古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

必須科目 「古事記」と「日本書紀」

2016-09-26 19:52:43 | 歴史
「日本書紀」と「古事記」の違いも覚えておきましょう。
日本書紀』と『古事記』の違いに見る「日本神話」の豊かさ
古事記が712年、日本書紀が720年で8年遅れです。
いずれも天皇家が日本を創造したという事がベースに天皇家の成り立ちが書いてあります。
それは、日本神話から始まります。
高天原 と云う天空に住む二人の神様(イザナミとイザナギ)が杖を使って日本の島々(本州、九州や淡路島など)と作る神話
現代科学をいかに駆使しても実行不可能なお話が書いてあります。

  二つの書の大きな違い
古事記は天皇の正当性を国内向けに
日本書紀は、対外的(朝鮮、中国向け)に書いてあります。
当然、中国の史記(魏志倭人伝など)も読んだ上なのでしょう
国の名前に 倭 を使っています。
いかし、邪馬台国も卑弥呼もその名はありません。
日本書紀の場合は難しいです。なぜなら中国に読ませるためなのですから。
そこで、日本書紀では 「一書曰く・・・」と記述が出てきます。
一書とは史記の事です。
先に書かれた「古事記」は自由に書けましたので、ストーリーも
面白く、わかり易い様です。
後に書かれて外国向けの「日本書紀」はだいぶ苦労があったと思います。
歴史書として、淡々と仕上げると共に中国の史記との釣り合いも組み入れて、
先の古事記の内容も曲げるわけにはいきません。
しかし、この日本神話も初代天皇からヤマト尊位までの話はそれなりに面白いので
後々、紹介いたします。
 かなり信ぴょう性が出てくるのは、聖徳太子位からではないでしょうか。

必須科目 魏志倭人伝

2016-09-25 21:31:58 | 歴史
魏志倭人伝は、『三国志』魏書で、中国より東部の地域を
烏丸,鮮卑,夫餘,高句麗,東沃沮,挹婁,濊,韓,倭人
に分けて書いた書物です。
朝鮮半島が 韓で、更に その東の島々が 倭 と呼ばれています。
その内容は
邪馬台国の会
を参考にして下さい。
これは、大変重要ですので、隅々まで読んでおいて下さい。
概略ですが
1、狗邪韓国(朝鮮半島先端)から北九州(玄界灘湾岸)に狗奴国など倭国の国々があった。
2、狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国などまでの詳しい道のりが記述してある。
3、238年に、女王卑弥呼が、魏の武帝に朝献、「親魏倭王」の金印が贈られる。
4、南の狗奴国の男王卑弥弓呼とは不和で争いが続いた。
5、卑弥呼の死後、男王をたてたが、国中は不服、壱与(台与)年齢十三際で王とした。

他にも重要なポイントが多数ありますが、それは後ほど紹介します。
3世紀までの日本の状況がこれらの中国の史記からわかりますが、
その後、倭国が登場しなくなります。
これが、「空白の4世紀」の始まりです。
Wiki 魏志倭人伝

秦の始皇帝と徐福

2016-09-25 21:14:17 | 歴史
始皇帝はご存知の通り、大陸を初めて統一した皇帝
大兵馬俑がある様に武力による統一でした。
当然、思想などは弾圧します。
しかし、始皇帝も老いてくると、不老不死に興味を持つようになります。
その時に耳に入った情報「東方の島に不老不死の薬がある」
その不老不死の薬を採ってくる様、命令されたのが徐福
大軍を連れて、二度渡来しています。二度目は帰ってくることはありませんでした。

弥生時代の人物 徐福(意外と知られていない?)
でもちゃんと中国の書「史記」に記載されている。
出身地
斉の国(朝鮮半島の西側で、最後まで秦と戦った)
職業
方士(呪術師や祈祷師,薬剤師であり,占星術・天文学にも秀でたつまりは、当時の学者)
行動
前219年 三神山(当時の日本)に仙人がいて不老不死に薬があるという事で中国初の皇帝 秦の始皇帝の許可を得て出港する。
前210年 何も見つからず戻るが、「大鮫に邪魔された」と言い訳
実際は、佐賀県の松浦半島に上陸、福岡から日本海沿岸に沿って京都の若狭湾まで到着している。
同年に、童男童女3000人と技術者,五穀や数々の道具を船に乗せて、軍人、航海士らと共に20隻の大船団で出航した。
いかし、二度と戻ることなく中国の歴史書から姿を消す。

当時の日本は、小動物を狩るための矢じりや弓矢位で数十人程度の村社会
相手は、大きな船に鉄の剣に弓矢など持っており、人数を膨大です。さぞ驚いた事でしょう。
しかし、日本についての情報は仙人が住んでいるとか、でたらめ
海を越えて島がある事はわかっていても交流はなかったようです。
仙人の話も意外と徐福の作り話かもしれませんね。

