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社長のつぶやきブログ

歴史探訪 倉敷市藤戸・木見 NO.4 熊野神社・尊流院

2011-06-30 11:44:06 | 日記

 住心院の後熊野神社を訪ねました。神社の駐車場に着いた頃には雨も

殆ど止んでいましたが、足許はかなり泥濘んでいました。

 入口の直ぐ右手に我々を睥睨しながら迎えたのが上方写真の尊流院

三重塔で、県の重要文化財に指定されております。このように神社と

寺院が併設されているのは神仏習合の時代の名残とおもわれます。

 どうやら神社の正式な所在地は倉敷市林のようです。木見と林を

併記した記述もありますので両方に跨っているのかも知れません。

 さて熊野という名前からお分かりかと思いますが、修験道の祖と

言われる「役小角(えんのおづの)」は朝廷から謀反の疑いをかけられ

699年に伊豆大島に配流され、そして赦免された701年に高弟達が

紀州(和歌山県)熊野本宮を遷座したとのことです。

 天皇家からも厚く庇護され、741年には聖武天皇から旧児島郡の

全土を神領として寄進されております。

 明治政府による神仏分離令(1868)に伴い、十二社権現は転じて

熊野神社となり、寺院(尊流院)は天台宗の寺院となるなどの変遷を

経ております。

 その熊野神社なのですが上方写真のように沢山の社があります。

その中でも中央付近に小さめの同形の社が2つ建っていますが、

向かって右側が国指定重要文化財、左側が県指定重要文化財に

なっております。

 神域に足を踏み入れ暫く彷徨って何か眼には見えない力を頂いた様な

気がします。そして家内安全を祈って参拝を終え、清々しい気持ちで

熊野神社を後にしました。

 以上で倉敷市藤戸・木見の歴史探訪シリーズを終わらせて頂きます。

 


歴史探訪 倉敷市藤戸・木見 NO.3 住心院

2011-06-29 12:53:15 | 日記

 倉敷市藤戸の観光を終えて次は同じ倉敷市内で車で5分位の

距離にある住心院に向かいました。妻のナビゲイションで少し道を

間違えながらも無事に辿り着きました。当然時間も余分にかかり

ました。

 当寺は児島88か所霊場の第51番札所になっている真言宗の

寺院で、孝謙天皇の時代(749~765)の開基といわれています。

 この寺の知名度を高めたのはどうやら花好きの住職さんのようで

一説に拠ると2万本の花菖蒲が植えられているそうです。其の花が

満開時期を迎え百花繚乱状態になるのは6月前半と思われ、我々の

訪れた6月下旬は少し時期遅れのようで若干花が少なめのような

気がしましたが、それでもご覧下さい雨に濡れながらも情感たっぷりに

鮮やかに咲き誇る花菖蒲の群落を・・・。テレビ、ラジオ、新聞等でも

度々取り上げられるのが良く判ります。

 花菖蒲の他にも紫陽花(あじさい)が知られていますが、紫陽花は

今が丁度見ごろになっています。その紫陽花も写真に収めました。

 そしてこれは予期していなかったのですがここでも沙羅双樹に

出会う事が出来ました。上の写真をご覧下さい。

 その他に一寸珍しい草花が有りました。向日葵(ひまわり)に似た

大きな葉が特徴ですが、小さめで薄紅色の花を咲かせていました。

名前が紅蓼(べにたで)と表示されていました。「蓼喰う虫も好き好き」

という諺が直ぐに思い浮かびましたが、この紅蓼は野草から改良

されたのではないかと思われます。小ぶりな花ですが可憐な印象を

与えました。

 最後に如何にも名刹の感のする本堂に参拝をして住心院を後に

しました。

 

 


歴史探訪 倉敷市藤戸・木見 NO.2 盛綱橋・経島(きょうじま)・藤戸饅頭

2011-06-28 10:04:08 | 日記

 藤戸寺を出た後はそこから至近距離にある盛綱橋に歩いて行きました。

歩いて数分もかからずに盛綱橋に着きました。この時パラパラと心配してた

雨がついに降り始めました。

 盛綱橋の途中橋上に馬上の佐々木盛綱の勇壮な銅像が築造されて

おりました。上の写真で御婦人が蹲って視ておられるのは台座に彫られた

盛綱橋の由来を説明した刻文です。

 要約すると昔この辺りは海であり、視界に入る山々は島でした。盛綱が

渡った藤戸海峡は今は美田と化し、僅かに倉敷川にその名残を留めて

います。正保4年(1647)に架橋され、その後何度か架け替えられました。

 そしてこの港は四国往来の要衝、及び川湊として繁栄した旨の記述が

有りました。

 

 次はこれも盛綱橋からほど近い経ヶ島に行きました。

島とは名ばかりで見ての通り石を積み重ねた小山のようでした。

その手前に弁財天社が在りますが、小さいながらも悠久の歴史を

感じさせ、藤戸寺の鎮守として建てられております。

 写真で2本の木の間から僅かに見える小さい方の宝篋印塔がどうやら

犠牲になった漁師のものらしいです。

 我々も彼の冥福を祈りつつ経ヶ島を後にしました。

 藤戸探訪の最後はこれもやはり盛綱橋の直ぐ近くにある藤戸饅頭の

本舗に行きました。

 建物は年輪を重ねた和風の家で、藤戸饅頭の看板が目印になって

います。店内には「オールウェイズ三丁目の夕日」のポスターが所狭しと

張られていました。多分ここが撮影の現場になったんではないでしょうか。

 一番外側は包装紙で包んでいましたが、中を開けると昔懐かしい筍の

皮に饅頭が包んで有りました。ご覧下さい美味しそうでしょう。

 一見すると「大手饅頭」にそっくりです。饅頭を買い終わるころには雨も

少し勢いを増してきたので、饅頭を急いで車に持ち帰りました。

 お腹も空いてきたこともあり、車を倉敷川の畔で盛綱橋が見える所に

停めて、早速藤戸饅頭を賞味しました。個人的感想ですが、藤戸饅頭の

方がややモチモチ感があって美味しいと感じました。

 藤戸饅頭を一つ食したあとは木見に向かって出発しました。

 

