皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

厭離穢土 欣求浄土

2023-01-16 20:53:41 | 歴史探訪

徳川家康の陣中旗に記される浄土宗の教え。

厭離穢土 欣求浄土 とは穢れた現世を離れ極楽浄土へと向かいなさいという、源信の「往生要集」にある言葉だという。

今年の大河ドラマ「どうする家康」の第二話は桶狭間の戦いで織田信長の軍勢に今川義元が討たれ、今川方の大高城へ兵糧を届けながらも、最前線で取り残される様子が描かれていた。

松平元康(家康)と信長の出会いは幼少期まで遡る。元康の父松平広忠は尾張の織田信秀の度重なる侵攻に苦しんでいた。今川の助けも望めなかった広忠は竹千代(元康)を渥美半島の戸田宗光へと預けるが宗光の裏切によって、宿敵尾張の人質となってしまう。信秀によってその命を絶たれるところを、使い道があると拾った(預かった)のが信長であったとドラマでも描かれていた。

その後信長の兄と人質の交換として今川へ差し出された元康。信長と元康(家康)は齢九つ違いで、元康にとってはまさに恐るべき狼のような信長であったに違いない。

桶狭間の後大高城に残された元康を、信長が攻めなかった理由は様々考えられるが元康の人としての器量を買っていたと思うとまた歴史も面白くなる。

今川太守義元亡き後、震えながら岡崎へと向かう元康一行を、だまし討ちにして追い詰めたのが、三河大草松平昌久。かつて何度も裏切られていた昌久を信用ならないと酒井忠次や石川数正、最古参鳥居忠吉らは進言したが、信じ込む元康。

まんまと策に騙されて逃げ込んだのは松平家の菩提寺大樹寺であった。本田忠勝に介錯を頼み自らの命と引き換えに自刃を果たそうとするときに、掲げられていた寺の札書きが

「厭離穢土 欣求浄土」

この言葉は現世から離れることではなく、穢れた現世を浄土にすることこそこの世に生まれた理由なりと諭したのが

榊原小平太。

後の徳川四天王の一人 若き日の榊原正康であった。

日本人の民族性に思いを致し、知恵と情けで天下を取った家康。その人となりは苦労した若き日の人質時代に培われたとする定説だ。仏教(過去)を否定しキリスト教(新時代)を重んじた信長の峻厳たる生き方が現代ビジネス社会の規範にされる流れがあったが、長く日本に根付いた仏教的な慈悲の教えを重んじていた家康の生き方に改めて光を当てる時代を迎えたのかもしれない。

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水平線

2023-01-16 20:17:12 | 心は言葉に包まれて

できるだけ嘘はないように

どんな時もやさしくあれるように

人が痛みを感じた時には

自分のことのように思えるように

正しさを別の正しさで

失くす悲しみにも出会うけれど

水平線が光る朝に あなたの希望が崩れ落ちて

風に飛ばされる欠片に 誰かが綺麗と呟いてる

悲しい声で歌いながら いつしか海に流れついて 光って

あなたはそれを見るでしょう

自分の背中は見えないのだから

恥ずかしがらずに尋ねるといい

心は誰にも見えないのだから

見えるものよりも大事にするといい

毎日が重なることで

会えなくなる人もできるけれど

透き通るほど淡い夜に あなたの夢が一つ叶って

歓声と拍手の中に 誰かの悲鳴が隠れている

絶える理由を探しながらいくつもの答えを抱えながら 悩んで

あなたは自分を知るでしょう

誰の心に残ることも目に焼き付くことのない今日も

雑音と足音の奥で 私はここだと叫んでいる

水平線が光る朝に あなたの希望が崩れ落ちて

風に飛ばされる欠片に 誰かが綺麗と呟いてる

悲しい声で歌いながら いつしか海に流れ着いて 光って

あなたはそれを見るでしょう

あなたはそれを見るでしょう

back number「水平線」より

2020年8月 YouTube公開されたこの曲は、コロナ禍でインターハイが中止になった全国の学生に向けて作られた楽曲だそうだ。同じ時代、同じ思いを抱え、悩み生き抜く人々へ向けた壮大なメッセージソング。

