古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

古代九州王朝=筑紫氏の終焉

2017-01-28 17:03:21 | 歴史
古代九州王朝=筑紫氏の国の存在は間違いないようですが
その始まりが不明です。
3世紀前半の九州北部の様子は、魏志倭人伝で想像できます。
奴国、伊都国など30国があるまり、卑弥呼の祈祷を信じた邪馬台国連合が出来る。
朝鮮半島の南端に狗邪韓国があり、倭国が支配している地域であった。
卑弥呼の死後、国が乱れ、女王 台与を立て新しい国作りが始まる。
百済など朝鮮半島と交易はあったはずですが、筑紫氏と思われる一族はまだ見当たりません。

しかし、3世紀後半に、近畿のヤマト王権が発行した氏姓制度では、九州は 筑紫氏の国であり
527年の筑紫碧の乱では、ヤマト王権対抗できるほど権力と武力を持った国になっています。
その九州王朝(筑紫王国)の終焉は、かなり明らかです。
筑紫碧の乱 概略
527年 ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した
磐井は挙兵し、肥前国と豊国を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した
528年、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。

新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復とは、
七枝刀 と 広開土王碑 と倭の五王の手紙があります。
七枝刀には、
「泰和4年(369年)によく鍛えた鉄で七枝刀を造った。
かってこのような立派な刀はなかったが、百済王の太子が倭王のため
にわざわざ造ったものである。後世まで伝え示されたい。」
と刻まれていて、百済と倭国は友好関係がありました。
多分に、筑紫氏の始まりは、この時代ではないでしょうか。
筑紫氏は、百済からの渡来人であったかもしれないです。

しかし、広開土王では
396年 広開土王みづから、倭の「臣民」となった百残を討った。
399年 新羅に倭兵が侵入したと聞いて新羅の救援を約束した。
400年 新羅救援のため5万の兵を派遣し、逃げる倭兵を追って任那加羅まで追撃した。
404年 倭の水軍が帯方界にまで侵入したので、広開土王みづから兵を率いて倭に壊滅的打撃を与えた。
となり、倭国が朝鮮半島での支配を失っています。
倭の五王の最後の武王も478年に、宋の文帝に長年、朝鮮半島の支配が出来す兵を撤退する旨の手紙を出しています。
つまり、高句麗の侵攻で、倭国は朝鮮半島の支配を無くします。
そかし、筑紫氏は、どうもこの時代に朝鮮半島と交易し、蓄財と武力を得て成長した様です。
そして、527年にヤマト王権が6万の兵を朝鮮半島へ送り組む事態になり、反逆の行為を行い、
筑紫氏の九州王朝は破滅します。
九州王朝の蓄財の管理を行ったのは宗像一族だったのでしょう。

ともあれ、卑弥呼死後の3世紀後半から氏姓制度で筑紫氏の姓が出されるまでの、九州北部の実態がまだ不明です。

筑紫氏と宗像一族、安曇一族

2017-01-28 16:36:05 | 歴史
神社は、天照大神(アマテラス)を祀る伊勢神宮をトップとする神宮と
素戔嗚(スサノオ)など、天照大神の分家に該当する出雲大社など、大社に分けられます。
そして、大社にはもうひとつ、宗像大社があります。
天照大神(アマテラス)の弟 素戔嗚(スサノオ)です。
その二人が誓約の儀式で
アマテラスの勾玉からスサノオが産んだ女神
田心姫神(たごりひめかみ)  沖の島・沖津宮 (長女)
湍津姫神(たぎつひめかみ)  大 島・中津宮 (次女)
市杵島姫神(いちきしまひめかみ)宗像市・辺津宮 (3女)
が祀られているの宗像大社です。
二人の協力で生まれたのですが、スサノオが産んでいますので分家扱い
或いは、女性ですの、男系子孫を血統とする天皇家では分家扱い
という事で大社になります。
スサノオの出雲同様に、宗像一族とその国は、後の天皇家にとって大切な存在であったようです。

