古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

物部氏VS蘇我氏の物語をDNAを加えてみると

2017-11-14 16:58:34 | 歴史
神道派の物部氏 と 仏教派の蘇我氏の争いは 蘇我氏VS物部氏(1/3)に紹介しましたが、概略を
蘇我氏(弥生系、縄文系不明)と物部氏(添付の右側)の争い
・蘇我稲目は欽明天皇より仏像を賜り、熱心に礼拝した
・物部尾輿はこれに反対し、寺を焼き、仏像を難波の堀江に流す。(552年)

・蘇我馬子は父の志を継ぎ、熱心に仏像を礼拝
・物部守屋は父の志を継ぎ、中臣勝海(たぶん弥生人)と共に仏教崇拝に反対する。

物部守屋は、蘇我馬子や厩戸皇子(聖徳太子)の活躍で蘇我軍に殺される
蘇我馬子が死に、子の蘇我蝦夷がかわって大臣になる(626年)
中大兄皇子と中臣鎌子が蘇我入鹿を暗殺(645年)
と6世紀~7世紀前半の出来事です

この物語に、縄文人、弥生人を追加します。
506年 武烈天皇(縄文人)が後継者を推挙せずに亡くなります。
大連・大伴金村、物部麁鹿火(弥生人)、大臣巨勢男人(縄文人)らが協議して
15代 応神天皇の5世代後の継体天皇(正しければ縄文人)を26代天皇に推挙します。
大伴氏、物部氏、巨勢氏は、15代 応神天皇の時代から天皇家に仕えています。
※まだ蘇我氏は登場しません。
 仁徳天皇、武烈天皇は倭の五王で朝鮮半島の支配に出兵しますが、達成できずに亡くなっています。
 この時代に仏教、漢字、朝鮮文化が伝わり飛鳥文化になります。
 始まりは、九州ではなく、近畿です、倭の五王と朝鮮半島の歴史の移り変わりが大きく影響しています。
 近畿の権力者は河内地方で、仁徳天皇陵等、最大の古墳を作ります。大阪湾岸の一族が力を増しています。
 この武烈天皇から解体天皇以後が、近畿地方で波乱の時代の幕開けになります。

継体天皇の子供、27代 安閑天皇、28代 安閑天皇 、29代 欽明天皇(縄文人)と続きます。
欽明天皇は仏教を信仰し蘇我稲目(大阪湾の縄文人、朝鮮半島から移住した民族?)を大臣として起用します。
この時代に、蘇我稲目(近畿の一族で急に奈良の天皇家に近づく) VS 物部尾輿(弥生人で古くより天皇家に仕えている)の構図が出来ます。
この蘇我稲目(蘇我馬子ら4男3女の父)が
・縄文時代から大阪湾岸に住んでいた一族なのか
・倭の五王の時代に、朝鮮半島から移住してきた一族なのか
不明です。とにかく新参者である事は間違いありません。
たぶん、O系統漢族でしょう。

蘇我稲目の娘、蘇我堅塩媛が欽明天皇(30代)と結婚して、
敏達天皇(31代 欽明天皇の子供であるが母親が蘇我氏ではない)
用明天皇(32代 母親が蘇我氏)
推古天皇(33代 初の女帝、母親が蘇我氏)
崇峻天皇(34代 母親が蘇我氏)と、その子供が天皇となり蘇我氏全盛の時代が続く

用明天皇(32代)崩御の際、物部守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしたが
蘇我馬子が先手を打ち穴穂部皇子を殺害、物部守屋を滅ぼす。
(620年 推古28年)聖徳太子と蘇我馬子が「天皇記」「国記」を作成
(622年)聖徳太子死去
(626年)蘇我馬子が死去
(628年 推古天皇崩御
・・・・
蘇我蝦夷(蘇我馬子と物部守屋の妹との子供、男子)
蘇我入鹿(蘇我蝦夷の子供)
斉明天皇(35代、37代の二度即位 女帝)

蘇我入鹿 中大兄皇子は中臣鎌足(連の姓 弥生人)らと大化の改新の前夜
乙巳の変(645年)にて討たれる。「天皇記」「国記」焼失
蘇我蝦夷、翌日自害
これにて、蘇我氏の野望が終了します。
蘇我稲目、馬子の親子が考えた事は難だったのでしょうか。
朝鮮半島で無しえなかった一族の国を日本で再現したかったのでしょうか。
「天皇記」「国記」が残っていれば確認できたかもしれません。
その蘇我氏に加担にしたのが、聖徳太子です。


孝徳天皇(36代)が即位し、中大兄皇子が皇太子となり大化の改新が実行される。
斉明天皇(37代の二度目の即位 女帝)
天智天皇(668年 中大兄皇子)が即位、敏達天皇の子孫で蘇我氏の血統ではない。
大阪湾の縄文人 VS 奈良の縄文人(ヤマト 天皇家)の血統の争いに終止符がうたれます。
但し、蘇我氏の先祖が不明です。
多分、倭の五王の時代に武烈天皇らと共に近畿へ移住した朝鮮半島の王族ではないでしょうか?

