皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

中條堤と治水の歴史

2017-11-11 21:33:37 | 史跡をめぐり

行田市の最北部にあたる北河原地区。利根川支流である福川に沿った田園地区です。照巌寺という寺院の先には中條堤(ちゅうじょうてい)と呼ばれる堤が現存します。利根川と福川の合流に位置し利根川の堤防に直角に引かれるように続いています。この堤防により増水時には利根川とかつては荒川の水まで熊谷、深谷の一部にまで意図的に氾濫させ、下流の洪水を結果的に防いでいたとされます。いわゆる江戸の防水堤だったのです。
 この付近は利根川の勾配が緩やかになるところで、治水上重要な場所であったようです。下流の行田市酒巻と千代田町瀬戸井間に人工的に狭窄部を作り、群馬県側には文禄堤が築かれ、三方向から利根川上流で発生する洪水を受け止める仕組みでありました。

 中條堤の起源は延徳二年(1490)成田親泰が築いた説、また天正二十年の松平家忠の説など諸説あるそうです。また江戸を洪水から守ってきたこの治水の仕組みは上流側と下流側で利害が対立し、争いも起こったとされます。江戸幕府や明治維新政府の強権によって維持されてきましたが、明治四十三年の大水害で中條堤が決壊し、修復をめぐって埼玉県政は大混乱に陥ります。上流側の増築反対の決議に対し、強化復旧を主張する下流側住民の多くが警察の制止を振り切り県庁に殺到、結果高さは維持しながら堤防幅を広くすることで妥協が図られます。
 その後中條堤は復旧されますが、こうした治水の仕組みは終わりを告げます。しかし利根川堤防の強化が図られる前にカスリーン台風(昭和二十二年)
による大洪水が発生し、渡良瀬遊水地の調整池といった形で中條堤の治水の概念が現在に引き継がれることになりました。
一段と高い堤の上から見渡す田んぼの景色と空の青さは美しく、時間を忘れ眺めていました。


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