どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

なにかザマア見ろと言いたい

2015-06-29 03:31:25 | 日記

 

内閣支持率が急落したらしい。これはアベノミクスの行き詰まりもある。アベノミクスによる恩恵が富裕層のみに渡っているだけで、庶民には全く行き届いていないと認識されてきたからだ。そして派遣労働法改正も大きい。行き過ぎた円安のせいで久しぶりの賃金上昇も結果はマイナスになっている。物価が上がりつつあるのは確かだ。

実は庶民の景気感が改善されつつあるというデーターはある。だが本当に改善基調にあるのかどうか、まだ不安定なのではないのだろうか。私にはまだ実感できない。

自衛隊関連法案に対して、特に集団的自衛権についての条項が、国会に呼ばれた憲法学者3人から3人とも「憲法違反」と言われて以来の迷走ぶりが支持を下げたのは、間違いない。自民党はこの憲法学者は特別な人だと言ったが、現実にほとんどの憲法学者が集団的自衛権までは憲法解釈では無理だと言っているのが明らかになる。それでも強弁を続けるその姿が見苦しすぎるのだ。憲法解釈という枠でどの程度デリケートに議論できるかとは思っていたが、のっけから破綻してしまったのだ。

独善にも見える。現在は独裁政治と勘違いしているのではと思わせる言動が多い。

それでは野党に関してはやっぱり批判が大きい。安保条約は集団的自衛権を容認しているということだ。そのグレーゾーンをどうするのかが今までの解釈であったが、明快に戦闘に参加する可能性との差は大きい。とはいえ原則として憲法が集団的自衛権を否定するならば安保条約も否定しなければいけない。野党はそこを突かずに「徴兵制の復活に繋がる」と言っている。その煽り方はおかしいのではないのか、集団的自衛権はダメで安保条約は肯定というのはスジが通らない

内閣支持率の低下のうち、幾らかは政治家への失望もあると思う。

 

 

そこに大問題発生。日刊スポーツから。あえて日刊スポーツ。

 

「安倍晋三首相に近い自民党の若手議員約40人が25日、憲法改正を推進する勉強会「文化芸術懇話会」の初会合を党本部で開いた。 安全保障関連法案に対する国民の理解が広がらない現状を踏まえ、報道機関を批判する意見が噴出した。講師として招いた作家の百田尚樹氏に助言を求める場面も目立った。

 出席議員からは、安保法案を批判する報道に関し「マスコミをこらしめるには広告料収入をなくせばいい。文化人が経団連に働き掛けてほしい」との声が上がった。

 沖縄県の地元紙が政府に批判的だとの意見が出たのに対し、百田氏は「沖縄の2つの新聞はつぶさないといけない。あってはいけないことだが、沖縄のどこかの島が中国に取られれば目を覚ますはずだ」と主張した。」

 百田尚樹氏は13年11月から15年2月まで様々な物議を醸しながらNHK経営委員でいた。意味不明な右翼言説でNHKと政府の任命責任まで叩かれた末の辞任だった。それがマスコミ批判したとあっては、ただならぬものがある。そしてこの勉強会に出席議員は過激動物保護団体の手法まで言い始めている。スポンサーを叩けと。

これが居酒屋の会話ならどうでもいいことだ。だが政治家の勉強会となれば話は別だ。そして百田氏は作家だ。言論の自由を保障する憲法を否定した発言は許されるものではない。作家として自分の手を縛る行為でもある。



ただ自民党の憲法軽視は今に始まった話ではない。まだ70年安保の岸内閣だって、憲法を重視していた。それなのに表現の自由ほど民主主義の根幹なのを、自民党はわからない、もしくは今酔っ払って忘れているのだと思う。

私自身は現在から100年後までの間に、現在の自衛隊関連法案が必要な時が来ると思う。そのためには必要な法案だと思う。そして実は限定的集団自衛権も、もう少しは積極的であるべきだと思う。だが憲法違反なのは自衛隊設置から始まる問題だ。それが冷戦時代を過ぎて明確に自衛隊の必要性が浮かび上がってきた。だから誤魔化されても誰もが容認してきた。日米安保条約も、実は集団的自衛権の行使であることを誤魔化してきた。