その期間、中臣鎌足らは奈良の天皇家側についています。
(多分、物部氏と同様に古くから天皇家に仕えていた弥生人)
後に藤原氏の氏名を与えられます。
(694年)日本で初めての都 藤原京(飛鳥京の西北部、奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城)が出来ます。
(710年)平城京、奈良時代へ突入します。






大伴氏、物部氏は弥生人

2017-11-14 14:31:53 | 歴史
前投稿の続きです。氏姓制度で代表的な氏族のDNAは? から読んでみて下さい。

その前に、当時の歴史の流れを簡単に
1、弥生時代
  秦の始皇帝、漢の時代に大陸から漢族が日本に移住して弥生文化が普及します。
  最初は、九州北部の玄界灘湾岸の国です。魏志倭人伝に紹介される奴国(漢委奴国王金印)伊都国(一大卒がいた)
  国々が大陸と交易を続ける一方
  大陸人は、山陰地方へ、瀬戸内海湾岸の国々へ
  近畿地方の淡路、大阪(河内地方)へその文化を広げていきます。
  徐々に東へ広がっていきます。
  この時代の力関係は
  玄界灘湾岸の国々>山陰の出雲>瀬戸内海の吉備など>近畿地方の豪族
2、古墳時代
  魏の国が滅び大陸が乱れる、朝鮮半島を高句麗が支配します。
  大陸との交易が途切れてしまい、日本の諸国で豪族の国が力を付けます。
  弥生人の農耕、建物、食料の保管などに加えて、古墳と言う先祖供養、権力の象徴が始まります。
  この時代
  玄界灘湾岸の国々、山陰の出雲・・朝鮮半島(百済、新羅)支配に力を入れる。鉄製品を入手して
  武力を蓄える。
  瀬戸内海の吉備など、近畿地方の豪族・・・農耕が進みが武器が少なく人口が増える。
3、飛鳥時代
  奈良の大和地方から近畿の統一が実行される。(ヤマト朝廷)
  博多湾の国々は既に、築地氏で統一が出来ていますが、大阪湾の国々はまだいくつかの豪族に分かれています。

氏姓制度のおかげで、各地の地名、豪族名に加えて、近畿の豪族の状況がはっきりしてきます。
やっと、先の投稿の続きです。
近畿地方の豪族
 臣の姓を持つ一族・・葛城氏、平群氏、巨勢氏、春日氏、蘇我氏
           主に、河内長野など大阪湾周辺の一族です。
           それぞれの豪族でヤマト朝廷に匹敵する一族です。
  
 連の姓を持つ一族・・大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏、土師氏
           奈良の豪族で天皇家に仕えています。
           このヤマト一族が大阪湾の豪族をまとまて、ヤマト朝廷が始まります。
さて、その奈良地方ですが
 大和地方(明日香)は、奈良盆地から離れた山奥です。
 ここでも、一族の長(天皇)山奥に住み、盆地で栄えている一族を支配しています。
 何となく、魏志倭人伝の倭国の代表に、力のある博多湾の国から離れた邪馬台国の女王 卑弥呼を推薦するのに
 似ていますね。

奈良盆地を縄文時代から
盆地の各地に縄文人が部族を作り沢山の村々があり、お互いに協力しながら生活しています。
そこへ、顔、体形が異なり、衣服も違い文化をもった弥生人が移住してきます。
彼らは、農耕の方法など新しい文化を伝えます。
しかし、弥生人が原住の部族を支配してしまうのを恐れたヤマト王は、明日香の地に王家(都)を作り
弥生人を雇う形で奈良盆地を発展させます。
大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏、土師氏は、渡来した弥生人で O系統の染色体をもつ一族です。
後に、神道派 物部氏 VS 仏教派 蘇我氏 で有名な
蘇我氏ですが、天皇家へ姫様を送り天皇家と血統を結びます。
蘇我氏は、縄文人系のD系統で、天皇家と顔、体形が似ていたのではないでしょうか。
蘇我氏、物部氏の争いは 蘇我氏VS物部氏(1/3) 聖徳太子こちらです。

臣の姓を持つ一族
大阪湾の国々へも弥生人が移住してきます。それぞれの国で対応は多様化しています。
弥生人に支配された国もあれあ、新しく弥生人の国も出来たはずです。
古墳時代には、瀬戸内海航路が発展して、九州、山陽、大阪湾が複雑な関係になったでしょう。
葛城氏、平群氏、巨勢氏、春日氏、蘇我氏は元々は縄文人O系統ですが、混血であったり
渡来弥生人である O系統の可能性があり、分ける事が難しいです。

