが、時代の風潮として、責任の任がなおざりにされて、責だけが強調されている気がします。

明治維新で、まったく新しい近代国家を構築したのは、先進国の体制を学んできた、ごくごく少数の留学帰りの若い人たちでした。それこそ、すべての責任を負わされ、それぞれ、必死になって作り上げた成果が明治政府であり、明治の近代国家だったのです。

組織の体制が出来上がると、新しい仕事を任されるチャンスは減ってきます。新しい仕事は、攻め方を広く検討することはあっても、攻め口が決まれば攻撃は1点集中です。任された仕事がすでに出来上がった分野のものだと、守りの仕事になります。守りの仕事は八方からの攻撃に備えなければならず、いつ攻撃を受けるか分からないので、本来、常に気を抜けないはずなのですが、攻めの仕事とは違って、かならず中だるみを生じます。

我が国には、ぜんぶ部下に任せて、上手くいかなかったときだけ責任を取るのが、大将の器だと思われてきた風潮があります。封建時代の領主は能力とは別の世界の世襲ですから、よきに計らえで、よかったかも知れませんが、ぜんぶ部下に任せるのであれば、大将がいる必要はないでしょう。

個々の守備範囲は任せるとしても、全体の目配りをして守備体系を構築し、その守備体系の維持、攻撃を受けた時の対処に、常に、目を光らせていて、いざと云う時には、陣頭指揮ができるのでなければ、大将であるとは云えないのです。

当面する仕事も理解せず、部下が任せてもよい相手かどうかの見極めもせずに、その上仕事ぶりも把握していないとしたら、それは単なる丸投げです。上手くいかないのは自明の理ですが、上手くいかないからと大将が辞任しても、それは責任を取ったのではなく、単に、任に耐えなかったと云うことです。

仕事を充分に把握して、能力のある部下に任せた場合でも、仕事がうまくいかないことはありえます。その場合部下の責任であっても、部下を庇って部下の責任にしないのが大将の役割です。長以外の人が辞める事態は、長が責任をとらないトカゲの尻尾切りに過ぎません。

責任と云う言葉は、英語のresponsibilityの日本語訳だそうですが、本来は自らが自由に選択することのできる行為の結果を、他者のせいにしないと云う意味です。日本社会では責任という言葉の概念が曖昧で、義務と混同していたり、義務に違反した場合に罰を負うことと理解している人も多く、単にリスクを負担する意味に用いられることもあります。

最近では自己責任と云う言葉がはやりで、これも腹立たしい言葉ですが、自己責任は本来、他者に責任転嫁するのをいましめる言葉でした。政府がやるべき事柄まで、国民一人ひとりに判断させ、その結果まで背負わせる時代になって、責任を回避する理由に、自己責任と云う言葉が利用されるのは論外です。

責任は、自由に選択できる行為に関するものなので、本来、倫理学の領域のものだと思われますが、刑事責任、民事責任と法的に規定された責任もあり、刑事責任では、故意か過失かが問われ、責任能力の有無も問題とされます。

現在一般的に使われている責任の意味は、組織の中で任務として与えられるものを指すことが多いのです。その意味では、自由に選択できる行為とは云えませんが、責任を与える場合には、権限も同時に与えないと、当事者は責任を全うできません。

任せられた筈なのに、常に上から横槍が入り、当事者の決定が、度々、覆るようでは、周りは誰もついてはいかず、任を全うするなど論外です。丸投げはもちろん困りますが、最初に、充分、仕事の意図を分からせた後は権限を与え、当事者の仕事が円滑に進むように蔭で援助するのが、部下に任せた管理者の責任です。

組織の活力は、長で決まります。長で決まると云うことは、長しか責任を取れないからです。組織では長にしか決定権がなく、長が責任を取るなら、組織が動きます。我が国では民主主義とは云っても、決して多数決では物事は解決しません。51対49では、物事は決まらないのです。古い体質を改めるのは、10人中1人の反対があっても困難です。しかし新しいことを始めるのは、10人中3人の賛成者があれば可能です。