このためか、野党も共産党以外は安保条約の否定までは口にしていない。民主党に至っては政権にいたこともあり、この問題に真っ向から切り込めないでいる。

そして違憲だとしても、自衛隊もまた大きくて潰すことができない。原発問題で直ちに廃炉にせよという無責任は口に出せない。自衛隊の解散も、その家族があることを思えば口にするのもはばかられるものだ。

だから自衛隊憲法問題は、憲法改正でしか根本的には解決できないのだ。それを自民党はあのわけのわからない「改正案」で逆に改正を難しくしてしまった。だいたいあれで憲法学者の9割を敵に回したのだ。それを国会に呼んだらどうなることか。そこを全く読まずに自民党と維新の党は、その前に著述も論文も読んでいない可能性もあるが、著名であるというだけで学者を選んでしまった。本人らが「なんで呼ばれたのかわからない」というほどだった。



安倍内閣はこの表現の自由問題の火消しに回っている。ものすごくデリケートな発言をしている。それはそれで好ましいのだが、それではそれ以外の自民党議員の発言はなんなのかとなる。

教養がなさすぎるのではないのか?こんなに権力がマスコミを攻撃したというのは滅多にない。それはとてもデリケートに行われなければいけない。そのために必要な言葉がない、それを教養がないというのだ。他の人がどう思うのか想像することすらできないとしても、言い換えや穏やかな表現や、もしくは過去の事例からの引用、場合によっては小説からの引用なりあるだろう。

安倍首相はこのところかなり洗練された言い回しをするようになっている。いいライターがいるのだろうと思うが、それ以外がこれではどうしようもない。



最近文科省が国立大学に「文学部や社会学部など人文社会系の学部と大学院について、社会に必要とされる人材を育てられていなければ廃止を検討するべき」といったらしい。これは以前答申にあったローカル型大学とグローバル型大学との分類に則っているのだろう。

そして昔から文系は私学、理系は国立と言われている。文教予算を削減するためには国立大の文系を削減するのが正しいように思える。だが問題はある。

そもそも、国会議員や官僚はだいたい文科系の一流大学出身者だということだ。その彼らが教養はいらないと言い始めているのだ。矛盾が多すぎる。ただわかるのは、日本の高校教育を完璧に学んだらかなりの教養を得られる。それらを完璧にマスターしたはずの人たちがいらないというのは、彼らはよほどのエリートなのか。外交官には教養はいらないのか?それはないだろう。

私学文系教育は、あまりにも多くの学生を一人の教員に充てることだ。授業数も多く、卒論指導の数も多い。だから自身の研究や勉強できる時間が少ない。それでも給料は高い。ただ払う大学法人側でもかなりの人選を行う。そのせいかかなり優秀な人が多い。タレント性も備えた人が多い。授業も工夫されたものが多い。大学側からも注目される成果を要求されるから話題になりやすいものが多く取り上げられる。

国立文系教育は授業数も卒論指導の数が少ない。このため研究に使える時間が多い。ただ給料が安い。そこでできることといえば基礎研究だ。実用には程遠いものばかりになる。そして先生も地味で基本を大切にする人が多くなる。これがつまらないと言われる原因なのだが、その不器用な人たちも様々な工夫を凝らしてどう授業を盛り上げて行こうかと苦心している。

個人的に私学の方が個人指導がゆるすぎて多様な人材を輩出しているだけだと思う。逆に少数精鋭の国立はマジメな学生を育成する機関になっている。その上で言うが、よくいう「自分のノートを見ながら講義する教授」というのは、国立でも絶滅危惧種だ。たまにあるとすれば、専門外の授業を開かなければいけなかった場合、これは最近よく見るパターンだ。経営的な理由によるものだ。

国立と私学とどちらが文系教育にいいかというのは全くわからない。ただ基礎研究をする人たちがいなくなれば早晩日本の文系教育の裾野が狭くなる可能性はある。


 

ところで、実用性のない教養がなぜ必要だったかといえば、権力者に対峙するためだった。啓蒙思想がそれに当たる。権力者と対抗できるだけの知識がないと戦えない、そもそも権力者はバカとは合わないからだ。たまにバカだけどとんでもないのを引き立てることはあっても、専門性が高いから高く扱われただけだ。それでも彼らは教養は高かった。だから権力者も我慢した。

