皿尾村は明治期に入ると先進的農業区域として取り組み、治水事業の先鞭をつけるために深谷の日本煉瓦を用いた水門群を設置したことで知られている。忍城北西の農業区域でありながら、すぐ南は忍沼の水辺に接し(沼尻地区)、給水にとどまらず排水に苦労したため、各地に先駆けて煉瓦水門を導入した。地区の西端に当たる久伊豆大雷神社の北側から順に
①外張堰(現在は撤去済)
②松原堰
③堂前堰
となっている
この水門群に加え流れを分ける樋が現存しており、現在久伊豆大雷神社境内に残されている。
久保樋は神社の東側の村境(谷郷との境界)に設置されていたようで、長さ11尺幅3尺6寸、高さ3尺1寸と示されている
(現存の樋菅の長さは3.3m断面は幅1.1m高さ0.9m)
箱型の樋管で大きいものであったようだ。
この煉瓦水門群の建設記念碑が神社の鳥居脇に建てられており、当時の様子を今に伝える。
明治34年4月1日起工 同年6月2日竣工と非常に短期間での設置であったことがわかる。
これは明治20年(1887)深谷市に日本煉瓦製造会社が設立されたこと、埼玉県による補助金が出たこと(50~60%)、当時技術者の育成があったことなど設置条件が極めてそろっていたことが挙げられる。
現在の久保樋
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