長がその気になれば、3人なら動かせます。その上の賛成者をうるのには、根回しが必要です。日本人は、俺は聞いていないと云う場合、いいなと思っても賛成はしません。その逆に、少しくらいおかしなことでも、事前に聞いていれば反対しないのです。根回しは特定の人にだけするから問題なので、全員にするなら公正な手段です。

少数の人に多少の危ぶむ気持ちが残っても、インフォメーションが徹底していれば、仕事を進める障害にはなりません。その後は、実績で新しいことの効果を示すのみです。実績が伴ってくれば、誰もが納得して協力するようになります。

人生も、組織も、上り坂で車を押して行くようなものです、押すのをやめると、そこに留まってはいられず、坂を転がり落ちてしまいます。人生も組織、ただ、ひたむきに前進するしかないのです

味覚

2013-11-11 06:23:27 | 日記
私の記憶に残っている一番古い好きな食べ物は、4歳の時に食べたハルピンの、中央寺院の近くにあったロシア人のパン屋の、固い塩味のパンです。三か月をほとんど丸にまで曲げた形の、プレッチェルの類だったと思うのですが、幼い頃でも美味しいものは分かったようです。

北京の中華料理については、古都の味、北京の味と2回にわたってブログに書きましたが、半世紀以上経っても、結構、味をよく覚えているものです。敗戦後の食べるものがなく、始終、すきっ腹を抱えていた時代が過ぎて、ようやく、いろいろな美味しいものが食べられるようになってからも、数十年経っていまだに、しっかりと、記憶に残っている味があります。

昭和31年(1956年)頃、大森駅の南口の中華そばやで、たいへん美味しい店がありました。当時、普通の中華そばは35円でしたが、そのお店は1杯50円と高かったのです。しかし、やや太めの腰の強い麺と云い、汁のうまさと云い、病みつきになりました。美味しさの理由は、営業用のだしの素を大匙一杯、惜しげもなく丼に放り込むことにあったようでした。

昭和33年(1958年)ころ、蒲田駅の南口にロシア料理店がありました。そこのロシア人のおばあさんのピロシキの味は絶品で、その後もピロシキはいろいろ試してみるのですが、同じような味には2度とお目にかかれません。その店では、ボルシチもいい味でした。子供の頃ハルピンや北京で食べたピロシキの味には郷愁があるので、なぜ、日本で同じ味に出会えないのか不思議です。

敗戦後初めて、本格的なケーキを売り出したのは、今はヒカリエになった渋谷駅の東側のビルの1階にできた洋菓子店、フランセでした。今では、和菓子のお店が姿を消してしまって、ケーキ屋さんばかりになった時代ですが、初めて本格的なケーキに出会って、大変うれしかったものです。

六本木のクローバーのチーズケーキも、初めて食べて感激したものの1つです。当時のクローバーのチーズケーキはベイクドチーズケーキで、チーズのねっとりとした濃厚な味わいが絶品でした。その後、チーズケーキは日本中の洋菓子店で売られるようになりましたが、パサついた感じのものが多く、レアチーズケーキではたまにいい味に出会うのですが、クローバーの最初の頃のベイクドチーズケーキの味には出会えません。

品川の駅にディーン&デルーカが出来て、ニューヨークのチーズケーキのフェアを1週間か行ったことがあります。ベイクドチーズケーキは、ニューヨークチーズケーキとも呼ばれるだけあって、その時は久々に、探し求めていた本物のチーズケーキに出会い、昔のクローバーを懐かしみました。

我が国では洋菓子店は、際限もなくと云うくらい増えてきたのですが、フランセやクローバーだけでなく、いずれの店も、最初の1軒の時のケーキは美味しいのに、デパートなどに支店ができると、例外なく味が落ちてしまうのが残念でした。最初の味を知っていると、明らかに違いが分かるのです。