掲載した水平線の光景は2021年1月、埼玉大橋から見た利根川の日の出の様子です。

自分の背中は見えないので、肩ひじ張らずに人に尋ねるようになりました。

心は見えませんが、なかなか見えるものより大事にするようにはなれませんね。

毎日が重なり、見送ったひとも多くなりました。現にこの年末年始にかけ3回お別れの儀に参列することになりました。

今もこうしてブログやSNSを通じて私はここにいると叫んでいます。

今年の大河ドラマも悩みながら生き抜く戦国武将が描かれています。

またきれいな景色に出会えるように

自分を知れるように

この歌のように進んでいけたらいいですね。

埼玉大橋より願いを込めて

 

 

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加須市 大越 鷲神社

2023-01-12 20:13:46 | 神社と歴史

加須市の北側を流れる利根川は江戸初期の治水工事により、北流して渡良瀬川に合流する合の川と、大利根町境を南流する古利根川とに分流されやがて現在本流となっている新川通りの開削によって渡良瀬川と合流することになった。この地域自他が坂東太郎と称される利根川との闘いを背負ってきたことを物語っている。

当地は江戸期から対岸の飯積との間を結ぶ渡船場で、日光街道と中山道を結ぶ脇街道としての要路に当たっていた。明治八年までは下大越村と称し、米麦と養蚕が盛んであった。しかも利根川を眼前にしながら堤防が決壊することなく下流には砂山と呼ばれる河畔砂丘があることから水害による被害が出ることはなかったという。その反面干損に悩む土地柄で、雨乞をした歴史が残っている。その原型が現在無形民俗文化財として指定されている「大越三耕地の獅子舞」である。古くは「明神様のササラ」と呼び利根川の流れでササラを舞ったという。

元文四年(1740)「獅子舞伝書」には北川辺領飯積村若山重兵衛から下大越村利崎耕地の荒木与治右衛門に平井祐作流の獅子舞が伝授されたことが記されている。氏子の五穀豊穣と無病息災を願い始められたとされ毎年七月七日、十四日、十五日に行われているものである。氏子は長男が十六になると必ず送り出し、厄払いの意味で獅子を摩って舞の稽古をさせたという。

(大杉大明神、風神水神=末社)

鷲神社の御祭神は天穂日命(あめのほひのみこと)と武夷鳥命(たけひなとりのみこと)。加須市の中心地には千方神社が祀られていて総鎮守であるが、大越村には利根川流域に多く見られる鷲宮神社が勧請されている。浮島明神と称する鷲宮神社は関東最古の出雲族が祀られる神社で、周辺地域へ信仰が非常に強く残る。獅子舞に関してもその源流は鷲宮にあるのだろう。

神社前には埼玉用水が流れ利根川水系の恵みを東方へと運ぶ。前にかかる橋は神明橋である。

利根川側に位置しながら昔から水不足に悩み雨乞が行われた歴史は非常に興味深い。また大越渡し(船着場)あたりは水深も浅く川の中に注連縄を張って雨乞のササラを舞ったという。信心深い氏子は忌服(ぶく)があると一年間は獅子に近づこうともしなかったそうだ。

川の恵みと雨乞。水に生かされ水を請うた歴史。神社が伝える歴史に今の私たちの暮らしが学ぶべきことは多い。

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加須市 大越愛宕神社

2023-01-11 20:19:24 | 神社と歴史


加須市大越は利根川流域に広がる広大な農業地域で、利根川河川南側に位置する。中央部の大川地区の鎮守が愛宕神社で、大川というのは古くはこの大越村と下総国との境にある浅間川という大河をさし、浅間川を越えたところを大越と呼んだ。
父なる大河利根川により肥沃な農地が広がる一方で、かつては河川の氾濫にも長らく悩んだ場所である。今でも鎮守として祀られる神社は、小高い山の様な所に立つ。口碑によれば、昔大乗坊と呼ばれた山伏が当地に愛宕山大乗院を開祖し、境内に祠を祀ったことが起源とされる。その後疫病が蔓延し、厄神除け祈願をしたところ沈静化し、以来疫病除けの信仰が残っている。
御祭神は加具土命で本殿に宝暦二年(1752)に奉納された勝軍地蔵が安置されている。(「埼玉の神社」より引用)現在の社殿は昭和55年に改築された立派な社殿である。
先述の通り古くから疫病除けの神として信仰があり、病気平癒と農作物の害虫除け等、農村部の信仰を集めている。氏子区域は大越の大川地区で、すぐ近くが大越小学校である。
正月の風習で三が日に年男がうどんを打ち、三日間はうどんを食べ、四日以降餅を食べる習慣があるという。うどんの町加須市ならではだろう。
境内に庚申塔が残っているように庚申講が残っていたという。また八月には十九夜講もあったそうだ(現在の詳細は不明である)
土地の伝承をよく伝える神社で、過疎化が進む中でもこうした地域の中心として集会所とともに立派なたたずまいを残している。

