皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

待てば海路の日和あり

2022-01-21 18:54:23 | 先人の教えに導かれ

じっと待っていれば、やがて雨風も止み航海に出れる穏やかな日も来るだろう。
海のないところにすんでいると海辺の暮らしに憧れるものだ。遠くに見える水平線に向かって漕ぎ出す穏やかな日を待ちわびる気持ちがよくわかる。
急がば回れ
石の上にも三年
急いてはことを仕損じる
時をかけて成すことを良しとすることわざは多い。昔の人は科学や技術に頼ること以上に、時をかけて物事を積み重ねてきたことを思う。

思いたったが吉日
善は急げ
反義語も多い。それだけ人の時に対する思いは強い。
待てば海路の日和あり
中国の古い話に由来するという。
本来は、
待てば甘露の日和あり
甘露とは大地を潤す天水(あまみず)のこと。いつからか甘露が海路へと転じたという。どちらにしても日和を待ちわびる様子がよく伝わる言葉だと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初詣の起源は

2022-01-18 22:56:25 | 神社と歴史

社家に生まれてこの方、初詣は行くもではなく迎えるものとして育ってきました。なぜなら自宅が鳥居のなかにあるからです。参りと詣での違いはなんなのかとふと考えていました。基本的に神社には参拝といって畏まって参じ(身を寄せる)、深く頭をさげ(拝)誓いをするものが本来のすがたと思います。詣でるとは言偏に旨いと書きますから、神の前で願いや祈りを口にする(祝詞をあげる)ことの意味なのでしょう。旨い即ち喜びの表現です。魚遍になればすしと読みますね。

初詣についての解説を読むと、昔は家長が大晦日から元旦の朝にかけて氏神様にこもる習慣があったそうです(年籠り)やがて除夜の鐘を聞きながらお参りする除夜詣で、元旦朝にお参りする『元旦詣で』と広まって行ったそうです。
そもそも江戸時代までは交通網が徒歩や籠しかありませんから、近くの氏神さまへお参りするしかありません。元旦にその年の恵方のお宮へお参りする恵方参りというのもあったそうです。

明治維新となり国家的事業として鉄道の開通が始まります。はじめて通ったのは新橋横浜間であったことはよく知られています。(受験の問題でよく出る項目です)多くの人々が鉄道網の整備によって一度に移動することが可能になってから初詣が一般化されたそうです

『初詣』ということば自体が明治になってからの言葉だと言います。初見は明治18年(1885)の万朝報。川崎大師への正月参拝を指す言葉として掲載されたと紹介されています。
関西においては恵方参りそのものが正月ではなく立春前の節分に行われることが多かったそうです。今や全国的に食べられるようになった節分の恵方巻きも関西圏を起源としていますね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皿尾城跡

2022-01-18 18:16:13 | 皿尾城の空の下

永禄四年(1561)三月上杉謙信輝虎は再三忍を攻め皿尾の地に築城し、木戸監物入道玄斎に守らせたが成田氏と通じたため、謙信は怒って城を焼き払うと『北越軍記』にあるが今は外張という地名を残すのみである。
昭和五十四年三月 建立行田ライオンズクラブ
         協賛 新井 福次

忍領行田市内に上杉謙信の築いた城があったことを知るひとは少ない。皿尾の久伊豆大雷神社の裏手にある土塁の名残がわずかに残るだけである。城郭領域は広かったが、いわゆる砦に近い物だったのだろう。『関八州古戦録』『成田記』に『皿尾城』と記してある。
天文二十二年(1553)上杉謙信は五千の大軍で関東に入り、忍城を攻めた。城主成田長泰(16代)は用意周到で、小田原の援軍を待つようにして戦いを避け、上杉も越後へと兵を引いた。

二度目は永禄二年(1559)年のことで謙信の電光石火の焼きうちにより、長久寺遍照院の薬師堂、雷電神社等皆兵火に焼かれたという。
その年謙信は九万の大軍勢を率いいて小田原を攻めたが、関東管領就任の祝いのれ列に置いて成田長泰のみが馬上の上から対面に望み、謙信が激怒したことは、複数の軍記に記されており、成田と上杉の関係を非常によく伝える記述である。
関東の国衆の有力者として、越後上杉の支配下には入らないという意思表示である。
関東の諸侯はこれにならい、それぞれ居城に引き上げており、上杉も越後へ戻る際、皿尾付近に砦を築き、成田を急襲したという。
大沢俊吉先生の行田史跡物語によればこのとき皿尾城を守っていたのは羽生城主木戸玄斎とされているが、近年の研究において、当時皿尾城に入ったのはその父木戸伊豆守忠朝とされている。また攻め入ったのは皿尾城方ではなく、成田の方でその急襲を聞き付けて援軍に岩槻城太田資正が駆けつけたとあるが(成田記)、おそらく助けに入ったのは木戸忠朝の兄、羽生城城主広田直繁であったと考えられている。


