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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

故郷への旅!(明るい解釈は何故いいか 5/10)

2016-07-01 | 第九章「愛」

 旅に行くときにガイドブックを読み、どこに行こうか楽しく検討するのも良いだろう。あるいは、私のように縄文遺跡に興味などを持つ人間は、そうした知識を整理したり読んだりするのも良いだろう。しかし、それだけだろうか?

 今月、青森の旅に出ようと考えていた私は、昔、和辻哲司の古寺巡礼を読んで奈良の旅が格段に充実したことを思い出した。そして、眼に着いた太宰治の「津軽」を買って熟読してしまった。まだ、実際に青森に行ったわけではないが、少なくとも青森への旅の事前のこころの高ぶりは最高潮である。

 太宰治の「津軽」は、戦前の昭和19年に新しい風土記を書こうと、三週間かけて故郷の津軽を楽しみ取材したことがベースの小説だが、単純な地域の紹介ではなく、太宰治の愛の原型である3歳から9歳までに母親代わりに育ててもらった越野たけさんに30年ぶりに会ったことなど、「生き甲斐の心理学」の学徒である私にとって、とても興味ある故郷探索の話であった。さらに、津軽の歴史を奈良時代くらいから振り返り、風物を語る中で、私の興味のある縄文の息吹もたくさん感じさせていただいた。

 小説の最後の越野たけさんと再会する場所は実に印象深い。津軽半島の小泊の竜神様(私には縄文からの宗教を彷彿させた)の桜の下での再会は迫力ある。膨大な時間の流れの中での不思議な出会い、何とも劇的である。

 太宰治は心中事件を後日起こしたり自殺を試みたりし、その生涯は幸福だったかは疑問に思う人も多い。その原因は遠因はなにかと考えるとき、愛の原型を思索するというのは正攻法だ。しかし、今回の「津軽」は太宰治を分析するというより、再会の感動に私もこころを打たれてしまった。

 愛の原型を自分のうちで意識化することは、自分を俯瞰する視座を得ることでもあり、心の解放がどこかである気がする。実際、津軽では越野たけさんと再会し、そのたけさんの性格を思索することで自分の性格の起源を意識化している描写があり、たんなる故郷というより自己発見の旅だったように思える。

 写真は、昨年行った今治市の大島である。私の3代前(曾祖父)の生まれ故郷であり、本家を探すのも越野たけさんを探すように実際に町や村で人に尋ねて探し当てた。そんなことまでして、故郷を探す情動は何なのだろう。私もそうだったが、太宰治も同じようだった。情動というか本能については普通食欲と性欲は話題になる。しかし、日本では余り言われないが、見神欲というものを唱える人がいる。ルーツを訪ねたり、自分に大きな影響を与えた人を訪ねたり、そんなこころの旅は決して神を探す旅ではないものの、何かそれに近いもののようだ。

明るい解釈は何故いいか 5/10

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