今は平和な時代だ。権力者との対峙もない。だから教養もいらない。専門性だけでいい。効率こそが重要だ。だから実用性が大切だ。それはわからなくもない。

ただ権力者が言えば話が違う。切羽詰まっているのはわかる。ただデリケートに言うべきではなかったのか。

なお最近工学部とか理学部を実学として賛美する風潮は好きになれない。工学部って使えない専門バカと言われていた時代を知っているからだ。そして専門バカが多い。文系のイイカゲンが、ものすごく低く見ていたくせに今更という気がする。

文系学科は人への洞察だけで成り立っている。それはそもそも実用的なはずなのだが。ソニーのウオークマンの失敗はまさしくその点にあった。

人を動かせない政治家ばかり生み出した文系学科は、確かに予算を下げられるべきだろうか。まともな政治家を生み出すために予算は必要だろうか。私は後者の方が正しいと思う。だが未来はわからない。


近況ばかりが続いている

2015-06-25 02:14:35 | 日記

 

今年の季節の移り変わりは、植物で見ているととても早い。ホタルブクロが咲いていた。確かに例年になく暑い。特に最低気温が高いように感じる。

明日年間契約の話がある。信じがたいことだが来年度の話ではない。今年度の話だ。こんな非常識はない。しかも契約金額を下げる話だ。もしも交渉決裂して法廷に持ち込んだら確実に私が勝つ。だができないと見込んでの話だ。そして契約中の最も忙しい時期に契約内容変更(フツーは変更は年度末までに済ませるものだ)というのは仕事に影響する。

それが何を意味するのか、悪い仕事をさせる可能性があるのに、忙しくて出来なかったと言い訳をするのだが、驚くほど何にも考えていないのだろう。

社長以外はマトモな会社なのだが。

 

 

自衛隊関連法案で国会が延長された。その是非はともかくとして、日本の戦後という言い方を真面目に考えた人はいるのかな。真面目に安保に反対した人はいたし真面目に賛成した人もいた。世界上位の軍備の自衛隊はそもそも軍備だった。憲法違反だった。F-15の装備も異常だった。

ただ必要だったのだ。自衛隊は冷戦構造の中では必要なものだった。Fー15も広い海域を持つ日本ではどうしてもスピードが欲しい。だから過剰な装備になってしまった。

そして安保反対派も賛成派も、現実的な議論をすることもなく今日に至っている。そして私のような人間は平行線に愛想をつかしている。

これがなんと50年続いているのだ。会期が多少延長されたとて治るものではないだろう。

このまま自民党の横暴を許せば、徴兵制が復活するという人がいる。それは多分よっぽどのことがなければ起きないはずがない。何しろ投票権が18歳に下げられたからだ。

 

 

田んぼに小さなカエルがいっぱいいた。カエルは虫だと思っていた古代の人の気持ちがよくわかる。そしてその虫がいつの間にか大きくなって巨大になればなんらかの霊験は感じるだろう。

そう思うということは、私もこの子ガエルを虫だと思っているということだ。ピュッピュッと泳ぐ姿は虫と変わらない。

 

 

ヘラオオバコの花は花火みたいだと思っていたのだが、撮影しようとすると四苦八苦した。なかなかいい個体が見つからないのと背景が決まらない。

雨が少なくて地面がカラカラだ。瞬間的な豪雨はあったが表に流れてしまたようだ。地中には染み込まずすぐにカラカラの地面ではなかなかコントラストが出ない。下の葉っぱも乾いてしなびていれば難しい。

 

 

雨は降りそうで降らない。


土砂降り

2015-06-22 03:55:40 | 日記

 

クルト・ワイルばかり聞いている。ただひどいローテーションになっている。三文オペラの1930年版を聞いたら、マハゴニー市の興亡。そして7つの大罪、マハゴニー、レディ・イン・ダーク、マハゴニー、三文オペラの1958年版、マハゴニー、マハゴニー、その他、マハゴニー。マハゴニーの第一幕の最後なんて今日3回も聞き直した。昨日は第三幕の最後を4回聞き直した。ソング集だとアラバマソングが入っているので、結局何回アラバマソングを聞いているのか。

