徳川家康の陣中旗に記される浄土宗の教え。
厭離穢土 欣求浄土 とは穢れた現世を離れ極楽浄土へと向かいなさいという、源信の「往生要集」にある言葉だという。
今年の大河ドラマ「どうする家康」の第二話は桶狭間の戦いで織田信長の軍勢に今川義元が討たれ、今川方の大高城へ兵糧を届けながらも、最前線で取り残される様子が描かれていた。
松平元康(家康)と信長の出会いは幼少期まで遡る。元康の父松平広忠は尾張の織田信秀の度重なる侵攻に苦しんでいた。今川の助けも望めなかった広忠は竹千代(元康)を渥美半島の戸田宗光へと預けるが宗光の裏切によって、宿敵尾張の人質となってしまう。信秀によってその命を絶たれるところを、使い道があると拾った(預かった)のが信長であったとドラマでも描かれていた。
その後信長の兄と人質の交換として今川へ差し出された元康。信長と元康(家康)は齢九つ違いで、元康にとってはまさに恐るべき狼のような信長であったに違いない。
桶狭間の後大高城に残された元康を、信長が攻めなかった理由は様々考えられるが元康の人としての器量を買っていたと思うとまた歴史も面白くなる。
今川太守義元亡き後、震えながら岡崎へと向かう元康一行を、だまし討ちにして追い詰めたのが、三河大草松平昌久。かつて何度も裏切られていた昌久を信用ならないと酒井忠次や石川数正、最古参鳥居忠吉らは進言したが、信じ込む元康。
まんまと策に騙されて逃げ込んだのは松平家の菩提寺大樹寺であった。本田忠勝に介錯を頼み自らの命と引き換えに自刃を果たそうとするときに、掲げられていた寺の札書きが
「厭離穢土 欣求浄土」
この言葉は現世から離れることではなく、穢れた現世を浄土にすることこそこの世に生まれた理由なりと諭したのが
榊原小平太。
後の徳川四天王の一人 若き日の榊原正康であった。
日本人の民族性に思いを致し、知恵と情けで天下を取った家康。その人となりは苦労した若き日の人質時代に培われたとする定説だ。仏教(過去)を否定しキリスト教(新時代)を重んじた信長の峻厳たる生き方が現代ビジネス社会の規範にされる流れがあったが、長く日本に根付いた仏教的な慈悲の教えを重んじていた家康の生き方に改めて光を当てる時代を迎えたのかもしれない。