 

 


 歴史探訪 倉敷市藤戸・木見 NO.1 藤戸寺

2011-06-27 11:26:50 | 日記

                                     

                   

  6月26日(日)は倉敷市藤戸と木見を探訪しました。ここを訪ねた最大の

 目的は沙羅双樹の花の観賞と撮影でした。

  前回の真庭市の旅と全く同様に今にも降り出しそうな空を気にしつつ

 車を走らせて、一寸迷いながらも出発から一時間位で藤戸寺の近くの

 駐車場に着きました。女性の警備員に誘導されて車を停めて、そこから

 徒歩で藤戸寺に向かいました。

  境内ではアイスクリームを売る露店や植木の市も開かれており、天気が

 良くないにも拘らず次々と善男善女が訪れ、そこそこの賑わいを見せて

 おりました。

  藤戸寺は高野山真言宗の寺で行基が諸国を巡錫した8世紀の半ばに

 創建しました。藤戸は源平藤戸合戦の戦場としても有名で、寿永3年

 (1184)の当時この辺りは島になっていて、島の間には藤戸海峡が

 横たわっていました。源氏の武将佐々木盛綱は漁師の若者に海峡の

 浅瀬を教えてもらい、その浅瀬を馬で渡り敵を討滅するという大手柄を

 挙げました。しかし残酷なことにその浅瀬の秘密を守るという名目により

 大恩ある若者を斬殺してしまいました。

  その為盛綱は後に合戦で荒れた藤戸寺を修復するとともに源平両軍の

 戦没者及び盛綱によって亡き者にされた若き漁夫の霊を慰める法要を

 執り行いました。かようにこの寺院は源氏の武将佐々木盛綱と関わりの

 深い寺院であると言えるでしょう。

  さて歴史的な事柄はこれくらいにして、上方写真をご覧ください。

 平家物語の一節で有名な沙羅双樹(別名夏椿)の花を初めて見て

 感動しました。一言でいえば気品のある優美な花という感想です。

 花に関しては期待通りでしたが、樹に関してはもっと大木を想定して

 いたのでやや拍子抜けの感は否めませんでした。

  同じ境内に鎌倉時代に建てられ、県の重要文化財にも指定された

 石造の5重の塔が在ったようですが、見過ごしてしまいました。写真に

 収める事が出来ず誠に残念です。

   以上藤戸寺のリポートでした。

 

 

 


歴史探訪 真庭市の旅 NO.5  高田城(勝山城)

2011-06-19 14:37:50 | 日記

 真庭市歴史探訪の掉尾(とうび)を飾るのは高田城の訪問です。

先ずは真庭市役所勝山支所に近接した三の丸から訪ねました。写真では

判り辛いかも知れませんが雨は間断なく降り続いていて、未だ午後3時を

周ったばかりなのに薄暗さを感じました。ご覧のように今でも石組の遺跡が

綺麗に遺っていました。

 その次は三の丸遺跡から100m位離れた二の丸跡を探しあてる事が出来、

車窓から写真を撮りました。ご覧のように今では市民のスポーツグラウンドに

変貌していました。

 本丸の所在がさっぱり分からず車で右往左往して可なりの時間をロスした為

本丸へのアタックを諦めかけましたが、何とか登り口を発見することができました。

その登り口の直ぐ近くに展望台を見つけ、展望台上の建物と展望台から俯瞰した

景色を撮りましたのでご覧ください。

 此処まで来て断念するのは大変悔しいと言うおもいでしたが、ここが城跡の

登り口であることが確信できるところを発見し本心から喜びました。

 しかしながら喜びもつかの間で写真のように草が生い茂り、我々の行く手を

阻みました。蛇に遭遇する危険性を考え、枯れ木を拾い上げてそれで茂って

雨にしっとりと濡れた草をかき分けながら一歩一歩前進しました。

 20分少々歩いたでしょうか漸く目指す本丸跡に着きました。ここは今まで

歩いてきた道よりもなお一層草が繁茂していて動き廻る気持ちになる事が

出来ませんでした。本丸跡にはご覧のように説明書きの看板と、其の広場の

少し離れた所に休憩所みたいな建物があったのでカメラに収めました。それと

勝山の街並みを写していますのでご覧下さい。

 高田城は戦国時代に次々と近隣列強の侵攻をうけました。「お福の方」は

高田城第11代城主の貞勝に15歳で輿入れしたが、落城した際に貞勝は

家来と落ち延びる途中、自刃して果てました。

 その後宇喜多直家に匿われ、宇喜多氏の居城沼城に送り込まれた。その

沼城で宇喜多秀家を出産したのは普(あまね)く知られていますが、秀家が

生まれてまもなく直家は死去しました。

 そして秀吉にもその美貌を見初められ、秀吉の寵愛をうけることになった。

秀家が豊臣政権下で異例の出世をを果たす事が出来たのも「お福の方」の

尽力によるものと見られております。

 ここでも宇喜多直家に関連する逸話にお目にかかれてとても良かったと

思いました。それにしても宇喜多直家は言うに及ばず天下人豊臣秀吉をも

虜(とりこ)にしたといわれる「お福の方」のその美貌は興味深いものですね。

 以上で真庭市歴史探訪の旅のレポートを終了致します。