多分ワイル最高傑作だろう。ブレヒトの本は、お尋ね者3人組は明らかに資本家だしその搾取っぷりとチープな世界を描いているが、最後の金のないのが罪というのは共産主義者ブレヒトにとっては「そんな世界はおかしい!」と言いたいのだろうが、ワイルは「そうだね、金のないのは罪だ」と、そのまんまのチープな世界を描いてしまっている。痛快活劇にしかなっていない。ワイルは後日ブレヒトと別れた理由を「共産党宣言に音楽はつけられない」と言ったそうだが、まあ全くそうなのだが(当時の共産主義は娯楽を否定する方向にあった)、それにしても名ソングが揃ってそれらが関連を持ちながら再現されてゆく構成は、よくできている。三文オペラの荒さと比べれば、まさしくオペラになっている。

それにしても、対訳を出力したのだが52Pもある。文字サイズだって大きいわけではない。ものすごくかぶせまくっているので、この長さがこの時間に入っている。だから聞き取れないところがいっぱいあってえらく難儀している。

土曜のお昼は大雨だった。30分で3ミリの降水量だ。

 

 

遠くは晴れているのに。

 

 

このくそったれの雨のせいで、今日の予定は2週間後に延期になった。

 

 

それでも晴れた。予定はなくなっても晴れた。かなり悔しい。

マハゴニーで一番好きな場所の対訳がわかった。「テメーのケツはテメーで拭きな/人の尻拭いなんて誰がするか/人を踏みつけにするのはこのオレだ/踏みつけられるマヌケ、それはお前だ!」これを堂々と歌われても、かっこよすぎる。

 

 

よ市に行く。ワイヤーワークスの瀬川と出会う。疲れた顔をしていた。9月公演を邪魔しに来てくれと言う分にはそこまでは疲れていないようだ。思いついたように撮影を依頼される。よしこが8月、ワイヤーが9月、いい並びだ。

すると雨が降った。10分間で1.5ミリの大雨だった。

 

 

米山に行って、その後大空に行ってカラオケを歌った夜だった。酒浸りというのは気分のいいものだ。酒浸りというのは明日のためにあるはずなのだが、大概踏み外す。マハゴニーにはウイスキー浸りの神様がいたから、仕方がないのかもしれない。

その割にはすっきりした朝だった。ソフトボールの試合を撮影する。肌の反射率が更に低くなった。雨でながされた空はキツイものがあった。

 

 

そして午後は音楽会の撮影。右肘が悲鳴をあげかけている。右手首も駄々をこね始めた。まあそれでもなんとかするしかない。湿布はいっぱい買った。

 

 

そして30分で4ミリの雨が降った。

「誰もそこを動くんじゃない!/みんなストライキだ!/髪の毛一本だって地獄なんて行かせやしない/だって俺たちはもともと地獄にいるんだから/だって俺たちはもともと地獄にいるんだから/だって俺たちはもともと地獄にいるんだからな」

今気がついた。マハゴニーはワーグナーのパロディなのだ。教会旋律なんて使っているけど、コラールとか使っているけど、間違いなく裏リングだ。

しばらくこのヘビーローテは続きそうだ。

We now must say good bye


近況

2015-06-19 01:11:12 | 日記

 

ようやくイタリアの至宝・史上最高のバイオリニスト、とイタリア人だけが言っているウート・ウーギの全集を聞き終えた。全体ものすごく保守的に聞こえて細かく革新的解釈と、過剰なまでに美しい音色と美しすぎてどれも同じ音に感じてしまうほどの貧しさと、聴かせどころで全く使わず(使っていないように聞かせるほどのテクなのだが)フツーのところで使いまくる超絶技巧、完璧を追求して完璧であるがゆえの不完全さ、強さと弱さが同居する謎のバイオリニストです。聞いているわたしも覚醒しながら酩酊してゆく感覚がたまりません。伴奏のサヴァリッシュが徹底的に合わせているのですが、ウーギも傲慢なまでに合わさせているわけでもなくものすごく楽しんでいるフシもあるわけで、まあ用はおぼっちゃまなんですね。ものすごくわがままなのだが、実は気配りがすごくて周りは気がつくと乗せられているというところでしょうか。

