地名誌によれば佐間の地名はマは湖沼を表し、サは接頭語であることから、古来より沼地であったと考えられているようだが、佐間という地名がいつごろから用いられたかははっきりしないという。ただし埼玉古墳の北側に下ったところにある大日塚古墳にある板碑は嘉禎二年(1236)に左近将監が父母の供養に建てた石塔婆とされ、この地域が鎌倉期より開けていたことが分かっている。
佐間の神社といえば天神社で忍城佐間口の鎮守としてまた忍沼の樋の隠し場所として重要な位置にあったが、それより南1キロほどの所に小さな古墳上に社が隠れている。佐間の諏訪神社である。埼玉の神社に記載はなく、この地に諏訪社が祭られていることを知らなかった。
口碑によれば、成田氏長が天正年間創建したとされ、長野の諏訪大社に習い、下社として祀ったと伝えられている。当然上社は忍の総鎮守諏訪神社で、祭神は建御名方神。忍の諏訪神社が男神、佐間の諏訪神社が女神とされる。諏訪大社と同じく上社の男神が下社の女神の所に通う伝説が付随するという。
現地は文化センターみらいの裏にあり、周囲を住宅に囲まれるようにあるが、明らかに小高く盛られた区画にあり、小円墳であったことが分かっている。忍の諏訪神社ももとは持田村の沼尻にあったものを遷したと伝えられていて、成田氏の諏訪社への信仰の深さが見て取れる。
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