いずれにせよ忍城のわずかばかりの距離に、上杉謙信の勢力下の城(砦)が築かれて、成田軍と戦ったことは史実である。
上杉にとってこの地を征し、関東の覇権を握れたならば戦国の歴史も変わっていたはずであろう。
今はただ夕日に照らされる美しい田園の風景が残されるだけである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

須賀城跡

2022-01-17 21:17:45 | 行田史跡物語

忍領行田市内には、三大城趾があることを知る人は少ない。
ひとつは言うまでもなく、戦国期最後まで豊臣方の猛攻に屈せず、落ちなかった城とし名を馳せた成田忍城。
更にはその成田忍城の支城として、またある時期は敵対する羽生城の出城として成田を追い詰めた皿尾城。
そして利根川堤に沿うようにその姿を失いつつもその歴史を今に伝える須賀城である。
いまでこそ忍城は三階櫓を復元し、堀を起こし堤を築いて当時とはまた違った形で城らしく立派な姿をなしてはいるが、少なくとも私が中学二年時までは「本丸球場」と言う名の野球場があって、城の姿など全く想像もつかなかったのである。

『吾妻鏡』承久三年(1221)伏見宇治橋で奮戦したことが出ている須賀弥太郎の末裔、須賀修理大夫が忍の成田の家門侍として天正年間に(1550年頃)館を築き、『成田記』に須賀城とある。地形文書にこの一帯と推定される
昭和54年3月 建立 行田ライオンズクラブ 協賛 川島清

吾妻鏡の宇治橋合戦の項には行田ゆかりの武将が多く記されその中に須賀弥太郎、行田兵衛尉、鴛四郎太郎、成田兵尉、五郎太郎とある。
鎌倉殿の13人の時代にかの地で行田周辺の豪族たちが東国から出向いて戦ったのは史実であろう。
それから三百年、天正期忍城が勢力を伸ばした頃、上杉謙信は忍城を攻め、須賀には家門侍として須賀修理大夫が須賀城を築いたと『成田記』に記されている。
天正17年(1589)豊臣軍が関東攻め行った際成田家当主氏長は小田原にいた。石田三成軍が館林から利根川を渡って忍城に向かうとき、川俣から忍領内に入るときには須賀城を焼き、須賀軍は忍城内へと軍を移している。
焼けてしまった須賀城がどこにあったかは定かではないが、現在の長久寺一帯と須賀小学校を城趾として考えるのが妥当とある。
須賀は州加から転じた地名と考えられる。利根の流れに翻弄され、またその水の恵みと共にあった土地だ。
残念ながら須賀小学校もこの春で合併閉校となる。長久寺は堤防の護岸工事にともない一部墓地の移設設置が行われている。
時代と共に須賀城はその姿を変え人々の心にその勇姿を伝えている。
小学校の体育館前に立ち並ぶ墓石に手を会わせながら、この地に生きた人々の思い寄せる、師走の穏やかな午後だった。
(令和三年12月16日登拝)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二十三節気 小寒

2022-01-17 20:51:15 | 生活

正月五日過ぎからが寒の入り。「小寒」「大寒」の二節気を合わせて「寒の内」といって一年で一番寒い一月間になる。寒中見舞いとはこの期間に出す書のこと。

小寒の時期は時に大寒よりも寒さが増すことが多く「小寒の氷、大寒に解く」ともいわれ、転じて物事が必ずしも順序通り運ばないことの例えにも使う。昔から寒の内に体を鍛えると丈夫になると言われ、寒中水泳や寒稽古などが風習として残る。

兼務社春日神社の新年初祈願際は毎年この時期に執り行われる。年末の大祓いよりも寒さが厳しいと身体が覚えている。先代宮司は寒稽古として小寒から立春まで毎朝大祓を奏上していたことを覚えている。

昔は一年で最初の満月となる一月十五日を正月として祝ったそうだ。それが今の小正月。現在でも小豆粥などを食べて無病息災を願う。正月中に休みなく働いた女性がひといきつくことができることから「女正月」とも称される。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする