茨城県古河市は埼玉県と隣接する茨城県最西端の町。中世末期には鎌倉公方が古河の町に遷り、古河公方と名乗るなど、中世関東騒乱の舞台として名高い。鶴峯八幡宮はその古河市でも埼玉県栗橋町から利根川を渡り、旧日光街道のすぐの場所に鎮座する。
社伝によれば、平安末期の治承四年(1180)源頼朝による挙兵にの呼びかけに対し、下河辺と呼ばれる当地に兵を集め、川沿いの小高い山に鎮座する稲荷様に必勝祈願したところ、富士川の合戦に見事勝利。頼朝は武運が拓けたと神徳を感じ翌年養和元年(1181)八月鎌倉鶴岡八幡宮を勧請している。また同じく丸山稲荷も合祀し、『鶴峯八幡宮』と称した。
時代が進んで天福二年(1234)には下総国一之宮香取神宮も勧請され合殿となる。その後古河公方の崇敬を受け、歴代の古河城主からの崇敬を集めている。
また利根川の河川運河より太太神楽が伝わり近郷の鷲宮神社などからも奉納されている。
江戸時代にな栗橋宿が開かれると、その街道の鎮守となる。徳川将軍日光参詣の際には、旅の安全を祈願したという。
勧請以来利根川左岸の流域の湿地帯であったため幾度となく水害にも見舞われ、小高い山に遷座する度、その山々は『八幡山』と崇められている。
明治維新以降廃藩置県の混乱で、一時埼玉や千葉に編入されるなどして社格制度の際には無格社となったこともあるという。
水害や遷座といった混乱を超え、現在でも伝わる神楽は古河神楽として無形文化財に指定されている。
先日の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも征討軍としての平家軍が富士川の戦いで、偶然にも水鳥の飛びたつ音で逃げかえった様子が描かれている。頼朝にとって武田源氏との駆け引きもあった難しい戦を戦わす勝利したという、武運に恵まれた勝利であった。
鎌倉殿(当時は佐どの)にとって御神徳を受けた、坂東の貴重な神社であったことだろう。
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