神道派の物部氏 と 仏教派の蘇我氏の争いは 蘇我氏VS物部氏(1/3)に紹介しましたが、概略を
蘇我氏(弥生系、縄文系不明)と物部氏(添付の右側)の争い
・蘇我稲目は欽明天皇より仏像を賜り、熱心に礼拝した
・物部尾輿はこれに反対し、寺を焼き、仏像を難波の堀江に流す。(552年)
・蘇我馬子は父の志を継ぎ、熱心に仏像を礼拝
・物部守屋は父の志を継ぎ、中臣勝海(たぶん弥生人)と共に仏教崇拝に反対する。
物部守屋は、蘇我馬子や厩戸皇子(聖徳太子)の活躍で蘇我軍に殺される
蘇我馬子が死に、子の蘇我蝦夷がかわって大臣になる(626年)
中大兄皇子と中臣鎌子が蘇我入鹿を暗殺(645年)
と6世紀~7世紀前半の出来事です
この物語に、縄文人、弥生人を追加します。
506年 武烈天皇(縄文人)が後継者を推挙せずに亡くなります。
大連・大伴金村、物部麁鹿火(弥生人)、大臣巨勢男人(縄文人)らが協議して
15代 応神天皇の5世代後の継体天皇(正しければ縄文人)を26代天皇に推挙します。
大伴氏、物部氏、巨勢氏は、15代 応神天皇の時代から天皇家に仕えています。
※まだ蘇我氏は登場しません。
仁徳天皇、武烈天皇は倭の五王で朝鮮半島の支配に出兵しますが、達成できずに亡くなっています。
この時代に仏教、漢字、朝鮮文化が伝わり飛鳥文化になります。
始まりは、九州ではなく、近畿です、倭の五王と朝鮮半島の歴史の移り変わりが大きく影響しています。
近畿の権力者は河内地方で、仁徳天皇陵等、最大の古墳を作ります。大阪湾岸の一族が力を増しています。
この武烈天皇から解体天皇以後が、近畿地方で波乱の時代の幕開けになります。
継体天皇の子供、27代 安閑天皇、28代 安閑天皇 、29代 欽明天皇(縄文人)と続きます。
欽明天皇は仏教を信仰し蘇我稲目(大阪湾の縄文人、朝鮮半島から移住した民族?)を大臣として起用します。
この時代に、蘇我稲目(近畿の一族で急に奈良の天皇家に近づく) VS 物部尾輿(弥生人で古くより天皇家に仕えている)の構図が出来ます。
この蘇我稲目(蘇我馬子ら4男3女の父)が
・縄文時代から大阪湾岸に住んでいた一族なのか
・倭の五王の時代に、朝鮮半島から移住してきた一族なのか
不明です。とにかく新参者である事は間違いありません。
たぶん、O系統漢族でしょう。
蘇我稲目の娘、蘇我堅塩媛が欽明天皇(30代)と結婚して、
敏達天皇(31代 欽明天皇の子供であるが母親が蘇我氏ではない)
用明天皇(32代 母親が蘇我氏)
推古天皇(33代 初の女帝、母親が蘇我氏)
崇峻天皇(34代 母親が蘇我氏)と、その子供が天皇となり蘇我氏全盛の時代が続く
用明天皇(32代)崩御の際、物部守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしたが
蘇我馬子が先手を打ち穴穂部皇子を殺害、物部守屋を滅ぼす。
(620年 推古28年)聖徳太子と蘇我馬子が「天皇記」「国記」を作成
(622年)聖徳太子死去
(626年)蘇我馬子が死去
(628年 推古天皇崩御
・・・・
蘇我蝦夷(蘇我馬子と物部守屋の妹との子供、男子)
蘇我入鹿(蘇我蝦夷の子供)
斉明天皇(35代、37代の二度即位 女帝)
蘇我入鹿 中大兄皇子は中臣鎌足(連の姓 弥生人)らと大化の改新の前夜
乙巳の変(645年)にて討たれる。「天皇記」「国記」焼失
蘇我蝦夷、翌日自害
これにて、蘇我氏の野望が終了します。
蘇我稲目、馬子の親子が考えた事は難だったのでしょうか。
朝鮮半島で無しえなかった一族の国を日本で再現したかったのでしょうか。
「天皇記」「国記」が残っていれば確認できたかもしれません。
その蘇我氏に加担にしたのが、聖徳太子です。
孝徳天皇(36代)が即位し、中大兄皇子が皇太子となり大化の改新が実行される。
斉明天皇(37代の二度目の即位 女帝)
天智天皇(668年 中大兄皇子)が即位、敏達天皇の子孫で蘇我氏の血統ではない。
大阪湾の縄文人 VS 奈良の縄文人(ヤマト 天皇家)の血統の争いに終止符がうたれます。
但し、蘇我氏の先祖が不明です。
多分、倭の五王の時代に武烈天皇らと共に近畿へ移住した朝鮮半島の王族ではないでしょうか?
