先日埼玉の方で発生した竜巻が甚大な被害をもたらしたということで、被害に遭われた方々には心からお見舞い申し上げます。日本であのような大きい竜巻が発生してしまい人家や学校などがあんな状態になるのをみると、異常気象によって日本の気候がどんどん変わっていっているんじゃないかと思ってしまいます。
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あの日は丁度新宿から吉祥寺の方に向かっている電車の中でした。ふと進行方向右側の窓から外を見ると、真っ青でとても綺麗な空にまるで映画ラピュタのようなモコモコとした入道雲が沸き立っていて、怖いくらい綺麗でした。「あの雲がこっちに来たらゲリラ雷雨なんだろうな、来ないといいな」なんて思っていました。左側の窓から見る空は雲ひとつなく、横浜の方は海が綺麗なんだろうなあなんて悠長に思ったものです。それにしても雲の形や大きさが異常な感じがしてそばにいた友人にしきりに雲のことを言っていました。友人は「あぁ、きれいだね」ぐらいにしか思ってなかったみたいでしたが、私にはそれが特別な感じがしたものです。
結局吉祥寺の方では、雨が降りそうで降らないまま。しかも風がちょっと冷たくなって夕方になるとうっすら涼しくなってきました。帰宅してからテレビをつけ、竜巻のニュースを見て即座に「あの雲」だと気づきました。
ニュースを見て「あの雲」が都内にやってきたら・・・と考えるとちょっとぞっとしますが、やはり日頃から天気や自然に目を向けるのは自己防衛の一つだと確信しました。多分私は小さい頃田舎に住んでいた(しかもかなりの田舎)お陰で、そういうのに慣れているんだと思います。朝おきて天気を見て傘を持っていこう、と思う日は天気予報よりも勘の方が当たる気がしますし、ゲリラ雷雨もなんとなく湿気の匂いとか風の勢いみたいなもので分かりますし、今回の雲から「なんとなく異常な感じ」がしたり。
多分一緒にいた友人はそういう自然の勘みたいなものに鈍い人だったのかもしれません。
3.11の地震の時も、何人かの人たちがあの日地震前後の時間帯に新宿都心の空がどす黒く気味が悪かった、と言っていました。中にはその空を見て仕事をとりやめて家に帰ったところ、地震が起きたなんて人もいました。多分そういういわゆる「本能」みたいなものが鋭い人ほど、災害時には生き残りやすいのかな、と思います。敏感に感じ取る機能が鈍い人ほど死ぬ可能性が高い気がします。
でも日常生活の中で、そういう敏感な事を言ったり感じたりする人は「神経質だ」とか言われて馬鹿にされそうです。雲をみていちいち「なんか変な感じ」とか言うだけで気味悪がられることのほうが多いんではないでしょうか。それを天気予報士ばりに科学的根拠を背景にして言えば多少は違うかもしれませんが、この世の中の自然現象の多くは科学的に成り立ちが証明できないと言います。そんな中、いち早く災害から身を守ったり被害を最小限にするには、日頃からの「感じ取る力」が必要なんじゃないでしょうか。
それは天気だけではなく、人間関係にしても会社の方針に関しても「なんかちょっとおかしいぞ」と思う気持ちって大事なことだと思います。
例えば会社が不正を行おうとしているとき、その片棒を担がされそうになるときは大体分かるものです。そこで「おかしい」と思ったらそれを止めさせるか、自ら離れた方が良いです。でもそういう人は不良分子と言われてつまはじきにされることの方が多いですね。でもその後不正を働いた張本人として会社から切り捨てられるのは自分なのだと自覚するべきです。
善意で近づいてきた相手が実は詐欺師だった、なんて場合もよくあります。そんなとき「こいつはおかしい」と思ったらその時点で切るべきなんです。それができないから騙されるんです。それも一つの勘なんだと思います。
とか言うと「それじゃあ和が保てないじゃないか」とか「持ちつ持たれつやってるんだから多少は目をつぶらないと」なんて言う人もいるかと思います。反吐が出るのはそんな時です。