まあとにかくすごい。わかりにくくすごい。だから少し疲れてきた。

ようやくクルト・ワイルにたどり着いた。仕事で忙しすぎて疲れた特にウーギがいて、さらに弱った時にワイルになったわけで、この恐ろしくバカバカしさが丁度良い。ロッテレーニャのソング集3枚組がとても安かったので買ったあった。だがそれは少しゴージャス過ぎた。さらに特売の10枚組のベルト・ブレヒト/クルト・ワイルの10枚組がもっと安く、ロッテレーニャの三文オペラが1930年版と58年版と二つ揃い、マハゴニーの興亡が入っていた。大体のとことは入っているのだが、ハッピーエンドだけは、実はソング集だったし、先の三枚組の中に入っていた。若干音が違うのでありがたい。というか中古CD以下の値段で新品を買っているのだから文句は言えない。

やっぱりワイルはいい。ブレヒトの台本はかなり人を食ったものだが、それでも共産主義への傾倒が強く実はマジメだ。ワイルの持つポップス志向がなければ伝わらなかった可能性はある。いやでも、マハゴニーの興亡のテキストをネットで探して読んでいたら、ハリケーンとタイフーンを同列に扱うドイツ人の無邪気さに微笑んでいたら、マハゴニー上陸3分前に迂回してしまうというところで、吹き出した。本当にモニターは茶だらけになった。最後には神様まで出てくるが、その神様に向かって「今が地獄だ」と言い切るあたりが、今も通用する。

アメリカのミュージカルに影響を与えたと言われているワイルだが、それ以上にのちのお笑いにも影響があるのではないのかと思う。

とにかくこのバカバカしさは最高だ。そしてなぜかオーディオファンをあざ笑うように、音が悪ければ悪いほどワイルの音楽は光り輝く。ただ歌手がロッテレーニャ以上の「ヘタウマ」が出てこないからそうだというのもあるのだが。

 

 

水曜日に学生が走り高跳びで遊んでいた。正確に言えば授業なのだが経験者がいない中ではすべてが純粋に遊びになってゆく。テクニックとかうるさいことも様々消えて、初めてのチャレンジでなんとかしようと、そしてなぜか誰もが一番高く飛びたいと純粋に思う。出来ないとわかっていてもチャレンジしなければいけない。自発的な意識というのは、遊びから始まるのだ。小学校体育の教則本を読めばそこがわかるだろう。

えらく無邪気な場にいた。

それを撮影すれば、えらく不均一な、予測不可能な世界だ。ところが失敗はしない。正確に言えば失敗はないのだ。そこには遊びしかないからだ。すべてが遊びの世界では結果はないからだ。カメラマンとしての精度の問題はあるがある精度は保証できる。その上での驚くべき自由な世界に私はいた。

まずい感覚を覚えた。

 

 

仕事の上で参照する写真家は何人もいる。そのスタイルを直接まねすることはないが、意識とか歴史背景はよく考える。メインの仕事ではユージン・スミスの歴史背景を意識した構図、カルティエ・ブレッソンの徹底したリズム、そしてすべてが謎の木村伊兵衛だ。特に木村伊兵衛の戦前の写真はわけがわからない。これは見た人でないと全くわからないだろう。中国でのスナップ写真のあのわけのわからなさと、それを称賛した当時の人たちと、それを継承する現代の人たちのわけのわからなさだ。ユージュヌ・アッジェの方がまだ謎は少ない。

一つだけわかっていたのは、木村伊兵衛は何も考えていない、ということだった。だがその称賛し続けられるのがよくわからない。

その謎は一つだけわかった。木村伊兵衛という男は、写真で遊んでいた。真面目でなかったから称賛されているというのもおかしな話だが本当に変だ。

 

 

その意味ではナゾな男はもう一人いる。ラルティグーだ。特に子供の時の無邪気な写真はどうしようもなく謎だ。だがどうしようもなく愛おしく、喜びにあふれている。木村伊兵衛の中国でのスナップのような乱雑さではなく、まあ被写体が違いすぎる。ノーブルだ。

それはできないな。

 

 

しばらく伊兵衛もスミスもブレッソンも忘れてしまおう。

歌詞はきついが、ワイルの音楽はすべてを消しとばしてゆく。


近況

2015-06-15 00:55:42 | 日記

 

仕事まみれで、わけが分からなくなっている。

馴染みの店で大げんかになった。元々変わった人なのだが、まあ三つの関連しそうにもない話を同時並行で展開しながら自説をとうとうと述べる人だった。なんらか関連性のありそうなところを拾いながら話を聞いてゆくと、ひどく平凡なところや全く違うところに着地する。そこまで下手すると10分は喋り続ける人だった。ようは偉い人なのだ。そのせいか暴論が混じることがあった。アマチュアカメラマンなのもわたしにとっては厄介なことだった。