その期間、中臣鎌足らは奈良の天皇家側についています。
(多分、物部氏と同様に古くから天皇家に仕えていた弥生人)
後に藤原氏の氏名を与えられます。
(694年)日本で初めての都 藤原京(飛鳥京の西北部、奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城)が出来ます。
(710年)平城京、奈良時代へ突入します。
蘇我氏(弥生系、縄文系不明)と物部氏(添付の右側)の争い
・蘇我稲目は欽明天皇より仏像を賜り、熱心に礼拝した
・物部尾輿はこれに反対し、寺を焼き、仏像を難波の堀江に流す。(552年)
・蘇我馬子は父の志を継ぎ、熱心に仏像を礼拝
・物部守屋は父の志を継ぎ、中臣勝海(たぶん弥生人)と共に仏教崇拝に反対する。
物部守屋は、蘇我馬子や厩戸皇子(聖徳太子)の活躍で蘇我軍に殺される
蘇我馬子が死に、子の蘇我蝦夷がかわって大臣になる(626年)
中大兄皇子と中臣鎌子が蘇我入鹿を暗殺(645年)
と6世紀~7世紀前半の出来事です
この物語に、縄文人、弥生人を追加します。
506年 武烈天皇(縄文人)が後継者を推挙せずに亡くなります。
大連・大伴金村、物部麁鹿火(弥生人)、大臣巨勢男人(縄文人)らが協議して
15代 応神天皇の5世代後の継体天皇(正しければ縄文人)を26代天皇に推挙します。
大伴氏、物部氏、巨勢氏は、15代 応神天皇の時代から天皇家に仕えています。
※まだ蘇我氏は登場しません。
仁徳天皇、武烈天皇は倭の五王で朝鮮半島の支配に出兵しますが、達成できずに亡くなっています。
この時代に仏教、漢字、朝鮮文化が伝わり飛鳥文化になります。
始まりは、九州ではなく、近畿です、倭の五王と朝鮮半島の歴史の移り変わりが大きく影響しています。
近畿の権力者は河内地方で、仁徳天皇陵等、最大の古墳を作ります。大阪湾岸の一族が力を増しています。
この武烈天皇から解体天皇以後が、近畿地方で波乱の時代の幕開けになります。
継体天皇の子供、27代 安閑天皇、28代 安閑天皇 、29代 欽明天皇(縄文人)と続きます。
欽明天皇は仏教を信仰し蘇我稲目(大阪湾の縄文人、朝鮮半島から移住した民族?)を大臣として起用します。
この時代に、蘇我稲目(近畿の一族で急に奈良の天皇家に近づく) VS 物部尾輿(弥生人で古くより天皇家に仕えている)の構図が出来ます。
この蘇我稲目(蘇我馬子ら4男3女の父)が
・縄文時代から大阪湾岸に住んでいた一族なのか
・倭の五王の時代に、朝鮮半島から移住してきた一族なのか
不明です。とにかく新参者である事は間違いありません。
たぶん、O系統漢族でしょう。
蘇我稲目の娘、蘇我堅塩媛が欽明天皇(30代)と結婚して、
敏達天皇(31代 欽明天皇の子供であるが母親が蘇我氏ではない)
用明天皇(32代 母親が蘇我氏)
推古天皇(33代 初の女帝、母親が蘇我氏)
崇峻天皇(34代 母親が蘇我氏)と、その子供が天皇となり蘇我氏全盛の時代が続く
用明天皇(32代)崩御の際、物部守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしたが
蘇我馬子が先手を打ち穴穂部皇子を殺害、物部守屋を滅ぼす。
(620年 推古28年)聖徳太子と蘇我馬子が「天皇記」「国記」を作成
(622年)聖徳太子死去
(626年)蘇我馬子が死去
(628年 推古天皇崩御
・・・・
蘇我蝦夷(蘇我馬子と物部守屋の妹との子供、男子)
蘇我入鹿(蘇我蝦夷の子供)
斉明天皇(35代、37代の二度即位 女帝)
蘇我入鹿 中大兄皇子は中臣鎌足(連の姓 弥生人)らと大化の改新の前夜
乙巳の変(645年)にて討たれる。「天皇記」「国記」焼失
蘇我蝦夷、翌日自害
これにて、蘇我氏の野望が終了します。
蘇我稲目、馬子の親子が考えた事は難だったのでしょうか。
朝鮮半島で無しえなかった一族の国を日本で再現したかったのでしょうか。
「天皇記」「国記」が残っていれば確認できたかもしれません。
その蘇我氏に加担にしたのが、聖徳太子です。
孝徳天皇(36代)が即位し、中大兄皇子が皇太子となり大化の改新が実行される。
斉明天皇(37代の二度目の即位 女帝)
天智天皇(668年 中大兄皇子)が即位、敏達天皇の子孫で蘇我氏の血統ではない。
大阪湾の縄文人 VS 奈良の縄文人(ヤマト 天皇家)の血統の争いに終止符がうたれます。
但し、蘇我氏の先祖が不明です。
多分、倭の五王の時代に武烈天皇らと共に近畿へ移住した朝鮮半島の王族ではないでしょうか?
その期間、中臣鎌足らは奈良の天皇家側についています。
(多分、物部氏と同様に古くから天皇家に仕えていた弥生人)
後に藤原氏の氏名を与えられます。
(694年)日本で初めての都 藤原京(飛鳥京の西北部、奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城)が出来ます。
(710年)平城京、奈良時代へ突入します。