宗像大社で気になるのが、神宝です
卑弥呼が魏の武皇帝より贈られた三角縁神獣鏡と同じ3世紀ごろの三角縁神獣鏡があります。
5世紀に朝鮮半島から送られたとする純金の指輪や祭礼に使われたと思われる金銅製の宝飾品の数々
その財力は、当時の他の国々を圧倒しています。
それでも、筑紫氏=宗像氏ではない様です。
壱岐・対馬を航路として対馬海峡を支配した安曇一族と沖の島を航路とし玄界灘支配した宗像一族の二つが海人族だったようです。
歴史的には、安曇一族が古く、後に宗像一族に分かれたのかもしれません。
それに対して、筑紫氏は九州北部(博多湾から有明海)を支配していています。
ヤマト王権から氏姓制度で 筑紫氏 と云う君の姓を受けます
ヤマト王権に貢物を差し出すことなく、交易の利益を我が物として蓄え、財力、武力共に最盛期を迎えます。
筑紫氏は、ヤマト王権側ではなく、朝鮮半島の百済との友好関係でした。
その結果が、筑紫碧の乱となり、ヤマト王権から討伐軍が贈られて、筑紫碧が亡くなります。
筑紫氏一族が滅ぼされたわけではない様です。
その際に筑紫碧の財宝が宗像一族へ渡ったのではないでしょうか。
後に、宗像大社が作られて、財宝は宗像大社の物へ、つまり天皇家の物となります。

九州王朝とヤマト朝廷

2017-01-28 13:12:56 | 歴史
先の投稿から、九州王朝(朝廷)と云う言葉を使っていますが、
九州王朝(筑紫王国)は、本当に存在しているようです。
吉田武彦氏の「失われた九州王朝」は存在感があります。
筑紫の存在
氏姓制度に筑紫氏の表現があります。
 350年位と思われますが、近畿のヤマト王権が発した氏姓制度で、地方の豪族に与えた君(キミ)の位
 氏名 九州地方は、筑紫氏の名前があります。
・古事記の神話でも、冒頭の国生みの神話で、九州は 筑紫島で、四つの顔、筑紫、豊国、肥国、熊曽国の四つの国名が
 出ています。
 神武天皇か近畿へ東征するより以前
 ニニギが天孫降臨するより以前に筑紫と名前を使っています。
 その名前は、古事記の後段にも幾つも登場しますし、筑紫碧井の乱 が勃発し記載されています。
 意図的か、無意識に書かれたのか?日本神話の時代の流れでは
 イザナミ、イザナギ が国生みで 筑紫島 を産み、後にアマテラスが生まれ、天孫降臨、神武東征 と流れます。
筑紫と云う呼び名は、近畿のヤマト王権側が付けた名前の様ですが、
紫は、中国でも高貴な色であるので、かなり良い意味、漢字をあてがっています。
残りの豊国、肥国、熊曽国と順に悪い印象があるのですが。

・福岡には、都久志(つくし)という地名があります。
 地元、九州では、つくし と自分達の土地を読んでいたのでしょうか。
 氏姓制度では、地名、氏名を感じ二文字に統一したので、その際に 筑紫 に置き換えられたはずです。

中国側の資料に目を通して見ると
・漢委奴国王 の金印の時代(紀元前) 倭国は、最強国が 奴国で100余りの国がある。
・親魏倭王 の金印(卑弥呼の時代)  奴国、伊都国など九州北部の30国が連合する邪馬台国が倭国で
                   東方に、同じ倭種の国がある。
つくしにも筑紫にも該当する呼び名は出てきません。
3世紀前半は
筑紫氏の国はまだ無かった。  或いは 魏志倭人伝出てくる奴国などの国名は中国名で、地元で「つくし」と呼ぶ国があった。

農耕や織物など、文化的な部分も中国の文化が朝鮮半島を伝わって九州北部へ伝わります。
更に鉄器や武器は、お米と交換に朝鮮半島から入手します。九州北部が文化的にも武力的にも優位にあった時代が長く続いた事は
まちがいないでしょう。3世紀、九州王朝>近畿王朝 の力関係は間違いないはずです。
吉田武彦氏の二番煎じで申し訳ないですが、九州朝廷について考えてみたいと思います。