以前そこでストラヴィンスキーの「エディプス王」をかけてもらった時、彼がいた。最初のミッシェル・ピコリの朗読で「ああこのダミ声、ダメだダメだ」と激しく言い始める。台本がジャン・コクトーだと知ると突然大人しくなった。権威主義でもある。次に「このデイスクにアナログはないのか、あるはずだろう」と言い始める。「CDになってから大々的に日本に入ってきたレーベルなのでアナログ盤はありましたがかなり少ないものです。残念ながら私は持っていません」すると「アナログでなければいけない、なぜアナログを買わなかったのか」「いや当時はすでにCDばかりの時代でしたし、このCDだってそんなに売れたものではありません。」と水掛け論。どうもレコードでないのもお気に召さなかったらしい。そして「コリン・デイビスは売れっ子だったからこの曲を録音したんだろう」と言い始める。どうも売れっ子だったというのが気に入らないらしい。「デイビスはそんなに売れっ子じゃないですよ、むしろマイナーな曲にも目配りする分人気のない指揮者です」そう弁護する。「エディプス王というと愛欲というテーマだった。そうゆう著作がある」「そうゆう著作はあるでしょうが、代表はフロイトでしょうか。」「いやフロイトではない」「小説はわかりませんが、フロイトかユングだったらそういった記述ではないと思います」。

「それではこの曲のテーマは何か?」「呪いです」。ここで彼は盛大に聞き間違いをする。そして大音声で「モモイロピンク!そんな曲を聞かされていたのか!」と猛烈に怒り出す。「いやだから呪いです」そういっても「モモイロピンク!」という。これを3回繰り返した。「神からかけられた呪いとの戦いの不条理さがこの悲劇なのです。」そこまで言わないといけないのか。当初二人しか店に客はいなかったが、この頃は忙しくなっていた。店主からさすがに静かにしてくれと言われる。

すると話は突然写真に切り替わる。ただ内容がとても良くなかった。

はじめに木村伊兵衛を切り捨てた。そして「どうしてくだらない写真ばかりで、私のようにならないのだ」とくどくどと言い始めた。ちなみに私は木村伊兵衛のシンパではない。だが木村伊兵衛のわけのわからなさを研究した身としては極論すぎる。だからそこは放置したが、くだらない写真には私も入るのだろうというのは間違いがない。彼に私の写真は見せたことはないが、彼の写真は私は知っている。構図は素晴らしいアマチュアだが、それ以上のものではない。

どうも彼は自分中心すぎて、他人がどう考えるのか本当にわからないのだろう。ジェシー・ノーマンの歌が始まったので席を離れた。彼との会話で全然音楽を聴けなかったからだ。

 

 

 

以降彼のことは避けまくっていた。路上でパッタリであっても最低限の会話以外はしないようにしたし彼の姿を見たら逃げた。この忙しい時期に、しかも契約の話もある上で余計なことは入れたくない。そしてその現場では若者に声をかけて話を聞く子にとうとうと謎の自説を述べるもののようだ。無視されても立ち続ける彼を見て、さすがに声をかけた。「これは変人に見られるからやめたほうがいいです。特に女の子に声をかけるのはやめたほうがいいです」かなり言葉を変えたがそう伝えたら、「正しさを伝えるのが私の義務なのだ」そういう。いやあの3つの話が同時並行で、傍流に流れて話が増えつつ、着地が平凡極まりないなら、結論だけいい。そんな話を聞かされる立場を考えないのかね。

そんなこんながあって馴染みの店でバッタリであった。まあいつかは来る話だ。そうすると毎度の3つの話が同時並行で動きつつ、珍しく写真に収斂した。木村伊兵衛を切り捨て土門拳の正しさを褒め称えた。そうしてまた3つの話が並行でわけわからなくなりつつ、自分の写真は誰それに褒められた、その人はとっても素晴らしい人で尊敬できる人だ。私は撮影には正しい行動をしている、本人の了解も取っているし感謝もされている。とくどく言い始め、そういった人たちから褒めてもらったのがこの写真だと、バラの写真を出してきた。

