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社長のつぶやきブログ

歴史探訪 高尾城跡 NO.1

2011-03-31 18:52:19 | 日記

 27日(日)は天気もいいことだし、先週下見した明禅寺城跡と高尾城跡の2ヶ所を

 踏破するという大変欲張りというか無謀な計画を立てて、先ずは高尾城跡を目指し

 ました。

  岡山市東区瀬戸町肩脊に願興寺という古刹がありますが、そこから登頂しょうと、

 こちらは事前のリサーチ無しに闇雲に頂上めざして登り始めました。

  結構急峻な落ち葉が20センチくらい積もった道の無い上り坂を怖々登っていると

 堆積した落ち葉が大変滑りやすくなっていて危険な状況になってきました。

  妻が「帰りはよう降りん」と、ものの5分も経たぬ内にギブアップ宣言をし、私自身も

 このまま登り続けても確実に到達できるという確信は全く無かったので未練を残し

 ながらも今日の高尾城跡の探索を断念しました。

  午後は明禅寺城跡に向かっていたところ、喜ぶべきか悲しむべきか微妙な感じ

 ですが、携帯電話が何度も鳴り始め急遽中古住宅の案内や退去に伴う立会の

 要請や、広告掲載物件の資料請求等がたて続けに在り、やむを得ず午後の予定も

 キャンセルして会社に出て本来の業務を遂行しました。

 

 

 

 


 史跡探訪 古墳巡り NO.2

2011-03-23 11:04:18 | 日記

  廻り山古墳の次は、そこから西方へ約200mのところにある森山古墳を

 訪ねました。上方写真のように樅の木と思いますが、その一際高い樹が

 古墳の所在を誇示しているかのようです。実際周囲のどの角度からも

 この樹を視認することが可能のように思われます。

  古墳の下方が果樹園の状態になっているのは廻り山古墳同様ですが

 墳頂へは比較的簡単に到達できました。枯れ草で覆われた墳頂の様子を

 上方写真に収めています。それと墳頂から南の遠景を撮っていますので

 ご覧下さい。

  森山古墳は5世紀後半に築造された前方後円墳で、県の重要遺跡に

 指定されています。

  墳形は後円部に比較して前方部が著しく低平であり、帆立て貝式と呼称

 される珍しい形式に分類されます。

  現在のその墳丘の長さは約85m前方部の幅は約35m高さは約11mと

 なっています。

  墳丘は2段築成で、元は周濠と周堤がありましたが現在は埋没しています。

 しかしながら墳丘を中心にして南北約150m東西約120mの領域を占めて

 います。

  内部主体は未掘のため不明ですが、外表施設として葺石、埴輪が検出

 されているようです。

  森山古墳を退去しつつあった時、妻が突然素っ頓狂な声をあげました。

 その指し示す方向を視ると、ケージの中から大きくて円らな瞳をした鹿が

 比較的近距離で、やや警戒感を露にして私たちを凝視していました。

  余りの可愛さに、咄嗟にカメラを構えて接近したのですが、敵もさるもので

 すっと逃げてなかなかシャッターチャンスを与えてくれません。待つこと

 暫しの間、嬉しいことに再度近くに戻ってきました。チャンス到来とばかりに

 シャッターを押して何とか鹿を撮ることができました。

  私の推測ですがどうやらこの鹿は高月幼稚園で飼育されているようです。

 高月幼稚園は古墳の北側約50mくらいのところに在り、この鹿の飼育されて

 いるケージも幼稚園の敷地内にあるものと推量されます。

  森山古墳に近接して高月公民館がありますが、その裏側に正免東古墳

 (しょうめんひがしこふん)の表示を見つけました。

  この古墳は後世の開墾で墳丘は失われたが、古墳の裾を円形に巡る葺石と

 周堀(幅2m)が残されているようです。

  鹿などの絵が線刻された円筒埴輪、朝顔、家、蓋の形をした埴輪の破片が

 周堀の底から多く出土したそうです。

  築造は5世紀後半(1500年前)と推定されています。

  墳形は円墳(23m)、あるいは前方後円墳の可能性も示唆されています。

  現在葺石、周堀は土盛りによって保存されているそうですが、残念ながら

 其の場所を特定することが出来ませんでした。

  その代わり発掘調査の後に建築された高月公民館の外観写真を撮って

 おりますので、よろしければご覧になって下さい。

  以上近隣所在の古墳についてのレポートでした。

 