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忍 東照宮

2023-01-10 14:24:34 | 神社と歴史 忍領行田

忍城址のある内行田地区は室町期成田親泰が城を築き、城下の造営を進めたことが発展のはじめとされ、江戸期には十万石の城下町の中心として栄えた。

当社は家康の娘亀姫が父の肖像画を頂き、子の松平忠明に伝え、忠明が大和国郡山の地に社を造営して肖像画を安置したことに始まる。別当として久昌院が祭祀を奉仕した。以来藩主の崇敬する神社となり松平家移封のたびに遷座され文政六年(1823)桑名より別当ともども忍城内へと鎮座した。

(行田市HPより引用)
明治始めの神仏分離令により藩主東京移住のため祭祀断絶の危機を迎えるが旧藩士らの存続運動で諏訪郭内の諏訪神社境内に本殿を移し、明治三十三年(1900)藩祖松平忠明公を配祀し現在に至っている。明治維新の際旧親藩である忍藩は多くの私財を没収され、苦難の時を迎える。当時の混乱の様子は今も所々に残されていて、忍城下の御門や多くの城郭址は各地に散って行ってしまった。東照宮に対する信仰も多くはそがれようとする中でも、旧藩士らは苦労してその信仰を伝えたのだった。
そのうちの一人が旧士族の鈴木敏行であって、皿尾久伊豆神社の従軍の碑(日清戦争)の撰文は敏行公のものである。

社記によれば旧藩時代の祭りは四月十七日でこの日だけは庶民にも参拝が許されたという。現在続く行田の市民春祭りは、私が子供のころは「権現様」と言って東照宮の前が中心であった。江戸期にはこの祭りに際し多くの村々から奉納金があり、講中も大変栄えた。古記録に「嘉永五年(1853)四月行田町八十両奉納」とあり城下で地代の徴収が免除されたことに対して町民が地代に変えて奉納したものと考えられている。江戸期の徳政がよく伝わる話である。
(近年ふるさと納税の弊害が伝えられていて、返礼品の送付やその他必要な経費によって税収の赤字が進んでいる。国の交付金によってその穴埋めがされていて本末転倒な事態となっている。歴史に学ばないとはこのことだろう)

本殿前に奉納された一対の灯篭は天保五年の藩主松平忠堯公によるもの。

御神体となる家康公肖像画に関する由緒が非常に当時の親子の情を語るものである。
 家康公の嫡女亀姫は慶長十六年(1612)美濃加納より駿府へ帰省した際、父家康に対し歳を重ねたのに及び兄弟は皆膝下に近侍して親孝養を尽くすことができるが、自分は女子であって遠く離れた場所にあり、看護も心に任せず甚だ残念なことを嘆いた。家康之を諭し且つ女子に生まれて家督を継ぐこともかなわず故何事も望みに任せてやろうといったので、即ち父の画像を賜って朝夕にこれを拝みたいと答えた。
 家康直に画師に命じて己を描かせたるも意に満たさず再々改帳を命じて初めて会心の作を得たので自らが精神この画に宿るという意味を別紙に認めて之を与えたという。

四百年に及ぶ天下泰平を遂げた家康公が自らの長女の願いに懸命にこたえようとしたことが伝わってくる。
今年の大河ドラマは「どうする家康」
その生涯にに触れながら私たちが今の世の中でどう生きてゆくべきか指針をとなるべき教えを学んでゆきたいものである。一年間楽しみだ。

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