朝家を出る際はかなりの雨が降っていたが、新三国橋を越えて古河につく頃には晴れ渡っていた。茨城に入ると所々キャベツ畑が見られ、露地野菜の生産地だと実感する。日が伸びたおかげで渡良瀬遊水地まで向かうことができた。勤務地からは約10㎞。
渡良瀬遊水地へと流れ込む渡良瀬川は群馬・栃木の県境にある皇海山を源とし、いくつもの渓流を合わせて、桐生足利を下り茨城の古河にて利根川本流へと注いでいる。流路延長107.6kmの利根川水系最大の支流だ。
一方本流となる利根川は、かつては東京湾に流れていたが、徳川家康が江戸に入り、関東平野の開発が進むと、江戸を洪水から守るために銚子沖に流れるよう付け替えた。(利根川の東遷)これにより渡良瀬川は元和元年(1621)利根川を渡良瀬川に流す新河道が開拓され、その支流となった。利根川の支川となった渡良瀬川下流部一帯には赤麻沼、石川沼、板倉沼などがあり、その中央部を開墾したのが谷中村で、周囲を堤防で囲まれた村だった。
明治23年、同29年の洪水を契機に渡良瀬川下流部における足尾銅山の公害事件が明るみになる。時の帝国議会で取り上げたのが田中正造だ。明治34年には衆議院議員を辞して明治天皇に直訴を試みている。
谷中村は周辺に比べ地盤が低く水害も受けやすかった。各家家には洪水に備えて「水塚」が築かれ、「揚舟」が供えられている
足尾銅山鉱毒事件被害の防止対策と歳て氾濫被害の軽減のため渡良瀬川下流部に遊水地を造る計画が立てられ、明治39年栃木県が買収し、村民は反対する中、谷中村は藤岡町に合併され廃村となっている。
茨城、栃木、群馬、埼玉と4県にまたがり国内最大の遊水地として今日その役割を果たしながら、訪れる人々の憩いの場となっているが、その整備における歴史には多くの悲劇や苦難があったことを忘れてはならないと思う。
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