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社長のつぶやきブログ

物件案内 貸家 赤磐市桜が丘東6丁目

2011-09-30 19:34:29 | 日記

  9月15日まで家の建て替え工事の為6ヶ月間の定期賃貸借契約で

当該貸家を借りておられたお客様が家の完成に伴い退去されました。

  早速ハウスクリーニングに着手して、数日を費やしてクリーニングを

完了致しました。

  完了後の写真を上方に撮っておりますのでご覧下さい。当該物件は

赤磐市桜が丘東6丁目6-144に所在しています。ネオポリスで唯一の

大型スーパー「マックスバリュー」からは直線距離で北に約500mの所

です。

  昭和52年と築年は古いのですが、内部は若干の改修工事を施して

おりまして、大家族に適していると思います。敷地は南東の角地なので

日当たりは良好です。

  庭も充分の広さが有り、沢山の庭木が植栽されています。

  駐車場は露天駐車場ですが数台の駐車が可能です。

  さて一番肝心の賃料ですが65,000円となっており、敷金3ヶ月分

礼金1カ月分となっています。

  それと間取りは5DKです。

  交通は東6丁目上バス停から徒歩約2分となっています。

  以上のような貸家が新しく出ましたので紹介をさせて頂きました。

  若し案内をご希望の場合は前もって連絡戴ければ幸甚です。

  これで今日のリポートを終わらせていただきます。

 


歴史探訪 岡山市庭瀬の旅 NO.3 旧庭瀬港

2011-09-29 10:13:30 | 日記

  撫川城跡の後で向かったのがこれも直ぐ近くに在る旧庭瀬港でした。

港とは名ばかりで用水路が少し広くなったような本当に小じんまりとした

造作でした。

  庭瀬は水路が縦横無尽に張り巡らされていて正に「水郷」と呼称するに

相応しい形態を整えております。近世までは足守川とその支流を利用した

船運が活発で、堀や水路を活用しながら発展してきた歴史が有ります。

  往時足守川の河岸には瀬戸内海を航行する船が出入りし、足守藩の

年貢米の積み出し港として重要な機能を有していました。この河岸にて

積み荷を海船から小舟へと積み替えて旧庭瀬港(内港)に入りました。

  そこでは港町が形成され、庭瀬藩の商業と交通の要衝地として繁栄

しました。水路に面して雁木(階段状の船着き場)が設けられ、入港する

船の為に大型で木造の常夜灯が1700年代に建てられました。

  元の常夜灯は昭和29年の暴風により被害を受け取り毀されましたが、

地域住民の尽力により平成19年に再建され、当時の旧庭瀬港の景観を

復元しています。上方写真をご覧下さい。

  同じく上方に石柱が在りますが、旧山陽道の道標として使われていた

ものを此処に移築したそうです。全ての文字を解読する事が出来ないが

一部安政と言う文字を読み取ることが出来ました。ですから最初に道標が

建てられたのが安政年間ではないかと推定いたします。

  これも撫川城跡からは至近距離にある坂野定和邸を撮っております。

私もそうですが坂野定和氏といっても御存知の方は少ないと思います。

  坂野氏は撫川うちわ製作技術者で、平成7年に岡山市の重要無形

文化財(工芸技術)に指定されました。

  撫川うちわは、江戸時代の中期(元禄頃)に庭瀬藩や撫川知行所の

武士達の内職として始められたのがその端緒であるとのことです。やや

おおぶりな扇面に優雅な図柄を透し映すところに特徴があり、その伝統

技法に則って現在も製作され続けているそうです。

  以上で今回のリポートは終了致します。

 

 


歴史探訪 岡山市庭瀬の旅 NO.2 撫川(なつかわ)城跡

2011-09-28 12:42:03 | 日記

  庭瀬城跡前の駐車場に車をとめたまま、歩いて数分の距離にある撫川城跡に

向かいました。大きな樹木が立ち並ぶ西の方に向かって住宅地の中を縫うように

進んで行くと、先ず滑り台を備えた公園が現れ、その奥の方に風格のある総門を

発見しました。この門は撫川知行所総門を明治になって現代地に移築したもので

昭和30年に県の史跡に指定されました。

  堀に架かった橋を渡り総門を潜って進むと正面奥の方に神社がありました。

見た感じそれ程古くはないように思われました。上方写真の如く城跡は雑草が

綺麗にカットされていて公園のような趣きでした。

  この城は泥沼の地に築かれた典型的な「沼城」で、城の平面形状は東西が

77m南北が57mあります。城の周囲は幅15mの堀がぐるりと巡っていまして

敵を容易に近づかせないようにしています。

  当城は永禄2年(1559)に備中成羽の城主の三村家親が、御存知備前の

宇喜多直家の侵攻を防ぐために築城したと伝えられています。

 甚だ簡単ですが撫川城跡のリポートを終了致します。


歴史探訪 岡山市庭瀬の旅 NO.1 庭瀬城跡

2011-09-27 13:03:57 | 日記

  

