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社長のつぶやきブログ

 歴史探訪 吉備路の旅 NO.6 国指定史跡 作山古墳(つくりやまこふん)

2011-07-30 13:54:44 | 日記

 

  備中国分寺の後はこれもまた同じ呼称のつくりやま(作山)古墳を訪ねました。

この古墳は国分寺から西方に車で僅か数分の距離にあり、直ぐに発見しました。

 作山古墳も造山古墳同様に立派な駐車場を備えていましたが進入した方向から

見えなくて、古墳をずっと迂回した裏側の方に在りました。

 古墳の墳頂に通じる道は良く整備されていて上り易く感じました。古墳全体が

大きな松の樹で覆われていて、非常に遠くを見通す事が困難な状況でしたが

その僅かな隙間から垣間見える遠景の写真を撮ったのでご覧下さい。

 この古墳は「つくりやま」と称されるほど勇壮で巨大な前方後円墳です。

 独立した丘陵を削り、整形加工をしたもので一部に後世の改変をされては

いますが、全長約285m、後円部径174m、高さ24m、前方部長さ110m、

同幅174mの規模を誇っています。

 当古墳は3段に築成され、各段には密接して円筒埴輪が立ち並び、斜面は

角礫で覆っています。造り出しは北側に存在しますが、対称的に南側にも

在ったかどうかは疑問です。

 外周には周溝がなく、複数の残丘を遺すなど巨大な墳丘の割には端正さを

欠く面もあります。

 作山古墳の規模は全国的にみても第9位に相当し、県内では全国第4位の

造山古墳に次ぐもので、古墳の規模が豪族勢力の反映又は象徴である事を

鑑みればこの古墳の被葬者が吉備に君臨した大首長である事が想像される。

 この古墳の築造は、発掘調査が行われておらず明らかでは有りませんが

墳丘の形態や円筒埴輪の研究から5世紀の中葉と考えられます。

 そして古墳から遠景写真を撮る際に何故か目についたのが上の茶房

「塔見の茶屋」でした。遙か彼方に小さく見える三角形の建物がやけに

目につき、帰る途中に近くから撮影しました。

 作山古墳を観た後は、丁度小腹も空いてきたことだしご当地グルメでも

手に入れようと、宿泊施設国民宿舎やその他店舗等がある近くの建物を

訪ね、ハンバーグを買い求めて、早速駐車場で味見をしました。勿論のこと

美味しかったです。

 吉備路の旅は生憎と台風の接近による悪天候に悩まされましたが、最後に

身も心も満たされて帰途に着くことが出来ました。

 今回で吉備路の旅の全リポートを終わります。

ご愛読ありがとうございました。

 

 

 


