皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

上ノ郷城と鵜殿長照

2023-02-21 21:12:18 | 歴史探訪

どうする家康、第六話は瀬名姫奪還作戦の上ノ郷城の戦いでした。創作を折り込みながらも非常に興味深い展開で、人質交換の史実に基づくドラマティックな内容で見ていて「大河ドラマ」(史実と創作のヒューマンスストーリー)を十二分に堪能できました。

今川義元の重臣鵜殿長照を演じたのは野間口徹さんで私と同世代。国立大学の理系学部を卒業しながら俳優業を志し、アルバイトしながら役者としての下積み時代を長く続けてきたそうです。普段は眼鏡をかけた姿が印象的で、はじめての時代劇で端正な表情が際立っていました。桶狭間合戦当時は尾張への最前線大高城代を務め、松平元康の兵糧入れによって窮地を逃れます。家康の今川離反(織田家との同盟)により敵対し、上ノ郷城で家康の三河軍に攻められました。このとき忍として服部半蔵が活躍した様子が描かれており、武家として討たれることを良しとせず自害した展開でしたが、実際には城が陥落した際城下に逃げ延び、坂の途中で討たれたとされます。

またこの上ノ郷城攻めで鵜殿長照の息子二人は生け捕りにされ、元康の妻子と人質交換されたのは史実のようで、長照亡きあと今川氏に戻った息子氏長、氏次はその後戦国の世を今川、徳川と主君を変えながら生き長らえている。特に長男氏長は今川没落後は徳川家に使え姉川、長篠合戦等に従軍している。

徳川政権誕生後は譜代の家臣として列し、慶長二十年(1615)の大坂夏の陣では重要な役目を果たしている。

東海一の弓取りと称えられた今川義元亡きあと、多くの家臣は離反している。大河ドラマでは鵜殿長照の忠義の様子が氏真によって称えられているが、実際には長照自身も最前線の上ノ郷城で悩んでいたに違いない。

家康と長照の違いは何だったのだろうか。儚く散った鵜殿長照の姿を忘れることなく今後の展開を見守りたいと思っている。

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行田市 和田神社

2023-02-21 20:32:10 | 神社と歴史 忍領行田

行田市和田はかつて条里制水田が広がっていた区域で、現在も多くの田んぼが残る。行田市にこの条里制による地名がいくつかのこっていて斎条、中里などいまでも大字として見られる。

和田地区は現在一和田と二和田とに分かれ、こちらは二和田になる。一和田は旧白河村の一部で現在も八坂神社を祀っている。『風土記稿」和田村の項には『伊森明神社、村の鎮守とす宝珠院持、蔵王社、同持」とありこの「蔵王社」が当社にあたり古くは蔵王権現と称した。明治の神仏分離により寺の管理を離れ、社名を御嶽神社と改め、明治41年社号を和田神社としている。

大正12年の関東大震災により本殿拝殿が全壊となったが、同地区の地主竹田恒太郎の所有する地に移転し大正14年社殿を新築している。このときの移転造営費用は七千八百円といわれ、現在の価値からすると一億近くになる。当時の氏子戸数は約60軒であったことを考えれば、大変な額である。

社殿は八幡造りで串瓦の外側に和田神社と社名が施されている。現在の御祭神は大己貴命と少彦名命。

境内地北側には星川が流れており、神社裏は堤の一部となっている。古くは水稲稲作と養蚕が中心であったが、戦後麦畑への転用も進んでいる。

明治45年の合祀記念碑が残っている。農業中心であった明治、大正、昭和の高度成長期にかけて、農耕暦に基づく祭りが続いていたが近年では勤め人が多くなっており、親和会を中心とした地区祭事へと引き継がれている。

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