人間、自分なりの哲学をもって生きていれば、大人としてのプライドや誇りを持って生活していれば、自分にとってなにが大切か・ここだけは譲れないという部分があるはずです。その領域を「信念」というのです。
信念のない人間に和がどうのと言われたかあない、というのが私の意見です。
いい歳した人が「自分探し」したりするなんて聞くのも変なこというなあってよく思います。自分のやりたいことが無い大学生が、卒業したらとりあえず良い会社に就職して、自分のやりがいを見つけたいなんて言いながら就活してたりするのを見ても変だなあって思います。もちろん今の世の中働いてる人で、自分のやりたい職業をやっている人なんてほんのひと握りなのかもしれませんけど、私のように自分のやりたいことしか出来ない不器用な人間からしたら、何が面白くて働いてるんだろうって思います。
私は小さい頃から漠然と「絵を描いて生きていくんだろうな」ってことしか頭にありませんでした。
なので「やりたいことがみつからない」っていう状況がなんだかよく理解できない、と言いますか・・・。やりたいことって見つけるもんじゃないような気がするんですけど。
まあそれは小さい頃から自分の好きな事を自由に思い切りやらせてもらえた環境が良かったのは言うまでもありません。その点では感謝です。もちろん大きな企業や会社に入って安定した給料がもらえるわけでもありませんし、確定申告も自分でやらなくちゃいけないし、ボーナスもありませんけどこれほど楽しい人生は無いと自負することはできます。これって幸せなんだろうなあと思います。もちろんもっともっと自分の技術も向上したいですし、もっと色んな仕事をしたいとか、色々野望はありますが(笑)
それを思うと、「感じる」ことというのは簡単なようで難しいのかもしれません。感性ともいいます。これからの時代は感性が豊かな人が生き易い世の中になって欲しいし、きっとそうなっていくと思います。感性の鈍った大人には早く引退してもらって、自由な発想・自由な生き方がもっと出来れば良いなと個人的に思います。
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あの日は丁度新宿から吉祥寺の方に向かっている電車の中でした。ふと進行方向右側の窓から外を見ると、真っ青でとても綺麗な空にまるで映画ラピュタのようなモコモコとした入道雲が沸き立っていて、怖いくらい綺麗でした。「あの雲がこっちに来たらゲリラ雷雨なんだろうな、来ないといいな」なんて思っていました。左側の窓から見る空は雲ひとつなく、横浜の方は海が綺麗なんだろうなあなんて悠長に思ったものです。それにしても雲の形や大きさが異常な感じがしてそばにいた友人にしきりに雲のことを言っていました。友人は「あぁ、きれいだね」ぐらいにしか思ってなかったみたいでしたが、私にはそれが特別な感じがしたものです。
結局吉祥寺の方では、雨が降りそうで降らないまま。しかも風がちょっと冷たくなって夕方になるとうっすら涼しくなってきました。帰宅してからテレビをつけ、竜巻のニュースを見て即座に「あの雲」だと気づきました。
ニュースを見て「あの雲」が都内にやってきたら・・・と考えるとちょっとぞっとしますが、やはり日頃から天気や自然に目を向けるのは自己防衛の一つだと確信しました。多分私は小さい頃田舎に住んでいた(しかもかなりの田舎)お陰で、そういうのに慣れているんだと思います。朝おきて天気を見て傘を持っていこう、と思う日は天気予報よりも勘の方が当たる気がしますし、ゲリラ雷雨もなんとなく湿気の匂いとか風の勢いみたいなもので分かりますし、今回の雲から「なんとなく異常な感じ」がしたり。
多分一緒にいた友人はそういう自然の勘みたいなものに鈍い人だったのかもしれません。