構図的に素晴らしい写真だった。だが彼は「これはなんとかさんに褒められたしそれ以外にも褒められた。欠点を教えてくれ」

困った。アーヴィング・ペンの写真集を用例に出そうとしたら、「なぜそういって逃げるのだ」そう怒り出す。その一手がどう違うのか、その説明には必要なのだがまずい手を出してしまった。「バラは絵に尽きます。写真では難しいものが実はあります」。火に油を注いでしまった。特にルドゥーテのバラ図鑑が頭にあるのに名前が出てこなかったのが悔やまれる。「絵画も勉強した。その上での写真だ。欠点をいえ!」

欠点などあるはずもないのだが(写真には常に欠点はない。そこは過去でしかないからだ)、そのバラの写真には人に伝えるための一手が欠けていた。大きく引き伸ばして家に飾ったりカードにしたりするには最高なのだ。その一手とは「何にお使いですか」そう聞いてしまった。彼にとっては至高の芸術である写真を汚されたと思ったらしい。

ディレッタントにとっては確かに目的があるというのは貧しい話なのかもしれない。だがコミニケーションツールとしては目的が必要なのだ。私の考えていることを写真で誰かに伝えなければいけないわけだ。それが他者に受け入れられるかどうかは覚悟しなければいけない。

罵詈雑言が3つの話の同時並行で始まった。お前が回答を出さないのは失礼だ、お前の知識は浅はかで私もそういった潮流に毒されているがそれは否定する。そんなお前が俺を避けるのは失礼だ、というのがロンドになった。

「あなた過去にこんなことを私に言った上に、そこまで言うのか」「私は言っていない」。この議論が3回続いた。

そして私が失礼だということと、世間は毒されているということと、私がいかに高貴であるかということを証明しようとした意味のない引用が混じりながら謝ろうとしてくれた。

「私があなたに言ったことを文面に起こして提出してくれ。そうでないと謝罪しきれない」

やめてよコレ。彼もキレたようで、この店には来ないと未練たっぷりにいった。

そうして彼は荷物を3つの袋にまとめようとして、6回チャレンジして諦めて、車に5回に分けて荷物を運んだ。袋に入るものは袋に入れて運んだが、最後の本や雑多なものが入った袋に、オルトフォンのトランスつきのカートリッジ、LPの針の高級品の希少品、箱に入っているとはいえそれをその袋に入れて立ち去った。

私なら胸ポケットに入れたタバコを袋に入れて、あのカードリッジをしまう。あれはそこまでも大切なものだ。

やはり戻ってきた。実は荷物を運んで戻るたびにくどくどと話はしていった。さすがに3つの話ではなく2つに減っていたがそれでもわけがわからない。最後の話をまとめると、「今回の件は内密に」。これもくどく5分かかった。

いい加減にしろ。

彼の一番痛いのは64歳だということだ。それがわかったから私も我慢ができなくなったというのはある。だから文面に起こして公開する。

 

 

バスケットの試合を撮っていたらものすごい雨が通り過ぎた。虹が出るかもと考えて外に出たが、地平線近くわずかに色が違うとことがあった。だがそれは黄砂のいたずらかもしれない。

 

 

昨年もこの頃クリケットの試合を出したと思うが、今年も遠巻きに見た。やってみたいのだが、クリケットの試合時間の長さは野球の比ではないというのがわかっているわけで、短縮版でもチト辛い。

 

 

その前にヒンズー語がわからないし、彼らも日本語はよく分からない。何人か隣のインド人がいるような気がする

ただ何か今年もチャンスを逃しているようだ。時間がないというのはいいわけだが、たぶん私はミスをしている。

 

 

この白人はイギリス人なのかな。クリケットでこの帽子だったらオーストラリアなのかとも思うが聞けなかった。

北東北大学野球1部2部リーグ入れ替え戦では、岩手大学と秋田大学が1勝1敗の引き分けとなり月曜日にもつれ込んだ。

 

 

やる必要があった喧嘩だったが、わたしにとっては全く必要のない喧嘩だった。そういったものが心に突き刺さってゆく。わたしがすべて悪いのだとしてしまっても破れたことには根本的に繕うことはできない。

そして彼はわたしが服従することを望んでいたとしか思えない。それが許せない。