これからは、日本に伝わる徐福伝説が参考ですが、何と
九州佐賀県県か、鹿児島から太平洋沿いに四国、紀伊半島、静岡や
福岡から日本海沿いで若狭湾まで広い地域に伝説があるのです。
そして。それぞれ各地に徐福のお墓まであります。
2度目の出港時で徐福もだいぶ高齢です。
一説では、日本到着前に徐福が死去、船団は、日本海を東へ進む船団、西へ向かい、東シナ海に出て太平洋沿いに向かう船団
船を捨てて、松浦半島から上陸、陸路で有明海に到着する人たち
と別れてしまった。云われています。
他の説では、最初から帰国するつもりはなく始皇帝に大嘘をついて
いた。
帰るつもりだった、途中で秦の始皇帝がなくなったことを知って
帰国するのをやめた。
とか説があります。

何はともあれ千人を超える人数で、コメや麦の種をもち、農耕の技術者をつれて上陸するわけですから、日本の生活大きな影響を与えただろうと推測するの正しいと思います。
何といっても年代が弥生時代の始まりにぴったりと合います。
徐福が連れてきた人が出港地、浙江(せっこう)省だったなら
弥生人の祖先は大陸でも東シナ海よりで、日本にも近い地域の民族だったかもしれませんね。

以下に、佐賀県に上陸した徐福一団の経路がありました。
http://www.densetsu-tobira.com/jofuku/saga.html
1、九州北部の伊万里湾に上陸
2、薬草を求めて、不老山に登る。
3、更に南下、黒髪山へ
黒髪山の雑木林で秦の始皇帝が建てた宮殿の名前「阿房宮朝硯」と書かれた硯(すずり)が発見される。
4、武雄温泉で疲れをいやす。
5、何と、佐賀市の金立山で仙人と出会う。
  仙人が釜で湯がいていたのはフロフキという薬草でした。
金立神社では徐福が雨を降らせる神として信仰されている。
元来よりあった山岳信仰に人間が神になった最初の人物?
徐福船団が日本に来たことは事実ですが、不老不死の薬探しは
そんなに大勢ではなかった。連れてきた童男童女3000人と技術者の行動が知りたいところですね。

奈良時代

2016-09-25 20:56:06 | 歴史
710年
元明天皇が唐の長安にならい、現在の奈良市の西に平城京をつくる。
712年
古事記 が出来る。
720年
日本書紀が出来る。
日本の歴史をまとめた史記ですが、天皇の依頼で作られたため
神の国造りなど、おとぎ話の世界観が日本の古代史をわからなくしてしまった。
伝承で伝わっている神話をまとめたとあるが実際は天皇に都合が良いようにまとめられている。
神の血統であるのが天皇である。天皇神道の完成です。
現在の神宮や神社もこれらの史記に基づいて作られたものです。
仏教の影響を受けて、神社内にお寺が作られたりもします。
伊勢神宮に大神宮寺が出来たりしています。
国神を祀る国社(くにつやしろ)が定められたことがわかります。 神社の原形は、神さまが降臨すると考えられた木や岩の所に仮設された建築物と考えられますが、時代の進展とともに次第に「やしろ」「みや」などと呼ばれる常設の社殿が造られました。

邪馬台国も卑弥呼もでてこない、もちろん古墳や銅鐸な
ど古代の文化も皆無と云う位無視されています。

752年
奈良の東大寺が出来る。
784年
長岡京に都を移すが、病気が流行り
794年
平安京の時代となる。
大まかな歴史の流れはここまでにして
古代史を知るために、大陸(中国)の歴史と歴史書について紹介します。

古墳時代

2016-09-25 20:45:40 | 歴史
古墳時代
350年 大和朝廷が全国を統一
大王(のちの天皇)を中心とした豪族の連合政権が出来る。
同時に古墳文化が始まる。
但し、ヤマト王権は地方の有力豪族が寄り集まった『連合政権』だった。
ヤマト王権は原始共同体的な血縁集団・氏族集団だったのです。
大和地方の地名を氏(うじ)としている『蘇我氏・葛城氏・平群氏・巨勢氏・春日氏』などの最高位の豪族には『臣(おみ)』の姓
ヤマト王権での職務を氏としている『大伴氏・物部氏・中臣氏・忌部氏・土師氏』などの高位の臣に当たる豪族には『連(むらじ)』の姓が与えられました。
『伴造』の姓は、特殊な職能集団である秦氏・東漢氏・西文氏など朝鮮からの帰化氏族に与えられました。
『国造(くにのみやっこ)』は地方の有力豪族に与えられた姓ですが、初期のヤマト王権は各地を実力で支配する豪族たちを国造として承認することで、中央集権的な国家つくりを進めました。
それぞれの豪族が競い合って作ったのが古墳だったのでしょう。
円墳から前方後円墳と日本独特の形になり大型化していきます。
では、邪馬台国の女王「卑弥呼」は有力豪族のメンバーになりえたのか?
残念ながら、豪族の長は男性に限られるようです。
邪馬台国の連合国体制は、卑弥呼が始まりでしょうか
シャーマン的精神支配から、大規模集落で出来た階級、職務別の
権力分担と云う形で連合を作ったのヤマト朝廷だったようです。
391年 大和朝廷が朝鮮で高句麗と戦い、任那に日本府を設ける。
朝鮮との交流が盛んになり仏教などが伝わる。
475年、高句麗の大軍によって百済の都漢城が陥落し、主として百済系の人びとが多数日本に渡来した。
562年 任那の日本府がほろぶ。
弥生時代は大陸(中国)から渡来人が来て、古墳時代は朝鮮からの渡来人となります。
この古墳の文化も後の飛鳥時代に姿を消します。