マキシムのナポレオンパイの出た時にも、これは凄いと思ったものです。サクッとした厚みのあるパイ生地で、コアントローの香り高いカスタードクリームと苺をサンドし、大粒の苺とバニラビーンズを加えた生クリームでデコレートされ、ナポレオンパイは、その名の通り王者の風格がありました。ミルフィーユの名が一般的ですが、もったいなくても、時間の経たないパイ生地がさっくりしている内に、食べて切ってしまうのが値打ちです。

今の日本では、サケの燻製と云ったら、柔らかい、とろけるようなスモークサーモンしか見当たりませんが、昔の鮭の燻製はかちんかちんに固い、保存食そのものでした。薄く切って焼いて食べても、結構、渋みもあるし、歯ごたえもあるものでした。帝国ホテルではじめて、今のような柔らかい、まったく別物のスモークサーモンに出会って感激したものです。

初めて出会った、ローストビーフもそうでした。外側は焼けていても、中がピンクの柔らかいローストビーフの、大きな1切れには目を瞠る思いでした。通常、ホースラディッシュやグレービーソースで食べますが、岩塩だけで食べるのも、グレービーソースとは違った味わいがあります。

イギリスでは最も基本的な食べ物なのですが、日本で美味しいローストビーフが食べられるようになったのは、戦後、かなり経ってからです。ヒルトンホテルが接収を解除されてキャピトル東急になった時代、欅と云うバイキングのレストランがありましたが、ローストビーフが自由にお変わりできたのは、嬉しかったものです。

このホテルには今でもORIGAMIと云うレストランがありますが、一頃,大きなパンケーキが有名になったことがありました。実はロサンジェルスで、若くて細身のアメリカ人のご婦人が、いちごが一面に載った大判のパンケーキを朝食に食べているのを見て、朝からこんなに大きいのを食べるのか、食べてもこんなに細身なのかと吃驚したものですが、一度、同じような大判のパンケーキを食べて見たかったのです。

ブルーベリーのパンケーキを頼んだのですが、運ばれてきたときに、もてあますのではないかと心配した位の大きさでしたが、甘味も酸味も丁度良く、結構、満足して平らげてしまいました。宿題を果たした気分でした。

昭和30年(1955年)代の終わりごろだと思いますが、千曲川のほとりに1軒だけぽつんと建つ、うなぎの美味しいと云われるお店に、何台かの車を連ねて出かけたことがあります。うなぎの蒲焼と真っ白なご飯がお重で出てきたのですが、そのご飯の味がなんとも美味しいのです。コメの味にうるさい先輩と2人で、こんなうまい米は食ったことがないと感心したものでしたが、美味しかったはずの蒲焼の味は、全然、記憶にありません。

このコメの味にうるさい先輩に連れて行ってもらったとんかつ屋に、上野のぽん多があります。普通の店の2倍の厚みのあるとんかつです。今どきのテレビの若い女性のリポーターが、「うーん」、「柔らかーい」、「ジューシー」と叫ぶのは聞き飽きていますが、ここのとんかつは、正しく、柔らかくて、ジューシーでした。ただ揚げるだけではなく、肉に充分手を加えたのち揚げたことは分かるのですが、詮索するのは野暮と云うものでしょう。

木曽駒高原で初めて食べた馬刺しも、記憶に残るたべものでした。にんにくと醤油の勢いでたべるので、馬刺しそのものには柔らかいと云う食感以外、味も何もないようなのですが、ほかの肉ではそれまでに出会ったことのない、とろりとした食感が記憶に残りました。

まだ東京で環状7号線が完成していないころ、ゴルフの帰りに板橋の近くで、駐車場のある寿司屋が眼につきました。寿司屋さんと云うのは、意外に駐車場のあるところが少ないのです。職人さんがまな板に叩き付けると、キューツと縮みあがる、みごとに大きな赤貝と、それまでに見たこともない、大きなみる貝が出てきて大満足でしたが、その日のゴルフの料金より高いものにつきました。