3.11の地震の時も、何人かの人たちがあの日地震前後の時間帯に新宿都心の空がどす黒く気味が悪かった、と言っていました。中にはその空を見て仕事をとりやめて家に帰ったところ、地震が起きたなんて人もいました。多分そういういわゆる「本能」みたいなものが鋭い人ほど、災害時には生き残りやすいのかな、と思います。敏感に感じ取る機能が鈍い人ほど死ぬ可能性が高い気がします。
でも日常生活の中で、そういう敏感な事を言ったり感じたりする人は「神経質だ」とか言われて馬鹿にされそうです。雲をみていちいち「なんか変な感じ」とか言うだけで気味悪がられることのほうが多いんではないでしょうか。それを天気予報士ばりに科学的根拠を背景にして言えば多少は違うかもしれませんが、この世の中の自然現象の多くは科学的に成り立ちが証明できないと言います。そんな中、いち早く災害から身を守ったり被害を最小限にするには、日頃からの「感じ取る力」が必要なんじゃないでしょうか。
それは天気だけではなく、人間関係にしても会社の方針に関しても「なんかちょっとおかしいぞ」と思う気持ちって大事なことだと思います。
例えば会社が不正を行おうとしているとき、その片棒を担がされそうになるときは大体分かるものです。そこで「おかしい」と思ったらそれを止めさせるか、自ら離れた方が良いです。でもそういう人は不良分子と言われてつまはじきにされることの方が多いですね。でもその後不正を働いた張本人として会社から切り捨てられるのは自分なのだと自覚するべきです。
善意で近づいてきた相手が実は詐欺師だった、なんて場合もよくあります。そんなとき「こいつはおかしい」と思ったらその時点で切るべきなんです。それができないから騙されるんです。それも一つの勘なんだと思います。
とか言うと「それじゃあ和が保てないじゃないか」とか「持ちつ持たれつやってるんだから多少は目をつぶらないと」なんて言う人もいるかと思います。反吐が出るのはそんな時です。
人間、自分なりの哲学をもって生きていれば、大人としてのプライドや誇りを持って生活していれば、自分にとってなにが大切か・ここだけは譲れないという部分があるはずです。その領域を「信念」というのです。
信念のない人間に和がどうのと言われたかあない、というのが私の意見です。
いい歳した人が「自分探し」したりするなんて聞くのも変なこというなあってよく思います。自分のやりたいことが無い大学生が、卒業したらとりあえず良い会社に就職して、自分のやりがいを見つけたいなんて言いながら就活してたりするのを見ても変だなあって思います。もちろん今の世の中働いてる人で、自分のやりたい職業をやっている人なんてほんのひと握りなのかもしれませんけど、私のように自分のやりたいことしか出来ない不器用な人間からしたら、何が面白くて働いてるんだろうって思います。
私は小さい頃から漠然と「絵を描いて生きていくんだろうな」ってことしか頭にありませんでした。
なので「やりたいことがみつからない」っていう状況がなんだかよく理解できない、と言いますか・・・。やりたいことって見つけるもんじゃないような気がするんですけど。
まあそれは小さい頃から自分の好きな事を自由に思い切りやらせてもらえた環境が良かったのは言うまでもありません。その点では感謝です。もちろん大きな企業や会社に入って安定した給料がもらえるわけでもありませんし、確定申告も自分でやらなくちゃいけないし、ボーナスもありませんけどこれほど楽しい人生は無いと自負することはできます。これって幸せなんだろうなあと思います。もちろんもっともっと自分の技術も向上したいですし、もっと色んな仕事をしたいとか、色々野望はありますが(笑)
それを思うと、「感じる」ことというのは簡単なようで難しいのかもしれません。感性ともいいます。これからの時代は感性が豊かな人が生き易い世の中になって欲しいし、きっとそうなっていくと思います。感性の鈍った大人には早く引退してもらって、自由な発想・自由な生き方がもっと出来れば良いなと個人的に思います。