 


史跡探訪 古墳 NO.1

2011-03-22 14:32:40 | 日記

 古墳とは何の関係も有りませんが、拙宅の小庭でさくらんぼの花が

ほぼ満開になりましたのでカメラに収めました。一番上の写真です。

雨の降るなか一生懸命その小さくて可憐な花の美しさをアピールして

いますのでどうぞご覧下さい。

 今日は山城巡りの予定をしていましたが雨のため中止を余儀なく

されました。その代わり1月以来途絶えていた古墳巡りをしました。

 先ずは赤磐市山陽町岩田に所在し、拙宅からも徒歩圏内にある

廻り山古墳を訪れました。上方に北からと西からの遠景写真を撮り

ました。

 この古墳は5世紀後半位に築造された前方後円墳で県の重要遺跡に

指定されています。この一帯の古墳群を西高月古墳群と総称する様ですが

其の主墳である両宮山古墳より後に築造されたと推定されています。

自然の丘陵を加工整形して築かれています。しかしながら改変が著しく

墳形規模等定かではありません。

 推定の墳長はやく65m墳長平たん部はやく30mです。付近から若干の

須惠質の埴輪片が出土していますが、未調査のため内部主体、外部の

施設とも不明であるとの説明書きがありました。

 上方写真の如く生い茂った枯れ草や笹藪に阻まれて墳頂に到達することは

できませんでした。古墳の下方部には沢山の果樹が植栽されており宛ら

果樹園の様相を呈しております。

 以上廻り山古墳についての記述でした。


歴史探訪 龍之口山城跡・龍之口八幡宮

2011-03-19 14:12:07 | 日記

  山頂から下ること20分位だったと思いますが、教えてもらった分岐点に

 着きました。左がグリーンシャワー公園、右が龍之口方面、真っすぐ行くと

 龍之口八幡宮の標示が有ったので、当然直進しました。

  分岐点から少し進んだ所に相当の樹齢を重ねた大木を背後に従えるように、

 神社が存在することを仄めかすかの如く石柱が建っていました。

  この石柱の間を通り抜けてさらに進むと上方写真でお分かりかと思い

 ますが、昔ながらの石造りの階段に行き当たりました。

  見たところ殆ど後年になって手を加えられた形跡が見られず今も

 造られた時の儘の原形を留めているように思われ、其の見事な石工の

 技に感心しつつ階段を上りはじめました。

  初めは良かったのですがどんどん階段が急になってきて結構難儀を

 しながらも神社のある境内地に到着しました。こっちは相当へとへとに

 なりながら歩いていると、後から走ってきた若者が涼しい顔で追い抜いて

 行きました。妻と2人で「何なんだあれは」と呆気にとられて見送りました。

  さて上方写真に神社を撮っています。当八幡宮は文献に拠っても築年が

 判然としませんが岡山藩主池田家の崇敬をうけたことは間違いないと

 思われ、近年県下全域はもちろん近県の人々からも崇敬され、参拝者も

 増加しているとのことです。実際にそれは肌で感じ取る事が出来ました。

 それこそ辺鄙で近寄り難い場所に在るにも拘わらず、かなりの数の人々が

 参拝する姿を目のあたりにすると素直に首肯(しゅこう)することができます。

 当然私たちも其の参拝者の一員になりました。

  当神社は家内安全、厄災消除、武運長久の神社として有名ですが、近年

 受験の神様として広く知られているそうです。

  神社の境内で休憩をしておられた方に神社の裏に回るととても良い景色が

 見えると教えられ裏側に行くと、「立ち入り禁止」のロープが張り巡らされて

 いましたが、其のロープ内から怖々下の方を覗きこむと眼下に言われた通りの

 素晴らしい景色が広がっていました。それも写真におさめました。

  龍之口山頂の高さが257mと表示されていますが、この神社がある頂きも

 確か240mくらいではなかったでしょうか。

  さて肝心の城跡ですが、通常「本丸」とかいう表示があるのに幾ら探しても

 それらしき物は発見できませんでした。神社から一段下がったやや広い

 境内地がそうなのかなと推定するしかありませんでした。