いまだに、その時ほどの、みごとに大きな赤貝とみる貝には、2度とお目にかかれていませんが、あまりに高額な値段が、環7の立地条件とは合わなかったのか、直ぐに、その店はなくなってしまい、2度とは食べられませんでした。

同じ環7で、これはずっと後にできたお店ですが、田中屋のうどんが素晴らしい舌触り、噛みごたえで、それまでに味わったことのないものでした。普通の人にとっては蕎麦屋さんなのですが、私は、いつしか、うどん屋さんだと思いこんでしまっていたのです。うどんの天ざるで出てくるエビのてんぷらも、大きくて、これも絶品でした。

私は白身の刺身が好きなのですが、広島で瀬戸内の鯛とヒラメ、オコゼの白身を食べ較べてみたことがあります。それぞれうまいのは間違いないのですが、私には、オコゼが一番コリコリして歯ごたえがよく、ぴか一だと思えました。オコゼは見た目の悪い魚で、ひれに猛毒があるそうですが、それを知ったのは後のことです。

そのほかの白身では、人相ならぬ、魚相の悪さでは他に引けを取らないヤガラも、歯ごたえのある素晴らしい白身でした。沼津で出会いましたが、刺身は鮮度が勝負のようです。

鮮度と云えば博多の、活きたイカを、いけすから掬い上げて刺身にしてくれるのも、初めての時には感激しました。お代りをしているうちに、口に入れる速度が鈍ってくると、まったく透明なコリコリしていたイカの身が、ふだん見慣れたイカの白い色に変わって、コリコリ感が落ちてしまうのです。何年か経って2度目に食べた時は、イカの種類が違ったのか、最初に感激したほどの味ではなく残念でした。

全国方々の都市で、昼の会合の度にいろいろな弁当を食べましたが、これはうまいと思う、群を抜いて美味しい弁当が出てきたのは、京都と金沢でした。なにが違うかと云うと、第一に汁のうまさです。お澄ましを、一口、口に含んだ瞬間に違いが分かります。京都が京料理の本場であるとしても、金沢が小京都と云われる意味がよく分かりました。

今では我が国を代表する味の1つは、神戸牛でしょう。神戸牛に挑戦することは、なかなか、財布が許しません。神戸ではなく大阪でしたが、鉄板焼きで有名なお店で、清水の舞台から飛び降りる気で、はじめて神戸牛を奮発しました。

神戸牛を育てるのには、大変な手間がかかるようですが、肉の料理としては、鉄板焼きはもっともシンプルな、素材そのものを活かしたものでしょう。焼き上げたばかりのローストビーフの大きな1切れを、目の前で切り分けてもらうのもショーの1つですが、さしの入った神戸牛を1口大に食べやすくして出してくれる、見事な職人さんの手捌きを見ながら味わう鉄板焼きは、我が国のつくり出した食の芸術の1つだと思います。

中国参戦

2013-11-05 06:22:11 | 日記
朝鮮戦争は、北朝鮮が1950年6月25日、国境を越えて侵攻したことによって勃発した内戦ですが、諸外国が双方を応援して参戦し、朝鮮半島全土が戦場となり荒廃しました。1953年に休戦に至りましたが、朝鮮半島は南北2国に分断されたままで、現在も、両国間に平和条約は結ばれていません。

宣戦布告なしに、北緯38度線で北朝鮮軍により開始され韓国への侵攻は、戦力に劣る韓国軍はもとより、準備不足で人員、装備に劣る国連軍が各地で敗北を続け、釜山の周辺で、ようやく北朝鮮軍の進撃を食い止めることができました。

マッカーサーは新たに編成したアメリカ第10軍を、9月15日、ソウル近郊の仁川に上陸させ、この作戦に連動した国連軍の大規模な反攻が開始されると、戦局は一変しました。9月28日に国連軍がソウルを奪還し、9月29日には韓国の首脳もソウルに帰還しました。