筑紫や出雲より遅れますが、近畿でならのヤマト一族を倭国(先祖・縄文人)の王族とする連合が出来
ヤマト朝廷となり、筑紫、出雲をしのぐ勢力になったのではないでしょうか。
ヤマト朝廷は原住民である縄文人を大切にし、新しい文化を持つ弥生人をうまく活用しました。
九州では、無理やり卑弥呼を女王に担ぎ上げ、倭国統一をはかり、狗奴国と対立した九州とは少し異なりますね。
その後の九州は、地理的にも九重、阿蘇、高千穂を山脈があるので
筑紫、豊国(後の筑豊)、肥国、熊曽国に分かれて、異なる血筋の王、文化を持つ国々で歴史が続きます。
四国も同様でしょう。
大阪湾岸の国々では、国々の境界線が隣接しているため、
奈良盆地のヤマト王を頂点とした連合体制が望ましかったのかもしれません。


しかし、不思議なのが
・国名を ヤマト と 邪馬台国と同じにした。
・神武東征 と言う移住の伝説を取り入れた。


氏姓制度で代表的な氏族のDNAは?

2017-11-14 11:19:45 | 歴史
先の投稿 日本人のDNA(Y染色体)の分布 について考えていたら
天皇家の他、氏姓制度で名前が出てくる 各氏族の DNA(Y染色体)はどうなのだろうと考えてしまいます。
古墳時代末期~飛鳥時代に、奈良地方のヤマト朝廷が各地の一族に氏名を与える。
弥生人が渡来して数百年を経過していますが、縄文人と弥生人の体格など特徴の違いなどもあって
混血はあまり進まなかったのではないでしょうか。
国内でも一族血統を重んじる考え方もあったはずです。

では、氏名(豪族、一族名)は、大きく
1、地方の有力豪族
2、奈良地方で、天皇家に仕えていた一族
ですが、 2は更に
A、近畿地方の有力豪族で、地名(臣)が与えられます。
B、ヤマト(奈良)一族で
  天皇家での役職、仕事で与えられた役職名(連)が与えられます。
更に
C、武内宿禰(たけしうちのすくね)の末裔で天皇家に仕えていた一族
に分けられるようです。

代表的な氏名では
1、  地方の豪族・・・筑紫氏、出雲市氏、吉備氏、毛野氏など
2-A 近畿(地元)の豪族で天皇家に仕事でつかえていた一族
         ・・・物部氏、大伴氏、安曇氏、海部氏など
2-B 武内宿禰の末裔で天皇家に仕えていた
         ・・・蘇我氏、波多氏、巨勢氏(こせうじ)、平群氏(へぐりうじ)など

では、武内宿禰 とは
8代孝元天皇の末裔で、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)に仕えた。


分かりやすい順番に
・天皇家
 縄文時代から日本に住んでいた一族でD系統染色体(縄文人の男系血統)
2-C 武内宿禰の末裔
 同じく天皇家の末裔になるので、D系統染色体(縄文人)
 但し、武内宿禰が実在したのか、蘇我氏などが本当に武内宿禰の末裔なのか疑問が残る。

2-A、B ヤマト朝廷が力をつけ、天皇家に仕えた一族
 近畿の豪族で氏姓制度で
 臣(おみ)・・・奈良周辺の地域の地名を持つ豪族
 連(むらじ)・・奈良の土地でヤマト朝廷から役職を名前として持つ一族
 の二つに分けられます。
 天皇家との血統ではない。
 臣の姓を持つ一族・・葛城氏、平群氏、巨勢氏、春日氏、蘇我氏
           主に、河内長野など大阪湾周辺の一族です。
           ヤマト朝廷に匹敵する一族です。
 D系統、O系統と分ける事は難しい。
  
 連の姓を持つ一族・・大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏、土師氏
           天皇家に仕えています。
 天皇家(ヤマト朝廷)に弥生文化を伝えた一族
 O系統の染色体の家系ではないでしょうか。
この部分については、後ほど考察してみます。

1、地方の豪族
 縄文時代、古くから血統が続いている一族もあれば、弥生時代に住み着いた一族もある。
 D系統、O系統と分ける事は難しい。
 筑紫氏・・・伊都国の末裔であれば、漢族 O系統で始まりが漢委奴国王金印の時代
 出雲氏・・・魏志倭人伝に紹介される投馬(ズマ)国であれば、縄文時代から続く一族の可能性もある。
       日本神話では、素戔嗚の国ですので、天照大神(天皇家の祖)とは異なる一族
       大国主神が国造りしている渡来人ではないと思われる。
 毛野氏・・・地域から考えても縄文人と思われる。
 いずれも、天皇家と血縁関係はない。



藤原氏、橘氏、源氏、平氏など後になって天皇家から氏名を与えられるケースも多い。