忍城址のある内行田地区は室町期成田親泰が城を築き、城下の造営を進めたことが発展のはじめとされ、江戸期には十万石の城下町の中心として栄えた。
当社は家康の娘亀姫が父の肖像画を頂き、子の松平忠明に伝え、忠明が大和国郡山の地に社を造営して肖像画を安置したことに始まる。別当として久昌院が祭祀を奉仕した。以来藩主の崇敬する神社となり松平家移封のたびに遷座され文政六年(1823)桑名より別当ともども忍城内へと鎮座した。
(行田市HPより引用)
明治始めの神仏分離令により藩主東京移住のため祭祀断絶の危機を迎えるが旧藩士らの存続運動で諏訪郭内の諏訪神社境内に本殿を移し、明治三十三年(1900)藩祖松平忠明公を配祀し現在に至っている。明治維新の際旧親藩である忍藩は多くの私財を没収され、苦難の時を迎える。当時の混乱の様子は今も所々に残されていて、忍城下の御門や多くの城郭址は各地に散って行ってしまった。東照宮に対する信仰も多くはそがれようとする中でも、旧藩士らは苦労してその信仰を伝えたのだった。
そのうちの一人が旧士族の鈴木敏行であって、皿尾久伊豆神社の従軍の碑(日清戦争)の撰文は敏行公のものである。
社記によれば旧藩時代の祭りは四月十七日でこの日だけは庶民にも参拝が許されたという。現在続く行田の市民春祭りは、私が子供のころは「権現様」と言って東照宮の前が中心であった。江戸期にはこの祭りに際し多くの村々から奉納金があり、講中も大変栄えた。古記録に「嘉永五年(1853)四月行田町八十両奉納」とあり城下で地代の徴収が免除されたことに対して町民が地代に変えて奉納したものと考えられている。江戸期の徳政がよく伝わる話である。
(近年ふるさと納税の弊害が伝えられていて、返礼品の送付やその他必要な経費によって税収の赤字が進んでいる。国の交付金によってその穴埋めがされていて本末転倒な事態となっている。歴史に学ばないとはこのことだろう)
本殿前に奉納された一対の灯篭は天保五年の藩主松平忠堯公によるもの。
御神体となる家康公肖像画に関する由緒が非常に当時の親子の情を語るものである。
家康公の嫡女亀姫は慶長十六年(1612)美濃加納より駿府へ帰省した際、父家康に対し歳を重ねたのに及び兄弟は皆膝下に近侍して親孝養を尽くすことができるが、自分は女子であって遠く離れた場所にあり、看護も心に任せず甚だ残念なことを嘆いた。家康之を諭し且つ女子に生まれて家督を継ぐこともかなわず故何事も望みに任せてやろうといったので、即ち父の画像を賜って朝夕にこれを拝みたいと答えた。
家康直に画師に命じて己を描かせたるも意に満たさず再々改帳を命じて初めて会心の作を得たので自らが精神この画に宿るという意味を別紙に認めて之を与えたという。
四百年に及ぶ天下泰平を遂げた家康公が自らの長女の願いに懸命にこたえようとしたことが伝わってくる。
今年の大河ドラマは「どうする家康」
その生涯にに触れながら私たちが今の世の中でどう生きてゆくべきか指針をとなるべき教えを学んでゆきたいものである。一年間楽しみだ。