歴史探訪 吉備の旅 NO.5 備中国分寺

2011-07-29 17:54:56 | 日記

 今回の旅のハイライトは何といっても国分寺でしょう。しかし残念な事に天気が

悪くて折角の秀麗な景観も暗くて見栄えがしません。雨は殆ど止んでいましたが

写真に撮るとこんなにどんよりと暗い感じになってしまいました。もしも晴れてたら

これよりもずっと綺麗な写真をお見せすることが出来たと思います。

 上方写真の門を潜って進むと右奥の方に本堂が有ったので写真に収めました。

境内は凄くぬかるんでいて歩くのが大変でしたが、それでも県内唯一と言われる

五重塔を間近に見る事が出来るという期待感があって、水たまりを避けながら

近づいて行きました。

 五重塔は他の寺院の建物と一体となって、遠くから観ると誠にシンメトリカルで

秀麗な景観を創出していて、写真に撮られた時に初めてその素晴らしさが判って

きます。

そして近くで観ても威風堂々とした姿は期待値以上のものがあり、心から畏敬し

尊崇の念を抱かせてくれました。その写真も上に撮ったのでご覧下さい。

 前回国分寺の説明をしていますので、今回は割愛します。

 簡単ですが、今回のリポートはこれにて終了させて頂きます。


 歴史探訪 吉備路の旅 NO.4 旧松井家住宅、旧山手村役場、松井の井戸

2011-07-28 11:44:58 | 日記

  備中国分尼寺跡を観てから元来た道とは違うルートを選択して漫ろ歩いて

いると行く手に民俗資料館を発見しました。しかし喜んだのも束の間でした。

良く視ると人の気配を感じず、どうも閉鎖されているようでした。

 その代わり直ぐ近くに由緒有りそうな古民家を発見しました。一番上の写真を

ご覧下さい。この古民家が旧松井家住宅で、元は岡山市東区沼に所在しました。

 当家は旧山陽道に面して、道行く旅人に昼食や茶、菓子などを提供し、休憩所の

役割も担った「茶屋」でした。

 屋根は茅葺、入母屋造りとなっていて当時としては一般的な民家の構造であると

説明されています。その当時というのが江戸時代末期といえます。

 建築の様式や手法から江戸時代の末期に建築されたものと推定されています。

 話は変わりますがテレビで長年に渡り放映され人気を博してきた「水戸黄門」が

大変残念なことに視聴率低迷の煽りをうけて今年一杯で放送打ち切りの結論に

なっているようです。

 その水戸黄門の放送の中で一行が腰掛け、食いしん坊の八兵衛が美味そうな

団子を食べるシーンが度々登場しますが、この場所が所謂茶屋だと思います。

 この茶屋で時には殺伐とした場面があったかもしれませんが、概ねは長閑で和やかな

一時が経過したのではではないでしょうか。

 それから旧松井家住宅の直ぐ前に旧山手村役場があったので上方写真に収めました。

この家もやはり茅葺で歴史を感じました。確か文化財に指定されていると思います。

 旧松井住宅から国分寺に向かう途中で「松井の井戸」の案内板を見つけその示す

方向に歩きました。すると池の畔に発見しました。上方写真のような井戸です。

現在使用されている形跡が窺えませんが、その昔天皇が即位をする時にそれを

祝う和歌がその当時勢力を誇ったと思われる藤原家の歌人によって詠まれています。

その中に松井の井戸の水を讃える歌が有り、その歌が案内板に書かれていました。

 松井の井戸から国分寺に向かう途中に、国分寺の遠景を撮りましたのでご覧下さい。

 以上今回のリポートを終わります。

 

 

 


歴史探訪 吉備路の旅 NO.3 備中国分尼寺跡(こくぶにじあと)と備中国分寺跡

2011-07-27 10:20:33 | 日記

 こうもり塚古墳の後は歩いて数分の国分尼寺跡を目指しました。有りがたい事に

写真のような標識が出ていたので、その示す方向に歩くと尼寺跡に着きました。

 今日では一帯が松林で被われている為昔日の面影はなく、当時とは程遠い姿に

変貌しているものと思われます。

 唯一昔尼寺が当地に存在した事を示すものを挙げるとすれば上方写真の礎石

ではないでしょうか。ご覧のように結構大きい礎石なので、その上にはこれも大きな

柱が乗っていたものと推定されます。

 当尼寺は奈良時代に聖武天皇の発願により建立された備中の国の尼寺です。

寺域は東西108m、南北216mを計測し、築地(ついじ)土塀で囲まれた境内には

南から北へ南門、中門、金堂、講堂などの建物が一直線上に置かれた伽藍配置に

なっていたそうです。

 建物自体は南北朝時代の戦火で焼失したと伝えられています。礎石の他にも

遺構が現在でも比較的良好な状態で保存されているそうですが、残念なことに

礎石しか分かりませんでした。

  そして尼寺からは少し離れた場所に国指定史跡の備中国分寺跡の看板を

見つけました。その内容を下に転記しました。  

 国分寺は国分尼寺と共に鎮護国家を祈る為、天平(てんぴょう)13年(741)に

聖武天皇の勅願によって建てられた官寺です。寺域は東西約160m、南北が約

180mで周囲には築地土塀がめぐらされており、寺域内には南門、中門、金堂、

講堂、塔などの伽藍(がらん)が配置されていました。

 発掘調査によって南門、中門、建物、築地土塀などの跡が確認されましたが、

金堂跡や講堂跡は現在も寺の境内地に含まれており、その位置や規模などは

明らかでありません。

 備中国分寺は中世には廃寺となりその後江戸時代中期に至って日照山

国分寺として再興されました。現存する伽藍は全て再興後に建立された

ものです。

 以上備中国分尼寺跡と国分寺跡についてリポートしました。


歴史探訪 吉備路の旅 NO.2 ひまわりの畑とこうもり塚古墳

2011-07-26 10:00:21 | 日記

 7月18日(月)造山古墳の後は備中国分寺を目指して走りました。相変わらず 

台風6号が接近中の為雨が降り続いていましたが、委細構わず目的地を目指し

ました。

 そして国分寺の見える所まで来て、ひまわりの畑も見つけたのですが肝心の

駐車場が判らずうろうろした後、県道沿いに風土記の丘県営駐車場の看板を

発見し迷わず其処に車をとめ、歩いて数分でひまわりの咲く畑に着きました。

 向日葵(ひまわり)の花が一斉に花開き、今日は隠れたままのお日様の

代わりに辺り一帯を明るく輝かせているようでした。

 ご覧下さい、思わず息を飲んで凝視するこの向日葵の豪華な共演を!

雨の中、傘を片手に持ちながら一生懸命にシャッターを切りました。

国分寺五重塔を背景になかなか良い構図の写真になってると思います。

 妻の「ひまわりが観たい」という強い希望があって来たこともあり、豪奢な

向日葵の花で彩られた畑は殊の他彼女を喜ばせました。

 さてこの度初めて分かったのですが、ここらの史跡と名勝が点在している

地域を「吉備路風土記の丘県立自然公園」と呼称しているようです。

 向日葵の観賞を楽しんだ後は、200mほど先の森の中にある国指定史跡の

こうもり塚古墳を訪ねました。

 この古墳は6世紀後半に自然の丘陵を利用して造られた全長約100mの

前方後円墳です。内部の石室は巨石を用いた横穴式石室で長い羨道(せんどう)と

その奥の玄室とからになっています。

 玄室には家形の大きな石棺が収められています。

 そしてこの古墳は大きな墳丘や内部の石室、石棺に見られるように多くの

労働力を集めることが出来た支配者層の墳墓であることが示されています。

 以上古墳の案内板の記述を転記しました。

 今回のリポートはこれにて終了致します。