皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

加須市南大桑 瘤神様

2022-06-08 22:00:33 | 神社と歴史

加須市南大桑には利根川の旧堤がいくつか残っていて、この地が古利根川(中川」)の流れに沿って水の恵みと水害に悩まされてきたことが伝えられている。先述の雷電神社がその堤の上に建つ目印で、近隣は今でも多くの田んぼと共に、開発のため工業団地が広がっている。
工業団地の中にはこんもりとした小さな森があってその中に「瘤様」と呼ばれる不思議な伝承が残る木が茂っている。


その昔特殊な力を持ったお坊様がいて雨降りの予言をしたり、鳥の言葉がわかったりしたそうだ。
ある時お坊様は旧堤に立つ古木を見つめると、その木は瘤のついたソロの木だった。

これは珍しい瘤の木だ私が祈って世の人々を救おう」とお坊様は言った。一心に祈りを捧げると神の木として祀られるようになった。以来この木に祈ればどんな病も治るといわれた。評判は響き渡り、近郷からこの木を訪ね手を合わせる人々が後を絶たなかったという。

願いが叶うという伝承は人づてに残るように感じる。特に病を治すという霊験は人の生への強い願いから人から人へと伝わるのではないか。高鳥邦仁先生の著書を読み、何度か周辺を探してから三年近く経っても見つからずあきらめていたところ、たまたま時間があり周辺を再度周り巡っていたところ瘤様にお参りできた次第だ。時は過ぎても人の思いは残る。そう思わずにはいられない梅雨入り前日の初夏の日差しに照らされた出来事だった。

引用文献「古利根川奇譚」高鳥邦仁先生
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加須市 南大桑 雷電神社

2022-06-08 21:05:18 | 神社と歴史

加須市大桑の名前の由来は往古筑波の門井村から移住した大桑氏が当地に勢力を得たことによる。大桑氏はその後姓を門井と改めたという。
口碑によれば雷電神社門井家の北に隣接していたが、同家が屋敷を広げるにあたり、隣家と共に移築したとも伝わる。

この時当地にいくつもあった小丘を使って利根川の堤が増築されたため、当社は今でもその堤の上に建っている。
主祭神は別雷命で本殿に十一面観音を安置する。
大桑の鎮守として氏子に「雷電様」「お鎮守様」として親しまれ、五穀豊穣を祈願されてきた。
四月十五日の例祭に奉納される「獅子舞」は盛大で昭和三十五年に市の無形文化財に指定されている。昭和三十年代半ばからして指定されるのはそれだけ知られていた証だろう。加須市の獅子舞にはほかに北小浜、、大字多門寺に同じ流派の獅子舞が伝わるが、雷電神社に伝わるものは動きが激しいため、「暴れ獅子」と称される。
現在使われている獅子頭は天保十四年(1844)に作られたものとされ、演目は「散し」「橋渡し」「花見」「綱切り」「蛇呑」などである。

境内社である愛宕神社は昔当地に火災が頻発したため火伏の神として京都愛宕神社から護摩の灰をいただき祀ったとも伝わる。雷電神社の御祭神である別雷命もまた京都上加茂神社の御祭神である。また社頭においた楊枝を耳に入れると耳の病が治ると伝わる。これは同じく加須市多門寺の愛宕神社と同じ伝承である。

多くの風習や信仰が薄れゆく中で昭和初期まで雨乞い信仰が残っていたという。日照りが続くと隠居獅子という古い獅子を霧箱に入れ葛西用水まで担ぎ、観音堂池まで来るとこれを沈める。雨が降れば隠居獅子を神社へ戻し、降らなければ七日間獅子を沈め、引き上げたのち雨が降るまで繰り返したという。水の恵みが今よりももっと神聖視されていた時代である。そうした歴史を私たちは忘れてはならないことを伝えているのだろう。
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紫陽花から麦わら帽子へ

2022-06-08 20:35:42 | 生活

庭の紫陽花が咲いています。
各地の寺社仏閣でも多くの紫陽花を見られます。桜の花から早二ヶ月。季節の巡りは早いものです。

種から撒いたマリーゴールドも咲いています。これから梅雨の合間に植え直し、夏に向けて麦わら帽子を広げていきたいですね。
雨上がりキラキラ輝く虹の色

梅雨時期こそ明るく澄んだ心持ちで毎日を過ごしたいと願います
輝く夏の青空を待つ気持ちです。お
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皮膚科の受け付け待っています

2022-06-08 15:33:31 | 生活

週半ばの水曜日ですが、子供の皮膚科受診の受け付けを待っています。午後3時の診察開始にたいして40分前から並びます。すでにお一人並んでいらっしゃいました。15分もすると、あれよあれよと20人ほどが並びます。それだけ受診される患者さんが多いようです。

最近多くの診察がインターネットを介した予約を導入していますが、こちらの皮膚科は時間前の順番待ちの形をとっています。どちらが患者さんにより良い仕組みかは判断しかねますが、診察開始時間には30人以上が院内にはいるようでした。



アレルギーや環境の変化で近年皮膚科の受診者が多いと聞きます。私も三十代前半に手にイボを患い仕事の合間を縫って半年ほど皮膚科に通いました。やはり一時間以上前からか並び、レジャー用の椅子を持って行き、座っていた記憶があります。今はもうその皮膚科は閉院しています。時の流を感じます。

皮膚科前の田んぼの様子です。半分ほど苗が植わっていますが、代掻きがこれからのところもあります。同じ忍領内でもここは城の辰巳方向で、私のすむ皿尾村とはちょうど反対方向です。下忍地区はその名の通り、藩主に支える家臣の地区でもありました。

所謂待ち時間の方が長いようで、30分以上並び、診察は5分かかりません。薬をもらうために定期的に診てもらっているようです。
コロナ禍も沈静化傾向ですが、これからこうした順番待ちの列が日常生活に戻って行くことがよいのか、時代と共に無くなるのか行く末を見守りたいと思います。





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