「私」は何者なのか ? 今現在の私は、今現在私が持っている能力全体(どれだけの事象の変化について仮定推定予測選択できるか?、そして事象の変化の どの部分にコミットできるか?) だというのがハイパー哲学が出した答えだ。
既存の脳科学が脳内ニューロンネットワーク等から意識に到達しようとしているのには無理がある。 パソコンのハードウェアを調べても、インターネットに接続されたパソコンになにができているかがわからないように。 しかし、そのパソコンのOS、アプリ等のソフトウェアのうち、これこれがあるとわかるものがあれば、わかった部分については、その能力を推定できる。個人についても、その個人が持っている能力こそがその個人だとすればいい。
自身の身体及び他人がその身体を維持できていなければ、存在できない人生という領域内の能力しかもっていない者には、ハイパー哲学は理解できない。したがって、あらゆる文芸、芸術、音楽、スポーツ等人間の身体が存在することに依存しているものは、現在のような生物学的人類が生存できなくなった領域では淘汰される。
淘汰されないためには、量子力学領域を超えて高エネルギー変化領域内でも、その領域にコミットして存在できる方向への進化をめざしていかなければならないというのがハイパー哲学だ。むろん、現在では、その方向への進化の誕生になんらかのコミットについて試行錯誤することしかできない段階にすぎない。
それでも、個人の意識には、この宇宙誕生からの変化がコミットしているいるというハイパー哲学の考え方の連続性は、他のどんな哲学よりも、現在の人類が淘汰された後にも存在できる可能性があるはずだ。
既存の脳科学が脳内ニューロンネットワーク等から意識に到達しようとしているのには無理がある。 パソコンのハードウェアを調べても、インターネットに接続されたパソコンになにができているかがわからないように。 しかし、そのパソコンのOS、アプリ等のソフトウェアのうち、これこれがあるとわかるものがあれば、わかった部分については、その能力を推定できる。個人についても、その個人が持っている能力こそがその個人だとすればいい。
自身の身体及び他人がその身体を維持できていなければ、存在できない人生という領域内の能力しかもっていない者には、ハイパー哲学は理解できない。したがって、あらゆる文芸、芸術、音楽、スポーツ等人間の身体が存在することに依存しているものは、現在のような生物学的人類が生存できなくなった領域では淘汰される。
淘汰されないためには、量子力学領域を超えて高エネルギー変化領域内でも、その領域にコミットして存在できる方向への進化をめざしていかなければならないというのがハイパー哲学だ。むろん、現在では、その方向への進化の誕生になんらかのコミットについて試行錯誤することしかできない段階にすぎない。
それでも、個人の意識には、この宇宙誕生からの変化がコミットしているいるというハイパー哲学の考え方の連続性は、他のどんな哲学よりも、現在の人類が淘汰された後にも存在できる可能性があるはずだ。