これは困ったことが起きた。
朝日新聞から。
警視庁は24日、器物損壊容疑で捜査本部を設置した。同日までに305冊の被害を確認したという。
捜査1課によると、被害に遭ったのは新宿、中野、杉並、豊島、練馬の5区と武蔵野、東久留米、西東京の3市にある計38の図書館。豊島区では昨年2月に被害が判明したが、杉並区では今月上旬に破られた可能性が高いという。同課は防犯カメラの解析などを進める。
新宿区内では、3館で計40冊が被害を受けた。区立中央図書館の藤牧功太郎館長は「強い動機と計画性のある犯行だと思う」。東久留米市立図書館では約5センチの厚みのあるアンネ研究本が100ページ以上破られた。
さてぼかして書いて来たがアンネの日記の事件だ。ちょっと中2病のこじらせたやつがやったんじゃネ~のと考えていたが、どうも様相が変だ。
BBCの映像が詳しい。破られ方とかに恣意的なものを感じる。
さてこの中2病のこじらせたやつが陥りやすい状況と言うのはいくらでもある。ネットどころではない。リアル書籍で「ユダヤの陰謀」で捜すといくらでもある。かの有名な「マルコポーロ事件」だが、この時に載った記事はなんと私が高校生だった頃に既に別の雑誌に載っていた(1982年頃?)ものだ。そしてこの記事は後に否定された。だからマルコポーロ事件は、編集者が裏も取らずに載せたオバカな事件だとも言える。
経済絡みだと、リーマンショックはユダヤの陰謀説もありますね。現代でロスチャイルドの名前を出す人の気がしれないのですが…。ヒットラーの「我が闘争」がまだ出版されている国です。ナチスかぶれか?と言えばまたけっこう違う訳で。
私の頃の年代だと、中学校か高校の時にヒットラーの「我が闘争」とかニーチェの「ツアラトストラ」なんかイキガって読んでいたもんです。カッチョエ~とかいいながら読んでいるんですが、後半まで読み進むとだんだんウンザリしてくるのですよ。特に「我が闘争」で、日本人がバカにされていたりあんまりもの人種差別に辟易としてくるものでした。「ツアラトストラ」に至っては、後半ムリ・これムリ・どうすりゃ超人になるのさ?なったところでどうなるの?となってきます。今だと
「嫌われる勇気」のほうがよっぽどためになります。アドラー心理学の応用編の本です。けっこういけます。
まあ大抵一時的なもので終わってしまうのです。大体原著の暑苦しさと言ったら、フツーは読めません。
所がネットだと、断片的ですよね。いい所だけ切り出せば都合良く並べる事が出来る訳です。いや出版された本でもたまにそんなものが出てきます。渡辺望著「蒋介石の密使・辻政信」を最近読んだのですが、南京大逆殺の下りで、有名な研究者を別人と取り違えていたり、南京大逆殺プロパガンダ説の中でも有名な研究者は「虐殺はあった」と言う立場なのに「なかった」に入れたりしています。なおかなりオブラートにくるんで書いています。
あ、この本はフィクションだとして読むともの凄く面白いです。辻政信がフィクションを超えていますから。こうなったら武藤章も書いて欲しいな。
この類いの取り違えはネットではかなり頻繁にある。なので、原著に当たらないと解らない事がいっぱいあるのに読まない人が多くなって、それがネトウヨとかになるのかと思う。
でも世界的に見ても、こういった被害妄想と言うのは多い、ユダヤ陰謀説なんかの多くは海外文献の引用が多いからだ。自分が貧乏なのはユダヤの陰謀だ!という人はいる。たま~に、日本はアメリカに搾取されておりそれはユダヤの陰謀だと言う説も出てくる。
こうなってようやくネトウヨに辿り着くのだ。南京大虐殺も中国国民党プロパガンダ説から陰謀説にすり替わってゆき、浅田真央が金メダルを取れないのは韓国の陰謀だとかそう言った説が流布する。
陰謀説に簡単に辿り着くというのは、痴的であると思う。
話しをアンネの日記に戻そう。偽書説が10年前くらいにあったと思う。さすがにそれはすぐに取り消されたが、まだネット上では生き残っているかもしれない。もちろん日本に紹介されているのは、父親が編集したものだが、本文が残っているので、文献的には確認されているものだ。偽書と言うのはあんまりだ。
だが次のニュースはもっと別な次元を見せる。
おたぼるだ。
「『アンネの日記』が、破損される事件は今に始まったことではありません。私が図書館に就職した1980年代には、そういったことはよく起こると、関係者の間では話されていました」
この関係者によれば『アンネの日記』とヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』は、図書館関係者の間では、昔から破られる被害の多い本だという。
「やはり、“ナチズム”や“ホロコースト”は特定の精神的構造を持った人を引きつける要素が強いんじゃないかと思います。私も過去に、図書館内でホロコースト関連の本を破っている人を見つけたことがありますが、その人物は刑事事件の責任能力がない人でした」
こうなってくると話しはかなり変わってくる。昔っから教科書の顔写真にイタズラをする人はいるが、よりいっそう病的にポスターの顔の目に、画鋲を打つ人とか実際いる。
有名な作品なので、特に破壊衝動を起こさせる何かがあるのかもしれない。ただ『夜と霧』を壊す衝動がよくわからない。だが解る所はある。日本人の弱さだ。衝撃の大きさに逃げてしまうのだ。
アウシュビッツのそのトレンチと、中国の万人抗とどこがどう違うのか?規模は違ったとしてもすぐにいい訳を考えてしまう。そして相対化させてしまおうとしてしまう弱さがある。
「アンネの日記」は日本人にはよくわからない生活が詰まっている。何か豊かな感じがする人もいるだろう。家の中でのゴタゴタもファミリードラマとして受け止める人もいると思う。それって私と変わんないよ?そう思う人もいると思う。そして私の方が悲惨だ!と言う人もいるだろう。日本の閉塞した環境では、そう言った読み方も出来る。
だが日記の背後が解らないのではないのか。あまりにも他人事だからだ。
日本が犯した戦争犯罪の多くは、外地で行った事だった。国内では逆に総動員で一致団結になった(1944年当たりからほころびがあるように感じる)。そのギャップが戦争に対する認識を分散化させている。
真面目に本土決戦があった方が、そのギャップを生じさせずに済んだのかと思う。
多分なのだが、アンネの日記破壊事件は全国に飛び火するだろう。東京のような大都市では顕在化しやすいが、地方でもあるのではないのだろうか。多分今頃各都市の図書館は調査をしていると思う。集計されれば驚く結果が出ると思う。特に過去に遡ってゆけば考えにくい事が出てくるだろう。
アンネをねたむ人がいる。そう言った事実だ。
一旦切って、後編を書こうと思う。