皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

鎌倉殿のお父さん

2022-03-12 22:47:44 | 歴史探訪

鎌倉殿の13人。大泉洋演じる源頼朝は周囲から「すけどの」と呼ばれている。「佐殿」と書きこれは頼朝が平治の乱(1159)の際右兵衛権佐(うひょうえのごんのすけ)という官位にあったことに由来する。官位とは「官職」と「位階」の組み合わせ。
「右兵衛」とは役所の名前で兵衛府とい宮門の警備をするところ。右左ありもちろん左が上位。「権」とは副と同じで支える役目のこと。
「佐」とは階級を表し従五位下に相当する。従五位上までいくと天皇の住まいとなる内裏清涼殿へ上ることができ、こうした位(権威)たいして人々は畏れ多く感じていたという。

保元の乱で後白河天皇方につき、平清盛と武功をあげたのが頼朝の父であった源義朝。そもそも長男でありながら、父為義は源氏の棟梁の座を四男頼賢に譲ろうとし、袂を分かったというが、実際は父為義が京都で摂関家に従い勢力を伸ばしたの対し、義朝は東国の武士と主従関係を築いていた。まさに頼朝は父の仕事を踏襲したのである。

保元の乱において義朝は一番の武功をあげているが、実質的な戦闘の指揮官は後白河天皇の最側近であった藤原忠通。出家して信西と名乗っていた。もとはそれほど身分の高くない貴族であったが後白河天皇の乳父であったことから絶大な権力を有していた。

平清盛らと保元の乱にて勝利した源義朝であったが、敵対した父為義の助命も許されなかったという。これは清盛が信西と通じていたためであって、逆にこの事で平治の乱で敗れた義朝の子、頼朝は池禅尼の嘆願もあって命をとられなかったという。

悲運の源氏の棟梁であった源義朝。その与えられた領地は現在の栃木県。下野国の国主であったという。

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