ピエール・ブーレーズが1月5日に亡くなった。亡くなった直後はよくわからなかった。だがジワジワときている。ご冥福をお祈りいたします。
だから今日はブーレーズ指揮のマーラーの9番を聴いていた。晩年のブーレーズの録音は、解釈が素直になったと言われているが、実際のところかなりめんどくさくなっていると思う。このマーラーシリーズもなんでマーラー?と思ったものだが、ドイツ風マーラーではなく、ウイーン風のマーラーがなかったからだと思えば、納得だ。
当然私も、作曲家としてのブーレーズはほとんど聞いたことがない。NHKFMの現代音楽の時間で聞いた程度だ。だから何をした人なのかはよくわからなかった。その技法のセリーというのは音の長さや強弱、音色まで全て数字化し、繰り返しのない数列にして作曲するというものだ。調性ができてはいけないので次の音符は不協和音になるようにするし音の長さも強弱も音色も12パターン全てを使わなければいけない。逆説的にメロディーライン?と言えるかどうかだが、その音列の規則を決めるとあとは自動的に作曲出来るという特徴があり、コンピューターで作曲出来る。あとは人の手で修正をかけてゆくのだが、現実にかなり作曲が難しい。
ということで本当は数学者だったブーレーズだからこそ完成させられたとも言える。それでもやっぱり難しい。なのでブーレーズ自身この技法を発展させられなかったと言われている。逆にアメリカのジョン・ケージのように偶然性ということを言われてしまうと、厳密な技法は意味があるのかともなるし、環境音も音楽だと言われてしまうと、作曲ってどうゆうこと?という根源的な問いになってしまう。だから発展できなかったという気がしている。
ただこのセリーだが、当時アインシュタインの特殊相対性理論というマクロ物理と、ボーア以降の量子力学をつなぐ大統一論という概念を考えれば、音楽の中にそれを作ろうとしたのは実はすごいことだった。それはルネッサンス以降の音楽の、遡ればギリシャ時代からの、宇宙と数学と音楽の調和という壮大な概念への挑戦だった。
亡くなってから知ったのだが、フランス音楽音響研究所の創設者であり初代所長がブーレーズだ。現代音楽の発展のために作曲者を支援し演奏の機会を作るだけではない。最新の音響工学を研究しそれを現代音楽に反映させるという仕事をしている。実際その仕事は多岐にわたるので、詳しくはウイキのリンクを参照していただくとして、かなり初期からデジタル技術に取り組んでいた組織で、作曲支援ソフトなども作っている。なお楽曲解析ソフトもある。ブーレーズはそれを使ったのかどうか。
で、このシンセサイザーの規格に深くブーレーズが関わってきたという。実はかなり偉大な仕事だ。シンセサイザーの欠点は、その機材が壊れてしまって修理できない場合、それを使って作曲したものは二度と演奏できなくなる。だから録音が重要になるのだが、音楽としては根本的な問題ができてしまう。つまり時代が変わって新たな評価をしようにもできなくなるのだ。
確かにセリーという技法を熟知したブーレーズなら、音色までもパラメーター化し、規格に落とし込むのは最適だったろう。
ただ実際のシンセサイザーでその規格を忠実に守っているのが、どの程度あるのかはわからない。逆にコルグの古いアナログシンセなんてまだ使われているわけで、アレでないと出ない音というのもまだまだある。
ブーレーズ最高!と言いたいところなのだが、私には少し薄暗い歴史がある。
クラシックを聴き始めたあたりだが、父がかなり買っていたのでまあレコードには不自由しなかった。ただフランス近代ものが多かったことと、当然アンセルメが多かった。フルトヴェングラーはほとんどなかったように思う。オーマンディーは当然多かったな。ドイツものは当時あったマニアックなレーベルのものだった。今思ってもあのコレクションはよかった。そういえばアンセルメも数学者だった。
で、ですな、中学生がアンセルメが好きだといえば当時罵倒されたわけです。「カラヤンだろ!」いや今でもカラヤンの60年代から70年代は好きになれないんですが、フランス近代とかのカラヤンなんてとも思うのですが、そもそもフランス近・現代を聞く中学生が有り得ないわけで。真面目にこの頃ドイツものは敬遠していました。理由は同じことが起きるから。