  「備前軍記」によると龍之口城は周囲が山続きで獣も通れないくらいであり

 道も細く人を寄せ付けない難攻不落の山城であったと記述されています。

  龍之口城主は穝所氏でしたが、直家と度々合戦をした金川城主の松田氏に

 属していました。そこで直家は一計を案じ岡剛介なる者をスパイとして忍びこませ

 穝所元常の暗殺に成功しました。これも直家の戦国の梟雄としての評価を深めた

 一因といえるかも知れません。

  神社への石段がきつかったことと、登山者が来る時は別ルートから来ましたとの

 示唆をうけて、そのルートが比較的楽そうに思えたので、帰途は迷わずに言われた

 ルートを選びました。

  ところがどっこいです。写真をご覧になると分かるようにこれがとんでもない悪路

 でした。獣も通れないという表現に値する岩肌が露出した降りるのに恐怖する様な

 峻険な道でした。引き返すことも考えたのでしたが、それでも意を決してそろそろと

 降り続けました。

  本当に長い時間かかったように思えましたが、なんとかややまともな道に降り立つ

 事が出来、安堵しました。妻はと言うと、帰路になると途端に口数が減り殆ど喋る事が

 出来なくなりました。最後には「足が痛い」という言葉しかなく、完全に戦意喪失の状態

 でした。逆に私は何故か岩場を乗り切った頃から徐々に元気を取り戻して、攻守所を

 替えた状況になりました。何はともあれ無事に下山出来たことを素直に喜びあいました。

  山を降りきった所に鳥居と、案内標識があったので写真に収めています。

 このルートでしたら降りるよりも登る方が、たぶんですが大分楽だと思います。

  以上龍之口山城跡に関するレポートでした。

 

 

 

 


歴史探訪 龍之口山(たつのくちやま)城跡 NO.1

2011-03-18 19:40:33 | 日記

  13日(日)龍之口山城跡の探索に出かけました。パソコンから取り出した

 地図を頼りに大体の見当をつけてグリーンシャワーの森を目指しました。

  車で結構長く走る事を想定していたのですが、思ったより早く公園の

 駐車場に着きました。着いた時に時計を見ると9時40分位でしたが、

 当該駐車場はすでに8割方埋まっていて、ハイカーたちの出足の速さに

 驚きを禁じ得ませんでした。

  駐車場の直ぐ傍に在る最も正規のルートと思われる登山道から登り始め 

 ました。上方写真にその入り口を撮っています。案の定写真の如く道路は

 とても良く整備されていて、しかもなだらかな勾配で上っているので

 我々のような初心者にも登り易くとっても親切なハイキングロードでした。

  とは言え標高が優に200mを超えているので結構良い運動量になります。

 前回と同じく花粉症の予防のためマスクを着けていたのですが、どうにも

 苦しくなって外してしまいました。妻はと言うと行く行程に限り前回と同じく

 他愛もないことを余裕をもって喋っていました。

  一生懸命歩いて、20分少々かけて南展望広場に辿り着きました。しかし

 ここは何の城跡にかんする標示板もなく城跡ではないことが解ったので、

 山頂を示す案内板に従って山頂を目指して再び歩き始めました。

  下ったり上ったりしながら10分位で漸く頂上に到達しましたが、「あれれ」

 という心境でした。そうです、ここにも当然有るべき筈の標示が有りません。

 やや落胆しながら登ってきた男性に城跡の所在を尋ねると、「ここからずっと

 先に神社があります。其の神社のあるところが城跡です。」と丁寧に教えて

 下さいました。

  そこで気をとり直して頂上で写真を撮りました。旭川と川に架かる中原橋の

 方面を写真に収めましたのでご覧下さい。

  それと共に大変に頬笑ましい光景を目にしました。お年寄りの男性の方が

 木製のベンチに腰掛けておられましたが、その横で一匹の可愛い小型犬が

 行儀よくチョコンと座って、山頂からの美しい眺めを楽しんでいるかのように

 見えました。その光景を視ると今までの疲れが吹っ飛んで行くように感じられ

 思わずシャッターを切りました。

  頂上で小休止した後、城跡に向かって出発しました。