10月1日に韓国軍は李承晩大統領の命を受け、アメリカ第8軍の承認の下に、韓国軍単独で38度線を突破、北上しました。翌10月2日、北朝鮮は中国に参戦を要請し、中華人民共和国の周恩来首相は、国連軍が38度線を越境すれば参戦すると警告するに至ります。

国連安保理での国連軍による38度線突破の提案は、ソ連の拒否権により葬られましたが、10月7日、アメリカの提案は国連総会で議決され、10月9日に国連軍も38度線を越えて進撃し、10月20日に北朝鮮の臨時の首都の平壌を制圧しました。

アメリカ軍を中心とした国連軍は、トルーマン大統領やアメリカ統合参謀本部の命令を無視してさらに北上を続け、日本海側にある軍港の元山まで迫り、先行していた韓国軍は、一時、中朝国境の鴨緑江に達しました。

ソ連はアメリカを刺激することを恐れ、軍事的支援は中国に肩代わりを求めてきていましたが、参戦に消極的だった中国も、この事態で遂に義勇兵派遣を決定します。中国人民志願軍は、最前線だけで20万人規模、後方待機も含めると100万人規模の大軍でした。

中朝国境付近に集結した中国人民解放軍は、10月19日から隠密裏に北朝鮮への侵入を開始しました。中国軍は11月に入って国連軍に対して攻勢をかけ、アメリカ軍やイギリス軍を撃破して南下を続けました。中国軍は神出鬼没の攻撃と人海戦術により国連軍を圧倒、黄海側、日本海側の国連軍も包囲され、平壌を放棄し38度線近くまで潰走しました。

朝鮮戦争では、史上初のジェット戦闘機同士の空中戦が繰り広げられ、ヘリコプターが、初めて実戦投入された戦争になりました。ミグ15の導入で制空権を奪還した中朝軍は、12月5日に平壌を奪回、1951年1月4日にはソウルを再度奪回しました。1月6日、韓国軍、韓国民兵は、北朝鮮に協力したとして、江華島住民を虐殺する事件を起こしています。

韓国軍、国連軍の戦線は潰滅し、2月までに忠清道まで退却しました。この様に激しく動く戦線に追われ、横領事件によって食糧が不足した結果、9万名の韓国兵が命を落としたと云われます。2月9日には韓国陸軍第11師団によって、居昌良民虐殺事件が引き起こされました。

アメリカ製やイギリス製の最新兵器の調達がようやく進んだ国連軍は、態勢を立て直して反撃を開始し、3月14日にはソウルを再度奪回したものの、戦況は38度線付近で膠着状態となります。

3月24日、トルーマン大統領は、停戦を模索する声明の発表を準備していましたが、これを察知したマッカーサーは先手を打って、中華人民共和国を叩きのめすとの声明を、政府の許可を得ずに発表した後、38度線以北の進撃を命じ、国連軍は3月25日に38度線を突破しました。

またマッカーサーは、満州を戦略空軍で爆撃することを検討し、原子爆弾の使用を提言するなど、国連やアメリカ政府の意向を無視した発言が相次ぎました。第3次世界大戦に発展することを恐れたトルーマンは、4月11日マッカーサーを解任、マシュー・リッジウェイを後任としました。真相を知らされない日本人にとっては、まったく雲の上の人事で、講和条約締結前にマッカーサーが更迭されるのが不思議に思えた程度の関心しか、持ちえませんでした。

この後、1951年6月23日に、ソ連の国連大使が休戦協定の締結を提案し、休戦会談が断続的に繰り返されましたが、交渉は難航しました。1953年に入ると、アメリカでは1月にアイゼンハワーが大統領に就任、ソ連でも3月にスターリンが死去し、1953年7月27日に至って、板門店で北朝鮮、中国軍と、国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は終結しました。現在に至るまで、一時的に停戦した状態が維持されています。

朝鮮戦争では、多くの民間人が相手方とみなされて、大量虐殺の犠牲になっているのが特異的です。惨劇の最悪の実行者は韓国警察だとされていますが、開戦から間もなくは、欧米メディアによって韓国警察と韓国軍による虐殺、強盗、たかりなどが報じられていました。その後、アメリカ軍による報道検閲の実施によって、事実が隠蔽されるに至りました。