弥生時代

2016-09-25 20:19:20 | 歴史

次は弥生時代。紀元前300年から250年頃まで
大陸(中国)からの文明の伝来です。
1、農耕技術の伝来
2、銅、青銅、鉄など金属の伝来
があります。実はこれらは弥生式土器の発祥に繋がります。
もちろん集落(ムラ)から小国(クニ)が誕生する要因であります。
中国に、当時の日本を紹介する記事が多くあるのも事実です。
年代では
紀元前1世紀頃
倭(日本)に100以上の小国が存在する(漢書 - 地理志より)

57年
倭の奴国王(なこくおう)が後漢(中国)に朝貢して光武帝から漢委奴国王印を印綬(後漢書 - 東夷伝より)

107年
倭国王帥升(すいしょう)が後漢に朝貢してして生口160人を献じた
146 - 189年
倭国大乱(倭の小国どうしの内戦)の結果、卑弥呼が女王になり邪馬台国に都をおいた
239年
邪馬台国(30国ほどの小国連合)の卑弥呼が魏(中国)に朝貢して、親魏倭王(しんぎわおう)の称号と金印を授かる
248年
邪馬台国と狗奴国(くなこく)で戦争になり卑弥呼の死後、台与(とよ) or 壱与(いよ)が女王となる

この辺りは事実だと思います。弥生時代については、回を追って記述します。
私は、渡来人(弥生人)の移住と日本の文化との合流、独自の文化に発展したと考えています。

縄文時代

2016-09-25 19:47:44 | 歴史

縄文時代です。紀元前1万4千年から300年頃とされています。
特徴は、名前の通り縄文土器です。
粘土質の土に少し砂を混ぜて、土台を作る。
ひも状の粘土を作って、土台の上にのせて少しづつ高くする。
指で平らにして仕上げる。
縄や貝殻などで、外側に文様を作る。
火の中に入れて、焼き固める。
帽を使って、土器を取り出す。 と云った作り方

用途はもちろん、食料の保存です。
動物を狩猟して食する生活から木の実など植物を蓄えて食する生活に変化してきます。
貝塚などもある様に浅瀬の川や海で魚介を採取する生活であったこともわかります。石器時代の様に動物を求めて移動する生活から、
定住する生活に変わってきます。
石器は、男が狩猟で使い、土器は女性が植物を蓄えるのに作ったのではないでしょうか。
土器としての機能に加えて、外観に文様を付けたところなどいかにも女性のアイディアだと思いますね。
器としてだけでなく土偶と云う形で多種な置物、飾り物も出土しています。
男女の土偶や目玉が異常に大きい人形などで、人型が多いのも特徴です。
定住型の生活は、家族の集合が始まり、村の形成が始まります。
平均的な寿命が15歳程度だったと云われていますが、長生きする人は50歳ほどまで生きたようです。
山の幸、海の幸に感謝し、地震や洪水などには恐れていました。
その結果、山の神などの信仰が生まれてきます。
後の神道の始まりです。
さて、縄文式土器は中国など大陸から伝わってのでしょうか。
いえ、何と日本での発明で、世界でも一番早く土器を作っていました。
発祥地は関東か東北の様で、徐々に南西へ普及、鹿児島まで広がります。
縄文時代とは、大陸やヨーロッパの影響を受けずに日本独特の文明の始まりでもあったようです。

邪馬台国はヤマト朝廷の前身

2016-09-25 18:31:51 | 歴史
大発見をしました。
邪馬台国(ヤマタイコク)と書いて、実は ヤマト国 と読みます。

中国の歴史書 魏志倭人伝で紹介されている 邪馬台国 と 女王 卑弥呼
その卑弥呼が亡くなり、次に男王、その次に女王 台与 が就任します。
台与 と書いて トヨ と読むようです。
なんと 台 は ト と発音する様です。
つまり、邪馬台国 は ヤマト国 と読む事が出来るのです。
後に、日本の歴史書に出てくる ヤマト王権、大和朝廷 の始まりは
邪馬台国だったのです。
凄いことに気が付いたと思いましたが、残念ながらサイトを検索すると同じ事を
指摘しているサイトがありました。
残念無念!!

これから、日本の古代史を知る上で重要な
1、魏志倭人伝(古代の中国 魏の国が紹介している東方の国々)
2、古事記・日本書紀(奈良時代に出来た日本の歴史書・天皇家の家系)
3、各地にある遺跡。古墳など
です。
これらの情報をパズルのように組み合わせる事で当時の日本の状況を推測する事が
考古学の様です。
まずは、簡単に日本の歴史を紹介します。