弧考のハイパー哲学

史上最大の哲学  

HyF 何処からきて、何処へ行くかを道ではなく領域で考える

2016-12-17 14:40:45 | 日記
 今現在いるところとは、今現在、事象(さまざまなことがら)についてどのように変化してきてこれからどのように変化していくのか? 推定予測する能力をどれだけ持っているかということで表すことができる。
 何処から来たかは、その能力がどのように形成されたか? また望んで獲得したか で表すことができる。何処へ行くか? はこれからどのような能力を獲得していきたいのか? で表すことができる。
 自分自身とは、そのような能力全体だとすればいちばんわかりやすい。すべての人は、その人が今現在持っている能力で、インセンティブ効果(苦痛不快等の回避軽減解消・快満足等の獲得)が全体として最も得られる選択をしている。ひきこもりを続けるのも、ひきこもりを続けていることで今回避軽減できている苦痛不快が避けられなくなるからだと考えればわかりやすい。いずれにしても、その時点の身体的能力も含めて全ての能力で選択しているということだ。
 失言を繰り返す議員等も、その時点までに、同じようにことを言って聴衆にうけて、快満足を得た経験等がありそのようなことを選択する能力しかないということだ。つまり、条件反射的能力しかないのだ。
 人の持つ能力は、生存により密接なインセンティブ効果の選択をして余裕があれば、余裕があるだけそれ以外の何らかのインセンティブ効果を得ようとして選択をするものだ。そして往々にして、ある範囲の中で相対的優劣によるインセンティブ効果を求める。ブランド品等や高級料亭を望むのも、そのことで他人より相対的に上だと認識できて、それで、大きな快満足を得た経験があるからだと考えればわかりやすい。
 えらそうにしている学者や評論家等も皆その狭い範囲の相対的優劣に依存しているに過ぎない。

 

 HyF ハイパー哲学 VS 固定観念

2016-12-14 14:18:03 | 日記
 ほとんどの人は、自分が何処からきて、これから何処へ行くのか? についてはっきりわかっている存在がいるなどと考えることができない。それはそういう存在はいないという固定観念ををもっているからだ。
 それは、今の自分が考えることができる範囲以上の範囲を考えるなどということでインセンティブ効果(苦痛不快の軽減解消等及び快満足感の獲得等) を得る能力を持たないからだ。
 いまだかって誰一人も考え付かなかった問題の答えを見つけ出してインセンティブ効果を得た経験を持たなければ、その経験によって、そういうことでインセンティブ効果が得られるという回路が形成されなければ、そのような能力を持つことができない。
 しかし、今の固定観念(パラダイム)は狭い範囲にしか通用しない(狭い範囲の変化についてしか仮定推定予測できない)から、今以上広い範囲に通用する(仮定推定予測)法則を見つけ出そうとすることで、今現在の固定観念から脱することができる。
 天動説では、自分の頭上方向から足元方向に物が落下し、太陽・月・星はそれぞれの軌道を動くというように、自分の周りの変化を中心に考えるので、地球の反対側の人はなぜ、落ちないなどということを考えてしまう者もでてくる。地動説では、太陽を中心にして地球が自転しながら公転していると考えることで、また惑星も同様に公転していると考えることで、その変化に共通する重力が発見され、運動法則と重力の法則でそれまで関連が解らなかった問題が解りやすくなった。
 そのことから、変化の中心をなににするかで変化の範囲が決まるということがわかる。
 ハイパー哲学はその中心に 物理学的エネルギー変化パターンの組み合わせを仮定することで、最も広い範囲(領域)について、変化パターンの伝播とフィードバック・その無限の組み合わせが生み出す連鎖循環パターン、その無限の循環パターン間に働く消去法的自然淘汰について考えるというパラダイムだ。 
 自分が今考えているのも、おびただしい組み合わせの自然淘汰によると考えることができれば、一行目の答えがそれだ。

 HyF ハイパー哲学で考えうる究極の存在の要素について

2016-12-07 14:23:37 | 日記
 文系の小説家・芸術家・学者等が考えうる究極は、現在までに言語化されているものの組み合わせの範囲内でしかない。従って、彼らの考えうる究極もその範囲内でしかない。その範囲を超える為には、現在最も大きい領域である物理学的エネルギ゛ー変化の領域を考えなければならない。物理学的エネルギー変化の伝播とフィードバックの連鎖により一定期間循環する変化パターンが生じればそれが持続しているあいだはその循環パターンが存在しているということだ。
 知的能力も、そのような循環がおびただしく多種多様多層に組み合わされて形成されていると考えればいい。知的能力とは、変化について、仮定推定予測選択する能力だ。従って文系の能力でそれができる範囲は極狭いということになる。
 従って、ハイパー哲学で考える究極の賢さ(知力)はより大きな物理学的エネルギー変化について仮定推定予測選択できる能力ということになる。ハイパー哲学が向かう究極の方向がそれだ。
 つまり、物理学的エネルギー境界領域を拡張する為の試行錯誤を行ってそれから得られたフィードバックを境界領域拡張の為のさらなる試行錯誤の糧とできるような循環こそが究極の存在ということになる。
 有機物ーー単細胞生物ーー無脊椎動物ーー脊椎動物ーー哺乳類ーー人類ーー近代文明人ーー現代文明人 と続いている変化すべてに共通しているのは、どれだけの物理学的エネルギー変化について、仮定推定予測選択できたか、その大きさが常に増大している進化だということだ。
 従って、これからの知力の進化は、恒星のエネルギー量を超え銀河系のエネルギー量を超え、最終的には現在の物理学で計算できる全宇宙のエネルギー量を超える量の変化についてまで変化について仮定推定予測選択できる能力への進化といいうことになる。
 単細胞生物と現代文明人の差を考えるなら、そのような存在が生まれないとは言えないというのが、ハイパー哲学の考え方である。