韓国軍や韓国警察によって20万人から120万人に上る民間人が、共産主義者の嫌疑をかけられ、裁判なしで虐殺されたと云われますが、あまりに数の開きがあって、実情はよく分かりません。

アメリカ国防総省によるアメリカ軍の戦死者は3万3686人、戦闘以外での死者は2830人、戦闘中の行方不明は8176人に上ります。中国側の公式情報では、中国人民志願軍は戦死者11万4000人、戦闘以外での死者は3万4000人、負傷者34万人、行方不明者7600人、捕虜2万1400人です。また、朝鮮半島の市民の犠牲は、約200万人と見積もられています。

韓国陸軍の公式記録では、1951年から1954年まで特殊慰安隊という名前で、韓国軍が慰安婦制度を運用したことが裏付けられています。周辺の私娼窟から女性を調達し、兵士達にあてがいました。トラックで最前線まで連れていかれた女性達は夜になると働かされ、アメリカ兵も利用しました。強制的に、集団的性行為を強要された事例もあったとされています。

地上戦が数回繰り返された都市も多く、都市の破壊も進行しましたが、アメリカ空軍は80万回以上、海軍航空隊は25万回以上の爆撃を行い、その85パーセントは民間施設を目標としました。56万4436トンの爆弾と3万2357トンのナパーム弾が投下され、爆弾の総量は60万トン以上にのぼりました。日本の国土の半分程度の朝鮮半島に、第2次世界大戦中日本に投下された16万トンの総量の、3.7倍に当たる爆撃が行われたのです。

有史以前から続いてきた人類の戦争は、洋の東西を問わず、民衆が争いの外におかれたものではありません。平時から大きな軍事力が維持されていたわけではないので、いつの時代も戦争のための大軍を構成するのは、戦いの時だけ動員される無報酬の民衆でした。勝者への戦いの報酬は、敗者への略奪、暴行、破壊の限りを尽くすことでしかなかったのです。これが有史以後も、かならず繰り広げられた、戦の後の悲惨な実態です。

各国の軍事力が整備された第1次世界大戦では、軍隊同士の戦いの様相が強く、戦闘中に戦闘員、非戦闘員の区別がされた状況がありましたが、第2次世界大戦では、勝敗を決めるのは国家の総力との認識が強まり、絨毯爆撃が象徴するように、軍需施設ではない相手国の都市部や、非戦闘員の一般国民も、攻撃の対象にされるようになったのです。

現在は、世界大戦が再び起きる時代ではなくなりましたが、地域紛争はむしろ激化しています。各国の内戦は宗教、民族、思想、利権などが複雑に絡み合っていますが、国内だけの争いに留まらず外国の勢力が、内戦当事者双方を裏から、表から支援して、紛争の解決を困難にしているのが実状です。

戦争を知らない今の我が国の多くの世代は、攻められたら守らなければと簡単に主張しますが、戦争は軍隊同士のものには留まらないのです。戦争となれば、非戦闘員の一般国民も、相手国の殺戮の対象になることが認識されていないようです。第2次世界大戦で戦場となった沖縄の人たちの、実体験から生まれた反戦の訴えを、正当に理解していません。

沼津で、望月さんと云う方が編集された「戦争を体験しなかった世代へ」と云う小冊子があります。私が寄稿したのは、次の一文です。

「自然災害を上回る殺りく、破壊をもたらす戦争は人災である。世界大戦は終わってもボスニアの殺し合いは止まらない。戦場は人を狂気にする。殺人を始め、平時の悪が正義に変わる。戦史にはロマンがあるが、戦場には悲惨な現実しかない。勝てる戦はしないですます。敗ける戦なら無条件降伏を選ぶ。」

私は戦場には行きませんでしたが、戦争を身近に体験した世代の、戦争に対する認識は、誰もが、同じです。