  ずーっと前になりますが早島町にある戸川家の資料館を訪ねたのが契機と

なり、そこから宇喜多氏に関して非常に興味を持つようになりました。宇喜多氏

重臣の中でも英傑である戸川氏に対しても大変関心を持っています。

  その戸川氏がかって居城にした庭瀬城に来る事が出来感慨もひとしおです。

室町時代の末ごろ(約400年前)に備中松山の三村元親が備前の固めとして

この地に庭瀬城を築きました。付近の地名から別名を芝揚(こうげ)城とも呼称

されています。一体は泥沼地で大変な難工事であったと伝えられています。

  上方写真にはそのことを証明するように城跡は泥水の堀で囲まれています。

堀の中には沢山の蓮の群落があるのがお分かりでしょうか。

  この蓮は大賀ハス(2千年ハス)と呼ばれ、庭瀬から近くの川入(かわいり)

出身で植物学者の大賀一郎博士が千葉県検見川の泥炭層から約二千年前の

古蓮実を発掘しその発芽に成功しました。先生の名前を冠して「大賀ハス」と

命名されています。

  地域の人々が連携して先生の故郷であるこの濠堀に大賀ハスを開花させる

ことになりました。花の咲く季節には淡紅色の花弁が、揺らぐ緑の葉蔭からその

神秘的で蠱惑的な姿を垣間見せるでしょう。

  さて庭瀬城についての続きですが、関ヶ原合戦の武功によって戸川達安が

二万九千石で入封し、西にある古城の撫川城を西の丸として取り込みました。

  戸川氏は元々宇喜多氏の重臣であったのですが、お家騒動に嫌気が差して

主家を離れて徳川家康の配下となり武勲を上げました。戸川氏は嫡子が無く

4代で改易となりました。その後2代に渡り城主の変遷がありましたが、最後に

板倉重高が元禄12年(1699)上総の国高滝から2万石で入封して、明治に

至るまでその子孫がこの地を統治しました。

  上方写真の神社は清山神社で寛政5年(1793年)に板倉勝喜氏が建てた

そうです。その神社の境内に巨木が2本立っていました。その根元付近には

「保存樹」と書かれた看板があり、岡山市が大切に将来の人々に受け継いで

行くという堅い意思表示なのではないかと思いました。

  因みにこの境内地の一部は児童が遊べる小さい公園になっていて子供達の

歓声がこだましていました。

 以上庭瀬城跡のリポートでした。

 

 

  

 

 

 

 

 


カープ田んぼの旅 NO.2

2011-09-26 12:30:36 | 日記

  最初に小休止した上山神社でさえ結構高所だと思ったのですが、そこから

どんどん上って行ってもなかなか着きません。そして可なりの時間をかけつつ

上った坂の頂上付近に備前ゴルフクラブの看板を見つけ、そしてそこからは

直近の距離にある大型リゾート施設「大芦高原温泉 雲海」の駐車場に到着

しました。

  雲海という名前が示す通りこのホテルは標高500mの高地に在り10月の

下旬から1月中旬にかけて冷え込んだ夜の翌朝には、それはそれは美しくて

まるで夢の中で下界を眺めているような幻想的な雲海が出現するそうです。

10月といえばもう直ぐ目の前まで来ています。山奥の温泉ホテルでゆっくり

寛いで日頃の溜まった疲れを癒されては如何でしょうか。嬉しい事に料金は

とてもリーズナブルだと思います。詳細についてはホテルのホームページを

ご覧下さい。

  途中迷いはしましたが何とか公営プールに隣接したカープ田んぼに到着

する事が出来ました。どうやらこのプールは現在シーズンオフになっていて、

人っ子ひとりいませんでした。

  お陰でだだっ広い駐車場は私たちだけの貸し切り状態でして、思う存分

写真を撮る事が出来ました。

  駐車場の端っこに季節外れの鯉のぼりが薫風を体一杯に受けとめ元気に

青空を気持ちよさげに舞っていました。

  そしてその鯉のぼりが舞う地点から下方を覗くと、有りました!ご覧下さい

田んぼの中にくっきりと浮かぶCの字を!広島カープファンにとってはもっとも

感激する瞬間でした。

  カープの選手はCS出場を目指して最後の戦いに挑んでいますが、正直

その可能性は風前の灯となっています。それでもCS出場に一縷の望みが

有るならば、あらん限りの力を振り絞って声援を送りたいと思います。

 念願のカープ田んぼをこの目に焼き付け、満足の内に家路につきました。

 今回でカープ田んぼの旅シリーズを終了いたします。