で、ブーレーズが颯爽と登場するのです。アンセルメの系譜でもあり、さらに深く明晰に音楽が作られています。もうこれで決まりだろうと思っていると、マゼールとかがいるわけですね。
ちょっと年代的におかしいと思った方が多いと思います。当時の中学生や高校生で買えるLPというのは無いわけで、廉価版が出るまでの時間差があるわけです。ところが大人は聞いていたのかどうかはわかりませんが、やはりここで「カラヤンだろ」「いやもうブーレーズは古い」とかなんとか。
その前に日本でクラシック好きと言えばドイツであって、フランスは無いわけです。大学入ってからも、ドイツはあってもフランスは無いわけですね。そういえばクラシックが好きな女の子がいた。いつも日傘に肘まで来る手袋をしていたが、彼女が「バイロイトに絶対行く」と言っていたのが記憶にあります。
確かに今ではブーレーズは古い。でも逆にブーレーズが切り開いた楽曲の構造解析法があるから、現在の若手指揮者の更に深くエモーショナルな演奏がある。そして器楽演奏法の進歩もあるが、実はオーケストラとのコミニケーションをわかりやすくした可能性がある。
クラシックの指揮者の中では、デ・サーバタやメンゲルベルク、ストコフスキーやトスカニーニの果実をしっかり食べたのが、カラヤンだったのだろう。19世紀最後の大指揮者のフルトヴェングラーはその対立軸にあった。だがその傍にいたアンセルメやブーレーズは、当時のクラシックファンにとっては、異端だったのだろうか。その上フランスってそんなに異端なの?
ブーレーズが好きといえば、ジャズファンやロックのファンが反応した。革命児と言われていたのだろう。グレン・グールドが彼らに受け入れられたような、その感じかもしれない。当時のクラシックファンはキビしかったよ。そのせいかブーレーズも録音はマーラー以前は少ない。
雰囲気で聴くのならいいのだが、例えばだ、フルトヴェングラーのリングとブーレーズのリングと、ティーレマンのリングとどれがどう違うのかという、今だったら言える問題がある。フルトヴェングラーは古くなってしまったのだ。今には今の正しいクラシックがある。正しく伝える方法は何か、そこをブーレーズがやっていた。
だからティーレマンもいるのだと思う。
間違いなくクラシックの評論家は、90年代以前は質が低すぎた。ただそれだけだ。そしてクラシックっていうのはその程度のものとしてしか認識されていない。
岩手県民体アルペンスキーは無事終わったらしい。雪がなくて国体コースでは作れなかったようだ。ということで岩手県以外の方、対等になりますのでご安心ください。国体主催県の何が有利といえばゲレンデを知り尽くして想定コースまでシュミレーションできるところなのですが、今年は難しそうです。
でも月曜日から雪が降り続くようです。なので国体はできるかもしれません。
で、なんでリース飾っているの。
自分も十分大人になったと思うのだが、それでも足りないことはあるようだ。だがやっぱり今でもお前はガキだと言われているような気がするのは、気のせいではない。高齢化社会の欠点なのだ。いや儒教的社会の欠点なのだ。もう少しいえばそういった大人に話を聞いてもらうためにはえらく時間がかかるのだ。儒教というのは言い過ぎだ。室町期まで遡る感情的世界だ。
ブーレーズの指揮は最高だと思うのだが。そして現代の指揮者は、更に完璧だと思うのだが。その何が悪いのだろうか。
と、どす黒い思いが甦るのが、ブーレーズの死去でした。私は大好きだった。でもひどい目にあった。
今年初めてカレンダーをかった。半額だったが600円だった。おまけに久しぶりの消費税表示なしだったので、つり銭の計算ができなかった。
カレンダーは普通年末の小売業で配るものだが、最近はかなりしわくなっている。いつももらっている米屋さんは、今年は早く無くなったと言っていたが、多分作らなかったのだろう。実際自分で買ってみれば気持ちはわかる。お得意様以外には出せないし、広告費としても大きすぎる。
だがこの旧暦と節季の入ったカレンダーでないと、なぜかダメ。そしてこれは少し文字が大きいが、大きい文字でないと何かダメ。
だから古いものがいいというのはよくわかってはいる。