高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」

高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」

アリス・クーパー

2005-01-24 | Weblog
寛斎さんのロンドンのショウは彼の希望通り、キングスロードの「GREAT TRADING CAMPANY」という大きなスーベニール・ショップで行われたが、その翌年、写真家の鋤田さんとTレックスの撮影に来たときも、ここで働いている若い店員さんたちとは友情が持続していた。

ある日、チケット売り場の女の子に声をかけられた。「ヤッコ、こんどアリス・クーパーのパーフォーマンスがあるから、ぜひ観た方がいいわよ」
彼女はチケット2枚のほか、プレス・パスも2枚手配してくれた。後で、鋤田さんに「アリス・クーパーって知ってますか?」と聞くと、「もちろん!」とのことで、大変な愚問であることもわかった。本当に、私は何も知らずにお手伝いをしていたのだ。

当日、鋤田さんと私は、ギグ(会場)に向かった。私もカメラマンのパスではいったので、ヤシカエレクトロ35で1本だけ撮った。そのなかのブレブレの1枚が残っている。(これしか残っていないということは、他の写真はもっとひどかったのだろう)
鋤田さんは、夢中でシャッターを押し続けていた。きっとこのときのものは鋤田さんの未発表の膨大なミュージシャンの写真とともに、いつか展覧会で発表されるか、写真集になることを期待している。私はといえば、びっくりしたまま、パーフォーマンスを観続けた。断頭台がでてきたり、首を吊ったり、大蛇を身体に這わせたり、なんとも前衛演劇っぽくて、寺山修司の世界を連想した。
マーク・ボランもデヴィッド・ボウイも、アリス・クーパーのパーフォーマンスから、たくさんのインスピレーションを受けたことだろう、と感じた。

いちばん前のポジションだったので、彼が観客席に投げるものは、一番先に私にぶつかってきた。
背後にいる女の子たちの嬌声のなか、彼のニット帽をゲットした。彼の頭髪つきのニット帽は、日本に帰ってきてから、ファンだという「ニュー・ミュージック・マガジン」の編集のかたに差し上げた。

写真 (撮影 Yacco) 1973年 ロンドン

静雲アパート

2005-01-24 | Weblog
セントラルアパートは仕事場である以上に、生きる場所そのものだったけど、ある日、もうひとつ、自分の場所をみつけた。
3階建て、6部屋のこじんまりしたアパートには、深いグリーンの階段と同じくグリーンのドアがあった。玄関のほんの小さなスペースには、ちょっとした和風の庭の香りがあり、そのほどほどの味付けが気分いい。部屋を見つけようと思って、ふらっと歩き始めて最初に眼に入ったアパートだ。 1階の左側のドアのベルを鳴らし、「空いている部屋はありますか?」ときくと、ドアを開けた初老の男性が、即刻「あります」と答えてくれた。このアパートの大家さんだった。

カルチエやシャルル・ジョルダンが入っているファッションビル、パレ・フランスが間近なのに、静雲アパートの近所は下町風だった。夏の夕方は、縁台に腰かける畳屋さんや、看板屋さん、おばあさんなどがウチワをあおぎながら、私に声をかけてくれた。
とんちゃん通り(現ウラハラ)には「弥生」という飲み屋さんがあって、電気屋のおじさんなどが夕刻から、一杯をはじめる。私は勝手にここをツケのきく定食やさんにしていた。おじさんの話を小耳に挟みながら、小さいテレビで「アルプスの少女ハイジ」を一心に観ていた。

ロックショップ「キングコング」は私にとっては夜の喫茶店のようなものだった。近所に住んでいるコピーライターの親友とよく待ち合わせをした。彼女は酒豪で、ウイスキーをボトルキープしていたが、お酒が飲めない私はカルピスをボトルキープして粋がっていた。
その後、「ビームス」ができて、毎日のように通った。私のアパートを説明する時は、「ビームス」の裏というようになった。

写真(撮影・染吾郎) 部屋の割には広めのバス・トイレの窓からは空が見えた。ポートベローの蚤の市でみつけた看護婦さんが宿舎で着ていたという寝巻きを愛用していた。寝巻きの値段は1ポンド(当時700円)。壁に張ってあるのはロンドンのピカデリー・サーカスの観光用お土産屋さんでつくった「お尋ねもの(WANTED)」のポスター。マーク・ボラン、鋤田さんのポスターといっ しょにつくったもの。

背伸びして、投資した

2005-01-24 | Weblog
60年代の半ば過ぎから(それは学校を卒業し、必然的に一人で生きてゆく頃)、一人暮らしをしていた私は、経済的には(今も!)キチキチだった。でも、スタイリストという職種があるんだったら試してみようという業界の人たちが多くて、驚異的な忙しさがつづいた。
(そういう好奇心と偏見のなさ、早い者勝ちの精神が業界には満ちていた。それは現在もですが)

その頃、外苑の銀杏並木のまん前(青山通り)に、「サンローラン・リヴ・ゴーシュ」がオープンした。
オートクチュールではなく、パリ左岸(リヴ・ゴーシュ)の店の服はそんなに手が届かないものではないとされていた。私はガラス張りの広い店にモダンに並べられた服が着てみたかった。
ベージュのサファリスーツが頭から離れない。編み上げブーツとあわせて、カジュアルに着れるのも私むきだ。私は迷わず、しかし経済的には大決心をして購入した。こういう服はわたしの静雲アパートの家賃の2倍か3倍はしていたと思う。でも、美しくて、機能的で、今まで着たことがないものが私を待っているとしたら、試さなくちゃ!
季節が変わると、コートが私を魅了した。
ファッションというものを体感するため、おもいきり背伸びして買った。そしてこれは同時に仕事への投資でもあった。プレスのシステムもまだ無く、ファッション誌のようにクレジットを入れられる仕事をしているわけではない。たったひとりで、つぎからつぎへと押し寄せてくる新聞広告や雑誌広告、ポスターやコマーシャルフイルムの撮影のために、何が何でも衣装を手配し、用意しなければならないのだ。そのなかで、お店の方に協力してもらったり、なにかと都合をつけてもらうために、自腹で服を買うことも多かったのだ。

忙しいと数ヶ月で、一気に6キロは痩せた(今だったら大歓迎の激ヤセだが)。過労は私から笑うこと、楽しむことを奪っていった。みんなが笑っている時も、私は頭の中はこれから手配しなければならないことでいっ ぱいだった。喜怒哀楽の感情をなくした中で、無理やりみんなに合わせて、笑ったりしていた。疲れすぎると、何処が病院に入院してただ眠りたいと思う。でもそのときは、バストイレ付きでご飯がおいしいという、青山の山王病院がいいな、などと、お金も無いのに、あくまでもイメージにこだわっていた。そんなことがあっても、ひと波、ふた波、波をかぶってゆくうちに、たちまち元気を取り戻すのが常だった。

青山のサンローランではときどきパーティーもあった。美容界では神さまのようだったヴィダル・サスーンが来日した時も、ここでパーティーがあり、彼のカットさばきが披露された。
当時、サスーンカットというアシメントリーで絵画的なカットが一大旋風をまきおこしていた。美容界の人たちは争って、彼が使用しているヘアカット用のハサミを買っていた。

旅をすること、服を着ること、新しいものに触れ、知らなかった空気を吸うこと、体感すること、それは大きな消費だけど、人生の投資でもあると思う。

写真 (撮影・染吾郎) 渋谷、NHK付近で。サンローラン・リヴ・ゴーシュのケープつきマキシ・コートは深いワイン色だった。